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声のデカい方が勝つ!
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    このところの政治、経済の動向、ビジネスやトレンドのノウハウ、更にはネット社会に至るまで、概ね「声のデカい方が勝つ」という行動原理に基づいているように思えてなりません。そのような社会に積極的に関わろうとする人々の中に、おそらく「正しい方が勝つ」などという信念やイメージは毛頭ないでしょう。ただ如何にして「他人よりもデカい声を上げるか」が唯一の関心事と思われますが、これが「比喩的表現」だからいいようなものの、本当に人が群れ集う中で(主張の良し悪しに関係なく)声のデカさで他人を圧倒して押し通そうとする人間を目の当たりにし、そのガナリ声を聞かされたら、皆さんはいったいどう思うのでしょうか。(おそらくその下品極まりない振る舞いに強い嫌悪感を覚えることとなるでしょう。)

    残念ながら、今の社会で私たちが「普通のこと」として受け入れようとしている物事の殆どは、このように「声のデカさ」によって半ば強引に「普通のこと」とされてきたと言っても過言では有りません。ただ、そのままでは「横暴さ」が際立ち、「暴力的な印象」を免れないため、現在ではそう思わせないためのあらゆる策が講じられることとなります。
    基本的には「デカい声」を際立たせないために「周りの声を小さく」します。但し「完全に沈黙」してしまうと返って不自然なので「適度に小さく」します。即ち「周りを静かにするための裏工作」が積極的に行われることとなります。その方法は昔から「一に買収、二に恫喝、三に排除」と決まっています。その後、周囲がある程度静かになったところで、「普通の大きさの声」で主張を繰り返し行う一方で、サクラ(=賛同者を装った仲間)を大量に動員して、如何にも主張が好評化されているように偽装工作します。
    現在では多くの(大手)マスコミの協力を取り付けることで、サクラの肩代わりとする方法も良く用いられます。この場合、マスコミは「一に静観、二に賛同」というひとり二役を担う大変重要なパートナーとなります。民間によらず、近年は公共放送であるNHKも方針を転換し、この偽装サークルに加わったように聞き及んでおります。

    このように「声のデカい方が勝つ」という発想自体は大昔からあるものですが、それは「腕っ節(=暴力)の強い奴が勝つ」と同じ理屈であって、曲りなりにも「民主主義」の手前、ただ「暴力」を「声」に置き換えただけのことですから、如何に策を講じてオブラートで包んで見ても、根底に「暴力」が存在することは間違い有りません。故に、私はそのような社会構造を望みません。何故なら、それは「みんなで良くなろう」という発想とは無縁のものだからです。

    核を保有する国は核で滅び、暴力を有する者は暴力で滅ぶ。それがこの世の摂理というものではないでしょうか。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:54 | comments(0) | - |
    何でもかんでも「並列関係」にするな
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      物事の仕組みは「縦の関係」と「横の関係」で作られています。もちろん社会構造も人間関係もそうです。(本質論としては「縦横陰陽」で説明されますが、そのことは取り敢えず置いておきます。)
      人間も普段から(半ば無意識に)縦と横の関係を感じながら生きています。実は、そこには果たして「何が自然で何が不自然か」という厳然とした論理的整合性が存在するのですが、近年に於いては「それを無視したり取り違えたりすることによる歪(ひず)みや軋轢」が多々見られるようになりました。そもそも「物事を正しく理解する」ということは「縦横の関係を正しく理解すること」と言っても過言では有りません。ですから、まずそこでつまずいてしまうと、物事は決して良い方向には向かいません。

      そこで最初に押さえておきたいのは、人間にとっての「縦横の関係」とは具体的に何を指しているのかということですが、言葉の持つイメージから、間違っても「縦とは縦社会のことで、一般的な権力構造に於ける上下関係」などと思わないで頂きたく、一応釘を刺して置きます。
      まず「縦の関係」とは「責任という概念を前提とした抱合関係」のことです。おそらく、その殆どは「親子関係」になぞらえて説明可能な事柄になると思われます。
      次に「横の関係」とは「責任という概念を前提としない協力関係」のことで、前者に倣(なら)うならその関係性は「兄弟(姉妹)」に例えられるものと言って良いでしょう。これはもちろん、兄弟同士の関係性で責任の概念が全く生じないという意味ではなく、あくまでも「構造的なものか否(=任意)か」というレベルでの問題です。

      次にいくつかの例を挙げて、問題点を押さえて行きたいと思います。
      例えば、現在も沖縄の普天間基地の辺野古移設問題で、国(=日本政府)と沖縄県(=地方自治体)の関係が割れていますが、この場合の「国と地方」との関係は「縦の関係」即ち「責任という概念を前提とした抱合関係」に相違なく、間違っても「責任構造」から外れた「並列関係」ではないはずです。従ってノーマルに考えるなら、国は「親が子を思う気持ち」で問題関係に手放しで臨むべきであるはずです。その際「最も重大な誤り」が考えられるとすれば、それは国が「強権」を発動してゴリ押しすることであり、それは我が子の苦しみに対して「親の顔に泥を塗るな!」と凄んで見せることと同じです。そこではいつの間にか「親と子が並列関係」に陥っていますが、これは明らかに「親の間違い」です。

      また、世の中の母親の中には「夫婦の離婚」を年端も行かない我が子に説明する際に一言も詫びること無く(欧米流と称して)「だってママが幸せを感じなかったらアナタも不幸でしょう?」という理屈をコネる人がいるそうですが、これも典型的な「親子関係の歪曲」であって、物の見事に「親子関係を並列化」していることになります。何故なら、それは言葉を変えれば「ママが楽しくない時は、オマエの世話は出來ないヨ」と言っているのと同じだからです。いったいこのような発想のどの部分に子どもは「親の愛」を感じることが出来るというのでしょうか?子どもの人生が「親の気分」で左右されたのでは、子どもはタマったものでは有りません。是非ご一考頂きたいと思います。
      因みに「母親」に限らず「父親」でも同じことですが、たまたま聞き及んだ話がそうだということで、それ以上の「他意」は有りません。

      とにかく、今の人たちは「責任」という言葉を殊更嫌うようです。いや、「責任者」という響きは好きだが「責任を取ることは嫌い」と言い直した方が良いかも知れません。(そういう総理大臣を一人知っています。)そのため、何でもかんでも「並列関係」にしてしまうのですが、それは「不幸の原因」にしかならないということに早く気が付くべきです。何故なら、それは「本質的な誤り」だからです。
      | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:02 | comments(0) | - |
      「冷静」を勘違いしている人々
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        「冷静」とは、人が「理性的」な状態であることを指します。しかし、その「理性」について、たぶん多くの人が誤解をしているようです。
        「理性」とは、その言葉が示すように「論理性が機能している状態」のことですが、それでは「人間の中で論理性が十分に機能している状態」とは、どういう状態を指しているのでしょうか? 冷徹、動揺しない、理屈っぽい・・・すべて違います。それらは単なる「感受性の鈍化」に過ぎません。人間の感受性が鈍化してしまったら、人間的な機能の大半を失ってしまうでしょう。何故なら、誰しも「感覚出來ない刺激に反応することは無理」だからです。但し、それでもお金を稼いでご飯を食べることは出来ます。それは人間的な機能とは無関係なことだからです。

        人間は「感受性が鈍化」すると「冷酷」になります。それは「他人との共有」が為されなくなるからです。例えば「痛みの共有」が無くなれば「他人の痛みが分からない」人間となり、平気で他人を傷つけることが出来ます。また、「人それぞれに事情が有る」という感覚が持てないため、「杓子定規(しゃくしじょうぎ)」に物事を計り、平気で人を切り捨てます。
        このような「人間的にも社会的にも好ましくない傾向」は、主に「上下関係」や「権力構造」の中で、より起こりやすくなります。何故なら、「冷酷さ」は「差別意識」を伴った「権利または職務の行使」として正当化されやすくなるからですが、本来「人間社会」に於いては、如何なる場合であっても「冷酷さ」が正当化されるはずも無く、そのような人間の「適正」自体を疑わざるを得ません。
        因みに、人間は「感受性が鈍化」すると、目の輝きが極端に失われ、顔つきが固く、表情が乏しくなりますのですぐにそれと判ります。(取り分け立場上陥りがちな「全ての公務員」の方々は、一度鏡の前で確認されて見た方が良いと思います。)

        ここまでは「冷静」と「冷酷(=薄情)」は正反対のものであるがゆえに、くれぐれも間違えないで欲しいという話でした。
        そこで改めて「冷静とは何か」と問うなら、「人間性が十分に発揮されている状態」と答えることが出来ます。人間の心には本来「智慧と勇気(=物の道理を形にするためのもの)、愛と情け(=個々と全体を無条件に結びつけるためのもの)」の四つの要素が在り、それらの全てがひとつの心として「安定」している状態を「冷静」と表現している訳ですから、決して「ただの冷めた状態」を指しているのでないことをご理解頂けると思います。「ただの冷めた状態」には「無関心、無感動、腑抜け、虚無、しらけ」などという言葉が別に有ります。
        つまり本当の意味で「冷静な人」とは、「感受性豊かにして好奇心旺盛、思いやり豊かにして決断力、行動力に富んだ人」のことです。ただ、そのような人は思考に迷いがなく、行動に無駄がないので、いちいちテンションを上げて「ヒートアップ」する必要がなく、そうした意味で「冷静」と表現しているだけのことですので、くれぐれも誤解無きようお願い致します。
         
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:00 | comments(0) | - |
        小学校四年生の自殺?
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          タイトルの「?」マークは、私の気持ちでは有りません。事件の話を聞いた一般の人々は、たぶんそう思うだろうということです。但し、今回の事件が「間違いなく自殺」であるかどうかの確証は持てませんが、例え10歳の子どもであっても、自殺することはあると思います。そこで、そのことを少し「構造的」に考えて見たいと思います。

          まず、子どもに限らず「人が死にたくなる」のはどういう時でしょうか。もちろん「夢も希望も失った時」には違い有りませんが、ではそれはどういう時でしょうか。それは「人や社会との繋がりを、自らの意に反して一方的に断たれる時」です。つまり自分が「社会的な輪の中から強制的に排除されてしまった時」ということです。
          もちろん「反社会的な人」は、自ら「社会の輪を離脱」しているということで対象とはなりませんが、社会に対して「依存度の高い人」ほど、「強制排除」によるダメージは大きい訳です。増して「子どもは大人よりもはるかに依存度が高い」ので、そのダメージをまともに受けてしまいます。ですから子どもにとっては、そうした際に確実に作動する「保護回路」の存在が絶対に必要になります。

          子どもにとっての社会とは「学校、友だち、家庭」の三つだとすれば、「社会からの強制排除」に該当するのはまず、「学校や友だち関係に於けるイジメや疎外感(=合わない)、レベルについて行けない」などと、「家庭内の不和、無理解」の2つの要素が考えられますが、このうち何故「学校、友だち関係」では「無理解」が問題にされず、「家庭内」では「無理解」が問題となるのでしょう?
          それは一言で言うと、「学校や友だち」と「家庭」は並列的に考えるべきものではないからです。つまり、そこには「他人同士は理解し合うことを課題として望めば良い」のに対して、「家庭内では理解が出来ていないこと自体が大問題」という違いが厳然と存在しています。何故なら「家庭」即ち「親」が子どもに対する「保護回路」の役割を担っているからです。
          子どもは「親の理解」を得られている限り、「社会からの実質100%の強制排除」を免れることが出来るので、死に至る必要は無くなりますが、万一、親からも「落ちこぼれ、ダメ人間」など白い目で見られるようなことがあったなら、その瞬間に「実質100%の強制排除」を受けたこととなり、文字通り「居場所」が無くなってしまいます。そうすると、もはや「死に至る」しか有りません。つまり小学生の自殺は「有り得る」ということです。

          社会はどうあれ、最終的に子どもを「追い詰める」か「追い詰めない」かは、親の一存に掛かっています。親の皆さん、どうか頑張って下さい!
           
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:21 | comments(0) | - |
          「競争原理」は明確な誤りです。
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            皆さんは「競争(=競い合うこと)」は人を強くし、人の能力を引き出し、その力が「強固で確かな社会を作る」などと思っていませんか?
            これは資本主義や自由主義の名の下、ごく少数の経済的優位性を画策する人たちの詭弁でしか有りませんが、政治的にそれらの経済システムを広く社会に浸透させ、受け入れさせるためには、そのような「競争を美化し奨励するためのマヤカシ的詭弁」を弄する以外にないというだけの話です。
            ですから幼稚園、保育園レベルでは「協調性や助け合い」を重視していたにも関わらず、小学校に進むといきなり「競争力の強化」が意図的に行われ始め、明らかに「他者との競争を美化し善化する教育」が積極的に行われるようになります。そしてかつての「協調性や助け合い」は、(まさか全面否定する訳にも行かないので)単なる「お飾り」として片隅に追いやられています。
            それが証拠には、子どもたちがやがて学業を終了して社会人となった時、いったいどこの企業が「企業間の協調性や助け合い」をモットーに経済活動に勤しんでいるというのでしょう。もちろん「談合や業界内での口裏合わせ」または「共通の敵」に対する「軍事同盟的関係」は存在しますが、それはあくまでも「自社のための戦略上の選択肢」のひとつであって、間違っても「他者に対する気遣い」などではなく、実体は(当たり前ですが)「競争原理」そのものです。つまり現社会に於ける「期待される人間像」とは「鍛え抜かれたゴリゴリの競争原理主義者」ということになります。

            しかし残念ながら、他者との競い合いを前提とした「競争原理」と、「人に恥じない人格、豊かな人間性」は相矛盾する関係であり、「共存」する道は有りません。霊的にも「競争」は心を荒れさせ、視野を狭め、はっきり言って「霊層」を下げます。もし、そのような自覚が無いとすれば、それは単に「麻痺」しているだけで、「競争原理」に支配される限り、この矛盾関係を克服することは、決して出来ません。
            これは考えるまでもなく当たり前のことで、敗者にとって過酷なシステム基盤が存在することを承知で「競争原理」によって時には他人を踏み台にし、時には他人を(その座から)追い落とし、時には(一人勝ちのために)弱小の者たちを薙ぎ払うという行為を繰り返した挙句、相手を慮(おもんぱか)る気持ちも一切無く「負ける奴が悪い」という理屈のどの部分に、私たちは「人間性」の欠片なりとも感じる事が出来るのでしょうか。
            しかも、豊かな人間性が幸福な人間と幸福な社会を作り、人間性に悖(もと)る心が不幸な人間と不幸な社会を作るという、大原則に照らして見た時に、「競争原理」に固執する人間は、ただの「迷惑な存在」に過ぎません。
            ただでさえ「資本主義システムのいかがわしさや限界」が取り沙汰されている昨今、原点に戻って「物々交換の真っ当さ」と合わせて、上述の如き「競争原理の欺瞞性」に対してそろそろ猛省すべき時が来ているのではないでしょうか。

            因みに、「競う」とは本来「自分の潜在能力」に対して「自身の今価値」が行うものであって、その際、目安や気付きの参考となるのが「他者」の素晴らしさや頑張る姿であるというのは「古来よりの常識」です。従って「正当な日本文化」に於いては「他者とは尊敬と感謝の対象」でしか有り得ません。「だから間違っても(自分より優れた)他者に「敵対心」なんか燃やすんじゃないよ!」そもそも失礼だし、そんなこともマトモに教えられないような「教育者」が大勢いるようで、情けない限りです。それでいったいどうやって幸福になるつもりでしょう?まさか、金ですか・・・・・?
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:48 | comments(0) | - |
            心に方便は無い
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              「方便」とは、あくまでも言葉上の「手加減、さじ加減」の問題であって、方便を以って相手に接する「心や行い」に「手加減、さじ加減」がある訳では有りません。つまり言葉はどうあれ、心を学ぼうという気持ちがあれば、自分の今価値の限界まで「方便を活用」することが可能であり、そのような気持ちのことを「向上心」と言います。
              例えば「無理するなよ。」という思いやりやねぎらいの言葉があったとします。普通は「もっと体を大事にしろよ。」という意味に聞こえます。しかし聞き方によっては「自分の限界を正しく理解した上で、限界ぎりぎりまで努力して見なさい。」という意味にもなるのです。その心は「君はまだまだ行けるよ。」ということになります。
              それは「体を大事にする」という中身が「限界を越えないこと」と「甘やかして鈍らせないこと」という2つの要素で成り立っている事に気が付けば容易に理解出来ますが、要は言葉がどのように聞こえるかは、「自分が何を目的として生きているか」と密接な関わりがあるということです。その意味では「方便」は教えの心が示す真実に到達するための踏み台としての役割が大きいと言え、聞いた相手がどこまで到達出来るかは、一重に相手のジャンプ力(=向上心)にかかっていると言っても過言では有りません。

              このことは、もし私たちが自らの心をもっと高めたい、もっと豊かにしたいと本気で思うならば、実はそのきっかけは何だって良いということを示しています。実は身の回りのあらゆる出来事、あらゆる事象がその人にとっての踏み台、即ち「方便」になり得るということです。
              例えば、天に向かってそびえ立つ大木のたたずまいに、大いに心を動かされる人もいるでしょう。そよ吹く風のやさしい感触に感じ入る人だっているでしょう。炎天下の蟻の活発さに驚きを禁じ得ないという人もいるかも知れません。それこそ数え上げれば切りが有りませんが、それらは人に向かって「ああしろ、こうしろ」と決して言っている訳では有りませんが、それでも人が「自分の中の何か」を喚起させられるのは、「向上心」がそのきっかけを求めているからです。ここでの喚起とは「共感」によってもたらされるものですが、いったい何に共感しているのでしょう。それは「本気」という波長に対してです。人間は曲がりなりにも自分が本気に立ち返った時、改めて自分の周りの事象の全てが自分よりもずっとずっと優れた「本気」を持っていることに気付かされます。そしてその瞬間に「自分が教えの中に生かされている」ことを初めて実感することになります。

              これは「自然の事象」に限らず、人間の関わる「出来事」であっても同じです。何故なら、如何に人間として不備があろうとも、それに対して「霊界から返されて来る結果」というものは全て「霊界の本気」そのものだからです。ですから私たちはそれらの出来事に対しても、それが「非常に質の高い教え」を含んでいることを良く理解する必要が有ります。
              そして、これら全てを正しく理解する鍵は「向上心」に有るということです。
              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:09 | comments(0) | - |
              「霊層」に始まり「霊層」に終わる。
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                このところ「霊層」という概念に焦点を当てて話を進めてまいりました。或る人の「霊層段階」というのは、霊魂が論理的に到達可能な180段階の中の何れかであることは間違い有りません。そして、その人の現時点での「平均霊層」が、紛れもなくその人の「絶対的な今価値」を表すものであるということも間違い有りません。つまり、もし人間の霊層が「可視化」されることがあったとすれば、その時点で瞬時に「人間の順列」が明確化され、それと同時に浮世のあらゆる問題はどこかへ吹き飛んでしまうでしょう。何故ならそれは、「神」の姿が「可視化」されることと、意味合いとして同列のものとなるからです。即ち「何故、神の姿は人の目に触れないのか?」と「何故、人は自らの霊層を認知出来ないのか?」とは論理的に同根のものであり、その答えは何れも「それでは修行(衆行)にならないから」となります。それが証拠には、それらが「可視化」出来ないのは「修行(衆行)目的」の現世だけの話だからです。

                ところで「人間性向上」を主眼とした修行に際して、自分や他人の「霊層段階」が分からなければ何か不都合があるかと言えば、そんなことは全く有りません。何故かと言うと、どんな修行(衆行)にあっても、まずは「自分を一番下」に置かなければ修行として成り立たないからです。これは一般的に「下座行」として確立されている通りですが、肝心なことは、「どこまで行っても下座の精神は修行の基本」であって終わりはなく、ただ場合によって「責任の負い方」が変化するに過ぎません。つまり人生は永遠に謙虚であり、素直でなければならないという事であり、それゆえ修行に於いては「霊層」を敢えて意識する必要が無い訳であります。

                では「霊層」を初めとした「霊的認識」は何のために必要かというと、私たちが「より良い人間」「より良い社会」を目指して、さまざまなことにアプローチする際、結果が必ずしもリアルタイムに返って来ない場合など、ふと不安や焦りを覚えることもあるでしょう。そうした際に「ちゃんとバックグラウンドタスクが働いていますよ」ということで大きな安心を得ることが出来ます。ですから安心して「人間的修行に勤しんでください」ということなのです。何せそのために生まれてきたのですから。
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:16 | comments(0) | - |
                嘘(うそ)と方便
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                  ここでは(仏門に身を捧げていらっしゃる方々の様に)嘘と方便の違いを明確にすることが目的では有りませんが、かと言って「どちらも真実とは言えないもの」と言ってしまえば実も蓋も有りません。ただ「方便」は、ダイレクトに真実を理解することが事実上不可能とされる場合に、正しい方向性のみを指し示す用途として用いられる「真実の代替品」と言えるかも知れません。
                  「用いられる」というのは、誰によってかと言えば、原則的には「神」によって用いられる訳ですが、場合によっては代行者によって用いられることも有ります。しかし、それより何より問題は、こうした「真実と言えないところの方便」という概念自体が受け入れ難いとされる傾向が一部存在することです。それは良く言えば「方便」ですが、悪く言えば「子ども騙し」で片付けられているような感覚に近いという懸念かも知れません。

                  人間はヘタに「学」が有ったり社会的経験が豊富だったりすると、それなりに「自尊心」も高く、そこから「自分は価値が有り、真実をダイレクトに受け入れるだけの能力が備わっている」という自負が生まれます。実際にその通りであればそれに越した事は有りませんが、実は事はそううまく行きません。何故なら、真実というものは確かに「論理的」に存在するものですが、にも関わらず、単に「論理的な知識」を学んだり、それに匹敵するような「経験値」を積み重ねたりしただけでは「決して理解出来ない代物」だからです。それは理屈ではなく、「神」がそのように計らった故にそうだということです。では人間として「真実を知り得る条件」とはいったいどこに在るのでしょう?

                  それは「霊層段階(厳密には平均霊層の事)」が文字通りの「鍵」となります。以前に「霊層と因縁の発動の関係性」についてご説明しましたが、例えば「より高度な因縁」が発動する際に、それを適切に運用出来るだけの「真実に対する理解」が求められるのは当然の事ですが、実際この両者は「同時進行」するものと言って良く、それは「霊層段階毎に必要事項を総合的にコントロールする仕組み」が在るからに他なりません。つまり何事も「霊的価値を高める(=霊層を上げる)という一点に集約されている」というのは、以前ご説明した通りであります。では「霊層」はどうすれば上がるのでしょうか?

                  それは「学」でも「経験値」でも有りません。考え方としては非常に簡単で、ただただ「徳」を積み重ねるのみです。ただ一点問題があるとすれば、「徳はどうやったら積めるの?」ということぐらいでしょう。
                  とにかく「徳が増すことで霊層が上がるし、不徳が増えれば霊層が下がる」ことは間違い有りませんが、その場合でも「不徳の心配」をするよりも、「徳を積むこと」が最優先されます。何故なら「徳が増えれば不徳は自動的に減る」仕組みになっているからです。
                  もし、このような「理に適った作業」を怠って「真実」を知ろうとしても、全ては「誤解や曲解」に終わります。言葉の上では一言一句違わなくとも、心に持つ像(=イメージ)がまるで違うのです。反対に「徳」によって得た「真実」は、言葉上はまるで違っていてもイメージは等しく、このパラドックスを破ることは誰にも出来ません。

                  つまり「真実」を「霊層毎に設定された順当な論理的理解」とするなら、人間としての立場を持って「どうしても真実が知りたい」という思い自体が意味が無いばかりか、逆に「慢心や怠慢」と見なされるかも知れません。何故なら「今必要なこと(=方便)を疎かにして、今必要無いこと(=真実)に心を奪われている」からです。増して「徳を積む」ということは「目の前の事に懸命する以外に無い」ことを思えば、私たちにとって「最大最強の真実」とは「方便」そのものだということです。その意味では「涅槃」でさえ「方便」と言えることになります。何故なら「霊層界」の本質は「境地」ではなく「責任」だからです。
                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 15:25 | comments(0) | - |
                  修行の本来の意味は「衆行」です。(2)
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                    もとより信仰に於ける「修行」の目的は「自らを高める」というところにあると思います。では、そもそも何を以って今の自分を「低い」と見なし、現状を「受け入れ難いもの」と捉えるに至るかというと、それはおそらく「神仏との距離感」に相違有りません。信仰の場合「神仏に覚えめでたければ幸福に至る」との発想自体はほぼ共通していますが、問題はそのためにどうしたら良いのかということだと思います。
                    この「神仏は人間がどうすれば(どうなれば)喜び、どうすれば(どうなれば)悲しむ(或いは怒る)のか」が正しく理解出来れば、少なくとも人間にとっての「目的地」は明確に示される事となり、後はそこに至るまでのルート(=修行方法)や、予想される障害(=自価値)、必要な装備品(=心の準備)など、「具体的な実行計画」が必要となります。

                    実はこの中で「論理的な把握」が最も難しいのは「自価値(自分の価値)」を正確に知ることです。それは人間が本質的に「最も苦手」な作業です。何故なら原理的に「主観そのものである自分を客観視する事は不自然」だからです。しかし離れたところから「客観視」出来ない限り、自価値の全容は決して解りません。しかもそれが解らないとなると、ルートや装備品も正しく決定出来ないことになってしまいます。何故なら「予測出来ない障害」に見舞われて不備が生じ、計画自体が頓挫する恐れが多分にあるからです。ではどうすれば良いのでしょう?

                    ここに「自分を客観視」出来る(唯一の)良い方法が有ります。それは対人関係に於いて「相手を鏡に見立てて自分の心を映す」という方法です。それは人間のために「神仏によって用意された心の鏡」なので、絶対的な感謝の念が条件ではありますが、そうであればこれは誰にでも、どの霊層段階に於いても「確実に機能」します。
                    まず、人間は「修行」に際してこの鏡が「絶対に必要である」ということ。そして、どうせならこの鏡は「多ければ多いほど良い」ということです。それだけ効率的且つ確実にリアルタイムで「自価値の確認」が可能となり、それによってルート予測や必要な装備品の確認が一層容易になるということです。

                    つまり「修行」は「衆(=社会生活に於ける人との関わり)」の中に於いて為されるのが好ましいということです。その中で「鏡に映った自分の心」を目標値に向けて確実に修正していく地道で真面目な作業こそが、最も論理的且つ合理的な修行であると確信します。それ即ち「衆行(しゅぎょう)」となります。
                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:12 | comments(0) | - |
                    修行の本来の意味は「衆行」です。
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                      記事の総数が350件余りに達しようとしていますが、毎度毎度(時事ネタでもないのに)人間の心のことだけで、よくもこんなに書く(話す)ことがあるものだと我ながら思います。ひとつには途中から「証明出来ない事象(=霊的)」なことも織り交ぜて話題にするようにしたこともあると思いますが、本来は「たったひとつの基本思想」さえ理解し、体得するならば、それさえも必要無いはずのものだと思います。それは繰り返し申し上げるように「みんなで良くなろう」と心の底から思える「本物の心(=思想)」を持つことであって、それさえ出来れば「霊層段階」が上がり、それに連れて「心の目が働く」ようになり、物の道理や実体が「自然に理解出来る」ようになるものです。そうなると、適切な時期に(各霊層段階毎に設定された)必要な因縁が発動することとなり、人生に躓(つまず)きを覚えるようなことも無くなります。しかし、それら総てのことは本来自分で考えたり意識したりする必要の無い、謂わば「バックグラウンドタスク」ですので、人間はただただ「基本思想」に忠実に生きていれば良いだけのことなのです。

                      ついでに、ここで「みんな」ということを改めて定義しておきたいと思いますが、それは「全体主義」の「全体(=滅私)」という意味では有りません。そうでは無く「私 たちみんな」という意味です。ですから「個人」という概念を否定するものでは決して有りませんが、「個人を主張」する際には、いつも全体のバランスを考えて「そ れがみんなの中での適切なポジションと言えるか否か」を自ら心掛けるだけで、争い事は無くなります。もしそれで「コト足りない」と感じた時には、それ以上の主張は控えて「全体の底上げ」と いう発想で対処すれば良いだけのことです。
                      それが即ち「みんなで良くなろう」ということですが、どうもスローガンとして幼稚過ぎるという方は「世界の平和、人類の福祉に貢献し寄与せんとす」と置き換えても構いませんが、私としては身近な言葉で「子どもでも解る」に越したことはないと思う次第です。

                      ところで何故、話がそう簡単に終わらないかというと、それも繰り返し申し上げているように、(国際社会も含めて)世の中が「思想の紊乱、道義の廃頽」で既に覆い尽くされ、人々の暮らし向きが「単なる物の考え方の乱れ」にとどまらず、その身の置かれた現状までもその影響を色濃く反映したものとなっており、あたかもぐちゃぐちゃにこんがらがった糸玉の様に、どこをどうすれば解きほぐして元に戻せるのか皆目見当も付かないといった惨状がそこに在るからです。しかも抱える問題の質や程度が人によって千差万別であることが人々を孤立させ、いっそう問題の解決や物事の見通しを困難にしているようです。
                      そのため、こうした問題に丁寧にアプローチするためには、原理原則論に終わる事無く、やはり一件ごとの個別な問題に対してダイレクトに訴え掛けて行く必要があるものと思われます。ただ、いつも「基本は同じ」ということのみご理解頂ければ幸いです。

                      ということで、今日は思いの外(ほか)前置きが長くなってしまい、タイトルにもある「今日のテーマ」まで話が届きませんでした。今日もちょうど比叡山「千日回峰行」関連のニュースがあったものですので、タイムリーにと思ったのですが。(思わせ振りで済みません)
                      続きは次回に書きます。

                       
                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:36 | comments(0) | - |