例えば人間にとって本当の意味で「真実」と認識出来るのは、自分が実際に経験した事や自分の目で見た事、自分の耳で聞いた事以外には有り得ないはずです。そして(贅沢を言わなければ)実際にそのような「経験智」のみで生きて行く事だって可能な訳です。その中にはもちろん他人が意図的に「経験させたり見せたり聞かせたり」したものも含まれるでしょうが、本人が「五感で実証済み」という意味に於いて「真実」との認識に至ることに違いは無いでしょう。
それはそれで良いとして、ここでの問題は、おそらく現代人の知識の大部分を占めているであろう「本人が実際に見聞き出来ない事柄」にあるのではないかと思われます。例えば科学然り、歴史然り、地理然り、国際情勢然り・・・つまり学者や専門家等、限られた人たちしか見聞出来ない上に解釈や見解が分かれる様な性質の事柄について、私たちはそれが「真実」であると認識する術を持ち合わせていないと言うのが本当のところでしょう。しかし実際には「そう信じなさい」「そう思いなさい」という働きかけの力がどこからか加えられる事に依って私たちがそういった事柄を「事実」または「真実」と認識しているのだとすれば、(そこに悪意があろうと無かろうと)「教育=マインドコントロール」と言っても過言ではないと思われます。
例えば「アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン」は「奴隷解放の父」としてたいへん有名ですが、その一方で「先住民のインディアンに対しては終始徹底排除の方針を採り続け大量虐殺を指揮した人物」であった事は余り知られていませんが、どちらも史実として疑う余地は有りません。一般的には後者の情報が欠落しているしている事が多い訳ですが、その理由は明らかで意図的なものです。このように教育する側の意図によって手心が加えられた教育はすべて「マインドコントロール」となり、私たちの周辺ではごく在り来たりの事と言えます。
では「マインドコントロール」の介在しない教育というものが、果たして存在し得るのでしょうか?
答えは「イエス」です。
例えば乳児期や幼児期の幼い子どもの反応や行動を見る限り、人間性というものは決して「後天的な教育」によって擦り込まれて行く様な性質のものでは無く、むしろ先天的に備わっているものと理解した方がはるかに合理的であると、私には思えてなりません。
もしそれを前提とするなら、「子どもの教育」というものは「子どもの有する人間性に基づくところの総合的な人間力の成長を手助けする行為」と定義する事が出来るように思います。
つまり子ども自身の「人間性と主体性」を尊重し、「自然な形での成長」を基本として足らざる部分を補うという事ですが、子どもの「足らざる部分」というのは具体的には「子ども故の視界、視野の狭さ」のことであって、それとても心身の成長に伴ってやがて本人が自然に獲得出来る範疇のもので充分だと思います。何故なら子どもの「個性」を尊重し損ねない様にしようと思うなら、当然そうなるからです。
「そんな生ぬるい事では子どもの能力を最大限引き出せない」という懸念を持たれるかも知れませんが、私は逆だと思っています。何故なら「人間性」と「向上心」は常にセットのものであって、「人間性が十分に働いてこそ持てる力がフルに発揮される」というのが物の道理であるからです。もしそういう実感が乏しいとしたら、それはそのような体験が充分でないからかも知れません。
くどい様ですが、教育とは「子どもが自然に伸びようとしている行く手の露払い」が目的であって、間違っても「社会や他人の都合の良い形に好き勝手に子どもを矯正すること」では有りません。
それが「人間性豊かな人間による人間性豊かな社会」を実現する唯一の方法だと確信しています。