青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
霊界に(元々)在るもの無いもの
0
    「霊界」というのは「実相の世界」であって、そこでは、私たちが今いる「現界」では(故意や偶然、必然を問わず)判明しにくいことや、未だ結果としての形に表れていないために認識出來ないことの全てが常に明確に示されていますが、まずは「霊界に(元々)在るもの無いもの」が解りさえすれば、「現界」に於いて「何が正しくて何が間違っているか」が自動的に解るということがあります。
    どうして「元々」という但し書きが必要かというと、もしそのようなものであったなら、それが間違いなく私たちにとって「最良のもの」と言えるからです。それに対して「後から霊界に生じたもの」の中には、現界の「好ましくない結果」を受けて形成されたものなども有り、それらは「贖うべき対象」として存在していることになりますが、何れにしても、「在るのか無いのか、そしてもし在るとすれば、それはどのような意味を持ったものなのか」が詳(つまび)らかにされているのが「霊界」の特徴です。

    つまり何らかの方法で「霊界の今」を知ることが出来れば、例えば大きな視野では「今後の世界情勢や社会の趨勢(すうせい)」、身近なところでは「自分自身の身の振り方や計画の立て方」と、およそ何でも分かってしまうことになります。しかし、こんなことが本当に可能なのでしょうか。
    これは結論から言えば、「天性の霊的素質とそれに見合う高度な霊層段階を併せ持った一部の霊能力者」に於いては、その能力を活用する資格を有するかも知れません。しかし肝心なことは、人間は本来誰にでも備わっている「理性と良心」の働きを以ってすれば、自らの人生を「過たず生きる」事が可能とされているのです。何故なら(以前にもお話した通り)それらの働きによって「必要十分な霊界との交信」が為される仕組みになっているからです。ですから前述の「一部の霊能力者」に関しては、(その能力は)それとは別の目的に使われることになります。

    ところで最近もニュースで取り上げられましたが、「霊感」とか「霊能」と聞くだけで一気に「如何わしさ」が漂って来るのは事実ですが、これは実際、昔からその界隈には「如何わしい人」が多いためです。何故そうなるかと言うと、「元々証明出來ない話なので証明する必要が無く、こうだ!と言い切ってしまえばいいだけの世界」だからで、大体は脅しまがいの「予言」とセットになっていて、「このままでは大変な事になる」「このままでは恐ろしい事が起きる」「このままではあなたは死ぬ」などの手法は、良く考えれば「振り込め詐欺」と何ら変わりません。また、助けると称して「高額の金品」を要求するのも不自然でしょう。

    そこでこの際、本物の「霊能(力)者」に成り代わって名誉回復のために申し上げておきますが、皆さんも知っておくと(偽物に)騙されずに済むかも知れません。

    霊能者は多くの場合、確固たる信仰心の持ち主では有りますが、宗教法人としての規模や体裁にはこだわらないものです。また、自らの使命として霊能を行使するため、人助けの行為に対してビジネス(=商売)として報酬や謝礼を要求することも有りません。但し感謝の気持ちを神仏に供える意味での奉納や玉串は拒みませんが、額面に決まりを設けないのが普通です。つまり霊能に対する対価は存在しません。
    また、霊能の行使や助言、進言に際しては、相手の状態に応じて霊能者側で適切と判断された分のみ提供し、悪影響が生じないよう最大限の配慮が為されます。基本的には「霊的」という証明の困難な媒体を、経験値を主体とした「原因と結果」という体感出来る形に還元し、それを丁寧に積み重ねる方法で「霊的理解」の道筋を付けていきます。
    また、助力は必要としても、最終的には自力での立て直しを目標とするため、脅しによって依頼心や依存心をことさら煽る事自体が主旨に反するが故、そのようなことは起こり得ません。
    何れにしても「霊層が高いこと(=豊かな人間性)」が霊能者の絶対条件のひとつであることからして、正しい意味に於ける「霊的能力」とは「豊かな人間性の延長線上にあるもの」と考えて間違い有りません。
     
    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:16 | comments(0) | - |
    相手のコトは相手に任せるべし。
    0
      世の中の「揉め事」の原因は、双方が「自分の方が正しい」と思っているからですが、良く聞いてみると「自分の側にも多少の非が有る」ことは認めている様ですが、それより何より「ここで自分が折れれば、相手にも非が有るにも関わらず、相手の都合がまかり通るコトが許せない」ということの様です。つまり「間違っている者が何の制裁も受けないのはオカシイだろう」ということらしいです。

      これはまるで「地獄の閻魔様か正義の使者」のようなセリフですが、しかしそれ以前に「聖人君子でもあるまいし」という理由で、自分の側にも「非が有る」ことを認めている訳ですから、この時点で自分自身も「制裁を課せられるべき身」であることは相手と変わりません。従ってここでの論理・・・というより理屈は「1ミリでも非の多い方が先に制裁を受けろ」ということになります。

      蓋を開けてみれば世の中、こんな愚にも付かない話で隣近所が何年も憎しみ合ったり、身内の間で殺しあったりしているということです。繰り返しますが、世の中で「100%自分が正しい」とか「自分は一切非がない」と言い切れる人の方がむしろ珍しいのです。ということは、「揉め事」は常に「どんぐりの背比べ」状態の中で起こっているということです。

      ところで、このような話の重要ポイントは「自分にも非が有る」というところです。いえ、正確には「自分には非が有る」と言い直した方が良いでしょう。「にも」を「には」とすることで、純粋に「自分だけの問題」として捉えることが出来ます。そして、それが人本来の基本的なスタンスなのです。
      もし自分の内面に「誤り」を発見したとすれば、それを改めるのは自分にしか出來ないので、それは自動的に「自分の責任」になります。それと同じように「相手の誤り」を改めるのは相手にしか出來ないので、やはり「相手の責任」となります。

      このように「非を認め改める」という行為は、あくまでも本人が「自らの責任」として行うものであって、元々他人が干渉すべき事では有りません。ですからトラブルの場合にも、双方がそれぞれに「自分の非を認め改める」という以外に為すべきことは無いはずで、それ以外のことは「相手に対する干渉」に当たります。そんな事をすれば、そこに「感情のもつれ」が発生するのは当然でしょう。
      これは具体的には「相手とのやり取り」の中でいち早く「自分側の非」を見出し、その部分に関して詫び、改善を申し出ると言う流れになります。その際、「相手方の非」に関しては一切触れない事です。大概の場合、こちらが誠意を示して心を開けば、(よほどの悪人でも無い限り)相手も心を開いてくれます。


      万一、相手が「自らの非」を一切認めず、全てこちらのせいにしてきた場合には、一旦「快く受け入れる」という方法が有ります。つまり、その時点では相手に「貸しを作る」ことになります。但し、それは後で取り立てたり恩に着せたりすべき「貸し」では有りません。何故なら、それは自分自身をトラブルから救い、後々後悔することが無いための「投資」でもあるからです。それに、物でも何でもそうですが、「人に貸せるものと気持ちが在る」ということは、人間に於けるある種の幸せでもあります。
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:19 | comments(0) | - |
      「影響力」について
      0
        これは考えて見るとすごい言葉だと思います。何せ「影で響かせる力」ということですから、ある種「魔法」の様です。ここで取り上げるのはもちろん「人間が周囲に及ぼす影響力」についてですが、それらは簡単に言えば「良い、悪い」と「強い、弱い(=範囲を含む)」の2つの要素で定義出来ると思います。そして大概の場合、ある人間の行為のひとつひとつと、それに因んだ個別の結果の話では無く、その人間の存在自体が周囲、周辺、関連に対して継続的に与え続ける効果の程を以って「その人間の影響力」が語られる事になろうと思います。

        ところが不思議な事に「人間の影響力」とはそれと望んで持ち得るものでは無く、かと思えば自分では望んでもいないはずの「影響力」を周囲にもたらしている場合も有ることから、「影響力」とは、自らの意思や意図とは異なる、その人間の本質的な思想に裏付けされた「周囲に相対する客観的な力の大きさ」を示すものであろうかと思われます。つまり周囲に比して「群を抜いて」強ければ影響力が強く、また「群を抜いて」悪ければ悪影響が大きく、一方で周囲と横並びであれば「その影響は場に対して極めて小さい」ことになります。
        そしてこの「周囲との差異」に関しては(良きに付け悪しきに付け)、多くの場合「意図的に作られた」というよりは、本人が「良かれと思いそのように生きてきた結果(自然に)生じたもの」と見て良いでしょう。

        ところで世の中には(主に性格に起因する理由で)「意図的に影響力をコントロール」したがる人たちもいますが、それが必ずしも上手く行くとは限りません。
        例えば「目立ちたい人」は「影響力を持ちたい」と考えるでしょうが、それにはまず「抜きん出た実力」を備えることが先決ですから、それに見合った努力と時間を受け入れられない人には難しく、ただ「浮いた存在」にしかなれません。
        また「目立ちたくない人」は「周囲に溶け込みたい」と思うでしょうが、それがためだけに「持ち前の思想や主義主張の全てを変える」とは考え難く、結局その部分に於ける「影響力」を消し去るには至らないでしょう。

        思うに「影響力とは最終的に生ずる客観的な結果」に過ぎず、それ自体が「持つとか持たない」といったような直接的なアプローチの対象では無いということです。
        それに洋服でも何でも「身の丈に合った物が一番」で、大きすぎても小さすぎても着心地が良く無いように、周囲と自分との関係も「身の丈が一番」に違い有りません。結局「影響力」も、周囲から自分にフィードバックされた「客観的な身の丈情報」のひとつとして、今後の自分自身の生き方の重要な指針と考えて見ては如何でしょうか。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:53 | comments(0) | - |
        「攻撃力」を持つべきか否か?
        0
          これは「安保法制」の話では有りませんが、ついでながら申しておけば、戦後の日本の防衛に関しては長い間「攻撃力は持つべきでない」として「防御力」を主体として構築されて来ました。細かい部分の違いは色々有るにせよ、平たく言えば「防御力は攻撃力よりもワンランク下の備え」を意味します。というのも兵法から言っても「城攻めに於いて攻撃は防御の三倍の戦力が必要」とされているからです。しかし今回の改正によって「日本も今後一定の攻撃力を持たざるを得なくなる」とすれば、明らかに「軍備増強」を視野に進めなければならなくなります。法案に賛成の意思を表明された方々は、果たして「現行の三倍の軍備増強」の意味を理解しているのでしょうか?軍事産業が儲かる?・・・・ああ、そうですか。

          それはそれとして、今回話したかったのは「私たちの心の中の攻撃性」についてです。例えば「すぐキレる」というのは「攻撃性」の表れです。また、このところ度々事件となり話題にもされている「高齢者の過激な行動」も「攻撃性」ゆえのことです。もちろん職場や学校、家庭でのイジメ、虐待、パワハラ、モラハラなどは言うまでもなく、キツい言葉や態度も全て「攻撃性」であり、そこでは相応の「攻撃力」が使われています。
          つまり、もはや多くの人々の心の中では地道に積み上げて行くことが不可欠となる「平和主義」は存在せず、むしろ「力で端的に白黒付けようとする傾向」が蔓延し、支配的になっているということです。
          ここでは「待つ」とか「耐える」「受け入れる」などの受動的在り方は「自虐的」としか思えず、常に前に出て「人に先んじて獲得」するという自己本位的なイメージしか有りませんが、そこには「そうでないと生きられない」という根強い「強迫観念」が存在する様です。ですから感覚的には「単に生存権を主張している」に過ぎず、総じて全く悪気が無いのが特徴と言えます。

          こうして、多くの人が(意識の上では)生存権を確保するために(当然の事として)自らの中に「攻撃性」を養い「攻撃力」を頼りに人と関わろうとする風潮が社会に蔓延した結果、以前なら滅多に起こり得なかったような事件や事故、トラブルなどが日常的に頻発する世の中になってしまいました。
          その中にあって「攻撃性を持たない平和主義の真っ当な人々」の居場所が失われていくのは当然ですが、一朝一夕にこのような状況が改善されるとは思わないにしても、そういう人たちには今後も「人として正しい生き方」を模索し続け、歩み続けて頂きたいと切に願うばかりです。何故なら、正しい生き方も誤った生き方も(時と共に)必ず我が身に返って来るものだからです。更に言えば、その時にこそ改めて真価を発揮する生き方と言うことが出来るでしょう。

           
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:36 | comments(0) | - |
          「これは何かの新興宗教か?」
          0
            最近の記事の傾向を見て、このように思い始めた方がいらっしゃるかも知れません。確かに「青少年の育成を支援する」という主旨にふさわしく思われないようなキワドイ内容と映ることが有るかも知れないのは事実ですが、それは(ブログ上では)敢えて周りを見回して周囲と歩調を合わせようとしていないだけの話であって、別に「子どもたちの教育上不適切な内容や主義主張」を展開しているつもりは毛頭有りません。そればかりか自分自身の経験上、「子供時代にこういう教え方をして欲しかった」「こういう親であって欲しかった」という気持ちを全開にして日々取り組んでおります。
            また、世の中や人間の諸々に対する価値判断や対処の在り方についても、どこかの団体の受け売りを流している訳ではなく、私個人の責任の下に、その都度リアルタイムで「論理性に基づいた是非や賛否の確認」を取りながら、数十年分の観測値や経験値を裏付けとして発信しています。何故そんなことが可能かと問われるならば、かれこれ40年以上の歳月を「その為のみ」に費やして来たからと答える以外に有りませんが、それは私に限らず、誰であろうと自分の本道に於いてそれだけの時間を掛けて懸命するなら、一定の成果が得られるのは当然と思われます。

            ところで「新興宗教」っぽいイメージを与え兼ねない一番の要因は、およそ教育の場に似つかわしくない「霊界の話」だと思いますが、それはあくまでも「国家や民族」という単位で特定の宗教を持たない(とされる)「日本独自の宗教観」によるところが大きいと思われます。つまり「宗教=如何わしい、胡散臭い」というものですが、(実際その手のものが多いので)それはそれで結構だと思います。しかし、三大宗教を初め世界で普通に認められている宗教概念としての「天国や極楽浄土」とは、霊界という言葉は用いなくても「霊界のエリアの一部である神界」を指していて、それを抜きにして「信仰」を語ることは、ほぼ不可能と思われますが、それ自体が「非科学的で教育や一般文化としてふさわしくない」というなら、それはいきおい「信仰(=神の概念)」を明確に否定することになります。取り分け教育の場では「ここは一旦そういうことにしておこう」などという曖昧なニュアンスは、それこそふさわしく有りません。

            しかし「非科学的」という理由で「神という造物主の存在を否定」するとなると、人間(を含む全ての生物)は、(たまたま出来た)タンパク質の欠片から「自然に出来た」という事でしか無くなり、しかもその証明は永遠に不可能と思われますが、それが果たして「科学的見地」と呼ぶにふさわしいものかと言うと、とてもそうは思えません。つまりそれ自体が「証明不能で非科学的な推論」でしかないとすれば、人間のあるべき現実的対応として、未だ証明には至らないながらも論理的に十分に存在が予測される「神と霊界と因縁の存在」について可能な限り見識を深め、解明の努力にエネルギーを費やした方がはるかに「科学的態度」と言えるのではないかと思います。
            但しひとつはっきりしていることは、それらのことに「金儲けや商売」を絡める事は「ご法度(=NG)」です。何故なら、元々それらの要素が皆無であるものにそんな異質なものを無理矢理くっつければ「見るからに如何わしくなる」のは当然でしょう。

             
            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:16 | comments(0) | - |
            「正しい危機意識を持つ」ということ
            0
              今日のタイトルは例によって、このような検索キーワードで当ブログにアクセス頂いたということですが、これは全くの「正論」です。ただ、実際には様々な立場や考えの人が色々な事を言い、正反対とも思えるような主張や意見が林立する中で、何が真実で、どれが正しいと言えるのかの見極めに困難を覚えるというのも良く解ります。(ある人は「全く問題ない」と言い、またある人は「とんでもない!」と言うように)
              それでも一つ言える事は「現時点に於けるスタンダードは信用するに足りない」ということです。何故なら「スタンダード(=標準)がスタンダード足る価値の有るモノなら、現状がこれほどまでに切迫している訳が無い」からです。逆に言えば、「価値の無いモノをスタンダードとしてきたから、事態が切迫してしまった」というのが、解りやすく、「真実」に近い見識だと思います。

              考えても見て下さい。多くの選択肢の中から「特定のものを社会に於けるスタンダードとして位置付ける」ためには、どれほどの「意思と力」が必要になるかということを。そして今日(こんにち)のスタンダードの殆どがその「意思と力」を備えた「誰かの意図」によって人為的に作り出されたものと見て良いでしょう。
              取り分け(結果として)富の集中を促すような仕組みや考え方には注意が必要です。それは「社会を利する」というよりは、単に個人的な「お金儲けのための布石や投資」と考えられるからです。但し表向きはすべて「人類のため、地球の未来のため、世界の平和と安定のため、日本国民のため」などとなっていることは間違い有りませんので、むしろそのような「お題目」はすべて一旦取っ払った上で、それぞれの示す中身だけを吟味した方が良いかも知れません。

              ところで「危機意識」と言えば、まず「地震や津波、集中豪雨や竜巻」など「天変地異に属する自然災害」に対しては、「常に留意しておく必要は有る」と思います。しかし同時に「それらの影響を100%回避する」というのもまた、現実的とは思えません。その一番の理由は「正確な予測が困難」である事に加えて、そのために「日常生活をストップさせる事は出來ない」からです。ただ「大難を小難に、小難を無難にする努力」を欠かさなければ良しとします。それよりも一番良くないと思うのは、「自分に都合の悪い事は信じないし想定だにしない」という在り方だと思います。それでは「現実を見たくないから酔っ払って寝てしまおう」というのと何ら変わらず、現実はますます悪くなる一方です。

              また、「戦争やテロ、またはその他の暴力的行為」という「人為的な災難」に対しては、大きく見て2つの選択肢が有ります。ひとつは「武力や暴力そのものは肯定した上で、考え方や使い方の良し悪しを判断して正否を決める」というもの。もうひとつは「理由は問わず、武力や暴力の使用そのものを認めない」というものです。
              しかしこの「暴力」には「暗黙の了解」とも言える部分が在って、それは「警察官が犯罪者(容疑者?)を制止させるために使う暴力」と、「正当防衛に該当する暴力」です。逆に言えば「これ以外の暴力は無条件に否定」される事になりますが、正にこの事が事態を複雑にしているとも言えるでしょう。何故ならこれは「正当な理由と権利が有れば暴力を使って良い」というお墨付きなので、我こそはと思う者はこぞって「正当性と権利」を主張するに決まっているからです。
              また、当初はどうあれ一旦「暴力沙汰の勝者」として実権を握ってしまえば、「正当性」などは後付けでどうにでも出来るでしょうし、実際そのような例は歴史的に見ても「枚挙に暇が無い」はずです。ならば尚更のこと、腕に覚えの有る者が「やったもん勝ち」と考えてもひとつも不思議では有りません。
              ということで取りあえず「暴力を全否定」すると共に、「暴力的手段を持たない」ことをプライドとしてアピールする以外に現在の「危機的状況」を改善する方法は見当たりません。

              しかし、私たちにとって本当に身近な「危機的状況」とは、経済的豊かさを無上の価値のように吹き込まれた上、競争社会を当たり前のものとして受け入れ、自己本位な生き方を手柄の如く賞賛されることに何ら違和感を感じないという「私たち自身の人間性の欠落」と、それを推し進めるために意図的に構築された「社会構造そのもの」だと思います。実は多くの人為的な危機的状況の殆どが「人間性の回復」によって劇的に改善されることは明白です。何故なら、それらは「社会的な人間性の欠落」と同期した現象に他ならないからです。
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:01 | comments(0) | - |
              「人間性」とは何か?
              0
                「人間性」とは、本当は「霊界」のことを抜きにしては語れないものなのです。しかし「霊界の存在が科学的に証明されていない」ことを以って、人間性といういわゆる「謎の存在」を認めつつも「霊界を度外視」して語るしかないというのが現状だと思います。これは正直「虚しい努力」と言えます。何故なら「決してまともな答えにはたどり着かない」のが(論理的に)最初から分かり切っているからです。
                このように物事の「肝心要(かなめ)の部分を封印したまま枝葉末節に終始する」話は世の中に幾らでも有ります。例えば「病(やまい)は気から」という言葉を「気合が足りないから」という意味に受け取られては為す術(すべ)も有りませんが、その上「病気は病院で治してもらうモノ」などと考えているとすれば、それは(運命上の障害となる)病気は「気=心=霊的価値」の低下によって「霊魂に発症したものが肉体に反映したものであるという実相」とは相矛盾した在り方としか言い様が有りません。何故なら病院は「霊魂の状態を改善してくれる場所ではない」からです。それなのに何故「治ったように見える」のかは、長くなるのでまた別の機会にお話しします。

                ところで「人間性」とは、人が「社会生活を円滑に営む事」を前提として「学習を行い後天的に学ぶべきもの」では有りません。そうではなく、あたかも「動植物が生きる前提として本能を与えられている」如くに、人間に「先天的に付与された性」と理解するのが正しいのです。それを理解するのは何も難しい事ではなく、生まれて間もない乳幼児がすでに例外なく「人間性豊かである」ことを見れば、自ずと明らかです。
                しかし、疑い深い人は考えるでしょう。「あれは人間性なんて代物では無く、自分たちが無力であることを知っていて、それで親や周囲に愛想を振り撒いて媚びて生きているだけだ」と。
                しかし、それだけ「媚びる」ことに卓越しているのなら、その時点で「敵と味方」を仕分ける感覚も必要ですし、相手を「疑う力」も必要で、そもそも人が見ていないところでニコニコと上機嫌でいる意味が有りません。
                また、幼い子でも相応に「恐れを抱く」ことは有りますが、それを「恨みや憎しみ」に発展させる「心の歪み」を持ち始めるのは、もっとずっと後のことですし、言葉がままならない乳幼児が泣き叫んで何とか要望を伝えようとするのも当然のことで、それ自体決して人間性に悖(もと)るものでは有りません。(大人が自分の勝手な都合で受け止めるから、そう思えないだけです。)

                「人間性」とは、大きく見れば「他人と自分とを別け隔て出來ない感覚」のことであって、それは例えば、自分が必要なものは他人も必要かも知れないし、自分が嫌だと思うことは他人も嫌だと思うだろうということであったりしますが、元々「神自らの分霊として人の霊魂が誕生した経緯」を踏まえるならば、改めて「人間性」とは「神の性に因んだ霊魂の誕生以来の人間の特性」と定義付けることも可能と思われます。
                何れにしても、このように「霊的」な観点から「人間性」を紐解いて行かない限り、例えば「公衆道徳」や「社会的マナー」などと言った「便宜上のバランス感覚」と一緒くたにして考えても決して理解出来ないばかりか、「人間性を中心とした社会構造」をイメージすることなど到底不可能と思われますが、最後に「みんなで良くなる」ためには「人間性が全て」であることだけは申し上げて置きます。(現社会はブラック企業を代表として正反対の方向に舵が切られています。)
                 
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:30 | comments(0) | - |
                5秒で解る!
                0
                  少し前の記事で「考えない!」という記事を書きました。しかし私の場合、一回分の記事を書き上げるのに毎回2〜4時間を費やしています。これはいったい何をしているのかと言えば、別に「書くことを考えている」訳ではないのです。書く内容を列挙するだけなら、それこそ「5秒もあれば十分」だと思います。何故なら、それは心に格納されているイメージ(=絵図面)を見て、そこに描かれているものを挙げ連ねるだけの作業と言って良いからです。確かに「自分が理解や確認をするための作業」であれば、「絵を見た瞬間に受ける印象」が全てとなり、時間は必要としません。
                  しかし、「自らの内面に在る思想や智慧」というイメージ(=絵)を、文字や言葉で(相手に)正確に伝えることの難しさは「百聞は一見に如(し)かず」の言葉も在る如く、筆舌に尽くし難いものがあるように思います。その証拠に多くの場合、人は相手の話に対して「自分の中に在るそれらしき?イメージを持ち出し、それに被せて」納得しようとしますが、自分の中に「類似のイメージ」が存在しない場合は、すぐにその場で「新しいイメージを作る」ことが中々出来ません。

                  ですから、マンツーマンという好条件の下で直(じか)にお話をするにしても「2時間たっぷり」は必要で、その間同じことを10回以上繰り返しお話することは良く有ることですし、当然先方も同じ質問、同じ主張をそれ以上に繰り返しますが、私はそれが「相手と心を通わせるための生きた努力」だと思っています。
                  しかし、一方通行である「文章」に於いて、同じことを10回も繰り返す訳には行きませんし、相手の反応に応じて「言葉を選ぶ」訳にも行きません。つまり最初から「イメージ(=絵)を少しでも的確に伝えるべく可能な限り言葉と構成を吟味」して掛からなければ、「文章に責任を負う」ことなど到底出來ないと考えざるを得ず、そのため「自分の中の5秒間」を毎回「4時間」掛けて文章にしているということです。ですから「考える」というよりは、一から「作文の経験値」を積んでいるといった方が良いかも知れないと、自分では思っています。

                  ということで一所懸命がんばりますので、よろしかったら今後共お付き合い下さいますよう。
                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:38 | comments(0) | - |
                  「悩み、苦しみ、迷い」について
                  0
                    生きることに関して「悩み、苦しみ、迷い」を持つのは、自分の「間違いや力不足」を教わるからです。これらは自分にとって「正しい状態」とは言えず、即刻改善の必要のある問題ですが、しかし「悩み、苦しみ、迷い」を全く感じないで生きるよりは、数段良い状態とも言えます。何故ならそれは「向上の意思」の表れでもあるからです。
                    人間が悩み、苦しみ、迷うのは、色々な意味で「痛み」を感じるが故だと思います。痛い思いを避けたいと思えばこそ、無造作に分け入ったり踏み入ったり、増して何でもなぎ倒して進めば良いなどとは到底思えないという事ですが、逆に言えば「痛み」さえ感じなければ、そういう生き方も平気で出来てしまう訳です。
                    そういった謂わば「ブルドーザーのような生き方」は、たいへんパワフルと感じられて羨ましがられる向きも有りますが、「他人の痛みや辛さ」が存在する事を理解出来ないまま、それらを踏みにじって進んでしまう恐れが多分に有り、それでは「自他共に良い」という結果は望むべくも有りません。

                    自分が「痛み」を感じる事のメリットとして、自分の身の安全を確保出来る事と同時に、「他人の痛み」も理解出来る事が大きいと思います。例えば「料理の味」に敏感な人は、他人に対しても「おいしい料理」を振る舞うことが出来るのと同じで、このように物事は「痛み」であろうと「味」であろうと「感じることが出来る分だけ可能性が広がる」ことは間違い有りません。
                    その際、自分は「美味しいもの」を食べるが、他人には「平気で不味いものを出す」という人は滅多にいないと思いますが、もしそういう人がいたとすれば、その人は自分の感性を「人生に於いて全く生かすことが出来ていない人」ということになります。何故なら、能力の使い道の優先順位として(感覚的には)「1に他人、2に自分」とすることで、実質的に「五分五分」となるよう出来ているからであって、そうでなければ「みんなで良くなる」という「人生の王道」は全う出来ません。

                    このように「本質的」に物事を理解することは重要です。何故なら「悩み、苦しみ、迷い」などは何れも「努力の矛先」が定まらない、或いは「中途半端」であるということを示しているからです。例えば「生きる目的」や「人生の目標」が定まらなければ、何をやっても「虚しい」ということにしかならないはずです。その場合「虚しさ」自体が即ち「悩み」であり「苦しみ」であり「迷い」であることは間違いなく、もっと具体的に言うなら「自分の感性や能力の生かし方が解らない」ということになります。
                    人間は「生きる目的や目標」がしっかりと定まりさえすれば、「必要な苦労」はあっても「悩み、苦しみ、迷い」は持たないものです。
                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:57 | comments(0) | - |
                    霊層段階と結果現象の因果関係
                    0
                      以前に「霊層が上がれば霊界で宿命因縁(=良い因縁)が発動し、現界に良い結果をもたらす」というお話をしましたが、「霊層」が下がる、もしくは低いままの状態だと、これと逆の事が起こります。即ち「悪い因縁にも相応の発動段階がある」ということです。但し「仏の顔も三度」とか「三度目の正直」とかという言葉も有るように、事前に(向上を促すための)警告的な出来事が必ずあるものと思って良いでしょう。何故なら、徳を積んで向上し、自らの「悪因縁」を浄化する事も、人間がわざわざこの世に生まれてきた目的のひとつだからです。それが全く何の前触れも無くいきなり致命傷を負わされては「立つ瀬も無い」でしょう。
                      しかし、そのような警告を心ならずも無視するようなことになると、当然「然るべきタイミング」で「悪因縁」が発動します。そのタイミングとは、往々にして「弱り目に祟り目」という言葉で表されるような「致命的」なタイミングであって、それがその人間の「今世に於けるすべての心と行いの結果」となります。この時点で「心を入れ替えよう」としても多分手遅れで、それをするなら少なくとも前段階の「警告」の時点で行うべきだと思います。「警告」と言っても否応無くそれと解るぐらい十分ハードなはずなので。

                      ところで賢明な皆さんは既にお気付きかと思われますが、「霊界」では物事の因果について語る際に「誰のせい、彼のせい、何のせい、かんのせい」という概念は一切存在しません。「霊層の上がり下がり」も「因縁の発動」も、自らに関わる「結果現象」の要因の全ては「自らの内的努力」によってのみコントロールされるべきものであり、他者による手出しが出來ないものとされています。
                      しかし打って変わって現界では、とかく物事を他人のせいにしたり、被害者意識に凝り固まって見たり、どうしようもないこととして投げやりになったり、とにかく「霊界とは正反対の概念」が横行しています。これは物事の因果関係を「物質的な関係」として捉えようとするからです。しかし、どんなに健康に気を使っていても、寿命が来れば人は死ぬでしょうし、どんなに事故に気を使っていても「事故に遭う人」は遭うでしょう。それはつまり、精神的であろうと物質的であろうと「因果関係は霊的に自らの内面が保有するもの」だからです。
                      しかもこれは私たちにとっては「朗報、吉報」です。何故なら、これは「自分次第で自分を如何様にも出来る」という確信に繋がる話だからです。
                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:52 | comments(0) | - |