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「目的」と「手段」は同じが好ましい。その2
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    保護者がPTA活動に参加する際の「無理矢理感」が何故生じてしまうのかという理由のひとつに、「平等公平な役割分担」という一見して社会的に疑問の余地の無い「大義名分」が在ると思われます。そしてもうひとつは「自分の子供のためになることを率先してやるのは当たり前」という「親としての倫理観」を「再確認する場として活用しよう」という意図も在る様に思えます。
    この2つに関して言えば、少なくとも文章上は全く異論の余地が無い様にも思えます。では一体どこに問題があるのでしょう?はたまたアンケートの結果に見られる80%超の保護者の感じている疑問や不満の方が不当なものという事なのでしょうか?

    私は「PTA」に限らず、社会の枠組みやシステムを構築していく上で心すべきことは、「人間不信に基づいてはならない」ということだと思っています。それは即ち「ずるい人間や怠け者の人間を想定した発想」でシステムを作れば、必ず「逃げ道の無い息苦しいもの」にしかならないということです。
    更に「人間不信の弊害」として、「現状を正しく認識する努力を怠る」傾向が生じやすくなります。何故なら「不信感に基づいた判断には必ず先入観が介在する」からです。
    一旦このようなシステムが出来てしまうと、そこには勤勉で働き者のグループによる「独善的な発想と問答無用的な強制力」が、ずるくて怠け者のグループを管理するという図式が生まれるのは半ば当然であり、中でも「相手の退路を遮断する」という発想自体は、多分に「軍隊的」とも言えるでしょう。
    しかし、ここで皆さんの名誉のために敢えて申しますが、PTAに於いては誰も悪気でやっている訳ではないし、それぞれの子供を思う気持ちに嘘や偽りがあるとも思えません。それ故に一刻も早い問題の解決が望まれているのだと思います。

    ところで人間社会というものは故意に選別しない限りに於いて、様々なキャラクターを持つ人たちの集合体であることは周知の如くですが、そこには決して差別的な意味ではなく、「個性の違い」や特定の分野に於ける「能力差」が認められるのが普通です。
    そこへ持ってきて、人間ひとりひとりの抱える諸事情は千差万別で、極端に言えば「一人として同じ事情の人はいない」訳ですから、健全で快適な社会の枠組みを造るためには、それらのことを前提にする必要が有ります。
    一方で「会社組織」などの場合、その枠組みは(法の範囲内で)組織の目的や運営上都合のいい様に会社側が定めて良い訳ですが、社員はそれを承知で(自らの意思で)入社している訳ですから、その時点である程度の個人差は押しなべられていても、特に違和感は生じません。(更に退社の自由も有るのが普通です。)
    このように「入会の意思」と「組織の枠組み」は、大変密接な関係に有ります。例えば、日本国民は「意思を持って自ら日本国民になった訳ではない」とすれば、国の枠組み自体が国民ひとりひとりの「個性や能力差に十分配慮されたもの」でなければ、「快適な国民生活を送ることに支障をきたす可能性が十分にある」と言えます。

    翻ってPTA組織の場合、その会員が「意思や能力、適正」に基づく選別が行われないままの構成員であるとするなら、組織の枠組みはひとりひとりの個性や諸事情に十分配慮された緩やかなものでなければなりませんし、活動は当然その範囲内で行われるべきものとなるでしょう。
    反対に「意思を含む選別」がしっかりと成された上での構成員であるとするなら、(一般的な会社組織と同じく)目的に応じた枠組みが承認され、保障されるべきものと考えても構わないと思います。
    最も良くないのは、意思や能力による選別が曖昧なまま、責任や義務が独り歩きしてしまうことだと思います。何故ならPTAを除く一般社会に於いて、そのような組織は成立不可能と思われるからです。
    それならば、何故それがPTAだけに可能とされるかという理由は明白で「そこに我が子がいる」からです。しかし私はそこで発想を逆転させようと思います。即ち「我が子がいるからこそ、親に一分の過ちもあってはならない」と思う次第です。何故なら全ては子に継承されることになるからで、それが今回のタイトルの趣旨でもあります。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:54 | comments(0) | - |
    「目的」と「手段」は同じが好ましい。
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      昨今のPTA問題(強制加入、強制役割分担など)に於いて「解決の糸口」となり得るのは、そういうことかも知れません。何故なら、多くのPTAが掲げる目的は「子どもたちの通う学校に対する積極的なサポート」であり、それ自体は(仮に設立当初の主旨と趣きを異にするとしても)特に疑わしいものとは言えないと思います。しかし、にも関わらず『ダイヤモンド社が行なうネットによる世論調査』の結果では82%以上の人が「PTAに不満や疑問を感じる」と答えています。この数字が本当だとすると、これは惨憺たる結果としか言い様が有りません。いったい何故こんな結果になってしまうのでしょうか?

      アンケート結果はこちら→ http://diamond.jp/articles/-/55561?page=7

      ところで本題に入る前に確認しておきますが、日本の場合、少なくとも小中学校に於ける義務教育は下記の通り、(健全で力強い)国家形成を目的として、国家が必要としている性質のもので、(国民の教育を受ける権利に対する)補助や援助とは性格が異なります。つまり平たく言えば「国策」によるものなので、(心情的にはともかくも)論理的にはそれに対して「保護者がお手伝いする義務」は無いと考えるのが普通です。

      ※教育基本法第5条2項「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家および社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」

      ということで、ここでは問題を単純化するために「義務教育」に絞って話を進めて見たいと思います。
      PTAに対する疑問や不満が生じる理由の多くは、やはり「苦手なこと、やりたくないことを無理矢理やらされた」という実体験に基づく部分に集中している様です。そしてそのことから「そもそも任意加入のはずが実際そうなっていないからだ」という「加入問題」に飛び火することになってしまうのでしょう。
      これは逆に、活動内容に於ける「無理矢理感」さえなければ(憲法違反の論議はさて置いて)「自動加入」であっても構わない、ということなのかも知れません。皆さん!ここは知恵の見せ所ではないでしょうか?

      次回に続きます。(参考までに、憲法違反の話はこちら→ http://synodos.jp/society/5096
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:46 | comments(0) | - |
      「馬鹿(ばか)」という言葉の意味
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        誰だって「バカ!」と言われれば面白く有りません。しかしその事とは別として、自分が「馬鹿」か「馬鹿でないか」は、知っておく必要があると思います。何故なら、知らないと「治し様がない」からです。(馬鹿は治せます!)

        ところで「馬鹿」は、単なる侮辱を表す言葉では有りません。決して「能力の低さ」を表す言葉でも有りませんが、「愚(おろ)かな状態」を指す言葉であることは間違い有りません。実はその意味を知るポイントは「馬」と「鹿」に有ります。

        まず「馬鹿」と書いて「まじか→まぢか」と読みます。そして、愚かな行為、行動に対して「まぢかだよ、まぢか!」と言って見ます。そうすると意味が繋がります。

        つまり、「愚かな行為、行動」というものは、すべからく自分の足元が見えていないために「足の踏み出しを誤った状態」という事です。

        それは言い換えれば、「何らかの理由や事情」が有って「現状を正しく認識出来ない」ために「状況判断の誤り」が生じ、目的から見ると見当外れの「間違った対応」を実行してしまうという一連の流れを指し、その最初の部分となるところの「現状を良く見ろ」というのが「馬鹿」という言葉の正しい意味になります。

        人間は目的に対して「他意」を持たなければ、よほどの事がない限り「現状を大きく見誤る」ようなことは有りません。そしてこの場合の「他意」とは「自己本位な欲求や欲望」など本来の目的とは無縁のものであるため、「馬鹿」という言葉は、単に現状認識の是非に留まらず、むしろ「本質的な心の乱れ」にまで踏み込んで警告を与え得るものと言えるでしょう。

        冒頭の繰り返しになりますが、誰しも他人に「馬鹿呼ばわり」されたくは有りません。しかし、自分に対して「馬鹿か、お前は!?」と問いかけて自らの心の乱れを修正しつつ、常に未来に向かって効率的な正しい一歩を踏み出す事が出来るなら、それが私たちにとって最も幸せな人生であることは疑う余地が有りません。

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:20 | comments(0) | - |
        サイドメニューの「リンク」を更新しました。
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          当ブログの右サイドに表示されているメニューの「リンク」に「本と雑誌のニュースサイト/リテラ」を追加しました。

          こちら→ http://lite-ra.com/

          私自身は殆ど本や新聞、雑誌を読まないし、インターネットでの情報収集も敢えて控えるように努めています。従って情報と言えば精々テレビの流すニュース程度ですが、その理由は「自分の考えと記事に全責任を負う」ためということに尽きます。
          今回追加したサイトは、私と似たような感性が「ある方面では既に受け入れられている」ことを確認する意味で時折チェックしていますが、論理的で解り易い文体は好感が持てます。仮に批判的な記事に於いても「剥き出しの攻撃性」までに至らない姿勢も評価出来ます。というより、それこそが一番肝心なことではないかと思う次第です。

          因みに、今後姿勢や体質が変わるようなことがあればリンクを削除するでしょうが、そうならないことを願っています。
          | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 12:24 | comments(0) | - |
          なぜ「人の命は何よりも尊い」のか?その2
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            そもそも「尊い」とは、「敬うべき高い価値がある」という意味ですが、そこには「利害損得」の概念は殆ど無く、むしろ「神聖」に通ずるような「無条件に受け入れるべきもの」というイメージかと思われます。
            これは普通に考えれば、「自分の命=自分=尊い」という図式となり、その人がもしも「自分という人間はそれほど立派じゃない」と思っているとすれば、それだけで既に「受け入れがたい考え方」になってしまいます。もちろん他人に対しても同様で、「何だ、あんなヤツ」と思った時点で、相手(=相手の命)は「尊さ」とは無縁のものとなってしまうでしょう。そのような意味でも、ただ「命は尊い」と連呼しただけでは、人の気持ちを動かすのは難しいと思います。

            話は変わりますが、人間以外の地球上の生物は、総体として「地球環境を適正に保つ」という崇高な目的のために、日夜惜しみなく働いています。おそらく彼らにはその意識は無く、地球全体の状況を把握出来ている訳でも有りませんが、そこには「本能に組み込まれた生態を全ての生物が確実に実行」することで、奇しくもそのような結果(成果)に結びついているという事実が有り、私はその事を以って「全ての生物は尊い」という結論を持ち得ます。
            そこにあるのは「豊かな地球環境の保全という崇高な目的」と、「生命個々が互いに自己主張することなく、全体のバランスの中での自らの命と行動の意味を(無意識とは言え)100%受け入れている凄(すご)さ」です。

            私たち人間が、地球上に於いて「彼ら」に匹敵する働きと存在感を示すためには、私たちが「動植物の本能に代わるもの」として私たちの中にあらかじめ組み込まれている「人間性」を最大限に活用する必要が有ると考えます。何故なら「人間の持つ本能」には「他の生物に見られるような利他的要素」は殆ど見られず、単純に「自己防衛的要素」に限定されていると考えられるからです。これは人間が本能的に行動した場合には、自ずと「生存圏の拡大」という方向性に向かい、必ず「他者や他生物を圧迫する存在」となる事を示しており、これはわざわざ歴史を紐解くまでもなく、「現状が正(まさ)にその通り」となっております。

            「人間性」の中には「みんなで良くなろう、という崇高な目的」と、「惜しみなく実行するためのエネルギー」が既に組み込まれていますので、有史以前より他生物によって営々と築き上げられてきた「豊かな地球環境」を引き継ぎ、英知を結集して「自然環境と調和したバランスの良い人間社会」を構築することなど朝飯前に出来るはずです。
            つまり「人の命の尊さ」とは「人間性の無類の価値の高さ」を示しているのです。そして「全ての人が尊い」のは、「全ての人が同じ人間性を備えている」からに他なりません。ただ現状に於いては「人間性を発揮している人」と「人間性を発揮出来ていない人」の違いが有るのみです。

            私が思うに、今の社会のように「個々の利害得失」が最優先される中で「命の尊さ」を論じて見ても、何の意味も有りません。何故なら「個々が生存権を主張する」という「本能レベル」の脈絡の中で、「命が尊いはずも無い」からです。そんなことに時間と労力を費やす暇があるなら、自らが「人間性に基づいた行動」を以って「人間の尊厳」を身を以って示す努力をすべきだと思います。もし、それが出来ないというなら、「人間性を活用出来ない人間は、その時点であらゆる動植物に劣っている」というところから理解に努めてください。その理由は前述した通りです。
            因みに、知識も、学力も、経験も、人脈も、お金すらも、「人間性によって活用されるべきもの」であると思います。私は「人間が人間らしく生きる道」は、それしかないと信じています。
            | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:38 | comments(0) | - |
            なぜ「人の命は何よりも尊い」のか?
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              これは宗教的(=神様的)には「人の命は神様が与えたものなので唯一無二の掛け替えのないもの」ということになると思います。しかし日本は憲法によって「神を信じるか信じないかはその人の自由」と定められているので、社会全体としては、これとは別の「理解の仕方」が不可欠となります。そしてもし、それがうまく出来なければ「人の命は必ずしも尊いとは言えない」という考え方すら受け入れざるを得なくなってしまいます。それ故、これはどうしてもクリアしなければならない問題なのです。

              まず、単純な問題から解決して行きたいと思います。
              「自分の命と他人の命は、どちらが尊いですか?」と問われて「自分の命の方が尊い」と答える人は殆どいないはずです。答えは多分そうではなく「どちらが尊いかは解らないが、自分の命は大事」ということになると思います。みなさん、実はこれはとても重要な事なのです。
              このように人は普段、無意識に自分や他人の「命の重さ」を量(はか)っているものです。大ざっぱに「自分と他人」と見れば、「自分の方が重い」と感じるのは当然とも言えますが、一口に「他人」と言っても、実はその中にいろいろ有るのが普通です。例えば親しい人や関わりの大きい人、身近な人たちの命は比較的重く、あまり知らない人、縁もゆかりも無い人たちの命はそれより軽い、といった具合です。
              これは謂わば「自分の命を頂点としたピラミッド型の命のランク付け」と言えます。そして、それは「かなり一般的」なのではないかと思われますが、「社会性」という観点に照らして見ると、実は「重大な欠陥」を含んでいます。

              まず、命を重さとして「量的にランク付けする」ということは、その重さが論理的には「限りなくゼロに近づく可能性」が有ります。
              次に、ランク付けの基準が「自分の都合(=利益)と決して無縁では無い」ことから、「極めて自己中心的な価値判断を伴う可能性」があります。
              これらは何れも社会的に好ましい事とは言えず、仮に「直接人の命に携(たずさ)わる立場」で有る無しに関わらず、「より良い社会の発展、形成」にとって大きなマイナス要素となります。(命の問題はそれだけ重要ということです。)
              そして「何よりも悲しいこと」は、もしアナタが「誰かの命を軽んじる」とすれば、他の誰かによって「アナタの命も軽んじられている」という事実です。何故なら、社会に於いては公平平等の下に「自分自身に容認していることは、他人に対してもそれを容認している」という意味になるからです。
              もしそのことを本気で悲しいと思うなら、「決して人の命を軽んじない」ことです。それだけで十分良い社会になります。

              たぶん、続きが有ります。

              | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:13 | comments(0) | - |
              感性を育(はぐく)もう。その3
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                「感性」は、その人の「生まれながらの個性や特徴」に由来する部分と「価値観」が反映する部分で成り立っているとします。実はこの「価値観」の部分は、生まれた時には「みんな同じ」と見て良いと思います。何故なら「赤ちゃんの成育に必要な価値観は限られている」からです。

                しかし、人間は成長と共に「生き方」に対して様々な選択肢を持つようになります。例えば「親の考え方」が反映されたり、「兄弟や友だち」から影響を受けたり、もちろん「自分自身の経験」から導き出されることだってあるでしょう。また、本を読めばそれだけ多くの「擬似体験」がそこに加わります。

                そのようにして、人間はその人を取り巻く環境、諸条件、自らの能力に対する自覚などが反映される形で「生き方」のイメージが少しずつ形成されて行くことになります。場合によっては、それは「幼い頃のイメージとまったくかけ離れたモノ」となることもあります。つまりこの「生き方のイメージ」が、その人の「価値観」を決定付けている訳です。そして、その「価値観」と生来の「傾向」が合わさったものが「感性」という「自分と周囲との接点」なのです。

                 

                私たちは、日頃から当たり前の様に「人の命は何よりも尊(とうと)い」と、教わっていますが、そのような言葉を受け止めるのは私たちの「感性」です。ですから、その言葉が「自分の生き方(=感性)」に合致するものであれば、「心に染み入り、本当にその通りだ」と思えますが、一方で「自分の生き方に無いイメージ」であった場合には、「何とも感じないし、さっぱり解らない」ということだって有り得るのです。

                このように「感性」は、いわば「ストレートで理屈抜き」である分、人間個々にとっては「疑う余地の無い信じられるもの」という位置付けではないかと思いますが、それは「生き方そのもの」に由来していると見ることで、納得がいきます。しかし、そのことは逆に「感性」に問題が生じた場合、その人の本質とも言える「生き方のイメージそのものに問題がある」としてコトに当たらない限り、解決には決して至らないという意味になります。

                 

                幸いにして「自分の感性」は、自分で意識することが出来ます。また、コミュニケーションの中で「他の人たちの感性」とも触れ合うことが可能です。

                最も良いことは、自分の感性を「絶対的なもの」とするのではなく、他人との適切な交流の中で、常に「チェックを怠らないこと」だと思います。感性の違いから「ギャップや違和感」を感じた時こそが、チャンスです。何も「生き方を180度変えろ」と言っている訳ではなく、その都度「微調整して見よう」という気持ちがとても大事ということなのです。

                ともかく「感性」は他人に難癖(なんくせ)付けられる前に、自分で育てるのが一番です。

                | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:38 | comments(0) | - |
                感性を育もう。その2
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                  「感性」とはその人間の「傾向と価値観」の結果と見ることが出来るように思います。何故なら本質的な心の作用と言える「感動」や「嫌悪」あるいは「無関心」などを伴うことが多いからです。そこには「価値判断」が含まれています。

                  例えば「積極的な傾向」を持つ人は、アクティブな人や物に関心が向きやすい反面、控えめで静かな存在に対しては、なかなか気に留まらなかったりするでしょう。

                  その反対に、自分自身が「控えめで静かな傾向」を持つ人は、自分と同じ様な存在感を示す人や物に対して、良く気が付いて様々な思いを寄せることも多いと思われます。

                  また「周囲に対する無関心」という傾向は、「自分と周囲の関わり合いに対する実感」が持てない場合に生じる様に思いますが、この感覚(=感性)は不自然さを否めません。何故なら「周囲との関わり合い無しに生きること」は事実上不可能なので、何らかの事情により「意図的に作られた傾向と価値観」である可能性が高いと思われます。

                   

                  ところで「感性」の由来の内の「傾向」というものは、生まれながらに備わったその人なりの「個性」や「特徴」に、ある程度左右されても不思議では有りません。

                  例えば、生まれながらに「身体能力の高い人」と「音感能力の高い人」では、元々の感性が異なっていて当然でしょう。しかも、先天的能力とその人の将来が無関係とは言えない訳ですから、どちらの感性も優劣は無く、それぞれに「意味がある」ということだと思います。

                  にも関わらず、成長過程で「感性」に問題が生じるのはどういう訳でしょうか。感性とは「傾向に従って自然に身に付くもの」ではないのでしょうか。

                  続きは次回に。

                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:05 | comments(0) | - |
                  感性を育(はぐく)もう。
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                    本当は「勉強の前に感性を育もう!」と言いたいところですが、あちこちから怒られそうなので控えめにしました。

                    ところで「感性」とは、見たり聞いたり触れたりした時「何を感じるか」「何を思うか」という、その人の直感的な部分として良いと思います。

                    更に「感受性」となると、その人の心に直接働きかけ、イメージを作ったり、動機をもたらしたりといった「影響力」まで含まれることから、「感受性が強い」などと表現しますが、「感性」の場合ですと、「そのような傾向がある」という意味で、「感性が豊か」など大らかな表現が一般的でしょう。(感性=感受性とする記述もあるが、それだと2つある意味が無い)

                     

                    それではこの「感性」とは何なのかというと、「自分を取り巻く全ての事柄(ことがら)に対して、自分がどうあるべきかを感覚的に理解する能力」ということだと思います。であるとすれば、人間は誰しも赤ん坊の時から一定の感性を備えていることになります。ただ、幼少の頃はまだ自分が関わる範囲が限られている(世界が狭い)ため、「感性」もそれに応じたものだったでしょうが、成長して世界が広がるに連れて「感性」もそれに応じた広がりを見せていくのは自然なことだと思います。つまり、「今まで気にもしなかったものが気に留まるようになる」ということで、ちょうど「目に入らなかったものが目に留まるようになる」のと良く似ています。

                     

                    例えば、道端で花を咲かせている雑草を見て「キレイ」「カワイイ」「ガンバレ」などという気持ちになるのも「感性」の成せる業でしょう。しかし同じ雑草を見て「キタナイ」「ウットウシイ」「ジャマ」と別の人が感じるかも知れませんが、それもまた「感性」でしょうし、そもそもそこに草が生えていることすら全く気が付かない人だっているわけです。

                    どうしてこのようなことになるのでしょうか?(続きは次回に。)

                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 13:04 | comments(0) | - |
                    価値基準の最高位は「人間性」です。
                    0
                      人間性とは「みんなでもっと良くなろう!」という、謂わば「社会性の極致」とも言える心柄の事ですから、人間性を高め、豊かにすることが、あらゆる物事を良い方向に導いて行くのは当然です。
                      例えば、社会が抱える課題に対して「問題意識を持つ」というのも、人間性が豊かであれば頼まれなくてもそうなりますし、同時に「解決に対する意欲」が生じます。更に、それに対する自らの能力が不充分と思えば、知識や技術に対する「学習、習得意欲」が自然に湧いてきて、しかも目標に向かって飽く事を知りません。
                      つまり「人間性が豊かになる」という、ただそれだけの事で、人々の「社会貢献に必要な全てが自動化」されることとなり、それこそ「社会に於ける不安要素」など、あっという間に根絶されてしまうでしょう。
                      その一方で「自動化」と言えば「立場欲や物欲」によるものが有りますが、これで社会が良くなることは決してありません。何故ならそこには、如何にキレイごとを並べたとしても「自分さえ良ければいい+カモフラージュ(=反社会性)」の要素しか無いからです。


                      このようなことは、半ば物事を議論する以前の「常識」だと思いますが、ここ数十年の間にそのような話がピンともカンとも来ない時代に変貌してしまったのかも知れません。
                      だとすれば尚更の事、今まさに社会、それもことさら教育の場に於いて、最も重要で優先されるべきは「人間性の回復」だと思います。教える方も教わる方も、それが足りないから埒が開かないとしか思い様が有りません。
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:23 | comments(0) | - |
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