2015.09.30 Wednesday
肩書や看板のイメージは無効です。
私たちは相手がどういう人物かを判断する際、まず相手の社会的な肩書や所属する組織を手掛かりにすると思います。極端な場合には、それだけで「相手のことが解った」つもりになるでしょう。逆に言えば、それは私たちが社会生活に於いて、日常的に「不特定多数」の人と関わりを持つ中で、無意識ではあれ如何にその部分に依存して生きているかということだと思います。また特殊な例としては、閉鎖社会などで常に同じ人間同士での関わりしか持っていないような場合には、知らない人(=よそ者)というだけで「信用ならない」ということにもなり兼ねません。
これらはみな「教育」や「経験値」から得た「固定観念」に過ぎませんが、同時に「社会に於いては相手を見誤ると死活問題に繋がり兼ねない」と考えても不思議ではないくらい「優先順位」の高い問題であることも事実です。
しかしその割には、(私から見ても)世の中の人々はずいぶんと安易に「相手のことが解ったつもり」になってしまうものだなあと思えてしまう節があります。その一因は、やはり「肩書や看板に対する固定観念」にあると思いますが、これらの多くは前述のように広い意味での「社会教育」の結果として多くの人が共有しているという側面も有り、本来は疑うべきものとは言えないのかも知れません。例えば「おまわりさんは良い人」「消防士さんは立派な人」ということであり、世の中そのような例は枚挙に暇が有りません。「大企業は信用出来る」などもその一例です。もちろん、これらの「肯定的」な固定観念の裏返しとして、「○○は信用出来ない」などの「否定的」な固定観念も存在します。
ところで、これらの固定観念には大きな落とし穴(=錯覚)が有ります。それは「肩書や看板に偽り無し」という前提が明らかでなければならず、そのためには「道義的、能力的に100%の適材適所が実現していなければならない」ということで、つまりそのような理想的な世の中でなければ、それらが「信用するに足りない」ものであることは明白です。因みに現時点では(個人的な観測値を以ってすれば)100%には遠く及ばず、社会全体としては40%に満たないと言って良いでしょう。もしかすると業種によっては「全滅同然」と言えるかも知れません。(もちろんこの数字を信じる信じないは皆さんの自由です。)しかし、もしこの数字を受け入れるとすれば、「相手方の三人に二人」は疑って掛からなければならなくなります。これは大変なことです。
では私たちはどうすれば良いのでしょう?取り敢えず疑って掛かる?私はそれをお勧めしません。何故なら「人を疑う行為は自分の心を汚す」からです。これは絶対にそうです。だから私はしません。その代わり他人とは常に「誠心誠意」向き合います。そうすれば相手のことが良いも悪いも押しなべて良く解ります。だからと言ってどうだこうだという事でも有りません。何故なら、初めから「自分の損得」で向き合っている訳ではないからです。強いて言うなら「自分の義務」として向き合っています。それは「生きる」という行為自体が「義務」であることを踏まえるなら当然のことだと思っています。
今日のような話をすると、皆さんの中には「はて?この人は音楽家・・・ではなかったかしら?」と、不可解な思いを持たれる方がいらっしゃるかも知れません。そのような方は、今日のタイトルをもう一度ご覧になって見てください。つまり、そういうことです。
これらはみな「教育」や「経験値」から得た「固定観念」に過ぎませんが、同時に「社会に於いては相手を見誤ると死活問題に繋がり兼ねない」と考えても不思議ではないくらい「優先順位」の高い問題であることも事実です。
しかしその割には、(私から見ても)世の中の人々はずいぶんと安易に「相手のことが解ったつもり」になってしまうものだなあと思えてしまう節があります。その一因は、やはり「肩書や看板に対する固定観念」にあると思いますが、これらの多くは前述のように広い意味での「社会教育」の結果として多くの人が共有しているという側面も有り、本来は疑うべきものとは言えないのかも知れません。例えば「おまわりさんは良い人」「消防士さんは立派な人」ということであり、世の中そのような例は枚挙に暇が有りません。「大企業は信用出来る」などもその一例です。もちろん、これらの「肯定的」な固定観念の裏返しとして、「○○は信用出来ない」などの「否定的」な固定観念も存在します。
ところで、これらの固定観念には大きな落とし穴(=錯覚)が有ります。それは「肩書や看板に偽り無し」という前提が明らかでなければならず、そのためには「道義的、能力的に100%の適材適所が実現していなければならない」ということで、つまりそのような理想的な世の中でなければ、それらが「信用するに足りない」ものであることは明白です。因みに現時点では(個人的な観測値を以ってすれば)100%には遠く及ばず、社会全体としては40%に満たないと言って良いでしょう。もしかすると業種によっては「全滅同然」と言えるかも知れません。(もちろんこの数字を信じる信じないは皆さんの自由です。)しかし、もしこの数字を受け入れるとすれば、「相手方の三人に二人」は疑って掛からなければならなくなります。これは大変なことです。
では私たちはどうすれば良いのでしょう?取り敢えず疑って掛かる?私はそれをお勧めしません。何故なら「人を疑う行為は自分の心を汚す」からです。これは絶対にそうです。だから私はしません。その代わり他人とは常に「誠心誠意」向き合います。そうすれば相手のことが良いも悪いも押しなべて良く解ります。だからと言ってどうだこうだという事でも有りません。何故なら、初めから「自分の損得」で向き合っている訳ではないからです。強いて言うなら「自分の義務」として向き合っています。それは「生きる」という行為自体が「義務」であることを踏まえるなら当然のことだと思っています。
今日のような話をすると、皆さんの中には「はて?この人は音楽家・・・ではなかったかしら?」と、不可解な思いを持たれる方がいらっしゃるかも知れません。そのような方は、今日のタイトルをもう一度ご覧になって見てください。つまり、そういうことです。