青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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今日は2015年の大晦日です。
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    このブログを初めてから1年4ヶ月ほどになります。当初は主に青少年を対象とした「相談窓口」として考えていましたが、結局「大人の気付きや目覚め無くしては子どもたちは浮かばれない」というある意味「分かりきった話」に沿うべく、謂わば「子どもたちの為の大人向けサイト」という色合いが強くなって来たかと思います。
    特に大人に依らず子どもに依らず、疑問や質問には100%お答えする事を目指しています。そして、それを可能にするための根拠は「学問や知識」などではなく、あくまでも「経験値」であるとの信念は、この40年間いささかも変わっていません。人によっては「一人の人間がそんなにオールマイティな経験値を持ち得るものか」と疑われる方がおられるかも知れませんが、思えば私の人生そのものが「それを証明したいがための人生」であったのかも知れません。もちろん「人間」である限りは当然の如く限界もあるのでしょうが、しかし、人間の「本当の限界」というものが一般的理解や認識の「遥か先にある」というのも、また真実なのです。そういう意味ではむしろ「生半可な科学的知識が人間としての可能性を過小評価し、自らを矮小化している」というのが私たちの現状と言っても過言では無いと思います。

    ところで2016年は物事の「起承転結」になぞらえるなら「転」に相当するのではないかと思っています。「転」とは「転ぶ(=転倒する)」という意味かも知れません。しかし「転ばなければ学べない」というのであれば、転ぶしかないでしょう。何故なら、誰しも「学ばなければ正しい結論に至れない」からです。つまりこれは「既に学んでいる人は転ばずに済むかも知れないが、これから学ぼうとする人はひどい転び方をするかも知れない」ということですので、とにかく「大難が小難、また小難が無難」である内に「いち早く学んでその時に備える」というのが来年一年を通じて重要な心構えではないかと思います。(私ならそうします。)一番まずいのは「転んでも学ばない人」です。その人はもう後が有りません。

    最近ようやく解ったことが有ります。それは「人間には表九千裏九千、裏表合わせて一万八千の思想が有る」という言葉の意味するものです。40年間解らなかった謎(奥義)が「(必要に応じて)唐突に解る」という事もあるのです。即ちそれが「人間」というものだと思います。

    ということで、本年もありがとうございました。来年もよろしくお願い申し上げます。
    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:39 | comments(0) | - |
    世の中で「インチキ」と思われている事
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      世の中には、それぞれの分野に対する「専門家」や「研究者」がいて、一般的な報道レベルでの理解や社会通念に対して「疑義」を呈したりしています。つまり早い話が「流布されている情報自体がインチキで、真実は別に有るのではないか」と言っている訳です。
      私自身は専門性を持ち合わせていないので、それらについて自力で「事の真偽」を確かめる事は出来ませんが、世の中には「様々な思惑」が存在し、人には「様々な下心」が有ることは解ります。そして、そのような人たちの全てが「事の成り行きに対して運を天に任せている」とは思えません。そればかりかむしろ「その人たちなりに、事が上手く運ぶように策を講じている」と考えるのが普通だと思っています。そこで、世の中の人たちがどういうことに疑いを抱き、警鐘を鳴らしているのかを知るため、取り敢えず「インチキ」とされるものを(無評価のまま)列挙して見ます。

      金融システム、市場経済(=株価)、日本銀行、資本主義、共産主義、民主主義、三権分立、政党政治、政界、財界、裁判、官僚制度、天下り、御用学者、国政選挙、閣議決定、秘密保護法、安保法、仮想敵国、国際貢献、テロ組織、テロとの戦い、戦争、紛争、対立、国家予算、グローバル化、民営化、マイナンバー、宇宙開発、公共事業、社会福祉、各種統計、教育基本法、いじめ対策、医療、医薬品、食品添加物、年金制度、税制、原発再稼働、復興支援、除染、宗教、政教分離、新聞、テレビ、芸能界、ネット、スマホ・・・・・。

      つまり「人為的」なものはほとんどインチキかも知れないという訳ですが、それは、そこに関わる人間たちが、「自分たちだけが良くなりたい」と考えるのか、それとも「社会みんなで良くなりたい」と考えるのかによって変わることになるでしょう。もちろん前者は「不幸」に、後者は「幸せ」になるというのは小学生でも分かる事ですが、お金や権力に目が眩むとそういう事も分からなくなるようです。何れにせよこのままでは相当数の人たちが「不幸」に陥る事になるでしょう。本当にいいんでしょうか?
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 16:33 | comments(0) | - |
      「世の中インチキ」と「霊魂不滅の事実」
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        最近の検索キーワードの内、ちょっと変わっていて気になったのがタイトルの二つです。

        まず「インチキ」ですが、これはまるっきりのデタラメというより、取り敢えず体裁を取り繕って本物らしく見せかけた「真っ赤な偽物」ということであって、この方は「世の中は見せかけだけの偽物だらけではないか」とおっしゃりたいのかも知れません。
        確かに、現状の社会に氾濫する商品やサービスを見る限り、「売れるモノ(顧客ウケするもの)」であることは間違い有りませんが、それが「安心、安全」を基本として「顧客の利益を保証する」性質のものかどうかとはまた別の問題です。
        むしろ「あまり物をしっかりと作ってしまうと、とてもお手頃価格では売れない」ということがあるとすれば、「お手頃価格で売りやすいモノを作るには、どこかでこっそり手抜きをしなければならない」事になりますが、その際「堂々と手抜きが出來ない理由」は、顧客にそれを知られると「粗悪なただの安物」としか思われなくなるため、売れなくなるからです。そのため「商品は常にどこかでこっそり手抜きをする」ことによって、「実際よりワンランク上」に見せかける事で「良い商品をお手頃価格で提供」という売りやすく儲けやすい商売が可能になる様に思われます。
        このような場合、顧客は「騙されている」と言えなくも有りませんが、よほど悪質でない限りは「顧客が勝手にお買い得と錯覚している」という一面が無い訳でも有りませんので、顧客側としては「基本的な商品知識」と同時に「商品価値は価格相応」という認識は最低限必要だと思います。ただ、「不当に高く売りつけられ、買ってしまう」ような場合は「虚栄心」に付け込まれた詐欺に引っかかったようなもので、別の意味で本人の自覚が必要になると思われます。
        「インチキ」は商売だけの話では無く、もちろん「政治」や「行政」の世界でも横行していますが、これも「お金や利権」が大きく絡むところは、商売と構造的に何ら変わりません。何れも重要な事は「インチキを糾弾」する以前に、みんなが「インチキに引っ掛からない」ことだと思います。インチキは「ウマい話で有り、怪しい話」でしか有りません。大言壮語や美辞麗句はともかくとして、「堅実でまともな内容」を支持するよう心掛けましょう。

        次に「霊魂は不滅」という件ですが、これは一言で表すなら「神が決める」ことです。現状は「基本的に不滅」とされ、私たちの魂は(神と同様に)「未来永劫」生き続ける(=存在し続ける)とされています。しかし同時に「審判による消滅救霊」が為されるとも聞き及んでおります。これは「数千年〜数万年にわたって灯され続けた魂の火が消される」という意味で、これほど悲しい別れは有りません。それは「選別の後実行される」との事ですが、そのような話を信じるも信じないも、無論皆さんの自由であります。
         
        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:50 | comments(0) | - |
        「改憲」の旗のもとに集う人々
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          例えば「空手の達人」や「ボクシングのチャンピオン」がトラブルに巻き込まれても、その拳を振るう事が「ご法度」である事は良く知られていると思います。この人たちは確かに(試合に於いては)無類の強さを誇っていますが、実生活で「その力を役立てる事は出來ない」ということです。この事に対してどれほどのストレス(歯痒さ、もどかしさ、やるせなさ)が掛かって来るものかは、実際のところ当人たちに聞いてみる他有りませんが、これは「戦後の日本も同様」と感じて来た人たちも、長らくこれと似たようなストレスに苛まれて来たのかも知れません。そうでなければここまで露骨に「改憲」「再軍備」に突っ走るエネルギーの説明が付きません。そこには「ナメるなよ」という鬱積した不満と「もう沢山だ!」というほとばしる思いが有るに違い有りません。

          そんな中、機を見るに長けた一部の人々が「現総理を旗頭に結集する構想」を立案し、エネルギッシュに動いたという事実を「リテラ」など、一部メディアが報告しています。この場合「機を見る」とは、「経済の低迷、社会の混乱」など、人々が「優柔不断に嫌気が差し、強い指導力に憧れを抱く」時期に合わせるということです。それが証拠にこの時期、「ねじれ国会の解消」や「決められる政治」、果ては「独裁者待望論」までが話題の中心となるなど、今更ながら、これらメディアをも巻き込んだマインドコントロールは全て「旗揚げ」に向けた周到な準備段階であった事が窺い知れます。
          ここでの問題は「状況が悪ければ悪いほど旗揚げにとっては追い風となる」という事実であり、そのために「わざと低迷、停滞させる」という演出も有り得ない話では無いということです。もちろん、それは国民生活を「ダシに使う」ということで、決してあってはならない事ではありますが。

          ところで、私の関心はもはやそんなところには有りません。それより何より、今や「改憲の旗」が大きく掲げられた事で、今まで「改憲論者として人目をはばかりつつ思いを温めてきた」ような人々が、「もはや正義は我が方に有り」とばかり、機に乗じて公然と次々に名乗りを上げる動きが起きている事です。著名人などで「意外な人」なども目にしますが、こうなると敢えて「勘ぐる」必要も無く、何れたいへん解りやすい「構図」が出来上がると思います。
          そしてこのような傾向は、何も「改憲問題」に限ったものでは無く、「原発問題」「TPP問題」「基地問題」など、全てに於いて人々は「自分の本音を隠す事に疲れたか、隠す事に飽きてしまった」様です。何せ悪巧みでさえもそうなのですから。

          このような「社会現象」は見方によっては、人々が混在せず、思想、思惑、考え方によって(それぞれの旗のもと)「きれいに仕分けられている状態」のようにも見えます。
          そこで今一度考えて見ます。本当にこの旗のもとで良いかどうかということを。何故なら、その旗は「審判」のために建てられている旗かも知れないからです。
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:59 | comments(0) | - |
          何故、今「NHK」なのか?(2)
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            例えば報道姿勢について「事実(だけ)を報道する」事を求められた場合、昨今の様な株価の乱高下する状況に於いて、「当日の終値が1000円を超える大幅な下落」であったとして、アナウンサーの「今日の日経平均、為替はご覧の数字でした。」という言葉と共にお馴染みの画面が数秒間映しだされただけでも「事実を報道した」と言えなくも無いのでしょうが、しかしそれが本当に「正しい報道、あるいは報道姿勢」と言えるのでしょうか?少なくとも「下げ幅の具体的な金額」と「それに至った経緯」更には「予想される影響」「今後の見通し」など、「事の大きさ」に応じた適切な情報提供が行われないまま(無味乾燥)に「事実を伝えましたよ」と言われても、それでは大半の人にとっては「どう受け止めて良いのか皆目見当も付かない」に違い有りません。そればかりか、半数以上の人は肝心の「数字」さえも目に入らないでしょう。そして「日本経済の動向」に関心を持つ何割かの人々は、そのような報道を「異様な光景」として受け止める事となるでしょう。

            このように「事の大小にそぐわない」報道が為される場合には、そこに何らかの「意図」が働いていると見て間違い有りません。つまり「過大に評価させたい」か「過小に評価させたい」かのどちらかということです。何故そうするのかという理由については、報道機関の場合「自社に対する利益誘導」か「自社の政治的ポリシー」でも無い限りは、「政治的または経済的圧力」以外には考えられません。増して「NHK」のような公共放送にとって前者二つは無関係に等しいので、答えは自ずと明白です。
            話は逸れますが、侵略や内戦、内乱などで都市部や市街地を占領、占拠する際、真っ先に兵を差し向けるのは「政治の中枢と放送局」という様に相場が決まっている如く、時の政権にとっても「放送局を手中に収めたい」と思うこと自体は(甚だ不謹慎ではあっても)決して不思議では有りません。ただ願望はそれとして、それが現実となる事だけは絶対にあってはならず、日本国民(=公共)のために体を張っても阻止しなければならない最重要課題であるはずです。誰が止めるって?NHKの全職員に決まっているじゃないですか。

            だいたい以下に掲げる「放送法(抜粋)」だって、誰が見ても「特定の権力からの圧力」を想定した上で、それに対して「屈すること無く国民のために真実を伝え切るように」と書かれていて、もともと放送(=NHK)の善意と主体性を守るという主旨で作られた「放送法」の文言で権力に恫喝されるなど、私に言わせれば「とんだ茶番」としか言い様が有りません。


            放送法(一部抜粋)

            第1章 総則
             
            第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
            一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
            二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
            三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

            第2章 放送番組の編集等に関する通則
             
            (放送番組編成の自由)
            第3条 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。
            (国内放送等の放送番組の編集等)
            第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
            一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
            二 政治的に公平であること。
            三 報道は事実をまげないですること。
            四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

            (以上)


            特に「第2章第4条の四」は良く「両論併記」などと単純化されていますが、その主旨は「とにかく論点を明らかにせよ」という事であって、これは「多くの国民に代わって問題提起してやれ」と言われているのと同じ事であり、そう読み解けないとすれば、読解力が無さ過ぎます。というより、これを作文した人の思いに対してに失礼だと思います。

            とにかく「放送法」には「NHKが良心に基づいた独自の意見や判断を持ってはならない」などとは、どこにも書いて有りません。当たり前です。放送法もNHKも元々が「国民に資するためのもの」なのですから。

             
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:33 | comments(0) | - |
            何故、今「NHK」なのか?(1)
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              本題に入る前に、当ブログでもリンクを貼らして頂いている「カレイドスコープ」の最近の記事を紹介させて頂きます。
              http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3981.html
              タイトルも過激な目を引くものですが、語り口も何時に無く(敢えて)言葉を選ばず、あたかも声を荒らげているかのようなニュアンスが感じられるものとなっていますが、かと言って「文章としての品格を著しく貶める」などと言った事でも無く、内容に関しては相変わらず詳細なデータに基づく緻密で冷静な分析が為されているように思います。
              で、私は「何かを訴え掛ける」とは、そういうものだと思います。取り分け「強い危機感を持って何かを伝えよう」とする時に、「涼しい顔をして静かな語り口」で果たしてそれが適うものでしょうか。どう考えてもそれは無理でしょう。逆にそれでは「危機感を持っていない」か、それとも「相手がどうなろうと知ったこっちゃない」と思っていると受け止められるに違い有りません。(実際、そういうことだと思います。)
              つまり、私たちはその都度物事の持つ「危機感または緊急性」に応じて、それに対する「語り口を変える」のが普通です。

              ところで「NHK」が他の民放各社と大きく異なる点は、「受信料」によって成り立っているという認識が有るというものです。例えば「顧客に対し果たすべき義務」を考えた場合、民放各社が「広告主であるスポンサーに対する義務」であるのに対して「NHK」の場合は「受信料を収める国民に対する義務」でしか有りません。これは「公共放送」を標榜する限りに於いて間違い有りません。因みに「公共」を「国家の」と訳するのは間違いで、それなら「国営」という言葉が有ります。「公共」とは「大多数の人々の共通且つ正当性のあるニーズに対する合理的結果として設けられた社会の共有物」という意味であって、ポイントは「求めに応じたもの」でなければそもそも「公共」の意味を為さないというところに有ります。
              では「大多数の人々のニーズ(求め)」とは何でしょうか。確かに「利便性」ということが挙げられるでしょうが、それは謂わば物事の「手段、方法」という一面に過ぎません。本当のところ、それは「安心や安全」であり、「安定と繁栄」であり、「幸福な社会生活」ではないのでしょうか。
              つまり「公共放送であるNHK」は、当初から「全国民の安心、安全、安定、繁栄そして幸福のために放送業務を以って寄与」すべく宿命付けられているということになるのです。

              これは言うなれば「善意」そのものであり、「日本人の良心」の代行業務と言っても良いかも知れません。ずいぶん大げさな話に聞こえるかも知れませんが、そんな事を言えば「警察」や「消防」などの「公的機関」は本来的に社会に対する「善意の機能」を有していると言える訳ですから、NHKもその例外ではないというだけの事です。
              となれば、「主旨に従った判断のもとに、主旨に従った適切な情報発信や番組制作」が為されるのは当然の事で、その部分では「独自性」「主体性」や「自主性、自律性」が保たれなければならないのは言うまでも有りません。それを、やれ「不偏不党に反する」だの「公正中立を欠く」だの難癖が横行しているようですが、それら放送法上の文言を「問題点を指摘したり間違いを指摘したりしてはいけない」と解釈しろと言う方が無理難題というものです。むしろ「問題点や明らかな誤りに対して(昨今のメディアの様に)押し黙っている」方が「怪しさ100%」と言えるのではないでしょうか。(恫喝や裏取引の実体はすっかりバレているようですが)
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 13:23 | comments(0) | - |
              本日は都合により記事をお休み致します。
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                午前中はNHKまで出向いてNHKの掲げる「公共性」「公正、中立性」「独自性」「自立性」などについて、職員(管理職)の方と共に考えさせて頂きました。同時に「NHKは”日本の良心”として機能すべきではないのか」の問いに対し、同意を頂きました。もちろん「現状はいささか心もとない」という認識のもとでの話です。

                少なくとも「NHKがコケれば皆コケる」という認識は必要です。
                | 青少年の味方の人 | ご連絡・お願いなど | 13:10 | comments(0) | - |
                改めて「公共の精神」について
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                  検索キーワードの中で群を抜いて多いのが「公共の精神」という言葉なので、改めて取り上げて見たいと思います。
                  ところで、私たちの社会には既存の「公共施設」「公共設備」「公共サービス」などが有りますが、これらはそもそもどういう性質のものなのでしょうか?

                  まず、未開の土地に村落を作るイメージから始めると、大抵の場合河川からそう遠くなく、比較的安全そうな所に数件が寄り添うように家を建てて住み始める事になると思います。寄り添った方が外敵に対して安全であるに違いないと思うからですが、更に「クマやオオカミ」が出没するということになれば、頑丈な囲いが必要となるかも知れません。問題は一件一件が個別に囲うか、それとも集落全体を囲うかという事ですが、どうせ同じ様な資材で同じ様な手間が必要となるなら、集落全体を囲ってしまった方が「利便性が高い」事に気が付くと思います。そして共同作業のもとに資材を調達、運搬し、集落全体を守るための囲いを完成させます。
                  また、水の調達を考える時に、いくら川に近いと言っても「氾濫による水害」を考慮すれば、川の間近に集落があるわけでもないとすれば、運搬の時間や手間を思えば「井戸が有るに越したことはない」と考えても不思議では有りません。その場合も、「日照りの際にも水を安定供給出来る」ような、ある程度深さの有るしっかりとした井戸を個別に掘るか共有するかという選択肢があるでしょう。共有する場合には、もちろん共同作業で共同管理することになります。
                  このようにして行くことで、集落の暮らしはずっと安全で利便性の高いものとなって行くものと思われます。

                  この場合の「囲い」や「井戸」が集落に於ける「公共物」ということですが、その発想は「必要なものを個別に持つよりも全体で共有した方が明らかに合理的且つ利便性も高まる」ということに尽きると思います。またその精神は必ず「人にも良いし自分にも良い」というものでなければならず、それ故「平等な利用と公平な負担」が保証される必要があるのだと思います。

                  そのように物事を整理して考えて見ると、元々が「公共の精神を持て!」とか上から押し付けられる手合いのものではないことが解ります。例えば良く「公共事業」などという言葉を耳にしますが、これらのものに「多くの利権」が絡むことが日常化している状況に於いては、その「公共性」即ちそれが「本当に大半の人々によって望まれていること」であるのかどうか、場合によっては「公共」とは名ばかりということさえ起こり得るのかも知れません。
                  ここは今一度「原点」に戻って考えて見たいと思う次第です。
                   
                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:52 | comments(0) | - |
                  「家 居たくない」というキーワード
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                    「家に居たくない理由」は人それぞれと言っても、(親の保護下にある)子どもの場合はやはり直接的なものだと「親子関係」、間接的なものでは「両親の不仲」など、居ながらにして「強いストレス」を肌で感じるような家庭環境に有ることが殆どだと思います。(稀には「家が貧乏過ぎて嫌だ」などの物理的要因があるかも知れませんが。)
                    また、それが高ずると家にだんだん居着かなくなり、無断外泊や家出といった大事に発展したりします。
                    これは「家を出る」ことが悪いというより、志や展望の無いまま「追い詰められ、居たたまれなくなって出る」という出方が如何にも刹那的で、希望が感じられないことに問題が有る様に思います。逆に言えば「希望に燃えて家を出る」というなら、熱意や意気込みの程を理解してもらい、合意を得るための努力が出来るはずで、最低限すべきだと思います。(結論的に「家出」の形になったとしても)
                    何れにしても、子どもは年齢と共に次第に「家を出たくなる(=独立心を持つ)」のがノーマルな成長過程と思われますので、親の側としてもそれに先んじて一定の(心や形の)備えは必要だと思います。

                    ところで「家(=家庭)」とは動物の「巣穴」と同じで、そこは外の世界で敵に追われた動物が「逃げ帰って来る」唯一の安心、安全な場所であり、また捕ってきた獲物を持ち帰り、心行くまでお腹を満たす場所でもあり、もちろん出産、子育ての場所でもあります。つまり人にとっても動物にとっても「家(=巣穴)」とは「安心、安全の代名詞」でなければならないということです。
                    それを(事もあろうか)「外の世界以上に危険を感じる場所」にしているのは、おそらく人間だけでしょう。何故そんなことが可能かと言えば、「自己中心思想」によって家庭を「我の張り合い場所」にしてしまっているからです。家庭は小さいながらも一応「社会」なので、権利の主張や奪い合いが出來ない訳では有りません。特に子どもは親にとって「将来の安全保障のためのツール」であり「投資と回収の対象」とも成り得るので、「親の自我の矢面」に晒されやすく、また単純に「弱者」として「八つ当たり」の対象とされたとしても不思議では有りません。
                    もちろん、子どもとしても「やられっ放し」とは限りません。ある年齢からは「逆襲」に転じて、立場がそっくり逆転することも有りますが、それとても元はと言えば「親が撒いた種」にほぼ間違い有りません。何故なら「豊かな人間性と愛情」で育てた子どもが「親に反旗を翻す」理由が見当たらないからです。

                    とにかく「家は住むものに全てにとっての安心、安全の場でなければならない」事を再確認の上、NHKの動物番組「ダーウィンが来た」でも見て、(冗談ではなく )動物から少し学んだ方が良いかも知れません。
                    それと「人生50年」の時代であれば、(親の皮算用)が無い分、子どもがその標的にされることも少なかったかも知れないと思う次第ですが、何れにしても子どもの個性を無視した画一的な要求を押し付けるのは誤りです。何故なら世の中はデコボコ道で出来ていて、ボコの部分にデコの部分をあてがって平らに均(なら)して行かなければ進めないからです。つまり「個性の組み合わせ」で成り立っているのが健全な社会の姿であって、「間違っても個性を潰して平らにしよう」などと考えないことです。
                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:06 | comments(0) | - |
                    「命は何よりも尊い」のか?
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                      これは「唯物的」には「命の終わりは自分の終わり」ということになるので、確かに「命は何より大事」ということになろうと思いますが、「何より尊い」かどうかはまた、別の問題かと思われます。何故なら「尊さ」というものは主観ではなく「客観的に絶対的価値が求められる問題」であろうと思われるからです。そして少なくともそういう観点で見ない限りは永遠に「自分の命は自分にとって掛け替えのないものなので大事だが、他人の命は自分にとって掛け替えのないものでは無いので大事とは言えない」という本質論から抜けられないと思います。
                      ですからここでは取り敢えず「命は何よりも尊いのか?」という問いに対しては「そうでもない」と言って置くことにします。
                      しかし,このまま話を終わらす訳には行きません。それでは「命を粗末に考える人」が跡を絶たなくなってしまいます。では私たちは、この問題をいったいどのように理解すれば良いのでしょうか?

                      ここからは「霊的(=唯神的)」に話を進めます。(因みに「唯心」では無く「唯神」です。)
                      まず基本的な理解として「自分の霊魂は唯一無二で未来永劫変わらない自分」であるのに対して、命を有する肉体は「今世限りという時間的制約を持つ現世に於ける仮住まい、または霊魂の乗り物」ということが有ります。これは例えば「立派で尊い人」が「立派な車」に乗っていたとしても、その事を以って「車自体が尊い」ということにはならないということです。

                      ところで「尊い」という言葉ですが、これは「偉大」とか「立派」とかの類の言葉とは一線を画するもので、殆ど信仰の対象となるような「絶対的な価値感」に裏付けされたもの、即ち「神」そのもの又は「神の有する価値や意思を色濃く反映させたもの」以外には中々使い難い言葉だと思います。良く「人を尊敬する」「相手の立場を尊重する」などと言いますが、実は言葉の背後には「神の手前」或いは「神の教えに基づいて」という「人としての奥ゆかしさ」が込められているのが正しい用法でしょう。逆に言えば、そういった「信仰心」の裏付けの無い心で「尊敬や尊重」が出来るはずが有りません。何故なら「尊」には予め「無条件に服する」意味が込められているからです。

                      こうした前提のもとに「命の尊さ」について改めて考えて見ると、それは「私たちの霊魂が持つ尊さ」であることが解ります。何故なら「私たちの霊魂」は、そもそも「神の分霊」として世に送り出されたものだからです。ですからそこには(小さいながらも)「神の性」がそっくりそのまま入っていることになります。でなければ「不滅」であろうはずもなく、また「良心」などという働きがあろうはずも有りません。

                      つまり私たちが「肉体の命」に先んじて護るべきは「霊魂の持つ神の性」即ち「自らの心」即ち「人間性」ということです。そして「人間が人間性を以って人間らしく生きる時に、肉体は黙って付いてくる」ものであって、自分の命を心配する余り「人の道を踏み誤る」ような行為こそが「完全なる本末転倒」であり、逆に肉体そのものを(霊的に)危険に晒す事になるでしょう。
                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:39 | comments(0) | - |