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教育とマインドコントロールの違い。
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    結論から言えば、学校教育を含む現状の教育の考え方や在り方はマインドコントロールと同義と言って良いと思います。つまり子どもを初めとする教育対象者に対して他者が「こうなって欲しい、こう育ってもらいたい」と一方的な思いや計画のもと施行される教育は(目的はともかくも)すべて形の上でマインドコントロール(洗脳)の一種と見なさざるを得ません。

    例えば人間にとって本当の意味で「真実」と認識出来るのは、自分が実際に経験した事や自分の目で見た事、自分の耳で聞いた事以外には有り得ないはずです。そして(贅沢を言わなければ)実際にそのような「経験智」のみで生きて行く事だって可能な訳です。その中にはもちろん他人が意図的に「経験させたり見せたり聞かせたり」したものも含まれるでしょうが、本人が「五感で実証済み」という意味に於いて「真実」との認識に至ることに違いは無いでしょう。

    それはそれで良いとして、ここでの問題は、おそらく現代人の知識の大部分を占めているであろう「本人が実際に見聞き出来ない事柄」にあるのではないかと思われます。例えば科学然り、歴史然り、地理然り、国際情勢然り・・・つまり学者や専門家等、限られた人たちしか見聞出来ない上に解釈や見解が分かれる様な性質の事柄について、私たちはそれが「真実」であると認識する術を持ち合わせていないと言うのが本当のところでしょう。しかし実際には「そう信じなさい」「そう思いなさい」という働きかけの力がどこからか加えられる事に依って私たちがそういった事柄を「事実」または「真実」と認識しているのだとすれば、(そこに悪意があろうと無かろうと)「教育=マインドコントロール」と言っても過言ではないと思われます。

    例えば「アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン」は「奴隷解放の父」としてたいへん有名ですが、その一方で「先住民のインディアンに対しては終始徹底排除の方針を採り続け大量虐殺を指揮した人物」であった事は余り知られていませんが、どちらも史実として疑う余地は有りません。一般的には後者の情報が欠落しているしている事が多い訳ですが、その理由は明らかで意図的なものです。このように教育する側の意図によって手心が加えられた教育はすべて「マインドコントロール」となり、私たちの周辺ではごく在り来たりの事と言えます。

    では「マインドコントロール」の介在しない教育というものが、果たして存在し得るのでしょうか?
    答えは「イエス」です。

    例えば乳児期や幼児期の幼い子どもの反応や行動を見る限り、人間性というものは決して「後天的な教育」によって擦り込まれて行く様な性質のものでは無く、むしろ先天的に備わっているものと理解した方がはるかに合理的であると、私には思えてなりません。
    もしそれを前提とするなら、「子どもの教育」というものは「子どもの有する人間性に基づくところの総合的な人間力の成長を手助けする行為」と定義する事が出来るように思います。
    つまり子ども自身の「人間性と主体性」を尊重し、「自然な形での成長」を基本として足らざる部分を補うという事ですが、子どもの「足らざる部分」というのは具体的には「子ども故の視界、視野の狭さ」のことであって、それとても心身の成長に伴ってやがて本人が自然に獲得出来る範疇のもので充分だと思います。何故なら子どもの「個性」を尊重し損ねない様にしようと思うなら、当然そうなるからです。

    「そんな生ぬるい事では子どもの能力を最大限引き出せない」という懸念を持たれるかも知れませんが、私は逆だと思っています。何故なら「人間性」と「向上心」は常にセットのものであって、「人間性が十分に働いてこそ持てる力がフルに発揮される」というのが物の道理であるからです。もしそういう実感が乏しいとしたら、それはそのような体験が充分でないからかも知れません。

    くどい様ですが、教育とは「子どもが自然に伸びようとしている行く手の露払い」が目的であって、間違っても「社会や他人の都合の良い形に好き勝手に子どもを矯正すること」では有りません。
    それが「人間性豊かな人間による人間性豊かな社会」を実現する唯一の方法だと確信しています。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:20 | comments(0) | - |
    悩みの根源は「自己執着」です。
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      検索サイトから当ブログにお越し頂いた方々の中で圧倒的に多いキーワードが「自己執着」で、それを肯定するか否定するかはともかくも、自分たちの生き方にとって何か多大な影響を及ぼしているものとの認識をお持ちの方が多いということなのだろうと思われます。
      結論から申せば正にその通りで、当ブログでも「不幸の根源は自己執着である。」などとして、折に触れその意味や解決法などについて皆さんと共に考える機会を設けて参りましたが、今回は「悩み」との関連について考えて見たいと思います。

      「悩み」というと一般的には自らに関わる物事の内、解決法が見出せずに対応に苦慮する対象や状況を指し、多くの場合それによって気持ちの整理がままならず心の安定が損なわれる事によって強い負荷(=ストレス)を感じることとなります。
      よく似た状況に「迷い」というものが有りますが、こちらは単に物事を決めかねている状況と言って良く、場合によっては問題そのものを放置して様子見に転じるなど、必ずしも切迫性を伴ったニュアンスとも限りませんが、どちらも「自信や確信」が持てない状態である事に変わりなく、そこには判断や決定に関わる「能力不足」が介在している様に思います。

      ところで幼い子どもでは、どうしようかと「迷うこと」はよくありますが、だからといって(特殊な生育環境にある場合を除けば普通は)「思い悩む」ところまでは行きません。それは「やって見ればわかる」という気持ちと共に、仮に間違えたとしてもそうした結果に対して大人の様に深刻にならずに済むからだと思います。そして何よりも子どもは「判らなくて当たり前」なので、結果云々よりもむしろ「経験すること」に意義を感じていると言う事なのであって、それは純粋に「健全な向上心」のあるべき姿と言って良いと思います。

      ところが大人に限って言えば「大人の場合はそう単純には行かない、何故なら責任があるし、ミスや失敗はそう赦されるものではない」などと思ったりしていませんか?しかし判断や解決に至るための能力不足というのも事実として認めざるを得ない反面、このままでは物事の停滞による悪影響を自他共に受け入れざるを得なくなります。何故こんなことになってしまうのでしょう?そして一体どうすれば良いのでしょう?

      答えは「子どもの生き方」に在ります。つまり「今の自分の実力を正しく受け入れ、旺盛な向上心を以って物事に当たる」というのがベストです。もちろん失敗もあるでしょう。他人の助けを必要とする場合もあるでしょうが、その事を以って自らの能力が向上することは間違い有りません。それに他人の能力を借りるという事は、返す義務(というか義理)が生ずるという事にもなりますが、それのどこが悪いのでしょうか?言って見れば自分の気持ち次第で(借りたものを)3倍にも5倍にもしてお返しすれば良いだけの事で、どこの世界にそうされて不愉快な思いをする人がいるのでしょうか。そもそも助け合い自体が老若男女を問わず、世の中でごく普通の事(であったはず)です。それが「恥ずかしいこと」などと一体いつどこで誰に教わったのでしょうか。

      「イイ歳をして今更みっともない」「立場上弱みを見せられない」「ダメ人間と思われてしまう」などと思うなら、何故もっと早くに必要な能力の向上を真剣に考えて来なかったのかということですが、それにしても「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」という格言にもある如く、人間はいつ何時も「訊ける時に訊く。知り得る時に知る」というのが正しいのです。それが証拠には、人間が他者との助け合いを旨とした良好な関係の中で生きている限りに於いて「思い悩む」事はまず有りません。
      そしていわゆる「かっこ悪い」という気持ちの根底には「立場欲」という自分で自分を特別扱いしようするところの「自己執着」があって、そのせいで私たちが絶えず「悩み」によって心身を疲弊させられているという現実があるならば、実は「自己執着→自己破壊」という図式が見えて来ませんか?
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:54 | comments(0) | - |
      子どもは放って置けば真っ直ぐ育つ?その2
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        いくら大人たちが「自分たちの生き方や物の考え方が正しい」と主張して見ても、その影響下にある子どもたちの気持ちが荒れたり歪んだり、凡そ健全な心の成長が遂げられずに苦しんでいる姿があるとすれば、それは「大人の生き方や考え方が悪い影響を与えているせい」と直ちに結論付けて良いと思います。何故なら仮に真実がそうであろうとなかろうと、人として折に触れ自らを振り返り見つめ直そうという姿勢は、それ自体が正しい事だからです。そして大人のそうした実直さ、謙虚さから子どもは学ぶところが大であるに違いないからです。

        ところが今の大人たちは、何故かそういうことをしたがりません。そればかりか「少し甘やかしが過ぎた」「もっと厳しく躾(しつ)けるべき」「悪い事は悪いと教えなければ」などと、まるで「愛情や優しさが仇になった」「飼い犬に手を咬まれた」如き言い方をしたりします。大人たちの根底にこのような思いがある限り、子どもたちが苦しみから救われることは決して有りません。増してこのような風潮が社会的なものとなれば、子どもたちは絶体絶命となってしまうでしょう。

        実は「自分を甘やかし」「躾けられることもなく」「悪い事を悪いと思えない」のは大人たちです。何故大人たちが揃いも揃ってそうであるかと言えば、自分たちもやはり子ども時代にそのような大人たちの影響を受けつつ育ったからに他なりません。つまり、これはある時代から社会的風潮に助長されつつ、世代間で受け継がれてきたものと私は見ていますが、おそらく昭和一桁生まれの人たちぐらいまで遡る事が出来ると思います。(具体的には戦後の意識変革が影響していると思っています。)
        誤解の無いように申しますが、私は「戦前が良くて戦後はダメ」と言っているのでは無く、せっかくのチャンスであったにも関わらず「戦後に相応しい正しい流れを作り損ねた」感が否めないと言っているのです。

        ここで大切なことは、如何に世代間や社会的風潮に問題があったとしても、それを理由に自らの責任を回避する事は出来ないということです。つまり論理的に「みんなの責任=自分の責任」でもある訳ですから、ここでは「気付いた者」「能力の有る者」が率先して問題解決の努力を行うという事が正しいのです。
        具体的には「常に己に厳しく他人に優しく、自らの責任を正しく理解し、己の利害損得よりも社会的正義や善悪を優先する生き方」を大人が実践する事で、子どもは何を教わるでも無く、それこそ「放って置いても健全に育って行く」であろう事は想像に難く有りません。
        「そんな生き方は息が詰まりそうで出来ない」とか思ったとしたら、それはそういう「真っ当な生き方」をした経験が無いからです。それが証拠には、経験のある生き方ならどんなに卑劣で穢い生き方だって平気でやっている人たちが大勢いるではありませんか。それにもうひとつ言うなら、子ども時代にはみんな「真っ当な生き方」を目指していたという事実を思い出して頂きたいと思うのです。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:06 | comments(0) | - |
        子どもは放って置けば真っ直ぐ育つ?
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          日光を必要とする植物の多くが(特別な条件下で無い限り)天に向かって真っ直ぐに伸びて行くのと同様に、子どもも心身共に素質として真っ直ぐに育つように出来ているものです。にも関わらず、それが伸び悩んだり、屈折したりする事があったとすれば、それは健全な成長を妨げる何らかの要因が「外的に加えられている」と考えるのが妥当かと思われます。

          「外的要因」というのは即ち「子どもを取り巻く生育環境」であり、(家庭環境を含める)身近な社会環境を指しますが、その実体は「親を初めとする他の人間から受ける(与えられる)影響」ということです。これらが子どもの生育上の悪影響を及ぼさない限り、子どもは真っ直ぐに育つものだという認識は非常に重要だと思われます。何故ならそうする事によって「子育ての基準」が明らかとなり、同時に現在の子育て環境に於いて具体的に「必要なもの、不要なもの」の判断が瞬時に行われる事になるからです。

          ここで誤解の無いように申しておきますが、私は子どもの健全な心の成長の妨げとなる「子ども自身の(先天的)内的要因」が皆無だと言っている訳では有りません。そうではなく、子どもの成長過程で仮に幾ばくかの「自身の内的要因」というハードルがあったとしても、それ以上に新たな「外的悪影響」が加えられる事の無い環境で有りさえすれば、その解決は「はるかに容易なもの」であろうということです。つまりそれが心の成長に対して重大な障害を及ぼすことは本来無いものとして良いと思っています。

           

          次回に続きます。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:59 | comments(0) | - |
          調べ物をしていたら
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            今日は記事を書くためにちょっと調べたい事があって「受験戦争 歴史」というキーワードで検索していたら、とあるサイトに行き当たりました。覗いて見るとなかなか良いことが書かれている様に思われたので紹介させて頂こうかと思います。

            「mind-less 心を失いかけた時代への警鐘と提案」
            http://homepage3.nifty.com/act-prc/yoriyoi/2/mindless-top.html

            これは「カウンセリングルームアクト」が運営するサイトの一部として掲載されているものの様ですが、現代の心の問題を「論理的且つ真面目」に、しかも子どもから大人まで誰が読んでも読み易く解り易くするための配慮や工夫がされていて、とても好感が持てました。
            私自身、未だ熟読には至っておりませんが、(当然ながら)当ブログとの間に多少の主旨やノウハウの違いはあるとしても、これらの内容が(取り分け青少年の)心の問題を考える際の選択肢の一つである事は間違いないかと思われます。

            ※注)「カウンセリングルームアクト」自体は有料カウンセリングサービスとのことです。(念のため)
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:58 | comments(0) | - |
            新・教育基本法について その2
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              前回指摘させて頂いた、日本の教育の根幹とも言える(新)教育基本法の「体裁上のバランスの悪さ」から読み取れる事とは何か、ということですが、ここで改めて物事の「バランスが悪い」とはどういうことか整理して見たいと思います。
              バランスの良し悪しは直感的に感じる場合が殆どですが、多くは「違和感の有無」によって認識します。取り分け違和感を感じない場合は物事の整合性が取れている、即ちそれ自体の論理性に問題が無い事を意味する一方で、もし違和感を感じたとすれば、整合性が取れていない、即ち論理性に狂いや乱れが生じているか、または人為的、作為的に目的を持ってそう仕組まれているかの何れかとなります。

              例えば「人の顔」を例に取って見ると、この場合の「バランスが良い」とは目鼻立ちが整っているという意味では無く、温厚そうな顔つきに対して目だけが氷の様に冷たいとか、そういう「違和感を覚える様な要素が特に見当たらない」という事です。
              或いは、まだあどけない子どもから「人を探るような眼差し」を向けられたとすれば、やはり違和感を禁じ得ないでしょう。つまり「何、これ?」「あれ、どうして?」など、気になったり引っ掛かったりするのは「バランスが悪い」からに他ならず、私たちはそこに何らかの「不安材料」を見て取ることが出来る様に思います。

              無論この場で「教育基本法」に対して専門でもない学問的な分析や評価をするつもりは毛頭有りません。ただ、「バランス感覚」によって感じるという事にも「それなりの根拠が有り、意義がある」ということをご理解頂ければと思う次第です。
              ここでひとつだけ例を挙げるなら、「豊かな人間性」には当然の如く社会性、公共性、創造性、勤勉勤労精神、向上心などが含まれていますが、条文としてどうしても必要とするなら対(つい)の言葉としては「豊かな社会性」があれば十分なはずです。また「国」でなく「国家」という概念を持ち出すには(共通の理解を得るために)「どのような」という補足が伴っている必要があるはずです。
              そのような配慮が為されなかったのは「故意」によるものか、単に思いが至らなかったのか、何れにしても不思議です。

              因みに私は近年の教育現場の荒れ様は(旧)教育基本法が時代に合わなくなったせいだとは毛頭思っておりません。おそらく子どもたちが悪い大人たちの影響をもろに被っているからでしょう。
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:54 | comments(0) | - |
              新・教育基本法について
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                新・教育基本法(平成18年12月22日施行)
                http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/kakutei/06121913/06121913/001.pdf

                改正前後の教育基本法の比較
                http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/06121913/002.pdf

                忌憚なく感想?を述べさせて頂ければ、読み進めていくとあちらこちらで引っ掛かりが有り、何故かスムーズに行かない。
                随所に矛盾や重複が生じており、作為的な不均衡を禁じ得ないのは自分だけであろうか。(具体的にどこがどうと求められれば無論ご説明出来ますが。)
                何か大急ぎで策定された経緯でもあるのか、統一感とバランスに欠け、継ぎ接ぎだらけのイメージは拭えない。
                部分的に必要と思われる経験的実感が感じられず、机上のイメージの粋に留まっている箇所が有り、説得力に欠ける。
                深みを感じさせるための国語力が十分発揮されているとも思えず、その分やはり説得力不足は否めない。
                そして何よりも惜しむべきは、日本の教育の基本となる条文でありながら「格調の高さ」がほぼ感じられない事だ。これは単(ひとえ)にバランスの悪さによるものだと思う。不思議な事に条文の中で「伝統・文化の継承」を謳っていながら、「格調高き条文」という伝統すら継承していないのだ。「そんなことはどうでもいい」ということであれば、それは明らかな「伝統の軽視」であり「文化の劣化」だと思う。ちょっと恥ずかしい気持ちになりました。

                以上、今回はバランス芸(=音楽)を専門とする立場から、内容には踏み込まずに感想を言わせて頂きました。
                冒頭にリンクを貼っておきましたので、中身について関心をお持ちの方は是非ご覧になって、ご自身なりの感想をお持ち頂くのが良いかと思います。

                出典:文部科学省ホームページ http://www.mext.go.jp/
                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 13:26 | comments(0) | - |
                何故PTAの在り方をしつこく問うのか。
                0
                  それは時々の親の思想や意識が、間違いなく子に反映されるからです。つまり「子どもたちの今と将来」のために、親たちは常に「自らの今」について問い続けなければならないということです。増してPTAは親たちの「教育や社会に関する理解や考え方」が体現される場であって、そこで正しいとされる事間違っているとされる事は、そのまま子どもたちの「人間的、社会的価値観」に反映されて行く可能性が高いと見て良いと思います。

                  例えば「独善的且つ高圧的な運営」や「硬直化した伝統意識」「自己満足的且つ形式主義的な目標設定」「能力差や個人差を無視した平等意識」「潜在的な特権意識や差別意識」「本音と建前の存在」そして何より「非民主的手法の横行」等々・・・。
                  もし、PTAの実情としてこれらの内ひとつでも思い当たる節があったとすれば、卑しくも「子どもたちの健全な育成」に関わる組織としては大問題だと思います。何故ならPTA会員である親を通じて、その子どもたちも「それを良かれ」と思い込んでしまうからです。
                  この事は「豊かな人間社会を形成するための人材作り」という観点から見れば、明らかな損失です。私たちはそもそも「健全」とは何か、何を指しているのかを十分に理解する必要があると思います。

                  PTAの存在意義として「親と教師が共に学習する場」という事が最初に書かれています。不信を抱く方のため以下に根拠を掲げます。
                  読解しやすくするため「目的()」「目標()」「目標達成の手段・方法()」に色分けしました。

                  「父母と先生の会(PTA)は、児童生徒の健全な成長をはかることを目的とし、親と教師とが協力して、学校および家庭における教育に関し、理解を深め、その教育の振興につとめ、さらに、児童生徒の校外における生活の指導、地域における教育環境の改善、充実をはかるため会員相互の学習その他必要な活動を行う団体である。」(父母と先生のあり方について[昭和42.6.23社会教育審議会報告])

                  何を学習するのかという事については、それこそ先に羅列したような「PTAの問題点」を克服すべく「豊かな人間性」「豊かな社会性」を親と教師が学び、体現し、その精神を子に伝えて行くための全てというのが理想であろうと思います。
                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:43 | comments(0) | - |
                  不愉快なPTAなら無くて良い。
                  0
                    必要に応じて有志がその都度「特定の活動に対する実行委員会」を立ち上げ、参加者を募れば良いだけのこと・・・というのは極論ですが、有り得ない話とも言えません。ただその際「PTAなる母体」が既に在ればより便利ということでしょう。ともかく問題は企画や活動自体が「実情に添うものであるかか否か」ということだと思います。

                    実は昨日もこの時期恒例の「PTAの役員・委員選出」の現場に行ってきました。最初の方は順調でしたが、大詰めになると相変わらずの「重苦しい雰囲気」が漂い始めます。その際、立会いの現行会長と役員の方から「皆さんの子どもが本当に学校にお世話になっていることを思えば、ここは学校のために一肌脱ごう、手伝いたいという気持ちに自然となると思います。」という主旨の話や「今までの伝統を何としても守っていくためにはこれだけの人数が絶対に必要です!そうでないと縮小しなければならなくなってしまいます。」などの論調が示されましたが、私の様な人間はそこで「ん?」と思ってしまいます。

                    そもそも「義務教育」とは、国と保護者が「子どもという人格」に対して平等に教育を受けることの出来る環境を提供する「義務」を負っているという意味だとすると、その上「学校にお世話になっているから」という理由で「新たな義務」を負わせられるとすれば、これは明らかな負担になると思います。(子どもは教育を受ける権利を有し、国と親がそれを保障する。)それを思えば学校教育を国が行い、家庭教育を親が行うという基本的な並列関係であっても問題は無く、あたかも教育の全ては学校に集約される様な考え方の方が逆にバランスを欠くかも知れません。(PTAの後援会的性格はそういうことです。)
                    また、「伝統云々」となると、基本的に実情を無視することになり、無理矢理感や強引なイメージ、強制力を避ける事は出来ません。どうしてもと言うなら、事前に「伝統保持に対する合意」また、それ以前に当該PTAの主旨を理解した上での「任意加入」が条件でなければ「活動を義務として強要」することは出来ません。(つまり、実情を踏まえた上で伝統を維持出来なければ縮小または撤廃するというのが正解になります。)

                    以下にPTAのあるべき姿をイメージする上で参考となるリンク先を貼っておきますので、関心のある方はどうぞ。国としてもPTAの「強制加入的イメージ」や「後援会的性格」は好ましくないことを明言していることが理解出来ると思います。また同時にPTAは第一義的には「学び(=学習)の場」であることも明言しています。但し「学び(=ボランティア活動)」という拡大解釈が横行している現状は否めませんが。

                    素晴らしい、PTAハンドブック・規約などのページ
                    http://www.think-pta.com/PTA_kiyaku/kiyaku_nice.html
                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:46 | comments(0) | - |
                    「知らない人には無関心」の根拠
                    0

                      文部科学省が小学校を通じて低学年向けに配布している「くいずでまなぼう!たいせつないのちとあんぜん」というマンガ形式の指導教材を先ごろ入手しました。これは「3つのおやくそく」からなっていて、「こうつうあんぜんのおやくそく」と「ぼうさいのおやくそく」はなるほど尤もと思うものの「ぼうはんのおやくそく」に関してはちょっと残念な気持ちにさせられます。

                      というのは、「知らない人=こわい、危険」一色の指導内容となっていて、子どもたちにとって「不利益以外の何物でもない」という認識を強く求められる結果となっているからです。その背景には昨今の痛ましい事件や事故があることは言うまでも有りませんが、このように幼い頃から「知らない人(=他人)とは関わらないのが一番」という意識を徹底的に植え付けられた子どもたちが、大人になって行く過程のいったいどの時点で「知らない人とのより良い関わり方」を教わり、身に付け、その有益性に気付くことが出来る様になるのでしょうか?そこまでの展望を持った上での指導、教育であるか否かが気になるところです。

                       

                      私が小学生だった頃にちょうど全国的に「小さな親切運動」というものが展開されていて、それこそ相手が知らない人でも困っていたら積極的に声を掛けて「出来る範囲で手助けしよう」という気持ちが推奨され尊ばれていたものでした。その背景には「一日一善」という考え方があったようです。つまり仲間内で相手に喜ばれる事をしても、それは当然見返り(=利益)を受ける事として純粋に「善行」とは言えず、むしろ見ず知らずの人に対する思いやりや親切行為こそが見返りを求めない尊い気持ちと言う発想であったかも知れません。

                       

                      翻って思うに、近年の「社会性」というものはよく考えると「グループや仲間内(=閉鎖社会)」の中で如何にうまくやって行くかというものでしかなく、その場合の「みんな」というのは「仲間内」という意味でしかないのかも知れません。

                      つまり「閉鎖社会」の寄り集まり=社会と皆が思っているとしたら、このように息の詰まりそうな閉塞間もなるほど頷けます。

                      もう一度確認したいと思いますが、「安全とは他と関わらないことで確保すべきもの」であり、「危険とは他を攻撃することで排除すべきもの」という考え方でよろしいのでしょうか?

                      因みに私は全く逆だと思っています。

                       

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:08 | comments(0) | - |
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