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何を以って「当たり前」とするか?
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    私たちには「当たり前(=当然、普通)」という感覚が有ります。これは主に「自分自信の慣れ親しんだ生活環境」に由来するものが殆どではないかと思われます。ですから自分を取り巻く環境が一変すれば、今までの「当たり前」が「当たり前でなくなる」という事が起こり得る訳です。
    例えば、今まで「当たり前」のように飲んでいた「水」でさえ、環境の変化によって入手困難となることは「良くある」事です。

    ところで、気が付くと私たちはこの「当たり前」という感覚を以って、物事の「価値判断」をする傾向が有ります。即ち「当たり前にあるもの」に対しては「価値を低く」感じ、逆に「入手困難」となるほど「価値が高い」と感じる事が多くなります。
    しかし、本来であれば物事の「価値」とは、自分にとって「どれほど必要であるか」という、「自分の生き方」との関わりの深さや大きさによって感じて然るべきものではないかと思われます。何故なら「価値判断の基準そのもの」が、環境変化などによって頻繁に変わるようでは、とても「効率的で確信に満ちた生き方」には程遠いように思えてならないからです。

    このように「当たり前な物事」を、敢えて自分自身にとって「必要不可欠なもの」と認識することは大変重要です。何故なら、それによって自ずと「失わないよう大切にしよう」という気持ちになり、「当たり前に有る事」それ自体が、むしろ「特別な事」という「真実」に気付く事が出来るからです。
    つまり、その気持ちが文字通り「有り難い」という、日々に対する「感謝」の心を呼び起こすことに繋がって行くと共に、環境の変化に対してもブレること無く、人生に於いて「困難に屈しない力強い歩み」を可能とする由縁であると確信しています。
    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:53 | comments(0) | - |
    「人間らしく生きる」ということ
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      人間の特徴、特質として「行動が必ずしも本能に既定されない」ということが挙げられます。何故なら、人間以外の他の生物の行動は「全て本能の既定するところ」に留まっているからです。(比較的知能が高いとしても、その範疇という意味です。)
      これはコンピューターやロボットが、あらかじめプログラムされた事以外の動作が不可能である事と同様のイメージです。(逆にもし、プログラムと異なる動作をされたりしたら、SF映画にあるように大変な事になるでしょう。)それと同じ意味で、人間以外の生物が全て「本能に既定されている」事は自然界の安全保障上、非常に重要な意味を持つものと思われます。

      ところで「本能」には、あらゆる生物に共通した「役割」があります。それは「自己防衛」と「種の保存」ですが、二者択一の状況に追い込まれれば「種の保存」が優先される事が「理に適った行動」と言えるでしょう。(何故なら、各「個体」には自ずと寿命が有るからです。)
      このことは、当然ながら「視野」に大きく関わってきます。即ち各生物は「本能に既定された役割」に対して「必要十分」とされる「視野」しか持ち合わせが有りませんが、およそ各生物に特徴的とも言える「短期一極集中的な生き方」を全うするためには、それが「合理的」と考えられます。

      前置きが長くなりましたが、ここで改めて「人間」というものが地球上で「どのような存在」なのか考えて見たいと思います。と言うのも「本能に既定される」事自体が、ある種のプログラムと考える時に、人間の場合は「本能に既定されないプログラム」が組み込まれていると考える事が、(単に本能を逸脱していると見るよりは)合理性が有るようにも思えてくるからです。
      つまり、このプログラムは時として「本能の枠を無視」して、「他者、他民族、他生物を優先する」事さえ有り得るという事実を示唆していますし、実際そのような事が行われている事を、私たちは知っています。もちろん、それが人々から歓迎され、賞賛に値する行為とされている事も。

      つまり「人間らしさ」とは、そういうことです。それは「たまたま、偶然」というような代物ではなく、その他の特性と同じ様に「あらかじめプログラムとして人間に備わっている特性」と考えた方が、論理的な整合性が保てるように思えます。
      ただ、例えば、遜色ない運動能力を持った人の中にも「運動が大嫌い」という人がいるように、「人間らしさ」に相応する特性を持っているにも関わらず「他者に全く関心が無い」という人もいます。
      そのような時には、それぞれ「運動を嫌がっているとどうなるのか?」「人間らしさを活用しないとどうなるのか?」について、少しだけでも思いを巡らせて見るのが良いと思います。
      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:02 | comments(0) | - |
      「対立関係」とは何か?
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        利害の絡んだ「互いの自己主張」による「対立」などは、元より論外です。本来の「対立」とは、目的は同じでも「状況判断の際のズレの調整」や「より効果的な目標設定」「より合理的な手法」などを導き出すための「意見をぶつけ合う状態」を指します。
        このような場合、互いの「目的と本気度」が同じであれば、当初如何に激しい「対立」があったとしても、必ず「和合」することが出来ます。何故なら、その場に「自己主張」の介入が無く、あくまでも「論理」に基づいた「見落とし」や「思い違い」の修正と「情報や知識の追加」を主体とすることで、「個人差による認識や見解のギャップ」が解消されることにより、課題に対する「イメージの共通化」が為されるからです。

        このようにして見ると、「対立という摩擦効果」が、ある意味「サビ落とし」の役割を果たし、対立関係にあった双方の理解力や実行力に対する「磨き効果」をもたらしている事が解ります。
        更に「和合」した後には、互いの信頼関係がいっそう深まる事ともなり、その意味では「対立→和合」という構図が、人間関係は元より、社会全体の進歩、向上にとって「必要かつ基本的なステップ」と考えて良いと思います。

        しかし一般的には「対立」は好ましくないとされています。それは先に述べた通り、世の中に「自己主張による対立」が氾濫しているからに他なりません。これは「欲と欲のぶつかり合い」と言い換えても良く、小はバーゲン品の奪い合いから、大は国際紛争(戦争)まで、全く留まるところを知りません。
        しかし、このような「対立関係」に於ける「相手を排除、または無きものにしよう」という発想は、当事者たちに「真の利益」をもたらす事は、まず有りません。何故なら単純に「力と力のぶつかり合い」では、もし仮に100の力を使って「均衡」が保てたとしても、「100ー100=0」となり、(勝敗以前に)100の資産やエネルギーが煙のように消えてしまったことになります。(むしろ第三者がそれによって利益を得ているのが普通で、そのため「漁夫の利を得る」という諺が有ります。)

        何れにしても、互いの力を「打ち消し合う」ために使っている様ではお話になりません。私たち皆が、常に「100+100=200」という当たり前の力の使い方を心掛ける事こそが、幸福な社会を築く早道と言って良いと思います。
        | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:54 | comments(0) | - |
        子どもの順応性、適応力について
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          子どもは自活能力が低いため、大人と違って「生活環境」を選んだり、自分に合うように変えたりする事がほぼ出来ません。従って生きて行くために、一般的には「高い順応性と環境適応力」が備わっているものです。それは自らの生活環境の基本的な部分に対して「殊更(ことさら)疑問や抵抗感を持たない(=素直)」という形で表されています。しかし、そこにひとつの問題が生じます。

          それは「如何なる親であっても受け入れ、従おうとする」という事です。
          これは例えば自分の親が「反社会的で悪意に満ちた親」であってもそういう事になります。この事は、子どもは幼い時期には「振り落とされない様、親にしがみつくような状態で生きている」ために起こります。確かに「振り落とされたら終わり」という判断は間違っていないだけに、何とも切ないものです。
          そしてこの先、子どもが成し得ることと言えば、「少しでも親の考え方や生き方に近づく」事によって、本当の意味で親に受け入れてもらい、愛情を傾けてもらって「安心」を得るということになるはずですが、子どもがそれを強く意識するかと言えば、そうではなく、ほとんど無意識のレベルで行われることが多いと思われます。何故なら、その方が表面的なストレスが少なくて済むからです。

          このようなケースに於ける子どもの選択は「生きて行かなければならない」という目的の上では「論理的に正しい」と言えますが、「幸福になりたい」という目標に到達する事は残念ながら困難と言えます。何故なら、このままでは「生きるために不幸の連鎖を受け入れた」ことになるからです。
          本来、子どもの豊かな順応性、適応力をこのようなことに使わせるべきではありません。その意味でも大変残念な結果と言えます。

          このような不幸を少しでも減らして行くためにも、私たちは例え自分が世代間のどの世代に属しているとしても、自分なりに「不幸の連鎖」を解決するための努力を惜しむべきではないと思います。
          次世代の子どもたちにとって「親」の世代の影響が絶大なのは当然ですが、「おじいちゃん、おばあちゃん」だからリタイヤして良いというものではなく、「孫」の行く末に対して「親の親」という立場で関わり続ける「義務」は生涯継続されるべきものです。何故なら、自分も「不幸の連鎖」の当事者である事に違いないからです。
          更に「不幸の連鎖」というものは身内にとどまる性質のものとも言い切れない、というより、確実に「社会全体に影響を及ぼすもの」として、社会全体が正しい「当事者意識(→被害者意識でなく)」を持ち、共有する事による「協力、支援態勢」が不可欠と思われます。

          繰り返しますが、「自分も子どもたちに関わる不幸の当事者である」という認識は私たち全員が持って然るべきものです。何故なら、「社会の文化的基盤」に対する責任は、常に私たち全員にあるからです。
           
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:57 | comments(0) | - |
          「子どもらしさ」について
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            よく「子どもは遊びの天才だ」などと言われますが、これは別段「遊び」に限った事ではなく、制約されない「独創的で自由な発想力」と「恐れを知らない行動力」は、発育、成長段階に於ける子どもや若者の「進歩、向上」にとって欠かすことの出来ない特徴的なものと言えます。

            大人が何故そうならないかと言えば、ひとつには単純に「ピークを過ぎて老化に向けた能力全般の低下」が挙げられるでしょうが、それより何より、ある程度の経験や体験を踏まえた上での「守りに入る」事が大きいと思われます。
            「守る」ということは、ある程度蓄積されたものがあって、それを「失いたくない」という意味で、それらは金品に限らず、立場や評判、功績や自負心など、長く生きている程どんどん貯まっていくものなので、自ずと「保守的」となり、既成概念や固定観念に頼る傾向が強くなります。

            しかし、こういった「大人の保守性」が唯一役立つ面があるとすれば、それは「危険予知」に対してでしょう。
            大人は経験的に「事故や災害、トラブル」などのメカニズムや実態を識る事によって、文字通り「転ばぬ先の杖」を持てるようになりますが、子どもや若者の場合にはその部分が圧倒的に不足、欠落している事も、また事実です。実際そのことを文字って「若さは馬鹿さだ」などと言い表すぐらいのものですが、その事を以って「だから子どもはダメだ」と言うのは、全く当たりません。子ども特有の能力は、実際「それを以ってしても余りあるほど価値が有る」ということです。

            つまり、ここでの大人の役割は、あくまで子どもや若者の「純粋無垢な感受性」や「自由な発想力」や「行動エネルギー」を阻害する事無く、唯一「危険回避」のための「適切なコントロール」に徹する事で十分事足りるはずで、それ以上の「大人の思惑」を押し付ける事は好ましい事とは思えません。「適切」とは子どもにとって「経験智となり得る必要な失敗は容認する」という意味です。

            結論的に言えば、子どもらしさ、若者らしさに対して「何を思うか」が、そのまま「大人としての価値を表している」と言っても過言ではないでしょう。それが、もし「まったく、若い奴らは何もわかってない」というものだとしたら、それはその人が「年甲斐の無い大人」で、子どもや若者に対して「ミスリードする危険が十分に有る」ということだと思います。
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:03 | comments(0) | - |
            「共有」は自然の摂理です。
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              これも以前の記事にある通りですが、自然界に於ける「弱肉強食」はあくまで見かけ上のもので、その実態は本能によって制御された「自然環境の共有」に他なりません。
              となれば、人間の「社会環境」に於いても「共有」を「基本的概念」として構築して行く事が、「最も理に適っている」ように思われます。
              もっとも、それを「共産主義」だとか「社会主義」、或いは「全体主義」のような政治形態を以って「杓子定規に均等配分」すれば良いと言っている訳では有りません。
              あくまで「共有という基本理念」に人間個々の「理性や感情」が揺さぶられ、突き動かされる時に、人々が知恵や勇気を出し合いながら合力を形成し、課題を乗り越えて行くことが望ましい、という意味です。

              人間は普通、自分が誰かの手助けをして、相手に喜んでもらえれば自分も嬉しくなるものですし、知人が悲しむ様を見れば、自然に思いやる気持ちになるものです。取り分け幼い子どもたちが悲惨な目に遭っていることを知れば、例えそれが世界のどこの話であろうと尋常な気持ちでは居られなくなります。ある意味、その時点で「理不尽という思い」を当事者たちと「共有」することになるからです。
              つまり、人間には「相手を敵と見なしていない」限り、いつでも、どこでも、誰とでも「共有」し得る「心の環境」が備わっているものです。(相手を敵視する場合のみ、相手の苦しみを喜んだり、無視したり出来るのです。)

              結局のところ、自然の摂理である「共有」を阻んでいるのは「敵を作る心」であり、その正体は「自己執着」ということになります。
              | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 17:20 | comments(0) | - |
              再び「自己執着」の話
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                このところ、当サイトにアクセスして下さった方の中で「自己執着」というキーワードをお持ちの方が多かったので、再び取り上げてみます。

                凡そ地球上の全ての生き物の中で「自己執着」を持っているのは「人間」だけです。そのように聞くと、あたかも「高等生物」の証しの様に聞こえるかも知れませんが、そうではありません。
                「自己執着」とは「勘違い、思い違い」から生じる「慢心」の結果による、「自己が中心に位置付けられた世界観」を指します。これは他の生物が有する「防衛本能」とは全く異質のもので、人間のみが持つ、本来健全な進歩向上に欠かせない「論理的思考能力」が「負」の作用を及ぼしたものと考えて良いかと思います。

                人間は本来「共有」することによって得るものを「糧とし、喜びとし、生きがい」とするような仕組みに出来ています。
                例えば、「自分の身内に限った共有」であるのか、それとも「世界中の多くの人々との共有」であるのかによって、得られるものの「質や量」は全く変わってきます。
                また、共有するものは物質的な恵みは元より、精神的環境、有益な情報など、人間の暮らしや文化をより一層高めるためのあらゆるものと言って良いでしょう。

                この「共有の喜び」に真っ向から対決しようとするのが「自己執着による満足の追求」となりますが、実はこれには大きな「論理的欠陥」が有ります。それは「自分が死んだらどうするの?」というものです。そこには如何なる答えも有りません。
                | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:11 | comments(0) | - |
                毎日がクリスマス!
                0
                  今日はクリスマスイブ。毎年、クリスマスには世界中で「平和の祈り」が捧げられますが、今年もたぶんそういう事なのだと思います。そう言えばベトナム戦争の時には「クリスマス休戦」というのが有りました。「何だ、そりゃ?」と、子どもごころに思ったものでした。全く、いつの時代も大人というものはイカれたことを大真面目に考え付くものです。「そんなに神様に対してバツの悪いコトをやってるという自覚があるならさっさとやめるべきだろう。そうで無いならクリスマスも何も関係ないだろう。」というのが正論です。

                  ところで、私の中には「クリスマスだから出来ること、出来ないこと」などは無く、その意味ではお正月も、お盆も、誕生日も、記念日も特に無いと言えますが、見方によっては「毎日がそうだ」とも言えます。
                  つまり「限られた日の特別な心や計らい」というものがあって、それがいつにも増して「良いもの」だとしたら、それは即刻「毎日の心掛け」とするべきだと思います。そうすれば少なくとも「365倍の効果」を期待出来るのではないでしょうか?
                  しかし、もし一年に一度だけの祈りを「非現実的でナンセンスなもの」という認識の下(もと)で「気休め」のつもりでやっているのなら、「自分もまんざら悪くも無い」という「誤った自己暗示」以外の意味は無いので、むしろやめた方が良いと思います。
                  ともかく「人の本気」というものは、一年365日、四六時中変わらないもので、都合によって出し入れ出来るような代物では無いということです。

                  以前の記事でも書きましたが、国同士の「戦争」も人間同士の「ケンカ」も、共に「話にならない」として「腕力で恫喝し、相手方にダメージを与えた後、自分側の都合を押し通す」というメカニズムや手法は同じです。
                  また近代では主に勝者が「正義や善悪の概念」を持ち込みつつ、利害の実態を故意にぼかしたりするため、その分いっそう「タチが悪くなっている」とも言えます。(殺意自体が既に正義や善から大きく逸脱しています。)

                  およそこのような「暴力沙汰」に手を染めたり、巻き込まれないためには、まず、自らが如何なる場合にも決して「殺意」を持たない事、そしてそのための「暴力的手段」を有していない事が条件となります。しかし、それだけでは「一方的にヤラれて、相手の好き放題にされてしまう」という懸念は拭い切れません。
                  そこで重要となるのが「良識」と「品格」に磨きを掛ける事です。例えばこれは「国」であっても「個々人」であっても同じで、一言でいうと「エゴを持ち出さない」となりますが、常に「自重自戒、自律」の念を以って、周囲とのバランスを丁寧に見極めながら事に当たる姿勢を指します。
                  そもそも、そのような相手を「敵視」する事自体が、自らの「身勝手」を公然と晒すこととなるので、まず、争い事が起きることにはなりませんが、仮に起きたとしても「相手方が周囲から一方的に非難されるだけの事」で、とても「ケンカ」と呼べる代物では有りません。

                   私が思うに、「世界平和」というものは決してクリスマスに託するような「遥か彼方のもの」では有りません。
                  もっと身近な、私たちひとりひとりの「良識」と「品格」に託されたものだと思っています。
                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:31 | comments(0) | - |
                  「自らに誇りを持つ」ということ
                  0
                    「誇りを持つ」ということは、人が生きる上で「最も重要な事」だと思います。何故なら、そこには「目的、目標」また「生きがい、やりがい」更には「自信、信念」などといった「積極的な生き方」に関わる全てが含まれているからです。
                    当たり前のことですが、これは「誇らしげに振舞う」とか「優越感を振りまく」とかといった対外的(=他人に対して)にアピールするような性質のものではなく、あくまでも「自らの保持、推進」のために必要な「自覚」を得るためのものです。
                    ですから「プライド(=誇り)が高くて鼻持ちならない」などというのは、対外的に「立場」を主張するための「自己顕示欲」の強い状態を指したものであって、ここでいう「誇り」とは何ら関係有りません。

                    まず、ここで重要な事は「何を誇るべきか」ということです。よく社会的立場や地位、学歴などを根拠、対象とする場合がありますが、これは明らかな見当違いと言わざるを得ません。何故なら、それは単なる「既成事実の羅列」に過ぎず、「過去の何らかの功績を示している」のかも知れませんが、少なくとも「現在の自分が誇るに足る価値を有しているか」という問いに対する答えになっていません。実際「過去の栄光に依存する生き方」というものは、非常に多く見受けられると同時に、如何にも安易で誇りの持てない生き方の典型と言って良いと思います。「誇り」とは、あくまで「今の瞬間」に対して持ち得るものです。

                    また、生まれ持った「天性の才能、能力」というものが「誇り」の対象となるかというと、これもちょっと違うような気がします。まず「才能、能力」というのは「道具」と同じで、有れば良いというものでは無く、あくまでも「使い方次第」という面が有ります。(所詮、平和利用と兵器は紙一重です。)
                    それに天性のものであれば、如何に優秀であったとしても「感謝」こそあれ、それを自分自身が「誇る」というのは、ちょっと筋違いのように思えます。

                    このように、消去法によって「誇るに値しないもの」をどんどん除外していくと、本当に誇るべきは「自分の心」以外に無いことが解ります。
                    つまり「自他共に良いと自らが確信する積極的な生き方」をすることにより、人は清々しい、晴れやかな気持ちで「正々堂々」と人知れず「胸を張った生き方」が出来ます。それが即ち「自らに誇りを持つ」ということです。
                    因みに「それ以外の生き方」に対して、人は一抹の「やましさ」や「後ろめたさ」を覚えます。それを意識するまいとして、人は様々な言い訳や気晴らしを考案し、また自己欺瞞のために奔走することになります。
                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:44 | comments(0) | - |
                    純粋な人は生きられない?
                    0
                      子どもらしさとは「無邪気、純粋、単純」であるとすれば、大人らしさとは「邪気、不純、複雑」となります。大人がどうしてそうなのかと言うと、多くの大人が「子どもみたいに単純では生きて行けない」と思っているからです。しかし、果たしてそれは本当の事なのでしょうか?

                      答えは「ノー」です。大人が子どものように「童心」のままであったとしても、もちろん生きて行けます。しかも、もし多くの大人たちがそのようであったなら、それこそ「理想的な社会」が実現出来るに相違有りません。何故なら、そこは「自己中心」という考え方が「恥ずべきもの」とされ、他人と自分を分け隔てなく考える事が「当たり前」とされる社会だからです。

                      しかし、それでも大人は納得出来ません。「無邪気で単純では他人に騙(だま)されてしまう」と考えますが、それは少し違います。騙されるのは「何らかの欲」のために冷静な判断が出来ないからで、子どもっぽいからでは有りません。例えば「お人好し」というのも「他人に対する受け狙いの欲」の場合があるので、注意が必要です。

                      それから、大人の場合何かと「物事を複雑に考えがち」になるのは、自分の側に「失いたくないもの」が多すぎるからです。子どもの目線で見れば、物事は常に「理路整然」としているもので、自らのリスクに対して「深刻になり過ぎない」方が、物事の解決はスピーディにうまく行くものです。
                      つまり「自分の側さえ護(まも)れれば、後の事はどうでもいい」という考え方が、物事を万事「複雑」にしています。

                      と言う訳で現状はどうあれ、これからは「童心」をどこまで貫徹出来るかが「価値の基準」となっていくでしょう。何故なら「大人的」な考え方では先行き「八方塞がり」なのは目に見えていますので。(見えない振りをするのは自由ですが激突は免れません。)
                      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:28 | comments(0) | - |
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