青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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薬を呑まない話 その(2)
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    例えば「健康管理」の観点から言えば「暴飲暴食」は差し控えるべきです。しかし、どこからが暴飲暴食となるのかリアルタイムに察知出来なければ意味が有りません。人間にはそのための「満腹中枢・摂食中枢」が在り、主に「血糖値」の変化などから(その都度)体にとって適切な指令を発する仕組みになっている事が知られています。つまりこれに従う限り、食べ過ぎは絶対に生じない仕組みになっています。
    血糖値の上昇や低下など、人間が体の「保護回路」からの警告を受けた場合、たいがいは自律神経経由で「不快感」として情報を受理します。しかし通常の場合、これらは即人間の活動を強制的にストップさせてしまうほど強烈なものでは有りません。むしろ「微かな感覚」から始まるのが普通なので、無視しようと思えば出来ない事は有りません。また、アルコールの大量摂取や解熱鎮痛、胃薬、酔い止め、眠気覚ましなど、不快感を抑えるための薬を服用する事で、「警告」そのものを完全に無視することも可能ですが、それが大変「危険な行為」である事はご理解頂ける事と思います。
    このように人間は不思議な事に「健康維持」より優先すべき事があるようで、そのために「警告」が故意に無視される事は決して珍しいことでは有りません。そしてそのような傾向が習慣付けられる事によって、不幸にも体が発するアラームが殆ど意味を為さない体質へと変化して行くものと思われます。

    もちろん健康でさえあれば良いという訳でない事は解ります。人間には生きる目的があって、そのために健康な体が必要となる訳ですから。しかし前述のように、敢えて健康を阻害するような目的や目標の持ち方、物事の優先順位に違和感を覚えるのは私だけではないと思えるのですが。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:05 | comments(0) | - |
    薬を呑まない話
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      昨日は朝から風邪ぎみで、別サイトのブログを書いた時点で体調が良くなかったので、こちらはお休みさせて頂きました。午後になって熱を測ったら39度2分有りましたが、こんな時みなさんはどうされるのでしょうか?
      私の場合、寒気がしたので室内でジャンパーを着ていましたが、それ以外何もせず普通に日課をこなします。もちろん病院には行かず薬も呑みません。薬物は症状を一時的に緩和する働きはあるにしても、体との親和性が至って悪く、体内に蓄積されて新たな健康へのリスクをもたらす事を40年以上前から知っているからです。それは当時の医療の専門家から教わりました。そのおかげで私はそれまでの慢性的な体調不良から解放され、それ以来「医療や薬」の世話になる事も一切有りません。(それ以来健康保険は1円も使っていません。)

      私たちが自分の健康管理を考える上で最も重要な事は、「自分の体に今何が起きていてどういう状態であるのか」を常に把握しておく事だと思います。「それには精密検査が必要だ」と思っている方も多いのではないでしょうか?しかし私はそうは思いません。実は人間の体には、そのための「非常に優秀なセンサー」が備わっています。そこで肝心な事は、まずそのセンサーの働きを鈍らせたり麻痺させたりさせない事だと思います。更にセンサーによって異常が検知された場合の適切な対処法は、通常本能レベルでセットされており、ただそれに従うだけで良い事になっています。
      つまり「健康維持」というものは本当は簡単な事なのですが、それを難しくしてしまっているのは一体何なのでしょう?
      次回に続きます。
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:21 | comments(0) | - |
      「お人好し」と「良い人」は違う
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        「お人好し」は最初に「お」の字が付いている事で、人として余り好ましくない在り方である事が示されていて、ちょうど「おめでたい人」の様に良くない例として用いられる事が多いと思います。しかし何故「他人に対して警戒心を持たない」「他人の言動に従順な在り方」が、否定的に見られなければならないのでしょう?また、それならば「他人を疑って掛かる」「他人の言動に左右されない」事を以って「正しい」として良いのでしょうか?何だかそれもちょっと違う気がします。

        それはつまり、こういう事です。
        人間社会の基本は「みんなで良くなろう(良くしよう)」という事です。だとすれば、当然そのためにまず「社会全体がどうあるべきか」というイメージと同時に、「自分がどうあるべきか」「自分に何が出来るか」というイメージが必要になります。それは即ちあらゆる物事を判断する時の基準でもあります。そしてそのような「基本」がぶれない事が重要になります。

        ところが「お人好し」の人にはそういった「社会人としての基本」が乏しいと思われても仕方が無い節が見受けられます。それは他人との関係に於いて「何を優先させるか」という「優先順位」に表れます。「お人好し」の人が「平和主義」であることは間違い有りませんが、それが度を越すと「事なかれ主義」に陥ります。「他人からの印象や風当たり」を気にし過ぎるのも同様です。
        無論、他人との摩擦や意見の相違は少ないに越した事は有りませんが、社会人としての目標をそこに置くのは少しズレていると言わざるを得ません。

        人としてより好ましい在り方とは、物事や相手の言動を「社会人」として「社会理念」に照らして判断出来る事だと思います。そうでないと、人や社会の行く末にとって「有害」であったり「損益」をもたらす様な考え方や行為を「事なかれ主義」のために受け入れた形となり、結果的にいつのまにか自分もそれに協力し、加担したひとりとなってしまう可能性すら有ります。

        このように不本意な「お人好し」にならないためには、誰しも自らの「社会的責任」を十分に理解する必要が有ると思われます。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:52 | comments(0) | - |
        当たり前の話
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          「来る者は喜び迎え、去る者は追わずして幸あれかしと願うべし。」とは、人として至極当たり前の話です。何故なら、そのようにされて文句を言う人はいないからです。誰も文句を言わなければ世の中は平和ですから、それが一番良い事に違い有りません。
          ところが現実の世界はそのようになってはいないと思います。それはいったい何故でしょう?何故、人は「一番良い」と思える生き方をしようとしないのでしょうか?

          それは「みんなで良くなろう」という気持ちが足りないからだと思います。
          つまり「己を中心」として物事を考えれば、「来る人は誰でも迎え入れる」という訳には行きません。当然、利害損得や相性の問題で「来て欲しい人」と「来て欲しくない人」に別れますし、同じ理由で「去る人は追わない」という訳にもいかなくなります。ですからこの事は逆に言えば、自らの「自己中心度」を知る良い手掛かりになるとも言えます。

          ここでのもうひとつのポイントは「来る者は喜び迎え」となっていることです。
          つまり「いやいや」迎えても迎えた事にはならず、相手を拒んでいる事に変わりはないという事ですから、そこから導き出される結果は「形で拒んだ時」と大差は有りません。それは相手が一方的に自分の元から去ろうとしている場合も同じで、未練や執着が有るようでは「相手の幸せ」を願う事は出来ません。

          このように「自己執着」から生ずる「自己中心的」な生き方では、人を分け隔てなく受け入れることなど到底出来ず、その時点で他人の人格を尊重する気持ちを失い、他人とはいわば「自分のための便利ツール」でしかなくなってしまいます。そしてそのような環境に身を置いている自分自身もまた、他人から見れば「他人のための便利ツール」か、もしくは「無用の存在」でしかないという事は理解する必要が有ります。更にこのような関係性を受け入れてしまう事で、人は限りなく「冷酷」になって行きます。その結果がどうなるかは想像に難く有りません。

          「みんなで良くなろう」という、大人から見ると如何にも子どもじみた話の中身には、そのような事態を何とか回避したい、改善したいという私の強い思いがあります。

           
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
          今日は都合により記事をお休みします。
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            その代わり、私の好きな言葉・・・というより「信条」を書いてみます。

            「来る者は喜び迎え、去る者は追わずして幸あれかしと願うべし。」

            実はたったこれだけで世界平和が実現出来るのです。
            少なくとも私にはそう思えます。
            | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 12:56 | comments(0) | - |
            教育とマインドコントロールの関係
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              一般的に「マインドコントロール」というと、「何者かが他者に対してその価値観を根底から覆すような洗脳教育を施す様を表します。多くは「悪意から発する行為」として認識されていますが、「善意のケース」が全く無いとも言えず、となれば「一般的な教育概念」との違いは、対象者に対して「選択の余地を与えるか否か」という一点に尽きると思います。
              「選択の余地」とは、例えば「複数の選択肢」が示された状態で、教育を受ける対象者が「自らの思考」で「善悪や正否」の判断が可能な状態を指します。

              しかし、多くの教育者にとっては「これは如何にも手ぬるい指導法」と感じられるはずで、そもそも「指導効率」も悪く、更には「教育の目的そのものに合致しない」ものと映ることは想像に難く有りません。と、言う事は私たちが既に「一般的な教育」として普通に受け入れているものの多くが、「無駄を省く」という考え方のもと「手法的に見ればマインドコントロールに属する」ものである可能性が有ります。

              つまり、とかく社会的に喧伝されているように「マインドコントロールという手法が悪い」という事であれば、善意も悪意もひっくるめて「現状の合理的教育手法の殆どは悪!」ということになります。(残念ながら)
              そうではなく、手法に寄らず「教育の目的が正しければ善。目的が間違っていれば悪!」ということであれば、マインドコントロールという手法自体は容認され、基本的に全ての教育の正否は「目的の一点」に絞り込まれる事となり、そこで重要なことは、「内容や手法が目的に対し合理性を保っているか否か」ということになります。

              しかし、私たちはここで大きな問題に直面します。それはそもそも「教育の目的が正しいか、間違っているか」をどうやって判断するのかという事です。それは、実は「どういう社会を望ましいと思うか」という事と大きな関わり合いが有ります。何故なら、それによって「自分が何を学び何を身に修めるべきか」というイメージが全く変わってくるからです。
              これはつまり、私たちが「自分の将来を正しく導き出す」ためには、教育を受け入れる時点で既に「どのような教育が自分にとって必要なのか」を、最終的に幾つもの選択肢の中から選び抜く力が求められている事を示しています。

              このように、教育は「主体性」を以って受け入れるべきものという事を前提とするならば、そこには常に「選択の余地」と「論理性による思考の場」が用意されていなければならないことになり、見方によっては「教育の目的」そのものにそうした要素がセットで組み入れられたものが「正しい教育」と言えないことも有りません。
              さて、みなさんはどのようにお考えになるのでしょうか?




               
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:38 | comments(0) | - |
              アクセス状況の画像をアップします。
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                数日前に、当ブログのアクセス数に関する記事を掲載致しましたので、今日は実際に確認出来るグラフをアップして見ました。
                アクセスの極端に少ない日は、記事が更新されなかった日と一致している様です。
                これらの数字は、私自身が更新状況を確認するためのアクセス(=1)も含まれる様ですので、実際のアクセス数はそれぞれ1を引いた数になります。
                このようなものをわざわざアップする人って、多分あまりいませんよネ。
                ということで、明日からまたがんばります。


                アクセスログ(2015/03/23)

                 
                | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 12:35 | comments(0) | - |
                「みんなで生きる」という正しいイメージとは
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                  これは「人間社会」を見ても、今ひとつ釈然(しゃくぜん)としません。それは色々な人の色々な思惑が複雑に絡み合って、見た目を複雑にしているからです。ですから私たちは、この事を「自然界」から学ぶことにしようと思います。

                  日本は周りを海に囲まれた島国ですが、その陸地部分はおおきく分けて「山と平地」から出来ています。双方共に豊かな自然が保たれていますが、その役割はそれぞれ少し違っています。つまり人間や多くの動植物にとって、より暮らしやすいのは「平地」ですが、平地を適切な環境に保つためには、「山」の環境が適切に保たれている必要があるということです。
                  この事は「社会に於ける支える者と支えられる者」の関係を私たちに教えてくれています。
                  しかしその「山」でさえ、実は絶え間ないメンテナンス(=保守・修復作業)のおかげで「山」で在り続けることが出来ているのです。それは(その事に適した)様々な動植物が担当していますが、彼ら自身もまた、山を快適な生息場所として、山の恩恵を多大に被(こうむ)っている訳です。

                  山は元々、火山活動や地殻変動、土地の隆起などによって出来たものですが、当初は岩石や土砂の巨大な塊(かたまり)に過ぎず、そのままでは山として十分な機能を備えているとは言えません。また、むき出しの地表は雨風の侵食を受けやすく、それでは山自体も不安定な状態のままです。
                  しかし幸いな事には、どんな荒地でもしばらく経つと草が生えてきます。それらの殆どは一年草の雑草の類(たぐい)に過ぎませんが、生命力が強く、条件を選ばないため、比較的短期間で山肌を覆い尽くすほどに繁殖します。それらが枯れると微細な虫やバクテリア、細菌類の働きにより分解され、枯れた植物はやがて有機物を多く含んだ肥沃(ひよく)な土に姿を変えます。それを何世代も繰り返す間に、山肌全体が次第に肥沃な土で覆われて行き、今度は雑草よりも丈の高い中型の植物の生育に適した環境が整えられて行く事になります。

                  しばらくの間は雑草と中型植物が平行して生育する環境によって、山肌の安定化、肥沃化が加速され、同時に小動物の成育環境も整えられて行く事となります。しかし、山の完成形の主役は、あくまで大型の針葉樹や広葉樹であり、暫(しば)しその登場を待つ事になります。
                  やがて山土が十分に堆積(たいせき)し、周辺の中低木によって適度な日照と風水害からの保護環境が得られる様になると、大型の樹木が発芽、生育するようになります。
                  更に樹木が枝を張り、高さを誇るまでに成長して行くと共に、根元付近の日照は極端に遮(さえぎ)られる様になり、同時にこれまで山の環境作りに欠かせなかった下草や中低木はその役割を終え、急速に姿を消して行きます。それに替わってもっぱら日陰での生育に適した低木類やコケ、シダ類などが山の保全の一役を担う事となります。また、大型動物や野鳥の生育環境も整って行きます。

                  このようにして形成された森林によって、山は豊かな水源としての本来の機能を持つに至り、そこここより湧き出す泉が沢となって特徴的な生態系を作り出し、そこに至ってようやく私たちは山の完成形を見ることが出来る訳です。

                  さて、長々と禿(はげ)山が豊かな森林を形成するに至る経過を説明して来ましたが、いったい何のためでしょうか?
                  ここで私が一番注目したい事は、「主役は常に入れ替わるもの」ということです。つまり最初は「雑草」から始まって「低木」から「高木」というように、順番に主役を引き継いで行かない限り、山の完成を見ることは出来ないという事です。
                  次に注目したい事は、「主役だけでは決して物事は成し得ない」ということです。如何に将来の大木と言えども、若芽のうちから一本立ちは不可能です。周りの低木や下草に風雪から守ってもらえなければ、その生存率は極端に低くなるでしょう。
                  最後に思う事は、「誰しも役割は永遠とは限らない」ということです。最初の立役者だった下草は、森林の形成と同時に姿を消して行きますが、「森林は下草の働きがなければこの世に存在すら出来ない」という事実は永遠に変わりません。これは人間も同じで、今の世代が果たすべきことを果たさなければ、次の世代はこの世に存在すら出来ない」ということです。
                  このようなことに思いを馳せて見ると、生きるとは「より良い何かを手に入れる」というイメージよりも「どれだけうまく繋(つな)げられるか」というイメージに近いのではないかと思えてくる訳です。何故なら命には限りがあるので、いくら手に入れても「どこへ持って行ける」訳では有りませんが、うまく繋げようとするだけなら、そのような心配をしなくて済むからです。

                  みなさん、下草は山から消えていく時、どういう気持ちだったと思いますか?私は多分それが「みんなで生きる」というイメージの答えだと思います。

                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 15:40 | comments(0) | - |
                  アクセス数を眺めつつ思う事。その2
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                    社会に於ける多数派のニーズやトレンドは、そのまま「多数派の価値観」と置き換えることが出来る様に思います。それらの価値観が、もし現状に対して「適切で妥当なもの」であったとすれば、多少の行き違いや見過ごしによる問題が時折生ずることはあるとしても、「如何にも根の深い容認すべからざる社会的問題」が慢性的、潜在的に存在するはずが有りません。
                    ですから、そのような問題の存在を知りながら現状を100%受け入れようとすることは、例えば、不摂生や暴飲暴食によって重大な疾患に陥っている人に対して一切生活の改善を促す事無く、ひたすら鎮痛剤と強壮剤を大量投与して病気であることを忘れさせようとする行為に似ています。そのような人は程なく命を落とすでしょうが、社会だってそれと同じことだと思います。(悪い話をオイシイ話で上塗りしてしまおうという考え方の危険性はそこに在ります。)

                    今回は前置きが大変長くなってしまいました。
                    要するに当ブログに頻繁にアクセスしてくださる方々の20〜40人という数を「多いと思うか少ないと思うか」という話なのですが、私としては、「大変に有り難い数」として受け止めさせて頂いております。
                    そもそも当ブログは元より「敵対意識や排他的な要素」は持ち合わせておりませんが、それとて決して読み手の方々に自己満足を与える主旨のものではなく、その意味では「面白からざる内容」と言えるかも知れません。にも関わらず、平均アクセス数は僅かずつですが数ヶ月単位で見ると増える傾向にあります。まして当ブログの望むものは「数でなくて質」という事でもあり、「不用意な形で拡散」することを良しとせず、むしろ限定的な機会の中で「堅実な理解」を期待し得る数には自ずと限りがあると考えれば、これは十分過ぎる数と言って良いと思います。(それより何より、ニーズが在るということ自体に喜びを禁じ得ません。)

                    ということで、今後ともよろしくお願い申し上げます!
                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:57 | comments(0) | - |
                    アクセス数を眺めつつ思う事。
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                      毎回、記事を書くために管理者ページを開けば、自ずと前日のアクセス数が目に付きます。この事は確か以前にもご報告させて頂いた覚えが有りますが、昨今は記事の更新の度に、大体20〜40という範囲の数字を目にする事が出来ます。(少なくとも20を下回る事は有りません。)で、時には暫し数字を眺めつつ、物思いに耽(ふけ)る事も有ります。今日はそれを題材に書いて見ようと思います。

                      確かに、ネット上で何らかの意図を持って情報発信する側にとって、アクセス数というものは意味を持つものだと思います。それはちょうど、テレビの視聴率新聞の購読数になぞらえる事が出来るかも知れません。取り分け「広告収入を得る」「商品のPRをする」など、経済活動に直結している場合には、確かにそうで、そうなると「よりアクセス数を稼ぐ事の出来る記事」が大前提となり、それ以外の要素は自ずと副次的なものとなるでしょう。つまり「サイトの評価=アクセス数」となります。

                      では、少しでも多くのアクセス数を稼ぐためにはどうすれば良いかと言うと、「ネット社会に於ける多数派の現状を100%受け入れ、そのニーズやトレンドに可能な限り応えると共に、次なるニーズやトレンドを提供し、あらゆる手段でそれらの浸透を図る。」ということだと思います。
                      そしてここでのポイントは「多数派の現状を100%受け入れる」ところにあると思います。つまり、多数派に対する疑問や批判はタブーです。即ち「経済最優先」とはそういうことなのですが、翻って「テレビや新聞」がそれではまずいと思いつつも、社会体制がそうであり、「経済を優先しなければ経営が立ち行かない」という現状では、「社会の歪み」は避け難いものとも言えます。

                      一方でネットによる情報発信には経済活動にほぼ無縁のものも多数存在します。マスメディアと違い、ネットの大きなメリットとして維持や管理にコストが掛からないために、その気になれば簡単に目的に応じた情報発信が可能ですが、ネットはあくまで利用者が自らの意思でアクセスする仕組みですので、「世間の人が用も関心も無いもの」は見向きもされないという、至ってクールな世界である事は事実です。

                      次回に続きます。
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:14 | comments(0) | - |
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