青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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当ブログの近況報告
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    2015年5月も最終日になりました。今年は色々と波乱含みの年になりそうとの話も各方面から聞こえて来るようですが、そんな世情に生きる上での一助となればという気持ちで、昨年9月より当ブログによる活動を開始させて頂きました。(完全ボランティアです。)

    開設後しばらくは一日15〜20アクセスほどで推移しておりました。(それでもとても有り難い数字に思われました。)今年に入ってからは20〜25アクセスというペースでほぼ安定しておりましたが、ここにきて25〜50超と、コンスタントな推移とは少し別の要素が加わっているように思います。理由は(たぶん)検索サイトよりのアクセスの増加だと思います。従来ですと月に10件ほどだった検索によるアクセスが5月では30件を超えています。検索語句の内容も多様なものが見られるようになりました。(やはり何らかの世情を反映しているものと考えています。)

     

    ところで現在、青少年に向けた記事がちょうど100件、大人に向けた記事が94件と、どちらも100件を目安として回を重ねてまいりました。その意味では、あと6件で目標を達成することとなりますが、その後のことは正直あまり考えていません。自分としては丹精を込めた総数200件の記事はライブラリーとして必要充分な気もする反面、ニーズというものは正に生き物であって、リアルタイムでなければ意味が無い様にも思えます。

    もしかすると、新たな目標や方向性が必要となるかも知れないと、今は漠然と思っています。ということで、これまでのご支援をありがとうございます。今後ともよろしくお願い申し上げます。(何らかのフィードバックがあると嬉しいです。)

    | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 10:47 | comments(0) | - |
    子どもはエゴで生意気か?
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      だから子どもは苦手(嫌い?)という話が無い訳でも有りませんし、感情的になったり、折檻したりする親の「言う事を聞かないから」という気持ちの中には、そういった認識があるのかも知れません。
      しかし、子どもの心の本当のところは全くその逆で、自己中心的な要素は殆ど無いか、仮にあっても大人の半分にも至らないでしょう。

      では何故、大人の中には子どもに対してそのように感じる人がいるのでしょう。
      それは当然の事なのですが、子どもが生まれてから日が浅い事に起因する「世界観(=視野)の狭さ」によるもので、大人のようにひとつの物事に多くの選択肢を持ちえず、情報収集能力も未発達で、いわゆる「顔色を窺う、空気を読む」などの能力が極めて低く、結果として大人の目から見れば、他者に対する配慮が無い、分をわきまえない、気ままで気まぐれ、即ち「自己中心的」と見なされてしまう訳です。
      そもそも、そんな大人たちの了見が狭過ぎる様に私には思えます。

      しかしこの時期の子どもたちは、それに代わる圧倒的なパワーと能力を備えています。それは「純粋な向上心」に裏付けされた「素直さと吸収力」です。これはどの子どもも等しく持っているものですが、その意味するところは一体何でしょうか。
      それはこの時期、大人が「良い見本」となって子どもたちに示し、折に触れて「適切な助言」を行うならば、子どもたちはそれこそ圧倒的なスピードで「進歩向上」を果たし、たちまちの内に「社会人としての必要充分条件を達成」出来るということです。

      つまり全ては「大人次第」なのだと、改めて申し上げたいと思います。
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 18:08 | comments(0) | - |
      「共認」という言葉について
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        近年、ネット上で時折見掛けるようになったこの「共認」という言葉は、まだ辞書には載っていない様なので、新語だと思いますが、意味は文字通り「共に認め合うこと」との事です。
        使われ方としては「私権から共認へ」など、「私権」に対する対語と考えて良いのかと思われます。おそらく私権の獲得そのものが人生の目的と当り前の如く考えられて(=考えさせられて)きたことによる「社会の形骸化」や「人心の荒廃」にほとほと嫌気が差したとして、そのような社会通念に反旗を翻すという意味での(文字通り)旗印としての言葉とも受け取れます。

        これまでも「共有、共感、共通、共存、共栄、共立、共同、共済」など、思い付くだけでも多様な言葉が有りましたが、この「共認」という言葉には、どこかしら「丸ごと認める、受け入れる」的なニュアンスを感じます。というより、今後そのような方向性で展開して行ってもらえると良いなと思います。
        何故なら、国、地域、人と全てそうなのですが、向かい合うそれぞれの文化的、歴史的背景には、互いに異質で相容れない要素が常に存在するものと見た方が良く、従来は力の強い者に弱い方が服する形で「共存」が成り立っていたのかも知れませんが、「共認」の概念としては「私権」自体を誤りの元と考える訳ですから、であれば、まずは社会のパートナーとして「丸ごと受け入れる」という気持ちと覚悟が最も重要であると思います。(そうでなければわざわざ「共認」という言葉を編み出した意味が有りません。)

        確認となりますが「強い力」というものは、社会に於いては本来「私権を獲得するため」のものではなく、「大きく役に立つ」という意味のもので、それが自分自身に対する「誇り」と、社会の中での「安心」に見返って行くのものだと思います。何故なら、その人は自ずとみんなに大事にされることになるからです。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:21 | comments(0) | - |
        経済(お金)最優先社会を考え直して見る。
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          プロフィールにある通り、私は音楽家であって経済の専門家では有りませんので、経済用語すら良く知りません。また、当ブログに於ける殆ど全ての記事は、永年の自らの経験智や体験智の積み重ねに基づくところの確信を「自分の言葉」として、自らの責任の下に述べさせて頂いているに過ぎません。(逆に誰かの受け売りや書物や何かの聞きかじりで知ったかぶりをするほど自分を苦める事はないと思っています。)

          しかし、後になって「自分と共有出来る考え方」や「共感出来るものの見方」を、ネット上で発見したりする事は、このところ多くなった様に思え、少し勇気付けられたりします。いくら自分は「孤軍奮闘」で構わないと言っても、仲間意識は持てるに越した事は有りません。

          そんな折、私たちを取り巻く経済の実情を知るのにちょうどいいと思われるサイトを発見しました。このサイトを作っている方は、多分経済の専門家の方だと思いますが、おそらく素人でも理解出来る様にとの工夫をしてくれているのでしょう。膨大な量の記述で色々な謎や疑問に丁寧に応えてくれています。(但しキワドい話に関しては必ずしも鵜呑みにせず、読み手側で保留にしておいて良いかと思います。)以下のサイトです。

          金貸しは、国家を相手に金を貸す」 → http://www.kanekashi.com/blog/2012/01/001803.html

          ともかくも、真っ当な気持ちで生きる者が「おかしい」と思う事は、大体当たっているものです。次世代を担う子どもたちのためにも、そういう気持ちを大事にして行きたいと思います。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:52 | comments(0) | - |
          実は人生に於ける選択肢は2つしか有りません。
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            それは「善意」か「悪意」かの何れかです。そのように言われると「ああ、宗教の話か・・・」と思われるかも知れませんが、そうではなく、社会に於ける人間の発想の原点は、常に「みんなで良くなろう」と「自分さえ良ければいい」の2つにひとつだと言う事です。

            ここでおさらいしておくと、「自分さえ良ければいい」とは言い換えると「他人はどうなっても(=死んでも)いい」或いはもっと言えば「競争相手は少ない(=死ぬ)に越したことはない」ということにしかならず、それでは聞こえが悪いとして如何に体裁を取り繕うともそれが真実です。そしてそれは(平素、意識しようがしまいが)他者に対する明確な「悪意」と認めざるを得ません。

            ところで私が物心ついた頃の日本は既に高度経済成長期に差し掛かっており、物を大量生産して大量消費することが「輝かしい未来」を約束してくれるものと、誰もが当り前の様に信じて疑う余地のないものとされていました。少なくとも「これは良くない」という話は、どこからも聞こえて来なかった様に思います。当然です。給料が増え、物が増えて生活がどんどん良くなっていったのですから。(もちろん子どもには朝鮮戦争特需が日本に好景気をもたらしたなど、知る由も有りません)

            しかし、これはある意味でのマインドコントロールの成果とも見て取れます。何故ならそのような好景気がどのようにしてもたらされるのかという事には殆ど関心を払われず、ただ結果だけを享受すれば良いという風潮であったからです。
            例えば「大量消費は良いこと」とされても、本当の意味で正しいのは「必要量の消費」であって、この時点で既に私たちは「何が必要で何が必要ではないのか」或いは「何が妥当で何が妥当でないのか」という真っ当な価値判断を否定されてしまっています。

            このことは後に「環境破壊、環境汚染、公害問題」などによって、私たち国民の「生きる権利」すら脅かされていた事に気付かされる事態へと発展しますが、その時点で同時に「果たして誰のための経済成長だったのか(少なくとも国民のためでは無いよね)」という疑問を持つべきでしょうが、結局「考えが足りなかった、何かの間違いだった、これから気を付けよう」的な話となり、その結果として未だに「消費経済は正しい」というマインドコントロールは有効です。

            これは少し冷静に考えれば解る事ですが、国も大企業も等しく学問や見識、技術力に於いて最高水準の人材を取り揃えている訳ですから、操業時に於ける科学的、技術的結果に対する予測能力は充分過ぎるほど有しているはずです。即ち「過失」と呼ぶには余りに無理が有り、根底に「故意による人権軽視」があるとするなら、それは一握りの人たちのための経済成長、言い換えれば「悪意による経済成長」だった事が解ります。

            実は過去から現在に至るまで、こうした自由主義(=私利私欲)の下での市場経済の先行きに対して警鐘を鳴らし、反論を唱える経済学者は多数存在しますが、私たちがそのような存在に気が付き、その主張に耳を傾けるような環境や機会は殆ど有りません。つまりそうしたものがタレ流されているような事は決して無いので、知りたければ自ら進んで掘り起こす必要が有りますが、最近ではネットのおかげでコンテンツとして散見されるようになり、それだけでだいぶ楽になっています。
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:19 | comments(0) | - |
            教育の目的は「高い人格」を得ることです。
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              これは改悪?後の教育基本法ですら「人格の完成を目指し」としっかりと書かれていますので、誰はばかる事なくそう言うことが出来ます。そしてそこでは自ずと(条文にあろうとなかろうと)「真理と正義を愛する心」が醸成される事となり、それを以って社会に参加することで「良いものは良い、変なものは変」とみんなが声を上げて行動することによって、そこでしっかりと物事の再認識が行われた結果、社会全体が確信を持ってより良い方向にまい進して行くことが出来るようになるのだと思います。
              何と、戦後間もない日本の有識者の方たちは、戦争の教訓を経てこのような理想に近い形の「教育のあるべき姿」に日本の未来を託したという訳です。にも関わらずそれを充分に生かすことが出来ずに人心を荒廃させてしまったのは、この方たちのせいではないと思います。しかも「戦後70年近く経ってそろそろ時代や国際情勢に合わなくなってきた」という理由で、色々と書き換えようとの動きが有りますが、「荒廃した人心や地に落ちた国家としての品格」に合わせて書き換えるなんてまっぴらです。そんなことをすれば、立て直そう、元に戻そうとした時の指針そのものが失われてしまうでは有りませんか。

              因みに、新旧共に「教育基本法」は「競争力や競争原理」などの概念には一切触れられていません。従って日本国の教育として推奨も提唱もされておらず、良くも悪くも自己責任ということなのでしょうか?それにしてはまるで当り前の様に多くの人たちが競争心に駆り立てられているように見えますが、だとすれば、それは自由主義的経済中心の社会によってもたらされた、ある種の教育の変質と言えるのかも知れませんので要注意です。(何故ならそこには時折人格無視の傾向が垣間見えるからです。)

              ※改訂後の教育基本法では「真理」と「正義」についての記述はあるものの、以前のような教育の目的という位置付けではなく、目的から見ると下位に当たる教育の目標とされています。しかもその記述からは気高さや誇らしさは殆ど感じられません。(記述者自身の理解度の問題だと思いますが)
              ご覧になりたい方はコチラ→ http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/06121913/002.pdf
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:01 | comments(0) | - |
              「真理と正義」について
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                前回、旧教育基本法に於いて「国家による教育の目的が人格形成」であり、その根幹を為すものとして謳われていた「真理と正義を愛する」という文言が新法の下では(都合が悪いとして?)削除された件について触れました。確かに経済活動のうち現在主流と成りつつある「新自由主義(=グローバル化)」には「私利私欲を否定するものではない」という側面がある事が事実だとすれば、それは「真理と正義」などという概念とは明らかに矛盾します。そうなると、市場経済最優先の国の政策にとって都合の悪い「真理と正義」を教育の概念(目的)から消してしまおうと考えたとしても、何ら不思議ではありませんね。

                ところでみなさん、このような話、どこかおかしいと思いませんか?
                そもそもは「その場に人が二人以上いれば社会が形成される」という物の道理からスタートしているのです。そこでまず最初に考えなければならない事は「必要に応じた私利私欲のコントロール」ではないでしょうか?そしてコントロールの基準とされるのが「真理と正義」と言えるのだと思います。
                何故なら、真理とは「あらゆる物事の因果関係」を指し、正義とは「常に最良の結果を追求する心」だからです。つまり真理を学ぶことに依って「何をどうすればどうなるか」が解り、正義を知ることに依って「全てを良くするには何をどうすべきか」が解るという事ですから、それこそまさしく「健全なる社会の原点」ともいうべきもので、どう考えても他に選択肢は無いはずです。

                例えば、真理の一環としての「何をされたら人は怒り悲しみ、どうされれば人は喜び勇む」とか「どうすれば自然を育み、どうすれば自然を破壊するか」といった物の道理を良くわきまえた上で、「全ての人が平等公平感のもと納得出来る質と量の生産物を、自然を損なわずして且つ永続的に取得出来る様にするためにはどうすれば良いか」を考え行うことが正義だと思いますし、歴史的にも万人が認めてきた社会のあるべき姿だと言って過言では有りません。そして「教育」とは(仮に建前であったとしても)そのためにこそ必要不可欠とされてきたという経緯があるのです。国語、算数、理科、社会・・・みな(本来は受験のためでなく)真理探究のためであり、真理の探求は(実は)「正義の追求」のためだったのです。

                「全てに良い」とか「みんなで良くなる」は、「自分だけ良くなる」の100倍大変かも知れませんが、歴史的にも心ある人たちはその事を決して諦めたりしてきませんでした。何故ならその人たちは「真理(物の道理)」を理解しているからです。
                社会に於いて「自分だけ良くなろう」とすれば、それは論理的に「権力による支配構造(=支配者と隷属者の関係)」しか在り得ず、しかも権力(=支配者)の並立は在り得ず、そこでまず潰し合いによって一人に絞られたところで、最後は実質的な養い元の「隷属者」たちに見限られて終わります。
                しかも周りは常に敵だらけで誰も信じることが出来ず、それでは気の休まる暇なんてあろうはずも有りません。真の開放感の無いまるで奴隷のような生活です。(美味いものが食えて好きなおもちゃで遊べる以外は。)まったく何が楽しいのか理解不能です。

                ということで、健全な教育こそが健全な政治を生みなし、健全な政治の下で健全な経済活動が行われるというのが物の順序です。
                故に、経済活動の圧力で政治が動かされ、政治の圧力で教育を歪められるという事はまさしく本末転倒であり、健全で有り様はずもなく、本来絶対にあってはならないことなのです。
                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:10 | comments(0) | - |
                「人格」が問題にされない社会?
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                  教育基本法の第一章第一条には、教育の目的として「教育は、人格の完成を目指し、」と書かれています。但し現在の条文では、旧教育基本法に記述されていた「国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」という謂わば「人格」という言葉の具体的部分が省略され、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」とあるように、「資質」という言葉のみに置き換えられています。しかしこれでは「人格」という中身として何を求められているのか誰にも判りません。これは明らかに故意に判らなくしていると思われます。その理由は「判られると都合が悪いから」としか考えられません。

                  翻って現在の社会に於いて国民がその「人格」を問題にされる事は、ほぼ有りません。考えて見るとそれ自体がおかしな事です。何故なら「教育基本法」の冒頭で謳われているほど(全国民にとって)不可欠な事とされているにも関わらず、社会の如何なるシーンに於いても、それについて問われる事も語られることも無いからです。(まるでどうでも良いことのような扱いです。)
                  まず政治家は国民の代表であり、少なからずリーダーシップを発揮すべき立場であるにも関わらず、その人格を問題にされることは有りません。つまり国の中枢ともいうべき公の司法、立法、行政に携わる人たちに於いてさえ、「人格による適正の是非」を問われる事すら無いという事ですから、まして民間である金融、経済のトップクラスの人たちが「人格」という基準で評価される事など有り得ません。これは一体どういうことでしょうか?このような国の帰趨(きすう)に関わる人たちにあっては、全員が一定の「人格者」であるという前提でもあるのでしょうか?それともまさか「仕事さえ出来れば人格なんてこの際どうでもいい」ということなのでしょうか?私は後者が答えだと思います。

                  つまりこういうことです。「教育基本法」に於いては一般論として「人格形成が出来なければろくな大人になれませんよ。であれば当然社会にとって有益な人間になれませんよ。」と言っていますが、それはあくまでも「その他大勢」の人たちに向けられたものであって、取り分け政治や経済、即ち「権力」に深く関わろうとする一握りの人たちにとっては、それは初めから「何の関係もないこと」とされて来たに違い有りません。いつの時代からかは定かで有りませんが、日本に於いては少なくとも近代から現代にかけてはそれが色濃く現れているようです。(逆に私利私欲が旺盛でないと市場経済は成り立たないはずです。)
                  しかし本当に「権力者たちの責務遂行」にとって「人格」は無用の長物なのでしょうか?

                  そんな訳はありません。それでは悪い冗談にもなりません。つまり人間である限りどのような地位であれ、どのような立場であれ、社会的責務遂行に際して一定の人格は必要です。ですから「教育基本法」、それも人格を具体的に定義した「旧教育基本法」がより正しいと私は思います。
                  では現社会が何故「人格不在」ともいえる状態で成立しているのでしょうか?いえ、成立なんかしていません。少なくとも本来在るべき姿(=理想)と大きくかけ離れた社会を「成立」と見なすべきではないと私は思っています。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:04 | comments(0) | - |
                  「価値観の共有」について
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                    先のブログで「一人ひとり価値観が違っていて良い」と書きました。でも不思議に思いませんでしたか?「社会というものは常にみんなで力を合わせて良くして行くもののはずなのに、価値観がバラバラでやっていけるの?」という素朴な疑問です。では現実はどうでしょう。

                    例えば「男子と女子」では価値観(好きなもの、やりたいことなど)が全然違っていたりしますが、だからといって「一緒に何かをする」ということが全くできないとは普通考えません。増して「価値観が違うから嫌いだ」とはなりませんし、むしろその逆で「だから好き」になったりもします。(そんな経験有りませんか?)

                    つまり「価値観が同じ」ということは、お互いに「競い合う」ことができるという意味を持ち、反対に「価値観が違う」ということは、足りないところをお互いに「補(おぎな)い合う」ことができるという意味を成していて、どちらも大切な関係であることに変わりは有りません。

                    特に「価値観が違う」という理由で「関わることや理解すること」を面倒くさがって敬遠したりしていると、だんだん自分自身が偏(かたよ)った考え方しかできなくなったり、バランスの良くない感性しか持てなくなったりと、かえって社会の中で自分が生きにくくなっていったりしますので、やはり価値観の違いによらず、どんな人とでも関われるようにした方が良いでしょう。

                    ところで人間が(例えば)100個の価値観を持っていたとして、その内の99個はお互いに違っていても、ひとつだけ「同じ価値観の方が良い」と思われるものがあります。それは「みんなで良くなろう」というものです。これが同じでありさえすれば極端(きょくたん)な話、あとの全てが「てんでバラバラ」であってもその関係はきっとうまく行きます。(もちろん多少の努力は必要ですが。)

                    とにかく色々違って当り前、むしろ「色々な違いを楽しもう」という気持ちがあれば、社会生活がより楽しくなります。
                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 12:07 | comments(0) | - |
                    「カッコいい」とはどういうこと? その2
                    0

                      「カッコいい」とは「自分が大きな価値を感じている部分に対して高い能力を示すこと」だと思います。それが他人や物であれば「憧(あこが)れ」を感じるでしょうし、自分がそうであれば「自己満足」の要因となり得るでしょう。

                      ここでは一般的に「らしさ」というのがひとつの目安になりそうです。例えば漠然と「男らしい」「女らしい」という場合、それぞれに男性、または女性として必要とされるもの(=素質、能力)を充分満たしているという意味で用いられますが、それは言い換えれば男としてカッコいい、女としてカッコいいということだと思います。更に「らしさ」を突き抜けて一段と高い評価を受けた場合の「サイコー」も最高にカッコいいという意味で、「素質、能力がズバ抜けている」ことを示しています。

                      しかし、そうなると生まれつき素質に恵まれた人たちや能力が高めの人たちだけが「カッコよく」なれて、あとの人たちはそれを羨(うらや)ましがりながら「カッコわるく」生きていくしかないということになります。本当にそういうものなのでしょうか?

                       

                      実は一口に「カッコいい」と言っても、何に対してそう思うかは人によって全然違いますし、違っていて良いのだということです。

                      例えばメカ好きの人から見れば究極のメカとも言える最新鋭のジェット戦闘機も戦車も原子力空母も「カッコいい」と感じたりしますが、メカに全く興味が無く、戦争はイヤだという人にとっては「どこがカッコいいのかさっぱりわからない」ということです。

                      また、一般的にスポーツに関心を持つのは良いこととされていても、やはり運動が苦手でスポーツに余り興味のない人にとっては、たとえオリンピック選手であっても(仮にすごい事とは思えても)「カッコいい」とは思えず、憧れの対象とはなりません。

                      このように「カッコよさ」は一人ひとりの持つ価値観ごとに違っていて当然で、逆に世の中には色々な価値観がないと困るのです。何故ならみんながケーキ屋さん(=パティシエ)になりたがったら他の仕事をしてくれる人がいなくなってしまうでしょう。

                      つまり人間一人ひとり目指すものが違うということは、すでに一人ひとりの価値観が違っていて、それによって多様で便利な社会が作られて行くわけですから、その部分を無理に共有しようと思う必要は全く有りません。(そんなことをするから他人と比べて落ち込む人が出てきたりするのです。)

                       

                      さて、ところで当初の目的である「他人に認めてもらいたいのでカッコよくなりたい」ということですが、そもそも価値観が人それぞれに違っていて良いということになれば、結局「カッコいいの悪いの」とは、他人と比べたり競争したりしてどうこうするものではないということです。仮に「カッコよさ」を他人と競い合って満足したり落ち込んだりしていることがあるとすれば、それは「カッコよくなるため」ではなくて、単純に「勝負で勝ちたい」だけのことであって「目的」が違っています。あくまで「カッコいい」とは個性としての魅力を発揮することであって、他人と同じ土俵で勝負することではありません。

                      前にも言った通り、社会(=人)は様々な個性を必要としています。それは言うなれば若者には若者の良さ、年寄りには年寄りの良さ、スポーツマンの良さ、勉強家の良さ、活発な良さ、落ち着いた良さ、大ざっぱな良さ、細かな良さ・・・とにかくそれぞれに「カッコよさ」があります。肝心なことは、今の自分に一番合った良さを見つけて思う存分発揮することではないでしょうか。(くれぐれも流行に心を奪われないように。)

                      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 11:45 | comments(0) | - |
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