青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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雰囲気は無視出来ません。
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    おかげさまで、昨日は夕刻近くになってメインのパソコン環境が復旧し、Linux系OS(=ubuntu)も無事インストール出来ました。(少々荒業でしたが。)今後は時間を掛けて環境を整えつつ、最終的にWindowsから完全移行出来れば良いなと思います。

    と、口で言うのは簡単ですが、全く知識のない状態からのスタートなので、まともな使い方が出来るようになるには今から相当勉強しなければならないと思います。それでも敢えてそれを望むからには相応の動機が必要となりますが、それは一言で表すなら「雰囲気が気に入らない」ということです。
    もっとも、社会の中で多くの人を対象に主張を展開するのであれば、それなりの論理と説得力が必要ですが、こと自分がどのようなパソコン環境で作業したいかに、そこまでの理論武装は必要ないと思います。とにかく「合わない」ということで十分です。

    ところでこの「雰囲気」というのは何なのかと問うなら、「思想の反映」と言って良いと思います。例えば「心根の優しい人」は時として憤りを覚えることはあっても、決して「高圧的な雰囲気」にはなりません。それは思想的に「持ち合わせが無い」からです。つまり「雰囲気は有るものしか出ない」し、また「有るものは隠せない」ということです。ただ、雰囲気は人によって感じ方に差が生じ易いため多分に情緒的と見なされ、それを根拠に物事に白黒付けることは通常出来ません。
    何故、同じ事象に対して人によって「雰囲気」の受け止め方が異なるのかと言えば、それは「思想」と「経験値」の違いに依るものと言って良いでしょう。少なくとも「思想的」に似通っていれば、だいたい同じ様に感じるはずです。つまり思想が180度違えば、また雰囲気の感じ方も180度異なる可能性が有るということになります。

    このように物事を決する場合、自分事であれば「雰囲気で判断」も有りですが、当然ながら社会的には「正しく論拠を示す」必要が有ります。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:28 | comments(0) | - |
    今日は朝から取り込み中で・・・・・
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      今日は朝からメインのパソコンが「使用不能」です。

      思えば「MSDOS5.0 + Windows3.1」の時代から20年以上にわたって(良かれと思えばこそ)使い続けてきた「Windows」ですが、昨今はその最新バージョン(厳密にはひとつ前からですが)に対して、しかるべき方面から「警鐘」が鳴らされるという運びになっているようです。ネタ元は当然私ではないので、関心のある方はご自分で検索して見ると良いでしょう。

      というか、このところユーザーインターフェイスやらアクティベートやらダウングレード権やら、違和感を禁じ得ない状態があったので、気持ちは「脱マ●クロ●フト」に向いていたので、今朝からLinux系のOSのインストールにチャレンジ中なのですが、最初の「領域確保」の部分で異様に時間が掛かっています。それこそマ●クロ●フトと違って「懇切丁寧」とは言い難いので、この状態がエラーなのか正常なのかも定かで有りません。仕方がないので予備機の「Windows8.1」を使って今書いています。

      自分のパソコン環境が、この先どう推移して行くのか想像も付きませんが、取りあえず思い立った事は面倒でもやって行こうと思います。少なくとも勉強にはなりますので。
      | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 15:09 | comments(0) | - |
      システムに善悪は無い
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        昨日、「多数決 弊害」というお題(=検索キーワード)を頂きました。つまり社会システムとしての「多数決の良し悪し」についてです。(因みに今月の検索キーワードのトップは「経験を糧にする」に類するものでした。これについては8月23〜24日の記事をご参照頂ければと思います。)

        「多数決」の話ですぐに思い当たるのは、やはりシステム(仕組み)というものは何事に依らず「それだけで良い悪いを判断出来るものではない」ということで、もっと言うなら「どのように秀逸なシステムでも悪用出来る」ということだと思います。むしろ(イメージ的には)悪用出来ないシステムなんて果たしてあるのだろうか?と悩んでしまうほどです。
        例えば「独裁」「ワンマン」などは私たちにとって(生理的に受け付けないほど)悪のイメージが刷り込まれた概念と言えますが、別にシステムとして「論理的」に間違っている訳では有りません。単に歴史的に「悪用される機会が多かった」という結果論なのだと思います。
        それと全く同じ意味に於いて「多数決」の場合、歴史的に「悪用された機会が少なかった」と言い切れるものかどうかは甚だ疑問ですが、少なくとも「悪用されたという認識が比較的少ない」ということなのだと思います。
        しかし、嘗て行われた「私刑裁判(=リンチ)」のように、「吊るせ!吊るせ!」の圧倒的多数の声に安易に従う方法に問題が無いのかというと、現在はそのようなやり方が認められていないという事実を以って明らかだと思います。

        つまり「多数決」というシステムは「合法的なマインドコントロール」によってさえ簡単に「悪用が可能」で、それに「買収や票の操作」など極めて地味な「非合法な手段」を少し加えれば「完璧な悪のシステム」として運用出来るということです。その際、独裁との違いは、方(かた)や「高圧的」であり、多数決では「低圧的」であるというぐらいで、いわゆる「真綿で首を絞められる」という状態かも知れませんが、結果に大した違いは有りません。それにそのような場合、相手の抵抗力の低下を見計らって、いきなり「高圧的」に転じる可能性も十分に有るでしょう。何故なら「悪」にとっての多数決は「ポリシー」ではなく、単なる「手段」に過ぎないからです。そのような悪の状態を、昔から「ヒツジの皮を被ったオオカミ」と表現します。

        また、仮に意図的でないとしても、思慮や配慮が不足したまま結論を急ぐと「多数決」は良くない結果をもたらします。そのような場合には、敢えて「利害関係を持たない第三者」を招いて意見を聞くなど、それを防ぐための「付加的なシステム」が必要になったりするでしょう。また、いっそのこと「経験豊富な村の長老」に委ねた方が良いという場合だってあるかも知れません。
        このように「多数決」自体は、様々な意見や考え方が想定される場合の、ひとつの目安作りのためのものでありますが、それがそのまま「最良の価値判断」に直結するものとは限らないというのが本当のところです。
        敢えて多数決の良いところと言えば「みんなで決めたんだから文句は無いだろう」と言えるところですが、それでも「51対49」だったりすると何か釈然としないものが残ります。

        社会システムや運用テクニックなどの研究や分析はそれなりに必要と思いますが、それらの殆どは「悪用のシステムとテクニック」に転用可能ということであれば、それよりその何倍もの時間と手間(とお金)を掛けても「人間性(=人間らしい心と行い)」と「社会性(=みんなで良くなろう)」を無上の価値として「社会に定着」させる事が先決だと思います。そうすれば「多数決」の弊害も「独裁」の弊害も同じ様に「弊害を考える必要の無い社会」となるはずです。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:54 | comments(0) | - |
        オリンピックは参加することに意義が有る。
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          世の中には「生産効率を上げる事が社会的正義である」と信じ込んでいる人がいるようです。ということは、社会に於いては「生産効率に貢献度の高い者が善で、貢献度の低い者は悪である」ということになります。もっと言えば「生産効率の低い者は死んでくれ」ということです。それに類似した話が情報サイト「リテラ」の以下の記事に載っています。

          http://lite-ra.com/2015/08/post-1427.htm 

           

          このような話を聞くと、感情論的に「ヒドイ話だ」などと思う事もあるでしょうが、それ以前にそもそも「論理的に破綻」している事が問題だと思います。

          では「生産効率至上主義」のどこがおかしいかと言うと、これは「自給自足の生活」に例えて見ればすぐに解ります。そもそも私たちが高い生産性を必要とするのは「備蓄」のためであって、そうでなければ「毎日の消費分」だけ生産すれば十分ということになります。では「備蓄」とは何かと言えば、「想定し得るあらゆるリスクに対処するための備え」と言って良いでしょう。となれば備蓄には自ずと「必要十分条件」が存在し、それ以上の備蓄は「意味が無い」ことになります。しかも「生産」そのものは、元々は「他者との共有物である自然」を利用した営みであるので、不要な軋轢や摩擦を生じさせないために節度をわきまえる必要があるのは言うまでもないことで、そうでなければ逆に「安心や安全」は担保出来ません。このように如何に「自給自足」とは言っても、周囲との良い関係を保つための配慮は「備蓄」とは別の意味の「不慮の事態に対する備え」として不可欠のものと言って良いでしょう。

           

          この「自給自足」に於ける基本的な考え方は、そのまま「社会」に対しても当てはまるものと思われます。つまり「生産効率」を無限に高め、消費の当ても無いほどの量を無限に「備蓄」するなどというイメージや発想は、どう考えても「滑稽」としか言い様が有りません。何故それが滑稽に映らないかと言うと、現代社会ではそれが「お金」、それも電子化された実体の無いものに化けているからに他なりません。これはもはや「備蓄」の体を為しておらず、単なる「権利のやり取り」に過ぎません。そして多くの権利を有することを以って「権力」と見なされる様になるでしょうが、一体「備蓄」の話はどこへ行ってしまったのかという感じです。しかし、周囲とのバランスを無視した「過剰な生産による軋轢や摩擦」だけは現実のものですから、これでは「権力を得るためにリスクを高め、そのリスクを封じ込めるために権力を行使する」などという意味不明な事態しか想像付きません。

           

          くだらない話のためにずいぶん文字数を使ってしまいましたが、最後に大切な話をします。

          二人以上の人間が集えば、それは「社会」です。社会では一人ひとりの能力を足して人数で割ったものが「社会の能力」であって、それ以外の計算式は有りません。ですから「社会全体の力」をアップさせたいと「あなたが思う」なら「あなたが努力」してください。因みに私はそう思うので、そうしています。そして他人の事など殆ど解りもしないのに「重荷」などと決して考えない様にしましょう。自分を甘々に評価する人間にとっては「重荷」に感じるかも知れませんが、傍(はた)から見れば、それがレベルアップのための「全く妥当な負荷」であったりします。

          そして「かつてのオリンピック」がそうであった様に、「社会は参加することに意義が有る」のです。みんなが漏れなくそう思っている社会が「良い社会」です。それが解らない人の目は申し訳ないが「節穴」としか思えません。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:50 | comments(0) | - |
          他人がコケれば自分が勝てるという状況
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            このところ「世界陸上」とか「世界柔道」など、国際的なスポーツのイベントが盛り上がりを見せているようです。

            ところで「勝負の付け方」には二通り有る様に思います。ひとつは「直接対決」してその場で決するもの。もうひとつは「記録の優劣」の結果として最後に決まるもの。どちらも「その場で自分の能力を出し切る」という面に於いては同じかも知れませんが、後者のタイプではその後ちょっと「残酷」なオマケが付きます。それは「自分の後に演技する他者の健闘を手放しで喜べない」ということです。そして多くの場合、何十分もの間その心の状態を引きずらなければならないということでもあります。

             

            何故こんな話をするかと言うと、スポーツの(試合の)場合は、そういった勝負の世界に「自ら進んで」参加したとして、半ば受け入れざるを得ない部分が有りますが、翻って一般的な我々の日常に於いては果たしてどうなのかという問題が有ると思うからです。

            私は、今の社会は「競争原理」の上に成り立っていると思っています。それは言い換えれば「勝負の世界」です。しかしスポーツの場合と少し違うのは、そのシステムは「必ずしも私たちが望んだものとは限らない」ということです。実は「競争原理」を好む人たちというのはそんなに多くは無く、言って見れば「自らの能力に自負を持ち、貪欲でクールな一部の人たち」だけではないかと思っています。そうでない大半の人たちにとっての人生のイメージとは、もう少しのんびりとして和らいだものであって欲しいというものではないでしょうか。

            しかし、そのような「穏やかな社会システム」では、貪欲な一部の人たちにとって都合が悪いために、敢えて「競争原理」は人間のやる気を啓発する唯一の手段というような論調で、あたかも「美徳」の如く前面に押し出しているものと思われます。

            また「競争原理」は、人々を団結させず「孤立させる」効果も大きいと思います。何故なら、誰にとっても周囲の大半の他人は「自分の競争相手」という風に刷り込まれるからです。それこそ前述の話の様に、他人がコケるのを心の奥底でひっそりと願うような日常となる事に加えて、システム上「団結が困難な状況」というものは、より強力な相手によって「各個撃破」されるリスクも非常に高まります。つまり、このような「システムによって個が分断された状態」というのは、本来「社会性」を旨とする人間にとって「真に好ましからざる状態」といって良く、それ故、現在の社会問題の大半は、この「競争原理の社会システム」自体に端を発しているものと見て良いでしょう。

             

            以上のことから「競争原理に基づいた社会システム」は、はっきり言って間違いだと思います。他人との競争が無ければ人間ダメになる、というのも嘘だと思います。本来「競争による勝ち負け」は自分自身の中でやるものです。心有る人々はみんなそうしていますし、当然ながら誰でも出来ることです。「みんなで良くなろう」と本気で思いさえすれば。

             

             

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:52 | comments(0) | - |
            「備え有れば憂い無し」の真意とは
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              昨日に続き「安全、安心のために備えるべし」という話題になりますが、その際、私たちが真っ先に備えるべきものとは、実はお金や物では有りません。ではサバイバルのための技術や体力では、と思う人も多いかと思いますが、私はそうではないと思います。
              それは「安全、安心を得るにふさわしい心」だと思います。何故なら、人間は個々人の力には自ずと限界が有りますが、力を合わせることにより数倍〜数十倍の成果を得る事が簡単に出来るような機能を(当り前の如く)持ち合わせており、それを生かそうとしない事は、自らの能力を封印するに等しいと思われるからです。このように「互いの能力を共有することで大きな成果を生み成し、それをみんなで分かち合うという、人間として最も合理的で自然な在り方」を良く理解し、そのようなイメージの下に「自己の研鑽に勤(いそ)しむ心」こそが「安全、安心の基礎」だと確信します。
              このように「目的に通じる心」を真っ先に備える事で、それに続く「手段や方法としての備え」の趣きも、それに応じたふさわしいものになって行くものと思われます。例えば、物品を我先にせしめたり、人をなぎ倒すためのサバイバル的発想などは持ち得ないはずです。

              ついでながら「安全、安心」を護るという意味での「正義の心」について誤解の無い様にして置きたいと思います。
              よく「正義は必ず勝つ」と言いますが、実は私もその言葉を信じたい人間のひとりです。というより「正義」には勝ってもらわなければ困るのですが、私の場合、実はその事について一般的な理解のされ方とは少し違う理解をしています。
              例えばハリウッド映画などでは「何の罪も無い人たち」が「とんでもなく悪い奴ら」にひどい目に合わされた後、正義のヒーローによって根絶やしにされるという設定が一般的ですが、これだと「正義=悪を退治するもの」という構図となり、しかも「悪=原因結果の法則、即ち因果関係を超越、無視して好き勝手に襲い掛かる災厄」として表現されています。いわゆる「パニック」です。しかし、これは非現実的な設定だと感じてなりません。何故なら「悪」がこのように「因果関係を無視」して跳梁出来るのなら、とっくの昔にこの世は滅びていても不思議ではないからです。その理由は「悪は善の十倍も強力」だからです。それが証拠に、4〜5人のサークルでは「悪い人」が一人混じるだけで、簡単に悪影響が及ぶ事になるでしょう。

              私は他人の尊厳や名誉を傷付けるつもりは毛頭ないので、これ以上は申しませんが、「正義とは、悪に関わらない心」として40年以上実践と検証を重ねてきたつもりではあります。そして「悪の対岸にあって悪と反対の事をせっせと行うのみ」と信じて疑いません。そうすれば「正義の戦争」なんて起こり得ないと思うのですが。
              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:35 | comments(0) | - |
              備え有れば憂い無し
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                今日は「日経平均株価」の動向を、暫し注視していました。経済の話は当ブログの主旨ではないし、私自身、株や蓄財には縁がなく、全く詳しくも無いのに、何故そんなものに食い付くのかと言うと、それこそ「備え有れば憂い無し」と思うからです。

                昨今は地震や噴火、台風や気候変動といった自然災害が、差し迫った脅威として取り沙汰される一方で、人災としての戦争や貧困などに関わる「政治、経済」の動きも私たちの安全や安心と決して無関係では有りません。場合によっては「転ばぬ先の杖」が必要になるかも知れないのです。

                例えば私の様な一般庶民は、株取引に直接関わりがないかも知れませんが、日ごろ利用しない訳には行かない「金融機関」などは、少なくとも密接に関わっている訳ですし、為替レートなどは物の値段に直接影響してきますので、もしかすると(生活防衛という観点から)何か対処する余地が有るかも知れませんし、少なくとも自分たちに関係有るか無いかについてだけでも、一考する価値は有ると思います。

                 

                ところで今回の事実上の「株の暴落」ですが、ネットで見る限り、殆どのメディアでは「暴落」という言葉を使っていません。「続落」「急落」「大荒れ」などという言い回しに留めています。そう言えば近年は大手メディアなどがこぞって「言葉を選んで統一したがっている」ような気がします。実際、言葉の選び方はイメージにかなり影響しますが、あまり執拗にされると「何か意図でもあるのか」と思ってしまうのは私だけでしょうか?

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 17:09 | comments(0) | - |
                「経験する」とはどういうことか
                0
                  その物事に対する(価値感をも含めた)認識が、心に染み入る事だと思います。ですから、頭に知識として留まっている状態では「学習」した事にはなるかも知れませんが、「経験」とはなりません。その大きな違いは「自らの行動に活かせる否か」という事だと思いますが、何故そうなるかと言うと、人間は心で吸収したものしか「思想(=価値感)」に反映されず、主体的な行動は「価値感」によってのみもたらされるものだからです。つまり、(欺瞞的意図でもない限りは)誰しも思想に無い行動は持てないということです。

                  例えば、私たちが本当の意味で他者を「尊敬」する場合、多くの人はその人に習って尊敬心を「行動」で示そうとします。また、場合によっては、その人のために命を懸けたりもします。そこではどういう事が起こっているのかというと、まず「尊敬の対象となる人」が自らの価値感に従って行為、行動を持つ事によって「実体験(=経験)」を重ねます。次に、それを様々な形で知り得た人々が「心を動かされる」ことになりますが、この「心が動く、心に入る」という時点で「疑似体験(=経験)」という形で「経験の共有」が行われたと考えて良いと思います。それらのケースの多くは、あらかじめ(尊敬する者とされる者という)両者の間での「価値感の共通性もしくは類似性」に因を見ることが出来ますが、一見すると、それとは程遠い様に思える間柄であっても、「人間性」という心の奥深い部分で結び付けられるケースも有ります。
                  このように「心の深い部分で疑似体験(=経験)を待ちわびる者」と「それを提供する者」との間に「尊敬、信頼」の念が生まれるのは当然の事です。何故ならそれは、双方にとって「他人事」ではなく、紛れもない「自分事」に他ならないからで、それを実現させてくれた相手に対して「感謝に堪えない」という気持ちがあるからです。

                  このような関係は古来から「師匠と弟子」などの、いわゆる師弟関係に多く見られ、その実体は「価値感の共有に基づく経験のやりとり」と言っても過言では無いでしょう。そしてそれはそのまま「教育の基本、あるべき姿」と言い換えても良いと思います。
                  つまり、本来「教育現場」には「上質な経験の集積」が不可欠ということで、それは基準を満たした「人間性」によって実現可能と思われます。
                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:39 | comments(0) | - |
                  他人の経験を自分の「糧(かて)」とすべし
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                    これは人生を全うする上で最も重要な要素だと思います。何故なら、もし私たちにその能力が無ければ、私たちは「毒のある物」を片っ端から食べて行かなければ「何を食べて生きれば良いのかさえ判らない」ということになってしまうからです。つまり今日私たちが当り前の様にやっている事のほとんどは、先人たちの命がけの経験の上に成り立っていると言っても過言では無いということです。

                    しかし、実際にはそのような先人の貴重な経験の全てが生かされているかというと、そうでもなく、いくらダメだと他人に言われても「自分で経験して見なければその事が理解出来ない」というより「理解しようとしない」という事は、まま有ります。これはいったいどういうことなのでしょうか?

                    それは、当人がその事物に「魅力(=価値)を感じているかどうか」によると思います。このように例え「未経験な事物」であっても、不確かなイメージのみで「強く惹かれたり気になったりする」というのは、人間ならではの性(さが)かも知れませんが、そうなると体験者の警鐘、警告は耳に入らなくなります。それこそ「人間は己の都合の良いように物を考える生き物」という言葉通りに行動する事となり、結果痛い目を見てようやく気が付くならまだしも、最悪命を落とすなど、取り返しの付かない結果も多々有る事を考えれば、やはり「他人の経験を自分の経験と等しく糧に出来る」に越した事は有りません。増して人間にはその能力が有るのです

                    では、それが出来る人と出来ない人の違いは、どこにあるのでしょうか。

                    私たちは「他人の言葉を鵜呑みにするな」などと良く言われたりしますが、それは「悪いものの侵入を阻むために入り口でフィルターを掛けろ」という意味です。しかし、それでは潜在意識や雑念で受ける事になり兼ねず、固定観念を一新するような新規の経験を得る事が困難となります。ですから私は入り口付近にフィルターを設ける事を避け、むしろ「他人の話は(いったん)鵜呑みにしろ」と言いたいと思います。そのようにしてそっくりそのまま(頭で考えずして)心の深部に送り込み、心で(無意識の)価値判断に委ねる方が数段良いと思います。心では「理屈」というよりも、色や柄で判断しますので、自分に合う、合わないを見極めるなら、その方が確実です。その結果、合うものは「良い経験」として、合わないものは「良くない経験」として、それぞれ自分の「経験値」として重ねて行くことが出来ます。
                     

                    ですから、ここでのポイントは「他人を入り口でシャットする気持ちを持たないこと」となります。そうでないと、どうでもいいような事までいちいち自分で試して見ないと判らないといった様な極めて非効率な生き方、というより、それ以前に固定観念に縛られた狭量な生き方しか出来なくなるでしょう。何故なら先人たちや隣人たちと共有すべきものが共有出来ないからです。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 15:51 | comments(0) | - |
                    世の中や物事に「極端」が存在する理由
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                      それは言うまでも無く、必要十分な視野角を得るためです。(図を描いて見れば解りますが)人間は「両極端」を識る事によってのみ、本当の意味での中心がどこにあるのかを知り得る事となり、それが物事を選択したり価値判断を下す際の目安となる訳で、私自身「極端そのもの」に価値が有るとは考えていません。
                       確かに「限界に挑戦する」とか「極限状態を経験する」「修羅場をくぐる」などは、その時々の達成感や人間的な付加価値に貢献する様に感じるかも知れませんが、その意味はあくまで「広い視野を確保」する一点に尽きるとするならば、当然「両極をセット」として認識出来ていなければならないという事です。

                      一方で、近年は「極論」と呼ぶにふさわしい「偏った考え方」が横行する時代とも言えますが、その理由のひとつは、思考の際に「断言と切り捨て」を繰り返す事で物事を単純化し、面倒臭い部分を次々と排除出来るからだと思います。それは表面的には「スピーディな決断力、行動力や実行力」としてアピールされる事となるでしょうが、裏を返せば「邪魔者は消せ」という恐ろしい考え方であるということです。これは「極端というもの」に魅了された人間は、必ずそうなるということです。
                      このように危険を孕んだ思考がもてはやされるもうひとつの要因は、それら「極論に魅せられた人々の多く」が、実は「机上の空論」に翻弄されており、実際に身を以って両極端を経験しておらず(しようともせず)、従って物事の全体像が見えていない事にあると思われます。即ち「認識無しに語っている」という危うい状態です。このようなことは、例えば戦争体験者と未体験者の言を比べて見れば明らかです。

                      念のため申し上げておきますが、前述のような話は古くはギリシア哲学や儒教の「中庸」、または釈迦の説法の中の「中道」と言ったように「普遍的な概念」として古来より広く知られているものであって、何も私が思い付きで言っている訳では有りません。結局どの教えを取っても「極端はためにならない」と言っています。それはもちろん、個人にとっても社会にとってもという意味です。そしてそれは古今東西の「賢者たち」がこぞって「合理性を追求した結果到達した結論」だということを忘れてはなりません。合理性とは、何も「手っ取り早い」とか「簡単明瞭」などといった意味では有りません。取り分けここでは「磐石」を意味しています。そのためには「相応の面倒は引き受ける必要が有る」ということで、それが合理的且つ「人が人らしく生きる」所以(ゆえん)という事ではないでしょうか。


                       
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:16 | comments(0) | - |
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