前回、旧教育基本法に於いて「国家による教育の目的が人格形成」であり、その根幹を為すものとして謳われていた「真理と正義を愛する」という文言が新法の下では(都合が悪いとして?)削除された件について触れました。確かに経済活動のうち
現在主流と成りつつある「新自由主義(=グローバル化)」には「私利私欲を否定するものではない」という側面がある事が事実だとすれば、それは「真理と正義」などという概念とは明らかに矛盾します。そうなると、
市場経済最優先の国の政策にとって都合の悪い「真理と正義」を教育の概念(目的)から消してしまおうと考えたとしても、何ら不思議ではありませんね。
ところでみなさん、このような話、どこかおかしいと思いませんか?
そもそもは「その場に人が二人以上いれば社会が形成される」という
物の道理からスタートしているのです。そこでまず最初に考えなければならない事は「必要に応じた
私利私欲のコントロール」ではないでしょうか?そしてコントロールの基準とされるのが「真理と正義」と言えるのだと思います。
何故なら、真理とは「あらゆる物事の因果関係」を指し、正義とは「常に最良の結果を追求する心」だからです。つまり真理を学ぶことに依って「何をどうすればどうなるか」が解り、正義を知ることに依って「全てを良くするには何をどうすべきか」が解るという事ですから、それこそまさしく「健全なる社会の原点」ともいうべきもので、どう考えても他に選択肢は無いはずです。
例えば、真理の一環としての「何をされたら人は怒り悲しみ、どうされれば人は喜び勇む」とか「どうすれば自然を育み、どうすれば自然を破壊するか」といった物の道理を良くわきまえた上で、「全ての人が平等公平感のもと納得出来る質と量の生産物を、自然を損なわずして且つ永続的に取得出来る様にするためにはどうすれば良いか」を考え行うことが正義だと思いますし、歴史的にも万人が認めてきた社会のあるべき姿だと言って過言では有りません。そして「教育」とは(仮に建前であったとしても)
そのためにこそ必要不可欠とされてきたという経緯があるのです。国語、算数、理科、社会・・・みな(本来は受験のためでなく)真理探究のためであり、真理の探求は(実は)「正義の追求」のためだったのです。
「全てに良い」とか「みんなで良くなる」は、「自分だけ良くなる」の100倍大変かも知れませんが、歴史的にも心ある人たちはその事を決して諦めたりしてきませんでした。何故ならその人たちは「真理(物の道理)」を理解しているからです。
社会に於いて「自分だけ良くなろう」とすれば、それは論理的に「権力による支配構造(=支配者と隷属者の関係)」しか在り得ず、しかも権力(=支配者)の並立は在り得ず、そこでまず潰し合いによって一人に絞られたところで、最後は実質的な養い元の「隷属者」たちに見限られて終わります。
しかも周りは常に敵だらけで誰も信じることが出来ず、それでは気の休まる暇なんてあろうはずも有りません。真の開放感の無いまるで
奴隷のような生活です。(美味いものが食えて好きなおもちゃで遊べる以外は。)まったく何が楽しいのか理解不能です。
ということで、健全な教育こそが健全な政治を生みなし、健全な政治の下で健全な経済活動が行われるというのが物の順序です。
故に、
経済活動の圧力で政治が動かされ、政治の圧力で教育を歪められるという事はまさしく本末転倒であり、健全で有り様はずもなく、本来絶対にあってはならないことなのです。