青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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新国立競技場にまつわる話
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    本来なら「青少年育成」に直接関わる問題とまで言えない事かも知れませんが、教育政策の根幹を為す「文部科学省」が大きく関わっているということで、敢えて取り上げさせて頂きます。

    これは、はっきり言って滅茶苦茶と言って良いでしょう。(詳細は比較的信頼のおけるメディア報道かネット情報にてご確認下さい。)
    特に現在の(混乱した)状況に至るまでの経緯についての詳細な情報が公表されていないので、(というかそれ自体が問題だと思いますが)責任の所在すら特定出来ませんが、もし「文部科学省」主導によるものだとすれば、「無能で愚か」としか言いようが無く、またそうではなく、国、政府、企業体、有識者、その他何らかの力に引きずられた結果だとすれば、これまた如何にも情けなく頼り甲斐のかけらも感じられず、どちらにしても「信用するに足りない」存在と言わざるを得ません。

    特に2520億円+α(従来の5倍以上)という破格の工費の裏に、公共事業の利権(=私的金儲け)に群がる存在の恣意的な意図を感じざるを得ません。何故なら街頭インタビューなどを通じて、国民の誰もが望んでいないのが明らかだからです。そのお金を「復興」に当てて欲しいという声も上がっています。(聞く耳が無いのでしょうか?)

    更に「500億円を東京都に負担して欲しい」とする下村文科相の提案も、法的根拠に乏しく、筋違いである事がほぼ判明しています。何故なら「地方自治体が国に寄付することは(地方財政法で)禁じられている」からで、都知事が慎重姿勢なのは、もし納得出来ないとする都民から「住民監査請求」を受ける事態となれば、そこで全てがストップしてしまう懸念があるからで、現時点での都知事の判断は正しいと言えるでしょう。こうなると「そこまでして現状の設計案にこだわるのは一体何故なのか?」ますます疑わしく思えると同時に、東京都に対して「無作法」な提案を持ち掛ける「文科省」のレベル自体に不安を覚えずにはいられません。(知る人ぞ知る「江戸しぐさ」の問題も有りますし・・・)

    ということで現時点では「(改悪された)教育基本法」「危うげな文科省」と、子どもを取り巻く環境は予断を許さない状況と思われます。しかし、そのような中にあっても子どもを守り育てるのは親の勤めです。
    そこで私が思うのは、やはり「子どもたちの健全な成長」のためには「健全な社会」が欠かせない、健全な社会のためには「健全な政治」による「健全な政策」が欠かせないということです。
    ところで「健全」という言葉は、単なる美辞麗句では有りません。本来は「実在する確かなもの」なのです。ここで今一度「健全」とは何なのかをみんなでしっかりとイメージして、(希少価値ではなく)当り前のものとして行けたら良いと思っています。
     
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:27 | comments(0) | - |
    「宗教 心の拠り所」というキーワード(2)
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      ブログタイトルが「青少年の何でも書き込み寺」となっているので、「何でも」お応えしなければ「看板に偽り有り」となってしまうので、鋭意努力致しております。結果、前回に引き続き「宗教」のお話です。

      さて、「宗教」が人々を「信仰(=救済)」に導くために「人の作ったシステム」だとすると、当然「運営」のための「仕組み(=組織)」が必要とされます。ところが、そこに問題が生じます。それは何かと言えば、まず「運営のための資金」が必要となることです。教団(=宗教団体)として大きいことは良いことかも知れませんが、そうなると自ずと社会的に認知されることとなり、大きさに見合った施設や社会的体裁を整える必要が生まれ、それをも含めた「かなりの額の運営資金」が事実上必要となります。こうなると(営利目的の有無に関わらず)一定の「経営理念」が無いと立ち行かなくなるのは必定で、従来は「献金(=心付け)」であったはずの信者の負担は、教団の維持、運営費用として一定額の徴収(=義務)という意味合いに変更を余儀なくされるでしょう。更に「宗教法人」であれば組織の性格上、果たして「収支バランス」が適切かどうかのチェック機能も無きに等しいと考えて良いと思います。それは、集められたお金が(少なくとも建前上は)「献金」「御玉串」「御布施」などとして、神仏に献上(奉納)されるものであるからです。

      今ひとつの問題は、(何の組織も同じですが)大きくなればなるほど「トップ(=主催者)」と信者(=末端)との(物理的)距離が遠くなる事です。この状況を補うためにトップ自らの著作による本、ビデオ、或いは教団幹部でもある支部の責任者による指導代行、教義に基づいた仲間内での勉強会などの形を取ることになりますが、間接的になればなるほど「教義の主旨」や「具体性」が希薄になって行くのは否めないばかりか、伝達の過程で「単純化」や「歪曲」が行われている可能性も否定出来ません。(私はそのような具体例を身を以って知った上でお話ししています。)これは「組織」と「人間」の性(さが)として、完全には防ぎようが無いものと思っています。それを避けたいなら敢えて「大組織」にしないことが一番です。

      もし教団(=宗教団体)という「信仰」を目的とした組織化(=合理化)が、前述の様なリスクを伴うものだとすれば、「入信=救済」という図式が必ず成り立つとは限らなくなります。つまり人が「神仏」の存在を認めるならば、「救済」とは、あくまで「信仰心と直結」するものであって、組織としての「宗教に直結しているのではない」ということは知っておいた方が良いと思います。

      私は何も「宗教」の「組織としての社会的意義」を否定するつもりは毛頭有りません。(目的を達成するための人的合力は、いつなんどきも必要です。)ただ、人間というものは例えどこに身を置いていたとしても、自らの幸福を他人や組織に丸投げして良いということでは無く、それは「神と自分」との関係に於いても同様で、最終的には「自らの努力と理解の結果」であって然るべきと思う次第です。
      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:24 | comments(0) | - |
      「宗教 心の拠り所」というキーワード(1)
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        このようなキーワードで当ブログにアクセスされた方がいらっしゃいます。例によって宗教的テーマは論証困難を前提にお話しさせて頂きます。

        人間関係の基本的要素として「ギブ・アンド・テイク(=取引関係)」があります。その変形として「ギブ・アンド・ギブ」「テイク・アンド・テイク」という事も(稀に)あるかも知れません。しかし唯物的には元々が「労力」もしくは「その産物」の交換原理に基づく「有限的な発想」なので、「貰いっ放し」「遣りっ放し」では(論理的)違和感を禁じ得ないはずです。そこで人間関係にあっては、そのような取引関係上の「アンバランス」を「貸し借り」の観念や「恩義」という概念で補うことによって、違和感の解消に努めようとするのが常です。

        それでは「神と人」との関係ではどうでしょうか。
        一般に神は「無限の力」を有し、故に唯物的には説明の付かない「奇跡」をもたらす存在として「畏敬(いけい)の念」を以って受け入れられています。しかも人間にとっては「創造主(→親子関係)」でもあるので、悪意の無い(善なる)存在として、主(おも)に「救いを求める対象」として認識されるのが一般的です。つまり「人間が困っていれば無条件に助けてくれるのが神様」と信じられているということです。
        しかし、そう信じるには疑問の余地も残されています。何故なら、神が「無条件に救済」してくれるのなら「救済の自動化」が為されていても不思議ではないからです。ところが現実には、世の中に不幸は数限り無く存在します。ということは「神の救済」にあやかるためには何らかの条件があると考えた方が良さそうです。問題は「それが何か」ということです。

        ところで、ここまでの話は「宗教の話」では有りません。あくまでも神を「信仰」する話です。つまり「神を心の拠り所にする」ということは、心に「信仰心」を持つということになります。
        では「宗教」とは何かと言うと、前述の「救済を受けるための条件」や、それに至る過程を一定の合理性を以って示す事で、人々を「信仰」に導くための「人間が作り出したシステム」と考えて良いと思います。具体的には「教義」「戒律」「仲介者」などの存在を以って人々の疑惑や迷いを解消しつつ、最終的には「神の意思」とされる目標に向かうための「人的合力」を作り出すことが目的とされているのが普通です。(となれば団体、集団として出来るだけ大きい方が、より目的を達成し易いと考えても不思議では有りません。)

        次回は「信仰」と「宗教」の関係性について、もう少し考えて見たいと思います。
        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:16 | comments(0) | - |
        洗濯機に閉じ込められて・・・
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          子どもが亡くなったそうです。
          閉じ込めれれる危険は製品の開発段階でメーカーは当然把握しているはず。
          現に海外では死亡事故のケースが頻発しており、メーカーも消費者庁も把握していたはず。
          なのにマスコミや巷で今までそんな話は聞いた事も無い。
          売りたいがためにみんなで(寄って集って)隠していたとしか思い様が無い。
          子どもの命より大金のほうが大事なのだろうが
          だったら人前ではっきりそう言ったらいいのだ。
          言えるもんなら。
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:30 | comments(0) | - |
          明日も記事をお休みします。
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            久々に仕込み(=準備)の必要な仕事があり、都合で記事をお休みさせて頂きます。

            話は変わりますが、子どもたちはみな「誠実」に生きようとがんばっています。しかし大人たちはそれを知ってか知らずか、勝手な都合で子どもたちのそういった気持ちをどんどん「疲弊」させて行きます。やがて子どもたちの心に色々な影が差し始めます。「誠実」さが次第に失われて行きます。子どもは子どもの気持ちで居られなくなります。
            それが大人になるってことですか?
            違うだろう。醜くなるのが大人になることだなんて聞いた事もない。
            ということで、大人のみなさん、よろしくお願いします。
            | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 08:33 | comments(0) | - |
            新・教育基本法の意図するところとは?
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              少し前の「新・教育基本法徹底検証」の記事でも指摘させて頂いたように、今回の改悪?は「予定される憲法改正に先んじて行われたものではないか」との懸念と関わりのある記事を「リテラ」で見つけました。特に13条の「国民の権利(=人権)」に関する項目が書き換えられる事に対する懸念です。以下に現在の13条、その対案として掲げられている「自民党草案」、及び記事の一部抜粋を転載します。

              ==============================
              転載開始

              ・日本国憲法 第13条
              〈すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。〉

              ・自民党改憲草案 第13条
              〈全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。〉

              「自民党改憲草案」では、〈公共の福祉〉を〈公益及び公の秩序〉に言い換えている。公共の福祉とは、他者の人権を侵害するような人権の行使、主張を禁止する規定である。すべての国民の人権を保障するというのが、公共の福祉の主旨だ。日本国憲法では、政府による人権制約の唯一の根拠となっている。

              何故、〈公共の福祉〉を〈公益及び公の秩序〉に変える必要があるのか? そもそも憲法の条文に用いる言葉として〈公益及び公の秩序〉は適当なのか?

              転載終了 元記事はこちら→ http://lite-ra.com/2015/06/post-1203.html
              ==============================

              私が思うところ、「公共の福祉」に対して「公益及び公の秩序」とした方が、より国家や時の政府が国民の人権を制限し易くなると考えられます。何故なら「公共(=みんなの)」に対して「公」とは「国、政府、中央の定めた」という意味合いが強く、時の政府の意向で如何様にも解釈可能と思われるからです。何れにしても、危険視する人が後を絶たない様です。
              みなさんはどのようにお感じになるでしょうか?
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:13 | comments(0) | - |
              「心が満ち足りるとお金が入る」で検索された方へ
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                これは「心の満足→お金が入る(=生活の安定?)」という原因結果の法則が成り立つか否かという話だと思いますが、これも論理的証明は難しそうです。それにそもそも「心が満ち足りる」というのはどのような状態を指しているのかということもあります。

                一般に「満足」というのは条件の整った極めて限定的な状況によってもたらされる感覚で、決して安定的、継続的なものとは言えず、その状態を維持することはむしろ難しいと言えます。特に心の場合、良い状態を安定的、継続的に日常化することが肝心で、その意味では「満足」という言葉が適切でないのかも知れません。
                では、どう表現すれば良いかというと、「豊かな心」「平穏な心」「前向きな心」などは何れも他の条件に左右されない「自覚」の問題のみで実現可能な「望ましい心の状態」ということが出来ます。

                そこで改めて「豊かな心を持てばお金が入る」という定理が成立するかどうかで考え直して見ます。(相変わらず論証は困難ですが)
                これは「貧乏神」が実在するか否かという話に若干関係してきます。何故なら「貧乏神」は人を貧乏によって「苦しめる」のが目的の神様だからです。つまり人々が貧乏生活を強いられることによって「不平、不満、愚痴」が絶えない状態を作るのが目的なので、その人たちがその状態であり続ける限り、貧乏神は永久にその場に居続けることになります。
                それに対して、もし人々が貧乏の最中に「豊かな心」を持ち合わせていたらどういうことになるでしょうか?確かに生活面では困窮し苦労があるかも知れませんが、心では明るく穏やかで前向きな気持ちを持ち続けることになるでしょう。これでは人を苦しめたことにも不幸にしたことにもなっていません。つまり貧乏神にして見れば「何の仕事もしていない」のと同じことなので、一瞬だってその場に居続けようとは思わないでしょう。(これは物の道理です)
                そこで結論ですが「豊かな心→貧乏神が逃げる→お金が入る」となります。但し、入るのは「生活に窮しないだけのお金」です。

                たまにはこのような話も良いでしょう。私は(経験的に)当たらずと言えども遠からずだと思っています。
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:18 | comments(0) | - |
                「人相」の話はタブーか?
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                  これは「人相学」とか「骨相学」とかの話ではありません。もっと主観的で「論証」に値しない内容なので、カテゴリーも「証明出来ない?・・・」とさせて頂きますが、私の中ではそれなりに意味を持っています。(例えば二国間の外相会談で両者が握手している様をテレビで見て「二人ともキツネっぽい・・・」と思うような話です。)

                  ところで「子どもの顔」を思い起こして頂ければ解りますが、乳幼児〜小学校低学年ぐらいまでの子どもの顔から「動物」を想起する様なことはまず有りません。みんな「人間」の顔をしています。みなさんは「子どもは子どもの顔をしている」と思っているかも知れませんが、私に言わせると、あれが本来の「人間の顔」なのです。
                  また、ついでに言えば子どもは(疾患などを抱えていない限り)姿勢もたいへん良く、踏ん反り返ったり前かがみなどではなく、(無意識に)頭から足の先まで普通に一直線に立っています。これはいつも気持ちがフラットである表れだと思います。

                  このような事を前提として大人を見た場合、仮に姿勢が良いとしても、必ずしも気持ちがフラットである事を表しているとは限らず、(職業上または体面上)必要有って意識的に演出している場合も少なからず有る様に思われます。
                  しかし「顔の相」となるとそう簡単には行きません。例えば人物画や似顔絵を描いて見ると判りますが、パーツの形や大きさ、位置や角度がたった1ミリ違ってもバランスや雰囲気が変わります。つまり顔の造作は同じでも、表情筋のごく僅かな作用で顔の趣き即ち「人相」に影響するので、自ずと意識的な演出にも限界が生じるのです。(例えば不満や文句の多い人は次第に口が突き出したり、への字に曲がってきます。)

                  このように、心柄や気持ちの有り様が「人相」に及ぼす影響は多岐多様にわたり、いちいち掲げればきりが有りませんし、それを意識で完全にコントロールするのは不可能でしょう。それに自分の顔を毎日鏡でチェックしたとしても、それはあくまでよそ行きの顔を映しているに過ぎず、むしろ何気ない顔、気の抜けた表情にその人の真実が表れるものですから、本人は気付き様が有りません。
                  しかし世の中はうまくしたもので、だいたい似たような「相(=性質)」の人たちが集まって、それぞれの界隈を形成するものです。その中では素(す)を出しても違和感が無く、居心地が良いからでしょう。つまり本当の意味での住み分け(棲み分け?)というのは、地位や立場に由来しているのではなく、「人相」の大もととも言える「基本思想」に由来していると考えれば解り易いと思います。

                  キツネ、タヌキ、イタチ、ハイエナ、ハゲタカ、ブタ、テング、オニ・・・(干支に関係する動物、愛玩用動物は敢えて除外しています)人間には様々な比喩が用いられたりします。もちろん社会に於いて他者を名指しして公然とそれを口にする事は相手の名誉を著しく傷付けることとなり、差別発言や暴力的行為と見なされるのは当然ですが、少なくとも自分事としては知っておいても良いと思います。
                  増してや「唯神思想」に於いては「人間は神と動物の間の存在なるが故に人間と言い、向上すれば神にもなれ下向すれば動物にもなれる存在を即ち人間と言う」との考え方も在り、この場合「究極の人間性」の示す方向が「神」であり、その対極にあるのが「動物(=本能三昧)」ということになります。(但し、自然界の本物の動物に悪意が無い事は再三申し上げている通りです。)

                  そんな訳で私の場合、常日頃より「子どもの顔相」を模範として自分の顔、というより「心そのもの」を見直す様に心掛けているつもりです。いや、どの子も本当に美しいと感じます。よく「天使」という比喩を耳にしますが、「神」かと思う瞬間もありますね。転じて私の場合は「修羅」の形相になることもあるでしょうが、これは止むを得ません。大人ですので。
                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:13 | comments(0) | - |
                  新・教育基本法徹底検証(3)
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                    徹底検証の三回目は「学校教育」と「家庭教育」に関する項目ですが、このうち「家庭教育」は、旧・基本法には在りません。当り前の事ですが、家庭の在り方に国が介入するというのは、あまり気持ちの良いものではありません。例によってその都度問題点を赤字で表記して行きます。

                    旧・教育基本法
                    第六条(学校教育) 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体 の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。

                    新・教育基本法
                    (学校教育)
                    第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
                    2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。
                    ※「体系的」とは何のことか?「組織的」の「組織」とは具体的にどの範囲を示すのか?見方によっては国の定める「全体主義的カリキュラム」を想起させる謎の一文である。
                    ※「規律の重視」「学習意欲高揚の重視」の二つを教育現場で義務化するなら、徹底した全体主義的「マインドコントロール」しか在り得ない。本気か文科省?


                    (家庭教育)
                    第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
                    ※「学校生活で問題のある子どもは親の責任だ。学校に迷惑を掛けない様、家でちゃんと教えろ。」という驚愕の一文と読み取れる。
                    2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
                    ※「保護者に対する学習の機会の提供」とは「保護者を教育する、またはマインドコントロールする」という意味になります。「情報の提供」も同じ意味で、「家庭教育の支援」の名の下に様々な介入が予想されます。(授業参観と講演会の抱き合わせ開催など)

                    その他、第九条の「教員」に関する項目については、以前「教師の自主性、主体性について」という記事で書いた通りです。教育基本法の検証シリーズは一応今回で終了となりますが、このような検証を通して見えてくる事は、別に新・教育基本法が「支離滅裂」という訳ではなく、それなりに「一貫している」という事だと思います。ただ昭和22年当時の国(=政府)が示す「理想の国家、期待される人間像」と現在の国(=政府)のそれとは「あまりにも大きな隔たり」が存在するということです。
                    そのような状況に於いて今、最も必要な事は(私たち一人ひとりが)教育の行き着く先にある「在るべき社会の姿と在るべき人の姿」をしっかりとイメージすることだと思います。
                    因みに私のイメージをもってすると、現在の状況は「ノー」です。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:40 | comments(0) | - |
                    新・教育基本法徹底検証(2)
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                      引き続き、教育基本法徹底検証の二回目です。(検証の結果、問題点を赤字で記述します。)

                      (旧・教育基本法)
                      第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

                      第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。


                      (新・教育基本法)
                      第一章 教育の目的及び理念
                      (教育の目的)
                      第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
                      ※旧の「平和的な国家」がポリシーを表しているのに対し、新の「平和で・・・」は「たまたま平和」という現象を示しているに過ぎない。
                      ※「必要な資質」は後述(第二条)されているが、色々と問題がある。


                      (教育の目標)
                      第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
                      一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、 豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと
                      ※「真理を求める態度を養う」とは如何にも陳腐な表現である。旧の「真理と正義を愛し」の方が百倍良い。
                      ※「道徳心」は一般教養と見るべきである。学校教育として行えば「思想教育」との区別が付き難くなる。
                      ※「健やかな体を養う」で殊更に身体能力の向上を教育目標とすることは危険である。適切な個人差の把握は(おそらく)困難だろう。因みに「健康」は保つもので養うものではない。

                      二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
                      ※「創造性」がやたらと出てくるが果たして「培う」ものだろうか?旧の「文化の創造」に対比させたつもりなら全く当たらない。
                      ※「職業及び生活・・・」は旧の「実際生活に即し」と対比させたつもりかも知れないが完全な勘違いで、これは「実情に即した=無理の無い」という意味だろう。従って「職業」が後述の「勤労」と重複してしまっている。

                      三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
                      ※旧の「社会の形成者としての国民は文化の創造と発展に貢献すべし」に対し、新では「国民は公共の精神に基づき社会の形成と発展に寄与すべし」とされている。つまり「どのような社会(体制)であろうと社会に尽くせ」ということである。
                      四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと
                      ※「態度を養う」とは「取りあえずそういう態度を見せればいいのね(結果はどうでも)」という意味です。本気のかけらも有りません。
                      五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと
                      ※「愛国心」を強要するために「伝統と文化」をダシにしています。何度も言うように、愛国心(愛)は強要されるものでなく、自発的なものであるはずです。一方で「他国を尊重し・・・」に対しては「態度を養うこと」として、前述の通り「本気度0%」で努力目標にもなっていません。

                      正直なところ、こんなにも赤字だらけになるとは思いませんでした。はっきり言ってひどすぎます。しかも既に平成18年12月22日から現実のものとしてこの教育基本法に基づいた教育が行われているのです。
                      個人的意見として、これは「今すぐ元に戻すべき」だと思います。(危険過ぎるからです。)
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:11 | comments(0) | - |