2015.10.31 Saturday
声のデカい方が勝つ!
このところの政治、経済の動向、ビジネスやトレンドのノウハウ、更にはネット社会に至るまで、概ね「声のデカい方が勝つ」という行動原理に基づいているように思えてなりません。そのような社会に積極的に関わろうとする人々の中に、おそらく「正しい方が勝つ」などという信念やイメージは毛頭ないでしょう。ただ如何にして「他人よりもデカい声を上げるか」が唯一の関心事と思われますが、これが「比喩的表現」だからいいようなものの、本当に人が群れ集う中で(主張の良し悪しに関係なく)声のデカさで他人を圧倒して押し通そうとする人間を目の当たりにし、そのガナリ声を聞かされたら、皆さんはいったいどう思うのでしょうか。(おそらくその下品極まりない振る舞いに強い嫌悪感を覚えることとなるでしょう。)
残念ながら、今の社会で私たちが「普通のこと」として受け入れようとしている物事の殆どは、このように「声のデカさ」によって半ば強引に「普通のこと」とされてきたと言っても過言では有りません。ただ、そのままでは「横暴さ」が際立ち、「暴力的な印象」を免れないため、現在ではそう思わせないためのあらゆる策が講じられることとなります。
基本的には「デカい声」を際立たせないために「周りの声を小さく」します。但し「完全に沈黙」してしまうと返って不自然なので「適度に小さく」します。即ち「周りを静かにするための裏工作」が積極的に行われることとなります。その方法は昔から「一に買収、二に恫喝、三に排除」と決まっています。その後、周囲がある程度静かになったところで、「普通の大きさの声」で主張を繰り返し行う一方で、サクラ(=賛同者を装った仲間)を大量に動員して、如何にも主張が好評化されているように偽装工作します。
現在では多くの(大手)マスコミの協力を取り付けることで、サクラの肩代わりとする方法も良く用いられます。この場合、マスコミは「一に静観、二に賛同」というひとり二役を担う大変重要なパートナーとなります。民間によらず、近年は公共放送であるNHKも方針を転換し、この偽装サークルに加わったように聞き及んでおります。
このように「声のデカい方が勝つ」という発想自体は大昔からあるものですが、それは「腕っ節(=暴力)の強い奴が勝つ」と同じ理屈であって、曲りなりにも「民主主義」の手前、ただ「暴力」を「声」に置き換えただけのことですから、如何に策を講じてオブラートで包んで見ても、根底に「暴力」が存在することは間違い有りません。故に、私はそのような社会構造を望みません。何故なら、それは「みんなで良くなろう」という発想とは無縁のものだからです。
核を保有する国は核で滅び、暴力を有する者は暴力で滅ぶ。それがこの世の摂理というものではないでしょうか。
残念ながら、今の社会で私たちが「普通のこと」として受け入れようとしている物事の殆どは、このように「声のデカさ」によって半ば強引に「普通のこと」とされてきたと言っても過言では有りません。ただ、そのままでは「横暴さ」が際立ち、「暴力的な印象」を免れないため、現在ではそう思わせないためのあらゆる策が講じられることとなります。
基本的には「デカい声」を際立たせないために「周りの声を小さく」します。但し「完全に沈黙」してしまうと返って不自然なので「適度に小さく」します。即ち「周りを静かにするための裏工作」が積極的に行われることとなります。その方法は昔から「一に買収、二に恫喝、三に排除」と決まっています。その後、周囲がある程度静かになったところで、「普通の大きさの声」で主張を繰り返し行う一方で、サクラ(=賛同者を装った仲間)を大量に動員して、如何にも主張が好評化されているように偽装工作します。
現在では多くの(大手)マスコミの協力を取り付けることで、サクラの肩代わりとする方法も良く用いられます。この場合、マスコミは「一に静観、二に賛同」というひとり二役を担う大変重要なパートナーとなります。民間によらず、近年は公共放送であるNHKも方針を転換し、この偽装サークルに加わったように聞き及んでおります。
このように「声のデカい方が勝つ」という発想自体は大昔からあるものですが、それは「腕っ節(=暴力)の強い奴が勝つ」と同じ理屈であって、曲りなりにも「民主主義」の手前、ただ「暴力」を「声」に置き換えただけのことですから、如何に策を講じてオブラートで包んで見ても、根底に「暴力」が存在することは間違い有りません。故に、私はそのような社会構造を望みません。何故なら、それは「みんなで良くなろう」という発想とは無縁のものだからです。
核を保有する国は核で滅び、暴力を有する者は暴力で滅ぶ。それがこの世の摂理というものではないでしょうか。