青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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NWO(新世界秩序)について
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    本日は例に依って、私が別のブログにアップした記事を転載致します。

    (転載開始)

    前回の記事で「NWO」計画は成就しない旨の予測を示しました。これは「グローバルエリート」即ち世界的な特権階級の人々による数世代にわたり入念に仕組まれた遠大な計画との事で、直ちに全貌を把握する事は困難かも知れませんが、存在自体は少しずつ明らかにされてきているというところだと思います。

    ところで以前から気になっていたのですが、それはこの計画の断片を垣間見る度に、私の知るところのものと「良く似ている部分」があることです。(場合に 依ってはソックリと思わせるものも有ります。)この感じは一体何だろうと不思議だったのですが、やっとその意味が理解出来ました。(それと言うのも、私が 今までNWOの存在自体にさして関心を持たなかったのが、理解を遅らせた原因ですが。)

    NWOの特徴として「一見すると理に適ったものである様に思える」という事が有ります。また、それに携わる人々からして「欲得」で動いていると言うよりも、「使命と感じて沈着冷静に行動している様に見える」という特徴も有るように思えます。実際そうなのかも知れませんが、ではそれで良いのかと問われれば 「何かが決定的に足りない」いや、完全に「欠落している」と言わざるを得ません。「何が?」と問われるなら、それは「愛(=人間性)」です。実は「理」とは「愛」による裏付けがなければ「理」と呼べないものなのです。(それは単なる薄っぺらな合理主義に過ぎません。)
    つまりNWOの実体は「合理的かも知れないが、理に適わない薄っぺらな計画」という事となり、そこに集う人々は「その事も理解出來ないほど人間性(=愛)の欠落した人々」という事になります。

    そして、この計画は明らかに「霊界の計画を模倣した、似て非なるもの」であるという事が出来ます。実は「悪魔が霊界の計画や技術を先取りする」事はしばしば起きています。「原子力理論」などもそうですが、元々は「完全に無害で安全な平和利用」のために用意されていたものですので、将来は必ずそうなるでしょう。
    このようにNWO計画も、人々が「善悪の判別が付きにくく混乱する局面で一時的に台頭する」怖れは有るにしても、所詮は偽物として淘汰されるでしょう。何故なら、人間性の欠落した人々に「世界を主導する資格」が与えられようはずも無いからです。

    (転載終わり)

    上記の記事に対して二点ほど追記したいと思います。
    まず、知って頂きたいのは「悪魔は嘘をつく」と言うことです。しかも、それまで散々信用させておいて、土壇場で物事を引っくり返すのが得意です。大悪魔であればあるほど信用させるエサもネタも豊富で、嘘そのものを見破る事は困難です。それもそのはずで、ほとんどのネタが「霊界から盗んできたもの」に基づいているからです。つまり、悪魔は最初から「土壇場でひっくり返して致命傷を負わせる事」が目的なので、「悪魔を信じる」行為自体が「完全な自己矛盾」以外の何ものでも無い事を推して知るべしです。繰り返しますが、「悪魔は悪魔的な人間のパートナーでは無く、悪をエサに悪魔的な人間を狩り集めてまとめて葬り去る」事を目的としています。

    それともうひとつ、「沈着冷静」は人間の「理性」の表れという評価は誤りでは有りませんが、「似て非なるもの」として「憑依され操られた状態」が有ります。取り分け大悪魔の場合、カモフラージュのため「擬似的な人間性」を演出する事もしばしば有りますが、本物(の人間性)を知っている人であれば、その違いは歴然としています。しかし今の時代、「本物の人間性」に出会う機会もめっきり減ってしまった中では、見誤る人が意外に多いのかも知れません。その意味でも「社会に於ける人間性の回復」が最重要な喫緊の課題と思われます。
    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:14 | comments(0) | - |
    「秘密がダダ漏れになる秘密」の解明
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      世の中には政治、経済、国際情勢、地球環境などを初め、各分野に精通した方々が多数存在し、それぞれにご自身の得意とする切り口から「世の中を良くするため」の分析や提言を鋭意行っておられる現状があるかと思われます。
      そこで改めて自分自身を振り返って見ると、最も得意とする分野は「霊的」という事になりますが、それはそもそも「地球というたまたま有り得ない偶然が重なって生物の生息に(一分の隙も無く)最適条件が整った惑星」に「たまたま有り得ない様な偶然が重なって発生した微細な生命体」から「ほとんど有り得ない様な確率で偶然に進化を遂げた結果、人間というパーフェクトなシステムが(誰の意図とも無く)作られた」などという話がそれこそ「全く有り得ない」としか思えないからです。

      ハッキリ言って、人間には「二者択一」しか有りません。即ち上記の様な「桁外れの偶然」を選択して「唯物思考」を押し通すか、さもなくば「霊的」を受け入れ、「造物主」の管理下に身を置く事とするかです。その際、間違っても「霊的を受け入れつつも更に選択肢が有る」とは思わない事です。「霊的」とは「摂理」そのものであって、様々な運用実体は在るものの、それ自体は一つです。

      この内「唯物思考(=物理的思考)」では、作為的に力を加えない限り、あらゆるものは「不確定要素」と言えます。また、作為があったとしても「偶然の要素」は排除し切れず、やはり「確定」には至りません。
      しかし「霊的」では、ほとんどのものが「確定要素」となり、「偶然」の入り込む余地はあまり多く有りません。物事にはあらかじめ「方向性」が定められており、強い作為を用いるまでも無く、「進めやすい方向」を見出す事が可能です。但し人間には「敢えて方向に抗う自由」が与えられており、そうする事で新たな「確定要素」を作り出す事も出来ますが、結果は当然「自己責任」とされます。

      ところで近年、本来ならば人の知るところではない「極秘事項」や「裏取引」などが表沙汰となり、不祥事が相次いで明るみに出る事が多くなりましたが、これは通常(唯物的には)、「うっかりした」「運が悪かった」など人為的ミスや偶然のせいとされると思います。しかし「霊的」には、「今まではバレるような事はなかった」というところがポイントとなり、単に(霊界が)「今まではバラさないようにして来たが、今後はバラすようにした」というだけの話で終わってしまい、こうなると「物理的要因の検証」など、ほとんど意味を為さなくなります。つまり、こういう事です。

      例えば、「完全な密室で秘密の会合が行われた」として、話の内容を知る者は(物理的には)その場に居合わせた人間だけと考えられますが、「霊的」には同時に「その密室に居合わせた何百もの霊」と、「霊界経由でそれを知り得た何億もの霊」であり、当然その中には「神格を有する多くの御神霊」も含まれる事となります。つまり言い換えれば「太古の昔」から、密室の密談など「ダダ漏れ状態」だったのです。ただ問題は、それを受けて「霊界がどのような動きを見せるか」という事があるに過ぎません。前述の如く、霊界が「秘密の開陳」に動けば、(方法は言えませんが)それは間違いなく人の知るところとなります。ともかく事は常に「霊界」のコントロール下に在るということです。

      「霊的を受け入れる」とは、そういうことです。ですから相変わらず「密室に集まる人々」は、「唯物思考」しか出來ない人々ということになります。
       
      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 13:06 | comments(0) | - |
      「大人」に関するキーワード
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        今月も様々な検索キーワードによって、当ブログにアクセス頂きありがとうございます。(中には「な〜んだ」と思った方もいらっしゃるかも知れませんが)相変わらず「公共」に絡んだものが、比較的関心が高いように思われますが、「公共」とはこの時代、「みんなの」という意味であって、語源となる「お上(オカミ)の」という意味では無い事がポイントだと思います。
        また、それとは別に「気になったキーワード」として「大人 持つ 強さ」「大人 人間性」というのが有りましたので、今回はこれを取り上げて見たいと思います。

        全ての人間は「ピュアな心」を持って(赤ん坊として)生まれて来ます。但しその時点で既に「将来解決すべき精神的課題または実務的課題或いはその双方」をしっかりと携えていることは間違い有りません。これは今世に於けるその人間の「定め」としての意味合いとなるもので、成長と共にそれぞれ適切な時期に発芽し、顕在化することになります。その中には放置してしまうと行く行く「障害」となるものも多く含まれますので、理想的には「課題として顕在化した順に解決する」のが良いと思われます。また、これら課題の凡その主旨は、「苦手の克服及び不足しているものの取得」となるでしょう。この際「課題の具体的な内容や到達目標」は個々まちまちであって、他人と比較する意味が無い場合も多く、「他人の在り方を余り意識し過ぎない」事が重要です。

        このようにして、人間はほぼ十代の内に「人間としての基礎」を固める事が出来るようになっています。それは理想的に事が進むなら、精神面では「ピュア(=純粋できれい)な心」に「粘り、踏ん張り、辛抱、達観」など、あらゆる局面に対応可能な「心の強さ」がプラスされる事による「盤石な心(=人間性)」と、必要とされる身体能力、技術力、思考力、知識力などを併せ持った「人間としての総合力」となるでしょう。

        しかし「課題の解決」の過程で「怠慢や挫折」が生じ、課題が未解決のまま放置されると「障害」が発生し、その時点で心の屈折を余儀なくされます。それは「未解決のままでも先へ進める」と言った錯覚を生み、それが更なる悪循環の元となって「怠慢」が繰り返されるようになると、心はやがて複雑にねじ曲げられ、「得体の知れないモノ」へと変容して行きます。
        このような問題を修正、解決するためには、「元に戻って正しくやり直す」しか有りませんし、それが不可能では無いにしても、事に依っては「何十年も前の時点からやり直さなければならない」ことを思えば、なるべく早く気付き、いち早くやり直した方が得策であるのは言うまでも有りません。

        つまり、大人と子どもの相違点は「心の強さに集約される」と言っても過言では有りません。子どもは「純粋」ですが、大人だから「汚れや捻じれ」があっても良い訳では有りません。それは「成長段階での失敗」の表れであると言い切って良いと思います。
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:05 | comments(0) | - |
        「霊的力学」の本質だけは知っておくべきだ
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          当ブログではこれまで「霊的」や「霊界」が(目に見えないながらも)私たちにとって極めて身近なものであることから、その存在や仕組み(の一部)について理解を促し、またその重要性を訴えて来ました。しかし、私たちにとって「実感のないものを受け入れる」ことは確かに至難の業であり、それこそ「五感で認識し得るもののみが存在する」という唯物的観念を転換することはそう簡単では有りませんが、そこに拘る限り「原因」に対する「結果の整合性」は永遠に得られない事になり、多くの場合(それが為に)「納得の得られないまま人生を終える」結果となります。そして、それがその人たちの限界となります。何故なら、「物理的因果関係は因果関係全体のごく一部」でしかないからです。

          ここに一つの言葉が有ります。それは次のようなものです。

          「人は計画を立て、それを行い、結果は神が出す。」

          重要なのは、この言葉が「遥か昔の教理、経典」によるものではなく、「現在進行形の真理」に基づくものであるという事です。もちろん人類創世の時代から一貫して、いささかの変更も有りません。そしてこの言葉に「霊的力学の本質」が明確に表されていると言っても過言では有りません。言い換えれば私たちは(小難しい話はともかく)「この言葉さえ覚えておけば良い」ということです。
          この言葉には幾つかのポイントが有りますので、以下で順を追って説明します。

          まず、人間は誰しも「好きに考えて好きに行う事が出来る」と読み取れることから、如何なる悪事であっても(基本的には)神に制止される事無く実行出来るとされています。つまり「神は人間の悪事を止めない」ということです。

          次に「結果は神が出す(=下す)」となっていますので、人間の行為の事後に、「所業に対する審判並びに処遇の決定及び影響の制御」が法(と因縁)に基づいて実施される事になります。しかし「神によって下された結果のイメージ」は、必ずしも人間に理解出来る範疇のものとは限りません。それは人間が「神の目」を持ち得ない(=神の心と立場を理解出来ない)事によりますが、少なくとも「白か黒か」という結果に関しては当の本人には(良心)を通じて判る仕組みになっています。但し「良心が働かない状態」に陥ったとしても、神はそれには関知せず、結果だけが蓄積されて行く事となるでしょう。

          最後に、この言葉の冒頭が「人々は」ではなく「人は」で始まっている事から、元来「神と人の関係性は一対一」である事が解ります。つまり「隣の悪人が自分に危害を及ぼす事」の心配をする前に、「自分が悪人となって神、祖先、人の信頼に背くことの無い様心掛ける」のが先決です。如何に周囲の悪に対して「多勢に無勢」と思われても、自ら「悪の波長」を出さない限り「悪心が伝播」する事は決して有りません。増してそのような人は、それこそ「神、祖先がカラダを張って」護るでしょう。その理由は「神、祖先がその人を必要とする」からです。

          上の話をまとめるとこういう事になります。まず、悪人は自分の悪行によって苦しみます。その悪行が周囲にもたらした影響によって苦しむのは、そのような縁が在るからで、縁の無い人は苦しみません。また、世の中に悪の根が絶えない理由は、悪が世襲制で不滅だからでは無く、常に受け継ぐ者がその場にいるからに過ぎません。
          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 14:31 | comments(0) | - |
          「執着」は五感を奪う
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            「執着」とは「こだわること」ですが、甚だしい場合には「ものに取り憑かれた」のと同じ状態と言えます。そもそも「執着」は良いことでは有りません。何故なら、それがために物事の「冷静で合理的な判断」を鈍らせるからです。その要因は主に「執着時の目や耳の働き方(=物の見え方や聞こえ方)」に有ります。
            人間が五感によって感知する(外部の)情報は、通常自分にとって「都合の良し悪し」に関係なく取得されるものですが、そのように「別け隔てなく」情報が得られる事が、安全性や危険性、有用性などの判断にとって重要であることは言うまでも有りません。つまり「判断による取捨選択」は、あくまでも「無判断のもとに得られた正確な情報」に対して行われなければ意味が無い訳です。例えば「自身にとって警鐘を鳴らす情報」が欠落した状態で物事を判断しても、危険を避ける事は出来ません。

            「執着」とは元々、「論理性や合理性を軽視、或いは無視して望む結果を得ようとする在り方」のことです。目的や計画自体が「理」に適ったものであれば、無理なく自然にそうなるので、殊更執着する必要が有りません。つまり「執着」を推し進めるためには、強い作為を以って無理矢理「現状変更」を行っていく必要がある事になりますが、その時問題になるのが(五感によって為される)「現状認識」です。
            本来であれば、目的に対して計画を立案する際には、現状認識が正確なものであるに越した事はないのですが、執着する人の心理状態によっては「正しい現状認識をしたくない」という場合もあるでしょう。それは例えば、高い飛込み台から目をつぶってジャンプするようなものかも知れません。その方が「臆すること無く力が出せる」という考え方もあるでしょうが、しかしそのやり方では肝心の「安全確認が犠牲になっている」ことは否めません。

            このように「見たくないものは見ない方がやりやすい」という考え方が潜在化すると、今度は本当に「見ているつもりで見えていない、聞いているつもりで聞こえていない」という、あたかも外部フィルターのような作用をもたらす事になります。これは「潜在意識による取捨選択的作用」によるもので、こうなると外部情報自体が不完全な状態でしか認識出来なくなってしまいます。つまり、都合の悪い情報が効率よくシャットアウトされた「自分の世界」が徐々に構築されて行くことになります。これを「裸の王様」に喩えている内はまだ笑って済みますが、もっと怖ろしくはるかに現実的な喩えも有ります。それは「車で山道を運転中、カーブの先の崖が道に見えてしまう」というものです。これは「思い込み」によって日常的に起こり得る事例ですが、実は「思い込み」も「執着」のひとつなのです。
            ですから私は自分の五感を、とても(習慣として)100%は信じる気にはなれないのです。
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:52 | comments(0) | - |
            「悪魔」と無縁な人生とは
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              昨日まで、「悪魔」に関する連載を敢行してきましたが、本来はこのような「主だった各宗教の基本的概念」に抵触するような部分にまで踏み込みたくは有りません。しかし誤解を怖れずに言うならば、「悪魔」に迎合しようが、拒絶しようが、その存在と影響を「過大視」し、それらに心と関心を奪われる事はハッキリ言って好ましく有りません。何故なら、その分だけ(相対的に)「神に対する期待と評価が下がる=信仰心の低下」という結果を招くからです。何より「霊界が完全に神のコントロール下に在る」限り、現界(或いは人間)もまた、「完全に神のコントロール下に在る」という事となり、そうであれば私たち人間が真に怖れるべきは「悪魔の所業」などでは無く、「神の立法」であることは明白です。これは言い換えれば、私たちの「不幸」は、私たちが「神の立法(=霊界の指示)」を正しく理解しようとせず、それに従わなかった事により、(自覚の有無に関わらず)自ら招き入れたものであると言えます。
              ですから「常に悪魔を怖れ、神に加護を求める」という信仰の形態は誤りです。そのような人は、「自分が既に間違っている」などとは夢にも思っていません。そうではなく「自らの無知(=慢心)と怠慢を詫びると同時に自らの立て直しを誓う」というのが、神を畏れ敬う正しい信仰の在り方と言えます。
              多くの人たちは、「自分の怠慢」のせいで(霊界経由で)どれだけ多くの「神霊」や、その計画、また多くの人々に負担を強いる結果が生じているかについて全く無頓着ですが、それでも尚、(リミットの定義は有るにせよ)日夜「手厚い保護の下に更生、復帰を促され、働き掛けがなされている」事自体が大いなる「奇跡」であり「救い」であると言わざるを得ませんが、残念ながらそれに気付く人は稀でしょう。何故なら、多くの人は「欲の皮」が突っ張り過ぎて、奇跡と言えば「金銀財宝が天から降ってくること」、救いと言えば「病気が立ちどころに治ること」ぐらいしかイメージ出来なくなってしまったからです。

              とんでも有りません!私たちが今生きていて、しかも考えることが出来て、なおかつ舵を180度切ることが出来るなら、それは「奇跡」の結果なのです。

              最後に、私の経験値を以ってするなら「凡そ神ほどコワいものは無い」となります。
              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:55 | comments(0) | - |
              「悪魔」と「不幸な出来事」の関係
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                ここに素朴な疑問が有ります。それは「何故、罪も無い者が(何も悪い事をしていないのに)ヒドい目に遭わなければならないのか?」というものです。「原罪?」・・・違います。(人間には必要悪は有っても、それは罪とは認められません。)

                まず、「罪の無い者が外部から一方的に悪魔の攻撃に晒され、不幸に陥る」という事は決して起こり得ない事を再確認しておく必要が有ります。人間は良く「神もホトケも無いもんだ!」などと苦言を呈しますが、残念ながら「神とホトケは在る」ので、厳密に言えばこれは「神仏に対する冒涜行為」に該当します。
                海外に於ける「パニック映画」などの描かれ方を見ると、このようなシチュエーションが多用されているようですが、意外と「日本映画」には少なく、むしろ「因果応報」という伝統的手法でストーリーが展開する方が「受けが良い」ようです。せっかくそのような「含みの有る優れた文化」を持っているのですから、そこを基本に精神性の向上を図れれば良いと思います。

                「罪も無いのに・・・」という思いは、「罪や穢れ」がどういうもので、どのように「身の内」に存在しているのかを良く知らないために持つものですので、まずはそれを知ることが先決です。そしてその次に「罪穢れ」をどうすれば減らして行くことが出来るのか学ぶ事が重要となります。そうすれば後は「実行有るのみ」ということです。
                もし、その上不幸に見舞われて「神もホトケも無い!」と天に向かって叫ぶなら、神は「確かにその通りだ」として、その人は直ちに救い上げてもらえるでしょうが、「完全無欠の神」故に、現実にそんな事態は起こり得ないでしょう。肝心なことは、人間は「神」を疑う前に、自らの「無知と見落とし」を徹底して疑うべきだということです。
                私は40年余り、自身の根幹としてこの問題に取り組んで来ましたが、その中での何千という大きな経験、何万という小さな経験のひとつとして、これらの確信を揺るがすような「不測の結果」に終わったものは有りません。

                ところで人間の犯す「罪の霊的概念」ですが、確かに「法律に反した行い」がそれであるのは良いとして、そのように「他人の権利を侵害する行為」だけがカウントされる訳では有りません。そればかりか、霊的には「三種類の罪」の定義が在り、それぞれ重い順に「神に対する罪」「祖先に対する罪」「人に対する罪」とされていますが、これらは「物理的な区分け」という訳ではなく、例えば、人を蹂躙する行為が「あからさまな神への反逆」と見なされるケースも(思想、想念状態によっては)有り得る事になりますので注意が必要です。

                そして「罪」を理解する上でのもうひとつの要素として「前世」があります。例えば人間が「前世」に於いて犯した罪が、その生存中に贖(あがな)い切れなかったとすれば、その贖いが「来世」に持ち越しとなるのは当然の事ですが、それは不幸な境遇、妨害や障害、トラブルなどの前世と類似した「因縁」として、今世の道すがらに配置されます。
                これは「霊界側」から見れば、「原因結果の法則」に基づいて、その人間の「罪穢れ」を贖いにより解消させるための「配慮」ですが、人間側から見ると「何で自分だけがこんな目に・・・」不平、不満、愚痴の対象として映るかも知れません。そうなれば、本来「罪を贖うため」の機会が、更に罪を増やすという「最悪の結果」にもなり兼ねませんが、これは「一重に霊魂の指導力不足」「霊的怠慢」として見なされるでしょう。何故なら「霊魂自体」はこの世に送り出される時点で、「目的に前世の贖いが含まれている事実を知っていた」からです。
                このような「不幸な事態」を避けるための特効薬はただひとつ、それは(あらゆるものに対する)「詫びと感謝」しか有りません。

                私から見ると、「原罪」も「悪魔の攻撃」も、「前世の因縁」を正しく知る事で、無縁に出来るものと思えてなりません。
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:22 | comments(0) | - |
                「悪魔の役割」とは
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                  これは、もしこの世に悪魔が存在しなければ、どうなるかを考えて見ればすぐに判ると思いますが、現状では「神」は人間に対し、常に「善」への道標を指し示し、人間の精神を上へ上へと引き上げるための働き掛けに終始しています。対して「悪魔」は、常に人間を「悪」へと誘い、その精神を「堕落」へと引きずり落とす装置のようなものです。しかし、もし悪魔が存在しないとなれば、これをも「神」が行う事となってしまいます。つまりその場合、「神」は「善と悪の二面性」を有する事になりますが、それが仮に能力的に不可能では無いとしても、そこにひとつ困った問題が生じます。
                  その話をする前に、「悪(=個)」という概念が「善(=全体)」を完全無欠の完成形に近づけるために不可欠の概念であるというポイントは押さえておく必要が有ります。例えば乳幼児期では基本的に「善」が優っていますが、「悪」に抗し得る論理と力が不足しているため、無意識無感覚に「悪」が混入しやすい状態と言えます。

                  問題というのは「神が自らの分霊として人の霊魂を生み為す」という仕組みに由来する事ですが、それ故人間(の霊魂)の進歩、向上が「神に近づく」という概念で理解可能となっている訳ですから、そこにもし「悪魔的要素」を「神の一部」として加えてしまうと、話は甚だ解りにくいものとなってしまいます。そればかりか人間そのものが「二面性」を常態としなければならなくなり、その中で「善」を際立たせる作業は相当複雑なものとなり、困難を極める事となるでしょう。ですから最初から「そのような選択肢」は無いのです。現実にはもっと単純な話であって、即ち「神は善をバックアップし、悪魔は悪をバックアップするが、何れも総体的に善を際立たせる目的を有する」という理解が正しいと言えます。但し「総体的に」という意味は、個々の霊魂にあっては(基準に満たないとして)「仕分け」の対象となり得る事は、充分心して臨むべしということです。見れば世の中には既に「足元に火の付いた人」も多く見受けられる様ですが、是非今一度「誠心誠意」生きることにトライして頂きたいと思います。(これにはタイムリミットが有ります。)

                  ついでながら言うと、人間では「我欲執」による「自己中心的想念と行為」を「悪」と見なしますが、霊魂では「執着による使命の怠慢」を以って「悪」と見なします。何故なら「使命の怠慢は全体の軽視」として「反逆」と見なされるからです。このような価値観は、完全な縦構造である霊界ならではのものかも知れませんが、霊界が厳格(過ぎる)というより、それだけ「個々の霊魂の使命」は大きく、怠慢の及ぼす影響もまた大きいということです。(功労のもたらす影響も大きいのですが。)しかし、人間が「人間性」に基づいて日常を送る限り、「霊魂の怠慢」とは無縁と思って間違い有りません。もちろん、そういう人は「悪魔」とも無縁です。
                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:53 | comments(0) | - |
                  「悪魔」とは何か
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                    「善と悪の戦い」は、霊魂がこの世で肉体を持つに至る事で「人間の心の中」のみで起こる現象です。原因はそれによってもたらされる「自我・欲望・執着」というエゴイズムと、霊魂本来の目的の間にギャップが生ずるためです。ですから考え方としては「ギャップが縮まれば戦いも無くなる」ということですが、勿論この場合は、「肉体を霊魂寄りに近づける」という意味になります。
                    これはちょうど「野生動物を飼い馴らして従順にする」様なイメージですが、最終的には「相互の信頼関係」が決め手となる事も、全く同じです。即ち、霊魂側が(肉体を良く理解した上で)愛情を掛けながらも「頑張りどころで頑張ってもらう」とするのが良いでしょう。そうすることで、肉体は霊魂(=精神)の「良きパートナー」となってくれるはずです。
                    ここで重要な事は、この「善である霊魂が悪の要素としての肉体を懐柔する」過程に於いて、霊魂が「成長する」という事実です。つまり「悪」の存在意義自体が「善に磨きを掛け成長させる」という研磨剤としての役割に集約されるということです。

                    前置きが長くなりましたが、「悪魔とは何か」の前に、悪魔が果たして「実在するや否や」ということで言えば、これは実在します。西洋では「サタン」「デビル」ですが、日本で言えば「邪神」「邪霊」の類ということになり、決して想像の産物では有りませんが、但しその成り立ちや働きに対しては多くの「誤解」が存在するようです。
                    取り分け、それらの「誤解」は世界三大宗教などの場合、その発祥の時点から存在したというよりも、後世に色付けされた際にもたらされた可能性が大きいと思います。(因みに、神が悪魔の存在を脅威と感じたり苦慮したという事実は一度も有りません。)
                    従って天界に於ける「神と悪魔の覇権争い」も無ければ、地上に於ける「神と悪魔の戦い」も有りません。つまり、戦争を初め、世の中に存在する不幸で「悪魔」のせいに出来る事など何一つ有りません。これらは全て「(悪魔的な)人間の為せる業」に他なりません。

                    それではいったい「悪魔」は何のために何をしているのでしょうか。
                    ひとつ確かな事は、人間は悪魔に依って「悪魔に魅せられる者」と「そうでない者」とに仕分けられているということです。中には平然と「悪魔崇拝」に身を投じる者さえいますが、いったい悪魔に何と囁かれたのでしょう?悪魔は詐欺師同様、決して本当の事を言わないでしょうに。一瞬でも良いので「これはもしかすると囮捜査かも知れない」と、悪事を働く際には勘ぐるべきだと思います。
                    それともうひとつ、悪魔は用のない人間には決して関わりません。悪魔にとって用のある人とは、「(想念で)悪魔を呼んだ人」または「過去に悪魔的な因縁を作った人」ですが、人間には誰しも「引き返してやり直すチャンス」が与えられていますので、その勇断が出来るならば「霊魂が大きく成長する」でしょう。しかしそれも「仕分けられるまで」の事です。
                    そもそも「仕分けとは何なのか」「仕分けの後には何が起こるのか」は、一度は考えて見た方が良いと思います。(これ以上は言いたくても言えません。)
                     
                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 18:18 | comments(0) | - |
                    「今日は何を書くべきか」迷う事がある。
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                      社会問題(政治、経済、教育、文化etc.)、心の問題、正しい霊的理解など、私たちが今まさに必要とされている事は山積しているように思います。そんな中で「記事を書く」ということは、私たちが乗り越えるべき喫緊の課題を解決へと導く「一助」となれば、という思いに相違ありませんが、イカンセン多すぎて順序の付けようも有りませんので、「当たるを幸いバッタバッタと切り落とし」状態で進める他無いようです。

                      そこで取り敢えずは、再び外部サイト「カレイドスコープ」の以下の記事をお勧めしたいと思います。

                      http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4078.html

                      こちらの記事は、「人間が現代を本気で生きる」とは、こういうものかと思わせてくれるような内容となっています。また「本気は人を動かす」ことを証明してくれるような文章でもあると思います。

                      言うまでもなく、この場合の「本気」とは、「本気で金儲けを考える」「相手を本気でやっつける」みたいな意味では有りません。こういうのは「邪念に取り憑かれた姿」という理解が正しいのです。
                      正しい意味の「本気」とは、霊的に説明するならば「霊魂本来の全き心」としての「本心」が体側の中継所である「良心」を介して「体に宿った状態」を指しますが、「霊主体従の法則」によれば、それが「最も人間らしい在り方」とされることになります。
                      ですから人間は本来、「たまに本気になれば良い」などというものではなく、「常時本気である必要が有る」ということです。

                      因みに、ここでいう「本心」とは、やはり「人間の薄汚れた下心や本音」という意味では無く、霊界に温存されている「穢れ無き心」のことで、霊界に留め置くことで、現界の罪穢れの影響を回避し、温存することが出来る仕組みになっています。

                      ところで「霊的」と聞いただけで、「胡散臭い、如何わしい」といった「オカルト的なイメージ」を持たれるかも知れませんが、キリスト教、イスラム教、仏教の何れもそうであるように、「神を信仰の対象とした形態、概念」に於いて霊的で無いものは存在し得ません。つまり「聖なるもの」は全て霊的であると同じく、「邪悪なるもの」もみな霊的と考えて間違い有りません。ですから、物事を理解しようと欲する先には、どうしても「正しい霊的理解」が必要となるのです。
                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:11 | comments(0) | - |
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