青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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肩書や看板のイメージは無効です。
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    私たちは相手がどういう人物かを判断する際、まず相手の社会的な肩書や所属する組織を手掛かりにすると思います。極端な場合には、それだけで「相手のことが解った」つもりになるでしょう。逆に言えば、それは私たちが社会生活に於いて、日常的に「不特定多数」の人と関わりを持つ中で、無意識ではあれ如何にその部分に依存して生きているかということだと思います。また特殊な例としては、閉鎖社会などで常に同じ人間同士での関わりしか持っていないような場合には、知らない人(=よそ者)というだけで「信用ならない」ということにもなり兼ねません。
    これらはみな「教育」や「経験値」から得た「固定観念」に過ぎませんが、同時に「社会に於いては相手を見誤ると死活問題に繋がり兼ねない」と考えても不思議ではないくらい「優先順位」の高い問題であることも事実です。

    しかしその割には、(私から見ても)世の中の人々はずいぶんと安易に「相手のことが解ったつもり」になってしまうものだなあと思えてしまう節があります。その一因は、やはり「肩書や看板に対する固定観念」にあると思いますが、これらの多くは前述のように広い意味での「社会教育」の結果として多くの人が共有しているという側面も有り、本来は疑うべきものとは言えないのかも知れません。例えば「おまわりさんは良い人」「消防士さんは立派な人」ということであり、世の中そのような例は枚挙に暇が有りません。「大企業は信用出来る」などもその一例です。もちろん、これらの「肯定的」な固定観念の裏返しとして、「○○は信用出来ない」などの「否定的」な固定観念も存在します。

    ところで、これらの固定観念には大きな落とし穴(=錯覚)が有ります。それは「肩書や看板に偽り無し」という前提が明らかでなければならず、そのためには「道義的、能力的に100%の適材適所が実現していなければならない」ということで、つまりそのような理想的な世の中でなければ、それらが「信用するに足りない」ものであることは明白です。因みに現時点では(個人的な観測値を以ってすれば)100%には遠く及ばず、社会全体としては40%に満たないと言って良いでしょう。もしかすると業種によっては「全滅同然」と言えるかも知れません。(もちろんこの数字を信じる信じないは皆さんの自由です。)しかし、もしこの数字を受け入れるとすれば、「相手方の三人に二人」は疑って掛からなければならなくなります。これは大変なことです。

    では私たちはどうすれば良いのでしょう?取り敢えず疑って掛かる?私はそれをお勧めしません。何故なら「人を疑う行為は自分の心を汚す」からです。これは絶対にそうです。だから私はしません。その代わり他人とは常に「誠心誠意」向き合います。そうすれば相手のことが良いも悪いも押しなべて良く解ります。だからと言ってどうだこうだという事でも有りません。何故なら、初めから「自分の損得」で向き合っている訳ではないからです。強いて言うなら「自分の義務」として向き合っています。それは「生きる」という行為自体が「義務」であることを踏まえるなら当然のことだと思っています。

    今日のような話をすると、皆さんの中には「はて?この人は音楽家・・・ではなかったかしら?」と、不可解な思いを持たれる方がいらっしゃるかも知れません。そのような方は、今日のタイトルをもう一度ご覧になって見てください。つまり、そういうことです。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:33 | comments(0) | - |
    物事の良し悪しは中身で決まります。
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      このところ「当たり前」のことばかり書いています。今日のタイトルだってそうです。そんなことを改めて並べ立てなければならないほど、今の世の中は変質してしまっているということです。そのような中で「真っ当な子育て」「まともな教育」など不可能に近いと思われますが、右往左往している場合では有りません。まずは自分、次に身内、それから隣人、少し離れた知人、友人と(順序はどうでも良いですが)、少しでも良い影響を与えるべく日々を重ねることが、最大にして最良の生き方と信じて止みません。みなさんは如何お考えでしょうか?

      ところで、今の世相を一言で表すなら「究極の形骸化」というところでしょうか。中身の良い悪い以前に、「中身はどこへいった?」という感じです。但し大本(おおもと)である政治、経済には「明確な悪意」を感じます。そしてそれらの下でコントロールされる社会のシステムや文化的な色付けに於いては、本来の機能や意味合いが(意図的に)全て接収されて中身のないまま、ただ外見的に人が喰い付くような下卑た装飾を施された抜け殻が、さも価値有るものの如くもてはやされているに過ぎないというのが現状、という風にしか私には見えません。そんなことをする目的は何でしょう?おそらくそのような「ド派手なモノ」「ご立派なモノ」に人々が目を奪われ、心を奪われている隙に「こっそりと誰かが何かをしたい」のだと思います。それは「100%悪いコト」だと言えます。何故なら、それ以外にそういう姑息なマネをする理由は皆無だからです。そして私が悪人なら必ずそうします。
      私は政治や経済の「裏読み(=陰謀論)」の専門家ではありませんが、現状の様にあまりにも立て続けに人々の関心を他に逸らしつつ、裏で重大決定が行われていく様を(これでもかと言うように)見せつけられると、それらが偶然でないことは否応にも解ります。そのように露骨であって構わないということは、そのような人たちは何故か大変に焦っているということになりますが、普通に考えれば焦ってやることはうまくいかないので、最後の最後は多分失敗に終わるでしょう。

      物事は「虚飾」が過ぎると、そのものが既に死んでいることを表すことになります。そのようなことも解らないセンスしか持ち合わせの無い人たちの嘘は、実はついた端からバレているものです。それは「疑う」以前の問題で、丸見え状態ということです。何と、嘘には優れたセンスが不可欠なのです。自信のない人は嘘をつかないことです。
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:45 | comments(0) | - |
      病んだ人々
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        昨日も申し上げた通り、今後しばらく「強めの文章」が続くかも知れません。語調の強弱は私自身の趣味趣向で決めることではなく、今どういうことが必要とされているかに依存していますが、好みでない方はもちろん避けて頂いて構いません。決して押し付けでは有りませんので。

        まず、政治に携わっている方々の大半は概ね病んでいらっしゃいます。そのような方々が殊更その手の仕事を選ぶのか、政治という病巣が人を変えてしまうのかは定かでは有りませんが、選挙で候補者として立った時点で、少なくとも「国政」に何の関係も無いアピールをしたり、ポスターに抽象的で意味のぼやけたキャッチフレーズを掲げたりしている時点で「ある種の病気」だと感じられない「私たち主権者」の民度の低さが悲しすぎるとしか言い様が有りません。何故なら、(要件を満たしている限り)立候補する権利は誰にでも有り、それを阻害する訳には行かないからです。

        次に、官僚に代表される行政に携わる方々の大半も概ね病んでいらっしゃいます。良くこうした立場の方々は、総じて「優秀」「有能」という言葉で表されますが、もしそれが正しい評価であるなら、まるで「そうすることが優秀の証」とでも言うように「物事を全て灰色に染め抜く」ような真似はしないと思います。言い換えれば「グレーに価値を感じている」時点でその人は病(やまい)を患(わずら)っている」ということです。
        因みに「優秀」ということは、「白と黒」を瞬時に見分けて「白」を確実に具現実行することに他なりません。今現在の行政がそうなっていますか?

        司法に携わる人々に於いては、どうやら「荷が勝ちすぎている」様です。本来ならば法的、社会的要件もさることながら、人間力(=人間性)という要件が絶対に必要なはずですが、もし人選に於いてその部分が熟慮されていないとすれば、適合者は圧倒的に少ないはずです。その場合は「重圧」でおかしくなったり、腑の抜けた機械的作業しか出来なくなります。もしかすると一方的な押し付けとも言える「裁判員制度」は、病的状況の裏返しかも知れません。

        大手マスコミの病状も長らく批判の対象となっています。特に「ここ一番」の時の「隠蔽」「歪曲」「捏造」ぶりは、真に凄まじいものが有りますが、見方を変えると今更そんなことで驚いているのは日本だけだとも言えます。ある調査によれば、日本では70%以上の人々が「大手の新聞やテレビの報道を真実だと思っている」そうですが、イギリスなどではその割合は30%に満たないとのこと。つまり海外の人たちは真実を知るために複数の異なるソースを比較検討し、最終的には「自らが判断を下す」という習慣が身に付いているということになります。要するに「日本の民意が立ち遅れているだけ」ということの様です。後悔しないためにも日本人としては、ここは即刻改めた方が良いでしょう。
        ということで、大手マスコミは現在、その病状を按ずる状況を通り越して「感染源」であることが問題です。是非ともその「自浄作用」に希望を託したいと思います。

        ビジネス(=経済)に携わっている人々は一見元気そうですが、「身勝手な振る舞い」自体がそうしたエネルギーの原点であることを忘れてはなりません。それを思えば本来絶対に「適切な抑制機能」が必要なはずですが、国際的な規制緩和、自由化が更に進めば、やがて制御不能となることは必定です。それは元々「飼われている」という意識が低く野性味の強い家畜の「手綱や柵」を取り払うに等しく、そうなれば飼い主の事など一顧だにせず、さっさと行きたいところへ行ってしまうでしょう。そうなれば、日本から「経済活動」という実態が消失し、少なくとも「独立国家」ではなくなります。誤解を恐れずに言うなら、ビジネスには元々そういう側面が有り、「規制」とは相容れない体質のものということだと思いますが、問題は「物事の優先順位」に有ります。つまり「ビジネスの都合」を最優先にしてしまえば、国を滅ぼし兼ねないということになり、そうした発想は極めて「病的」と言わざるを得ません。

        と、今日は取り敢えず問題提起をして見ました。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:57 | comments(0) | - |
        人と社会の化けの皮
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          以前に比して、このところ記事の内容を意識的に少しだけレベルアップさせています。理由はもちろん世の中の情勢に呼応させるためですが、それだけ私たちを取り巻く自然環境や、政治経済、国際情勢を含む社会環境の推移に「尋常為らざるもの」を感じざるを得ないということです。

          まず、このところの特徴的な事象として「組織や人の化けの皮が次々と剥がされて行く」というより、まるで自ら「こんな暑苦しいモン被ってられっかヨ」と言わんばかりにあちらこちらに脱ぎ散らかして、進んで正体を晒しているとしか思い様が有りませんが、おそらく当人たちにはそういう意識が無いのでしょう。傍から見れば「喜んで墓穴を掘り進めている」ようにしか見えませんが、こちらには残念ながらそれを止(とど)める手立ても義理も有りません。
          これは単純に「モノが見えていない、聞こえていない」にも関わらず、「大丈夫、安全確認は出来ている」という思い込みに支配された状態といって良いでしょう。人間には元々「信じたいことだけを信じる」傾向があることに加えて、焦りや苛立ちによって「心配ないさ、行ける、行ける」など全く根拠の無い気休めすら動機にし得る危うさがありますが、そこまで行くとほとんど「病的レベル」と言えると思います。であれば「自己運命の破壊的行為」も頷けます。
          問題はそのような「病的自己破壊」が社会的影響力を持った人たちの間でも起きるので、そのための一定の社会的混乱は免れないということですが、とにかく「病気」であれば、それも仕方有りません。今後しばらくは、心ある人ひとりひとりが社会参加の中で常に一定の警戒感を持って、いつ何が起きても混乱を最小限に食い止めるような対応に努めることが求められると思います。

          現代社会はおそらく皆さんが考えているよりも、ずっとずっと病んでいます。それは既に、いつどこでどのような「機能不全」が起きても不思議では無い状況と言って良いでしょう。(国会自体が既に機能不全という話もあります。)
          何れにせよ「社会は役割分担で専門家に任せておけば安心」という感覚は今は持たない方が無難です。
          ちょうど今「防災」に注目が集まっているようなので、そこに「社会的混乱への対応」も含めておくと良いかも知れませんね。
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:46 | comments(0) | - |
          「複雑」で「難解」な物は無価値です。
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            例えば、取引上の契約書が複雑で難解だとすれば、それは「相手を煙(ケム)に巻くため」としか言いようが有りません。私だったらそれだけで「ワケが分からんからやめた」となるでしょう。いや、表向きはそういうことですが、正しくは「人を騙そうという意図が良く解った」ということです。
            ところがいつの頃からか、私たちは「複雑で難解なものほど価値が高い」とスリコミをされてきました。むしろ「難しいと感じるのは自分の価値が低いからだ」とコンプレックスを持つように誘導され、「分からない」と表明することすら憚(はばか)られるような風潮すら存在します。

            実は「複雑で難解なもの」は人間にとって「毒」の作用をもたらします。それは人の自然な感性を鈍らせるばかりではなく、人間の頼みの綱でもある「五感」の働きをも鈍らせるからです。その代表的なものに「学毒」「薬毒」「肥毒」が掲げられます。これらの分野に長年勤しんできた人々にとっては「極めて心外」な話かも知れませんし、多くの人々にとっては「寝耳に水」かも知れませんが、所詮人間の為すことに完全も永遠も有りません。折り返し地点では踵を返し、用済みで撤収時期が来れば撤収する。例え「毒を毒と知るために数千年を要した」としても、そのことを理由に「だから撤収出来ない」という理屈は成り立ちません。躊躇している間に「毒」による被害はさらに広がりますが、そういう人間の愚かさも既に折り込み済みかも知れません。

            とにかく心ある人々は、今後も「複雑で難解なもの」には興味を示さないと思いますし、より明瞭で透明性の高いものを求め続けていくであろうと思われます。そのような中から、新しい時代に必要とされる「新しい発想」や「新しい力」が育っていくものと確信しています。

            何れにせよ、真実は常に「理路整然」としていて、すったもんだする余地などないものです。
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:54 | comments(0) | - |
            自然な生き方とは何なのか
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              今日はまともに記事を書く余裕が有りませんので手短にいこうと思います。
              人間に限らず、あらゆる生き物には自然体(=自然な生き方、それらしい生き方)というものがあると思います。
              人間の自然体とは「ひたすら我欲の限りを尽くすこと」でしょうか?それとも「ひたすら周囲を気にして八方美人を極めること」でしょうか?
              どちらも違うと思います。何故なら一方では「外的要因」によって、他方では「内的要因」によって、身体的に「過度のストレス」を受けることになるからです。そのような状態を「自然」と認める訳にはいきません。
              人間にとって本当に居心地の良い状態とは、自分も含めた中での「みんなに良い」と感覚的に認められる状態のことです。そのバランスを探り、求める生き方は人間にとって「何らストレスになりません。」嘘だと思ったらやってみると分かります。「いや、ストレスだよ」と言うアナタ。それでは論理的にストレスから開放される術を持てなくなります。(既にストレス麻痺とストレス解消の区別が付いていない可能性が有り、危険です。)
               
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:08 | comments(0) | - |
              病人は悪人だ。
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                今を遡る昭和29年のある日、この言葉が(私の知り得る限り)初めて世に放たれました。そしてそれから21年を経た昭和50年に、私は初めてこの言葉の存在を知り、大変衝撃を受けました。何故なら当時私は「病人」だったからです。
                この言葉は、人の人生観を一変させるほど強烈なインパクトを含んでいますが、だからといって安易に世の中に広められて良い結果が得られるとも思えません。その理由は「ある人物が病気であることは客観的事実として周囲に認知される事柄」だからです。そこで「病人は悪人」という共通認識が為されたとすると、即座に「あの人は病気=あの人は悪人」とされてしまい、他人の名誉を大いに傷つけてしまうに違いないからです。

                上記のような誤解は「悪人」という意味を正しく理解していないために生じますが、少なくとも「他人に対する明白な悪意」や「自己中心主義」を意味するものとは言えず、従って「病気を理由に他人から悪人呼ばわりされる性質のものではない」ことは、是非ご理解頂きたいと思います。
                しかし病気の折、自分で自分を見つめなおす際には「病人は悪人だ」という言葉の意味は計り知れないほど大きいと思います。その基本的な理解として、「病気は体の浄化作用」ということがあり、「日頃悪いものを溜め込むから浄化する必要が生ずる」となり、「悪いものを溜め込み易いのは思い違いをしているから」とまあ、簡単に言えばそのようなことで、この場合は「思い違い=悪」という図式になります。
                但し、実際には「体的理解」だけでは不十分で、「霊的理解」が深まった分だけ言葉の真意に近づくことが出来るという一面があります。

                何れにせよ肝心なことは、病気に限らず人間が障害に行き当たった時に、「もしかすると間違っていたかも知れない」と思うか思わないかによって、以後の選択肢が何倍も違ってくるということです。人間は可能な限り「その都度リセット」出来た方がはるかに生きやすいはずです。(リセットしても必要な記憶や能力は残ります)「リセットしたらオシマイ」のように感じる人は、既に過去にしがみついた生き方をしていて、もしかすると今を生きていない可能性が有り、それでは病気のメカニズムは到底理解出来ないかも知れません。
                 
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:23 | comments(0) | - |
                思っただけで殺ったコトになります。
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                  この根拠は「悪いことは思っただけでやったと同じ」という言葉に有ります。その一方で「良いことは実行しなければやったことにならない」とされ、頭に良いことがいくら浮かんでも身にも皮にもならないと戒めております。
                  これは人の行く末や死後の処遇は、全て「徳、不徳の差っ引き計算」によると定められていることに関連が有ります。つまり3つ良いことをしたあとで2つ悪いことをすれば、差引1つ良いことをしたことになる、というものです。そしてその場合「悪いことをする」という中身には「悪いことを思う、考える」ことも含まれてしまうので、如何にも「悪行を働いた」というような自覚もないまま「いつの間にか不徳ばかりが増えている」可能性があるということです。
                  私たちはたまたま不幸を感じた時、「何にも悪いことしてないのに・・・」などとつい考えがちですが、「思っただけでもやったと同じ」というルールも合わせて考える必要があると思います。

                  ところで近年、ネット上の書き込みなどで相手を誹謗中傷する際に、「死ね」「死刑」「殺す」などの過激な表現も少なからず存在するようですが、これらは「思っただけで殺ったと同じ」としてカウントされる可能性があります。何故なら霊界は心象の世界で、イメージ自体が物事の原因となり得るからです。単に他人を非難するために「死ねよ」と書いたがために、実質「殺人者」としての烙印を押され、以後の処遇が決められてしまうなど、如何にも割の合わない話だと思いませんか?
                  「そんな重い意味じゃなく、もっと軽い気持ちで使っている」としたら、尚の事問題です。少なくとも言われた相手は、重くしか受け止められない訳ですから、それでは「軽い気持ちで人を殺す」という意味にしかなりません。

                  とにかく「思い」は非常に重要です。そして、それらが「全てカウントされている」ということだけは、忘れないで下さい。
                   
                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:31 | comments(0) | - |
                  悪い人がイイ思いをするという素朴な疑問
                  0
                    今日はいささかコワイ話が含まれるかも知れませんが、疑問の解消には不可欠と思われます。なので必要ない人はスルーしてください。

                    人生をトータルで見た場合、決してそのようなことは有りません。善徳行が人の将来を作り、悪事や不徳を重ねれば人の将来は破壊されるというのは、善良な人々の「希望的観測ではなく事実」です。
                    ただ、人によって今世のスタート位置にハンディが付けられている場合があることを理解する必要はあると思います。その多くは「生まれる前」の記憶に無い出来事や条件に関わっているため、本人が自らのハンディの全容を正確に認識出来るわけではありませんが、その人の心柄次第で「ハンディを受け入れる」ことは出来ます。そうすれば、後日そのハンディが「全く正確で妥当なもの」であったことを知ることが出来るでしょう。
                    一方で、ハンディに承服出来ない人もいます。そのような人たちは、人生の比較的早期から「世の中は理不尽だ」と感じるようになります。特にハンディを「まともに消化してゆく」ことには強い抵抗感を示し、ずるいことや汚いやり方を覚えてバイパスを作ろうとしますが、なかなかうまく行かず、そうなるともはや世の中や運命というもの自体が憎悪の対象となってきます。
                    もし、このような状態の人が「願掛け」をしたとすると、そのような「願」はいったいどこに通じると思われるでしょうか。そう、それは当然「闇の世界」に通じることとなります。それらは古今東西いろいろな呼び名で呼ばれていますが、つまりそういうことです。
                    ここでひとつ重要なことを申し上げておきますが、「闇の世界」は人間が自ら呼び寄せない限り、決して近づいてきません。何故ならそういう掟だからです。

                    また自ら願を掛けずとも、そのような想念を放っていれば、リクルートのための「代行人」が近づいてきて、甘い言葉で誘う場合もあります。これらの関係はみな「闇の世界との契約」という形で履行されます。契約書を書こうが書くまいがそうなります。願掛けの場合ももちろんそうです。
                    契約というからには、当然その関係は「ギブアンドテイク」で成り立っています。
                    例えばあなたが「幸せになりたい」という申し出をしたとしても、額面通りに「幸せを与えられる」わけではありません。何故なら「闇の世界」に於いて「幸せ」という心の豊かさに類するメニューは存在せず、全ては「物質的なもの」に置き換えられることになるからです。つまり(人によっては)「プール付きの大邸宅」とか「巨万の富」とか「社会的地位」などの提供は受けることが出来るかも知れませんが、そこで契約に基づく提供や支援は終わり、今度は「闇の世界」がテイクする番となります。あなたは何を差し出すことになるかというと、自らの「霊魂」です。「闇の世界」によって狩り獲られた霊魂は、通常の霊魂とは区別され、二度と再び浮かび上がって来ることが出来ないとされています。

                    現代社会の摩訶不思議な世相の一端を裏から考察すると、まあそういうことです。
                    いずれにしても、世の中には「それでもいいからイイ目に会いたい」と思う人がいるのでしょう。もちろんそのような人は周囲にとって傍迷惑に違い有りませんが、それも「死の淵で本人が感じる後悔の念」に比べれば、まだ大したことではないのかも知れません。
                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:18 | comments(0) | - |
                    真の勇気とは
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                      もちろん戦場でアドレナリン出しまくりながら血気に疾(はや)って敵をぶった斬りまくることでは有りません。それは単に「極度の興奮状態」であって「一種の錯乱状態」と言えるかも知れません。何故なら冷静に考えて「人を殺して良いわけがない」からです。とは言え、生きるか死ぬかの生存競争ですから「必死」にならざるを得ないのも分かりますが、そもそも「そのような形での生存競争が正しいか否か」すら判断出来ていないとすれば、残念ながらそれを以って「勇気」と賞賛することは到底適いません。

                      「勇気」とは、まず「沈着冷静」の元でなければ正しく発動しません。しかもそれは「自らの信条」に合致した行いに対するものでなければなりません。つまり「自らの信条を言動に表す際に必要となるものが勇気」ということです。しかし何故、言うなればこの「信条通りに生きる」ということが、人間にとってそんなにむずかしいことなのでしょうか。何故そこにいちいち勇気が必要とされるのでしょうか?
                      それは、今の日本社会全般に(暗黙の了解として)強いものに従い、声の大きい方へなびくことによって平穏が保たれるものと信じられている向きがあるからです。つまり「長い物には巻かれろ」ということでしょうか。その根拠としては、互いに同一民族同士でも有り「おとなしく従っていれば悪いようにはならないだろう」ということなのかも知れません。(グローバル化が進んだ現在ではもはや通用しないかも知れませんが)

                      そうした保守的な考え方の下、曲がりなりにも「安定」が演出される中で、自らの信条に照らして違和感を感じ、それを声に上げたり他人と違った行動を取る者がいたとしても、中身がどうこう以前に「安定を汚す悪者」として生理的に嫌悪される傾向が確かにあったことは否めません。私たちは「今日と明日はだいたい同じが良い」「ガラッと物事が変わると困る」という保守的な感覚でもって日々暮らしている限り、そこに「一石を投じられる」ことは迷惑以外の何者でもないのかも知れません。
                      しかし、これだけははっきり言えますが、これからは(好む好まざるに関わらず)あらゆる変化が今までよりずっと早いスピードで起きてきます。そのような時に無理に「安定」を求めようとしても、それは単に「手遅れ」の状態を招き入れることにしかなりません。

                      そのような意味に於いて、今もっとも求められているのがひとりでも多くの人たちの「勇気ある行動」だと思います。
                      社会では多くの人たちは何らかの「組織」や「グループ」に属していますが、それぞれの組織は「体質」に支配されています。それらは多くの場合長年培われてきたものがほとんどで、安定を求めて妥協や迎合を積み重ねる間にいつの間にか「社会倫理」に反するかのような体質に変容してしまったものも少なく有りません。「ものに流される」とはそういうことで、組織が大きければ大きいだけ、社会全体に及ぼす影響は甚大なものとなります。(事実なっています。)しかし、組織は常に利益が優先されるため、改善に向けたフットワークは極めて悪く、自浄能力は皆無に等しいでしょう。
                      このように「右へならえ」の形で日本全体に悪影響を及ぼすような体質の組織が増殖すれば、やがて日本は滅んでしまうでしょう。

                      このような状況下で、組織に楔(くさび)を打ち込み、道義の回復を計り、悪影響をストップさせることが出来るのは、組織内部のひとりひとりの人間に他なりません。例えば「内部告発」を行えば、当然組織からは裏切りと見なされ、制裁を課せられる事になるでしょうが、本気で社会を良くしていきたいと考える人たちや、組織内部で思いを共有していた人たちからは、喝采を以って迎えられることとなるでしょう。
                      何れにしても、内部告発をした人は組織内での「安定した地位と収入」を失う可能性が高いでしょうが、そもそもそれらが「倫理」を踏み外し、多くの人々に対する不誠実さの上に成り立っていたことを思えば、そちらの方が異常だったと理解出来ると思います。
                      今現在、社会のひとりひとりが自らの置かれた環境(=組織)の中で「信条に忠実に行動する」ことが最も求められており、それに勝る「勇気」は他に無いものと確信します。自分の生き様に僅かなりとも「後ろめたさ」を感じる人は、是非ご一考頂ければと思います。
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:02 | comments(0) | - |
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