昨日、「多数決 弊害」というお題(=検索キーワード)を頂きました。つまり社会システムとしての「多数決の良し悪し」についてです。(因みに今月の検索キーワードのトップは「経験を糧にする」に類するものでした。これについては8月23〜24日の記事をご参照頂ければと思います。)
「多数決」の話ですぐに思い当たるのは、やはりシステム(仕組み)というものは何事に依らず「それだけで良い悪いを判断出来るものではない」ということで、もっと言うなら「どのように秀逸なシステムでも悪用出来る」ということだと思います。むしろ(イメージ的には)悪用出来ないシステムなんて果たしてあるのだろうか?と悩んでしまうほどです。
例えば「独裁」「ワンマン」などは私たちにとって(生理的に受け付けないほど)悪のイメージが刷り込まれた概念と言えますが、別にシステムとして「論理的」に間違っている訳では有りません。単に歴史的に「悪用される機会が多かった」という結果論なのだと思います。
それと全く同じ意味に於いて「多数決」の場合、歴史的に「悪用された機会が少なかった」と言い切れるものかどうかは甚だ疑問ですが、少なくとも「悪用されたという認識が比較的少ない」ということなのだと思います。
しかし、嘗て行われた「私刑裁判(=リンチ)」のように、「吊るせ!吊るせ!」の圧倒的多数の声に安易に従う方法に問題が無いのかというと、
現在はそのようなやり方が認められていないという事実を以って明らかだと思います。
つまり「多数決」というシステムは「合法的なマインドコントロール」によってさえ簡単に「悪用が可能」で、それに「買収や票の操作」など極めて地味な「非合法な手段」を少し加えれば「完璧な悪のシステム」として運用出来るということです。その際、独裁との違いは、方(かた)や「高圧的」であり、多数決では「低圧的」であるというぐらいで、いわゆる「真綿で首を絞められる」という状態かも知れませんが、結果に大した違いは有りません。それにそのような場合、相手の抵抗力の低下を見計らって、いきなり「高圧的」に転じる可能性も十分に有るでしょう。何故なら「悪」にとっての多数決は「ポリシー」ではなく、単なる「手段」に過ぎないからです。そのような悪の状態を、昔から「ヒツジの皮を被ったオオカミ」と表現します。
また、仮に意図的でないとしても、
思慮や配慮が不足したまま結論を急ぐと「多数決」は良くない結果をもたらします。そのような場合には、敢えて「利害関係を持たない第三者」を招いて意見を聞くなど、それを防ぐための「付加的なシステム」が必要になったりするでしょう。また、いっそのこと「経験豊富な村の長老」に委ねた方が良いという場合だってあるかも知れません。
このように「多数決」自体は、様々な意見や考え方が想定される場合の、ひとつの目安作りのためのものでありますが、それがそのまま「最良の価値判断」に直結するものとは限らないというのが本当のところです。
敢えて多数決の良いところと言えば「みんなで決めたんだから文句は無いだろう」と言えるところですが、それでも「51対49」だったりすると何か釈然としないものが残ります。
社会システムや運用テクニックなどの研究や分析はそれなりに必要と思いますが、それらの殆どは「悪用のシステムとテクニック」に転用可能ということであれば、それよりその何倍もの時間と手間(とお金)を掛けても「人間性(=人間らしい心と行い)」と「社会性(=みんなで良くなろう)」を無上の価値として「社会に定着」させる事が先決だと思います。そうすれば「多数決」の弊害も「独裁」の弊害も同じ様に「弊害を考える必要の無い社会」となるはずです。