青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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理性と感情の正しい比率とは
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    これは7:3と認識しています。6:4では心許(こころもと)なく、5:5では危ういと思われます。危ういとは、行為、行動が物事の道理を逸脱する可能性が高いということです。
    しかし、そうは言ったものの、そもそも目標値である7:3とは具体的にどのような心境であり、人としてどのような状態かイメージ出来なければ努力のしようが有りません。

    その一方で「理性の比率が下がるとどうなるか」については、大方察しが付きます。例えば「わかっちゃいるけどヤメられない」とか「全然ワカッテない」とか「モノに凝り固まる」とか、要するに「優先順位や価値感が道理から掛け離れる方向」に向かいます。この場合の「道理に反する」とは、「生有るものが自らを生かす方向に向かわず自ら死の方向に向かう」とか「建設を目指さず破壊を目指す」とか「幸福を選ばず不幸を選ぶ」といったようなことで良いと思います。これはそういう自覚の有る無しに関わらず、そもそも意識がそこまで及んでいないこと自体が、理性の比率の低下を示していることになります。

    そこで改めて7:3について考えて見ると、その人は常に安定して「自らを生かし(=活かし)、建設的に行動し、幸福に至る道を選ぶ」ということになります。こういう人はさぞかし「生真面目」で「神経質」で、とても冗談を言ったりふざけたりしそうに見えないかと思いきや、そんなことは全く無く、極めて明るく温厚で面白可笑しい人かも知れません。何故なら理性によって安定的に維持されるべき「価値感や優先順位」は、全て内面の心柄を保つためのものであって、必要も無いのに外面を装ったり形式を定めたりするためのものではないからです。
    つまり感情を存分に働かすことで、冗談も言えば物に興じたりも十分に出来ますが、それによって人の道を踏み誤ったり、自分の目的や目標から逸脱することの決して無い状態が7:3ということです。

    このような誤解は「理性によって感情が萎縮する」といったような誤ったイメージによって引き起こされますが、実際は感情が萎縮するのでは無く、単に「理性が強靭になる」ということです。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:05 | comments(0) | - |
    世の中「インチキ」が横行しております。
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      あまり子どもたちに聞かせたくない話ですが、止むを得ません。

      「インチキ」の語源は判りませんが、私に言わせれば、それは「心無い行為であるにも関わらず、心にそぐわない見せかけの形を呈すること」であり、「インチキの横行」は「思想の紊乱(びんらん)、道義の廃退」を意味します。
      それでも人は「見せかけよう」としますが、一体「見せかけ」に何の意味があるのでしょう。「インチキ」は初めから論理的に破綻していますので、足元からバレるのは必至です。また「作為」の痕跡が明確なので、言い逃れも通りません。従って、結局は追い詰められるまでの時間稼ぎに奔走するしか無くなります。そんな生き方をして何が楽しいのかさっぱり解りません。私はご免被ります。

      子どもには「インチキ」という発想はありません。たぶん「論理的」に理解出来ないのだと思います。当然です。ですから「インチキ」は大人になるにつれて覚えていくものだと思います。理由は至って単純で、「みんなやってるから」というものですが、その根拠として、「人間が自己の利益を優先するのは当然だ」という(誤った)社会通念が形成されていることが考えられます。しかし同時に、それを極端にやれば必ず「争い」という面倒を抱え込むぐらいの事は判るので、「ならばインチキで可愛らしく」程度の皆さん軽い気持ちなのかも知れません。

      いちいち事例は挙げ連ねませんが、まず、政治家は率先してインチキをします。商売上のインチキはもはや常識ですが、公的機関もインチキな報告や対応をします。警察だって教育機関だって医療機関だって、例年一定の件数のインチキが発覚し、それをを認めています。
      上のみなさんは「インチキ呼ばわり」されて不愉快かも知れませんが「誠実さを欠いた職務遂行や職権乱用」は、全てインチキです。
      「そう言われても自分のことで精一杯で、他人の事なんていちいち気にしてられねーよ」という理屈が正しいのなら、法律からしてそう作られているはずですし、その線にそって法律を改定すれば良いのです。そういう動きにならないという事は、(如何に社会にインチキが横行しようとも)そういう考えが「誤り」であることの動かぬ証拠なのです。

      まさしく「キツネとタヌキの化かし合い」のような世の中になってしまいましたが、親として自分の子に「お前はキツネになれよ」「アンタはタヌキになりなよ」などと果たして言えるものでしょうか?また、言われた子は何と思うのでしょうか?
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:03 | comments(0) | - |
      「適性」と「偏見」の話
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        「適性」とは、その人の総合的な能力の内、取り分け「伸び代(のびしろ)の期待出来る部分、方向性」の事です。もちろん、非常に明瞭な形で「適性」として示される場合もあれば、広範囲に均一(オールマイティ)な傾向を示す場合も有り、必ずしも絞り込みが容易であるとは限りません。しかし、中には「文武両道」という例えが適切かどうかはさて置き、「併せ業(あわせわざ)」としての「適性」も概念として必要になります。
        更には「実技的」な能力もさることながら、適性は「メンタル面」での傾向にも大きく左右されます。それは例え心柄や感性の問題であっても、現時点で固定化されていると考えるべきか、或いは発達途上と見なした上で展望を持つべきか、によっても「適性」の判断は異なってきます。
        そこへ持ってきて、本人の「関心の有無」や「好き嫌い」「苦手意識」など、極めて主観的な要素も有り、それらも「適性」に含めるべきか否かという問題も有ります。
        このように、その人の「適性」を判断するということは「総合的な視野」を以って有機的に為されるべきことで、単純に能力を細分化して機械的に点数を付けて行けば良いというものではないと思われます。
        また、「適性」はあくまでも本人の中で個別に導き出されるべきものでなければならず、「他の人たちとの比較」の結果であってはなりません。何故なら、そこにあるのは特定の分野に於ける特定の方法による「社会的順列」に過ぎず、前述した「総合的且つ有機的判断による個人の適性」とは無縁のものだからです。

        ところで、ここにちょっとしたヒントが有ります。それは「人間は往々にして自分の持ち物を嫌い、他人の持ち物を羨(うらや)む」というものです。それは特に若いうちは「容貌」に関してもそうですし「才能」に関しても、自分に自信が持てず、コンプレックスを強く持つ反面、他人が皆輝いて見えるという傾向が有ります。
        これは考えて見れば当り前の事ですが、人は自分の悪い部分の大半を(外に出さず)中に隠し持っている訳ですから「自分が知っている自分」は、まるで「悪さの塊(かたま)り」に見えます。しかし、他人は他人で欠点を隠し持っていますが、こちらからは知る由もないので、当然他人の方が良く見えるのです。
        この「物の見え方」は、ある意味正しいと言えます。何故なら、自分の欠点に気付き、同時に他人の良さを意識する事は、自ら努力するきっかけになるからです。しかしこの時期、コンプレックスを伴った「宙ぶらりん」な状態が続く事は事実で、そこは何とか乗り切って頂く他有りませんが、少なくとも「慢心して他人を見下す」よりも数段マシであることは確かです。
        そしてこの時期、主観によって一旦嫌われる事になる「自分の特徴」の中に、実は「適性」が紛れ込んでいたりするものです。それは「他者との比較」によって除外されたものですが、やがて自らを再認識する際に必ず戻って来ます。つまり、そのように決して消えて無くならないものが、本当の自分の物なのです。

        上記のように、自ら進んで「他者と比較」する場合とは別に、他者が意図的にもたらす「偏見」によって、自分の「適性」に誇りを持てなくなったり差別を受け入れるようなことが社会的にあってはなりません。もしあるとすれば、それは「自分たちの利益誘導を目的に他者を退けるためのマインドコントロール」に他なりません。

        例えば、「肉体労働より精神労働の方が価値がある」「音楽家より政治家の方が価値がある」って、本当ですか?いえ、有り得ません。本当の人の価値は「人間性」でしか量れないものですので。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:20 | comments(0) | - |
        「適性」と「役割分担」の話
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          今は夏休みです。子どもたちにとっては(宿題を除けば)楽しい日々であると同時に、ともすると生活がだらけやすい日々でも有ります。いわゆる「自主、自律の精神」が求められる、というより、それ以前に一日のスケジュールや夏休み全体のスケジュールを、自分で組み立てることが求められるように思います。実はこれは大変なことです。何故なら、まず「想像力」を大いに働かせて「良い結果や悪い結果」の予測を立て、次になるべく良い結果を導き出すために「創造力」を働かせて、実行可能でしかも無理の無い計画(スケジュール)を組まなければならないからです。これは学校に通うことで「自動的に与えられるスケジュール」とは大違いで、「自ら求める」必要が有ります。(但し、親がすべて決めて行わせるというなら話は別です。)

          実はこのことは、大人になれば誰もが大なり小なり日常的に遭遇することですが、大人であっても「個人差」が有ります。例えば、一般的な会社勤めの人であれば、一日の半分程度は学校通いと大差なく、具体的な仕事を「与えられる」感覚で過ごすことになるでしょう。しかし、中には目的や目標は定かであっても、その先の全てを「自分で組まなければならない」立場の人もいるはずです。つまり、社会には「与えられる立場」から「生み出す立場」まで、様々な段階の立場を持つ人々がいて当然で、そこに「優劣の差は無い」と言うことを、まず前提に話を進めたいと思います。

          ところで「適性」とは何でしょうか。私が思うに(感情的な好き嫌いとは別に)自分が一番居心地の良いポジションに対する指針だと思います。例えば昔「末は博士か大臣か」という出世を表す言い回しが有りましたが、この「博士」と「大臣」の比喩は、見事に「適性」の違いを表しています。(現職の博士や大臣の方々の適性を保障するものでは有りません。念のため)
          また、会社にあっても「経営者向き」でない人が社長に就任すれば、会社は傾くでしょうし、「営業向きでない人」が窓口を任されれば、売り上げは落ち込むに違い有りません。(何より当人たちの苦痛の程は想像に難く有りません。)
          これはあらゆるポジションについて言えることで、社会に於いて凡そ「適材適所」は大原則であり、「適材」とは「適性を持つ人材」に他なりません。(故にポジションによる格差は基本的に間違いと言えます。)

          さて、ここで最も重要な事は、「適性」が能力差そのものを意味するか否かということです。何故なら、もし「そうだ」と言うなら、人は自分の「適性」に背いてまでも、それ以外の(より評価の高い)道に進もうとするでしょう。これはみんなが自分の適性を無視して一つ所に殺到するという「気色の悪い社会」です。このような社会は「適材適所」の原則が生かされないために、やがて衰退して行くことになるでしょう。
          普通に考えれば「能力の向上」とは、自らの「適性」の範疇で努力する時に最も報われるものだと思いますし、それによって得られたものは本人の財産であると同時に、社会全体の資産として(他人事であっても)尊重する気持ちが大切だと思います。周囲にそういう気持ちが乏しければ、人は「自分の適性」を誇りに思い、能力を伸ばそうという素直な気持ちになかなかなれません。

          以上のことから、大人たちが「子どもたち自身が自らの適性を自覚し、誇りを持って自らの意思で努力出来る」ための環境を整えてあげることは、極めて重要です。
          また、それと同時に「個々の適性」に基づいた、真の「適材適所」が生かされるための「社会の基盤作り」が急がれます。
          そのためには(くどいようですが)社会的ポジションによる差別意識や格差は「本質的な誤り」であることを理解する必要が有ります。むしろ私には「人間の生まれ持った適性」を尊重する事こそ、健全で自然な社会構築の基礎であると思えてなりません。
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:57 | comments(0) | - |
          熱弁、雄弁、力説について
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            これらのパフォーマンスは、それぞれ聞き手に対して「情熱、才覚、確信」などを強烈にアピールすることが出来ると思います。そしてそこから伝わってくるものは「この人は情熱的な人だ」「この人は頭の回転が速い」「この人は自分の説に確信を持っている」ということだと思います。
            ところで皆さんは「だからこの人を支持しよう、この人に付いて行こう」と思われるでしょうか?つまり、それは熱弁や雄弁、力説であることが、直接「評価の対象」に成り得ると考えるかどうかということです。この答えを予測するために、まず「評価の対象と成り得る条件とは何か」について整理して見たいと思います。それによって「熱弁、雄弁、力説」の意味するところが自ずと明らかになるかも知れません。

            因みに、ここでは「話し手の主張する目的の正当性」が、既に聞き手側に認められていることを前提とします。
            その上で「この話し手を信頼して良いかどうか」という手掛かりとなるのは、まずは何と言っても「論理的な整合性が取れているかどうか」だと思います。矛盾点が有ったり、根拠が不明瞭であったり、偏りが顕著であったり、一貫性が保たれていなかったりという事が有れば、それらは皆、ひとつひとつが「不安材料」となってしまいます。それでは「何とかしましょう」「何とかなるでしょう」と言われているのと余り変わりません。ですから「論理的整合性」は必須条件と言えます。

            次に重要なことは「話し手は話の内容に対して責任を負っているかどうか」ということだと思います。これは正直なかなか見極めの難しい部分だと思いますが、ある程度は「話しぶり」や「雰囲気」に出るものの、本当のところは一定の期間に於ける経過を注視する必要があると思います。例えばそれは政治家の公約に照らして、当選後の実際の活動を評価するようなことです。もし、その言動に不一致があったとすれば、私たちはその人物を全く信頼出来なくなるのは当然です。

            それから、あまり注目されない事かも知れませんが「話し手が聞き手の質問に対して常に適確な回答を用意出来るかどうか」は、「信頼を獲得」するための重要な条件足り得ると思います。何故なら、そこに「ある程度の人柄」と「聞き手に対する思い入れ」が集約されていると思われるからです。

            このように私たちが「話し手を信頼する条件」として「論理性、責任能力、聞き手に対する思い入れ」の三項目を必須とした場合、果たして「熱弁、雄弁、力説」を振るう事が、それらを満たしているかどうかと言うと、甚だ微妙な結果と言わざるを得ません。何故なら「三項目不在」でも、熱弁、雄弁、力説は可能だからです。極端に言えば「単なる自己主張」だけでも、それらは成立します。その事は「○○を振るう」という慣習的な用法の中に、既に暗示されているように思えてならないのです。そこには何れも「一方通行的イメージ」が介在しています。
            ですから、そのような「イメージ先行の危険性」を回避するためにも、どちらかと言えば「必須三項目」を満たした上で熱弁、雄弁、力説が出来れば、それに越したことはないという「オプション扱い」とするのが良いと思われます。

            以上のような理由から、私たちは「聞き手の立場」にあっては「話し手のインパクトに惑わされない正しい聞き方」を、また自らが「話し手の立場」になった際には「真に聞き手に信頼されるための正しい話し方」を心掛けたいと思う次第です。

             
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:29 | comments(0) | - |
            「霊界ネットワーク」の総括
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              前々回より「霊界ネットワーク」の存在の可能性と合理性について言及して見ましたが、そこで私なりに思う事は、仮にそのような話を信じようが信じまいが、私たちの日常としての「あるべき姿」「為すべき事」が大きく覆される訳ではなく、「みんなで良くなろう」という発想が自他共に最も合理的な選択であることは、疑う余地のないものと思われます。
              ただ、「霊界ネットワーク」という概念を受け入れることによって、実現に向けたエネルギー源として(通常の)「行動エネルギー」の他に(霊的な)「想念(=思いの)エネルギー」を想定することで、更なる可能性に期待することが出来るということです。
              それは例えば「あきらめない」という発想の根拠と成り得る分、私たちの気持ちの上でプラスとして働くはずです。
              とにかく「証明することは出来ない話」なので、今、私に言えるのはそれだけです。

              それと、もうひとつ補足するなら「霊界」というのは、私たちが今いる「現界」と同じく、緻密に構成された「ひとつの世界」なので、それに対する正確なイメージを持つこと自体が至難の業であるという認識は必要です。何故なら、私たちは自分たちの住む「現界」に於いてさえ、正確なイメージを把握しているとは到底言い難いからです。「地球と宇宙の事なら何でも解ってます。」などとは誰一人言えないはずです。たぶんその10%も無理でしょう。
              まして確かな情報など何もない「霊界」については1%も解らなくて当り前です。そしてこれは重要なことなのですが、「知らなくて良いから解らないようになっている」というのが合理性というものだと私は思うのです。
              ただ、私たちの心に存在する「良心」というものが、どうやら「通信アンテナ」の役割を果たしているらしい、ぐらいのイメージなら持っていて損は無いと思います。
              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:18 | comments(0) | - |
              「霊界経由」で思いを伝えるためには
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                前回の記事で言いっ放しにされて気になっている方のために、少し補足をしておこうと思います。
                前回は「もし神が存在するならば、同時に神界、霊界、現界という区分が存在するはずで、しかも各界が緻密なネットワークで繋がっていなければ合理的とは言えず、それは私たちの現存する現界とて例外ではない」という主旨の話でした。

                ところが、ここにひとつの疑問が生じます。「もしそうなら、私たちの思いはとっくに神界や霊界に届いているはずなのに、全然反映されないのは何故?」というものです。まずはこのことを出来るだけ合理的に紐解いて見ようと思います。
                前回、霊界は心象(=思い)の世界であって「思いの質的純度」と「思いの強さ(エネルギー量)」が重要となる旨のお話をしたと思いますが、どうやらポイントはその辺りにあるようです。つまり「悪質な思い」「不純な思い」「軽薄な思い」を霊界に送っても良い結果に結び付かないばかりか、逆に相応の良くない結果として反映されるというのは極めて理に適っていると思います。しかも、これは元々「神」という絶対的な価値感を想定した上での話なので、「思い」の合否判定はその基準に基づいて行われるという前提が有ります。ですから「思いは届いているにも関わらず結果が思わしくない」ということは、「私たちの思い違い」として十分起こり得ることだということです。

                しかし、ここで「あきらめムード」になる必要は有りません。このことは、「思い違いさえなければ、私たちの誰もが確実に良い結果を導き出せる」という、夢のような話であることに変わりわないのですから。では、どうすれば良いのでしょう?
                まず「神」という絶対的価値感について考えて見ます。私が思うに、それは多分「人間性」のことです。そして人間性を豊かにするとは「みんなで良くなろう」という気持ちを、より強く、より大きくするということですから、そのような心が成長した分だけ「より力強く」霊界に対する働き掛けが(無意識に)行われると見て間違いなさそうです。

                では、具体的に「霊界に思いを送るにはどうすれば良いか」ということですが、まず「悪い思いは思っただけで送られる」ものと考えるべきです。何故なら人間には(自らの内面に対して)わざわざ「有りもしない悪さを装う」理由が見当たらないからです。つまり、私たちの「悪い思い」は常に本物なので、そのまま霊界に作用してしまう訳です。
                一方で「良い思いは一旦行いという形にしないと霊界に送られない」と見たほうが無難です。その理由はさっきと逆で、私たちには(自らの内面に対して)「良さを装いたい」という願望が常に存在するからです。これはかなり根深いもので、そうでもなければ良いことを実行する際にわざわざ勇気を振り絞る必要なんか無いはずです。ですから良いことは「必ず行(おこな)ってください」ということになります。

                最後に、思いが霊界に届いた際の「合否判定」についてですが、これは「ごく軽い意識レベル」のものは瞬時にフィードバックされるものと考えて良いでしょう。理由は「良い思いなら継続させ、悪い重いなら直ちに修正を促す」という意味でも、その方が合理的だからです。
                しかしその信号の意味を理解する能力は、それを受信する当人の冷静さの度合いによって異なると考えられます。また、感情が高ぶっている状態では、全く信号が検知されない事態も想定されます。そうでなければ、思い違いを(それと気付かずに)継続してしまうことの説明が付きません。
                また、目に見える結果としてのフィードバックはおおよそ数週間〜数ヶ月遅れの形となるでしょうが、それとても、「思いを霊界に送った」という自覚がなければ、「過去の思いに対する結果」と認識すること自体困難かも知れません。

                私たちは通常、「自分の言動と結果の因果関係」はある程度理解していると思いますが、これを期に「自分の思いと結果の因果関係」についても思いを馳せて見ては如何でしょうか。
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:43 | comments(0) | - |
                世界観を変える「霊界ネットワーク」について
                0
                  今日はいきなり「青少年問題に似つかわしくない」怪しげなタイトルから入って見ました。
                  ところで、世間では良く「苦しい時の神頼み」などと言いますが、この言葉の「論理性」をみなさんはどのようにお考えでしょうか。この場合の「論理性」とは、証明の可、不可ではなく、自分自身が十分に納得出来るだけの「構造的イメージ」を持っているか否かということです。例えば「溺れる者、藁をも掴む」の場合、藁を掴む事自体には「論理性」は認められませんが、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」の如く、溺れる際に手当たり次第何でも掴もうとする事には「それなりの(確率的)論理性」があるとも言えます。
                  私は、実証の可能性はともかくも、物事に望む場合には「そのイメージが筋が通っているか、自分の中で整合性が取れているか」が重要だと思います。

                  以前に「神」という概念を理解するためには、同時に「ネットワーク」という概念が必要ではないかという話題に触れましたが、今日のテーマはその延長線上にあるものと考えても良いと思います。
                  つまり一旦「神」の概念を受け入れるならば、当然「霊魂」の概念も必要となり、神の世界(=神界)が在るとするなら、霊魂の世界(=霊界)も在るとするのが(賛否はともかくとして)論理的帰結ではないかと思えるのです。
                  ところで「霊界」があるかないかという話は、単に目に見えないものが存在するかしないかという事では有りません。その事は「もしあったとすると何がどうなるか」を丁寧に考えて見ると次第に明らかになって来ると思います。

                  結論から言えば、もし「霊界」が存在するなら、私たちは全ての「三次元的制約」と部分的な「四次元的制約」から開放されることになります。「何を馬鹿げた事を言う」と思われるかも知れませんが、それをこれからご説明しようと思います。

                  まず、霊界は物質の世界ではなく、心象の世界ですから、私たちが物質界で変化をもたらすためには、物を動かしたり、物の形を変えなければなりませんが、霊界にはそれが有りません。つまり思いや念が通じれば反映され、変化をもたらすことが出来るということです。しかも「物理的制約」がないので、質量、距離、場所的条件などの制限を受けることがなく、求められるものは「思いの質的純度」と「思いの強さ(エネルギー量)」であり、それらが全てとなります。つまり「三次元的要素」はどこにもないのです。

                  また、霊界のもうひとつの要素として、「死後に帰る場所」ということがあります。そのことは同時に「生まれる準備が為される場所」という意味にもなります。そして更に重要な側面として「生きながらにしてコネクト出来る場所」という意味も持っています。この最後の意味は意外に認識されていません。その理由は、もしそれが本当なら、私たちが現に「生きながらに」それを体験している訳ですから、もっと実感を伴っていて良いはずなのに、その実感が得られていないからだと思います。

                  しかし、もし「神界」と「霊界」をネットワークという概念で理解しようとすると、私たちの現存する「現世(=現界)」だけがネットワーク接続から切り離された「ローカルエリア」という考え方ではあまりに不合理です。やはりここは、私たちが日常利用しているネットワーク接続がほぼ無意識的な存在であると同じ様に、「現世」も「霊界経由」で「神界」すなわちコントロールセンターと常時接続されているものと見なした方が、はるかに合理的で現実的であるに相違有りません。

                  ということで、話がいささか長くなって申し訳有りません。
                  このような前提で「私たちの思い」がどのような意味を持ち得るかについて考えて見たいと思います。
                  そうすると、思いというものを他人と共有するためには、現界ではそれなりの行為を積み重ねて行かなければなりません。例えば言葉で直接伝えるためには、人を集めるなどの接点を設ける必要があり、文字であれば配布、出版などの手間が必要であり、ネットに於いても発信環境を整える必要が有ります。無論、その過程で様々な障害や妨害があれば、逐一対応する必要も有るでしょう。

                  しかし、もし霊界経由が可能であったとすればどうでしょう。それこそ完備されたネットワークによって無意識無感覚に「思っただけで思ったところに思ったことが伝わる」ということになってしまいます。しかも場合によっては「現在」だけではなく、「過去」や「未来」に向けても発信されることになります。その意味はこうです。「霊界」にはすでに亡くなった人の霊魂とこれから生まれに行く人の霊魂も存在しますが、それらの霊魂に向けて思いを発信することも無論可能だと言うことなのです。ということは、「時間の制約」をも越えて思いが伝わるという意味になります。

                  このように「霊界ネットワーク」の概念は、私たちが不可能と思っていたことを可能にするものであって、世界観を一変させると言っても過言ではないと思います。
                  しかし、それでも尚、私たちの疑問は消えないと思います。いや、ますます深まってしまうかも知れません。それはおそらく「もし、それが本当だとしても、じゃあ、何故今こうなんだ?」という疑問です。

                  それはまた、別の機会に。
                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 14:33 | comments(0) | - |
                  子どもを「子ども扱いする」ということ。
                  0
                    今日は実話に基づいた話をします。

                    Aちゃんのママが下校時にAちゃんを車で迎えに来ました。その時ちょうど同じ方向に帰る知り合いの子どもたちに(良かれと思って)「一緒に乗ってく?」と声を掛けると、みんな喜んで車に乗り込みました。Aちゃんのママは車にみんなを乗せて走り出しました。やがて自分の家の方に向かう分かれ道の手前で車を止めて、(みんなに)ここで降りるように言いました。その時乗せてもらった子どものひとり(Bちゃん)が「家まで送ってもらいたかった・・・」と呟きました。それを聞いた別の子ども(Cちゃん)が血相を変えて「そんなこと言うもんじゃないよ!」と言いました。Aちゃんのママは黙っていました。

                    みなさん、この話の意味がお解かりでしょうか。普通に聞くと「途中で降ろされたことで苦言を呈したBちゃん」は「悪者」です。また「Bちゃんを叱ったCちゃんは良識有る正義の味方」です。多分、多くの人たちが同意見ではないかと思います。
                    しかし、よく見るとこの話には「罠(わな)」が有ります。いかにもBちゃんが引っかかりそうな「罠」です。

                    Aちゃんのママは確かに「一緒に乗ってく?」と同意を求めてはいますが、そこには肝心の「どこまで」という目的地が示されていません。つまりその時点で子どもたちはそれぞれの中で「どこまで」を勝手に、というか経験知にもとづいてイメージすることになります。子どもの心情として「ノーイメージ」ということはまず有り得ません。たまたま(運悪く)Bちゃんは前回、Aちゃんのママに自宅まで送ってもらった経験があったのです。ですからBちゃんがそのとき持ったイメージは「間違い」とは言えないのです。しかもBちゃんの家はそこからまだだいぶん先なので、Aちゃんと比較的家の近いCちゃんとは事情が違うということもあります。

                    これがもし、大人同士の話だったらどうでしょう。送る側としても、「○○までだけど、良かったら」と、目的地を必ず事前に伝えて断わりを入れているはずです。また、送られる側でも「○○のあたりで十分です。」などと、目的地を確認する意味も含めて、敢えて控えめに提示することで、相手を気遣うことを怠らないでしょう。それをしないと大人でも「不安」なはずですが、子どもの場合、そういう器用さがない分をイメージで補っているとも言えます。

                    上記のことから、相手が大人に依らず子どもに依らず、送る側の都合で制約が生ずる場合には、「○○までだけど」という断わりが不可欠ということです。それがなくてただ「送りますよ。」と言えば、それは基本的に「相手の都合に合わせます」という意味にしかなりません。
                    つまりAちゃんのママは、悪気は全く無いものの、「相手が子どもたちなので油断した」のだと思います。その結果、Bちゃんから予想外の反応を受けて、何が起きたか理解出来ずに「沈黙した」ということかも知れません。そうでなければ「あれ?ここまでって言わなかったっけ?ゴメン、ゴメン」で軽く流せるはずです。

                    それより何より、私が心配したいのは、このような「大人の油断」すなわち「子どもに対して条理を尽くさないことによって生ずる問題」によって、Bちゃんのような子どもが一方的に(寄ってたかって)「悪者扱い」される可能性があるということです。つまりイジメの対象になるということです。そのような理不尽は絶対にあってはなりません。

                    私がくり返し申し上げたいのは、「子どもは本来論理的に思考するもの」ということです。一方で「ずるさや怠慢」によって「論理を平気で捻じ曲げる」上に、それを「既成事実」と主張するのが大人の特徴と言っていいでしょう。
                    「子育てによって親が成長する」というのは単なる「飾り文句」ではなく、それは私たち全員に突きつけられた「現実」なのです。
                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:41 | comments(0) | - |
                    心の瞬発力について
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                      今日はこまごまと用事をしている内に、早、夕刻を迎えてしまいました。
                      それにしても最近のニュースでは、「え、何で?」「まさか、こんなところで!」のような、意外性のあるものが多々見受けられるようになりました。そうすると人の気持ちはだんだんと「まず、疑って掛かろう」という風に傾いて行くのかも知れませんが、私の場合、それは避けたいと思う次第です。

                      何でも(誰でも)疑って掛かれば安全という気持ちは、わからないでもありませんが、どうも釈然としません。特に子どもに対して「知らない大人はみんな人さらいと思いなさいよ」と教えることにはどうにも気が引けます。それではどうしたって「竹の子や杉の子」になれないような気がするからです。

                      私は平素から「人を信じたい」と思っています。実際ちょっとぐらい見かけが変でも全然気にしません。(自分自身が多分そう見えると思うので。)しかし、それでも「本当に変な人」はすぐに判ります。というか、普段そうしているからこそ「異質」なものはすぐ見分けが付くのではないかと思っています。それも「遭遇」のはるか手前で判るので、危険はほぼ有りません。

                      これは「自然」に取り分け慣れ親しんでいる人が野山を散策していても、危険に遭遇する確率が一般の人よりはるかに低いのと似ているかも知れません。つまりその人は「野山」がどういうものかを知っているということだと思います。

                      転じて私たちは「公共」というものがどういうものか、あらかじめ知っておく必要があるのではないかと思う訳です。私たちにとって「公共」とは、元々「安全」と言い切って良いほど安全なものではない代わりに、何もかも疑って掛からなければならないほど、敵対的な存在とも言えないはずです。
                      私は「公共」に対して、初めから「安全神話」も持たない代わりに「快適さ」の追求も忘れていません。それが「信じたい」という気持ちなのだと思っています。そして、それらを可能にするために必要なものが「心の瞬発力」だと思います。
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 18:50 | comments(0) | - |