青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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2月に寄せられた検索キーワード
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    今回は、当ブログにアクセス頂いた方々の「キーワード」に対して「一問一答形式」でお答えして見たいと思います。


    ◎家 居たくない
     必ずしも親の考え方が正しいとは限りませんが、自分が未熟である事も事実です。その気持ちをきっかけに「独立心とバランス感覚」が共に成長する事を期待します。

    ◎世の中 極端
     おっしゃる通り「バランスの良くない世の中」です。「極端」とは本来「真ん中」を知るための手掛かりとして「知る必要」は有っても「目標」とすべきでは有りません。

    ◎戦争 側面 ビジネス
     国家間の戦争、大規模な内戦など「お金の掛かる戦争」は「側面」どころか「ビジネス」のためにわざわざ(巧妙に)計画されたものという報告も有ります。

    ◎心の拠り所 宗教
     心の拠り所は「宗教」ではなく「信仰」です。「宗教」とは「共通の信仰を建前とした(組織力を有する)社会的集団」であって、必ずしも目的が「信仰」とは限りません。

    ◎公共の精神(とは)
     「公共」とは「(自分も含めた)みんな」の事ですので、その精神とは「いつもみんなの事を考え、みんなで良くなろう、良くしようという気持ち」の事で、自分が率先する気持ちが重要です。

    ◎自己執着
     全てを「己の利害得失」に結び付けて考えざるを得なくする「自己を中心とした世界観」の元となる執着心。双方向に於いて「愛」と無縁となるため、失うものが余りにも大きい。

    ◎霊層高い人
     我欲や執着心に乏しく「人間性」の豊かな人。常に眼前の今(=責任)にベストを尽くせる人。霊的には与えられた「使命、天分、職業の道」に人事を尽くして天命を待てる人。

    ◎嘘をつくとはどういう事
     嘘をつく理由は「自分のため」か「相手のため」のどちらかです。どちらにしても「(予想されるダメージから)守る必要が有る」からで、その目的は「思想」に左右されます。

    ◎純粋な人 生きづらい
     このように感じるのは求められる「強さ」が足りないからで、挫け易いのは「思想的弱さ」があるからです。「思想的強さ」とは「寒風で皮膚が鍛えられる」様な「経験智」を指します。

    ◎学校は争いの場
     「学校」は「他者との様々な関わりが試される場所」ですが、「学校側にそのような認識が乏しい」ために「無作為に集う人々」への対応が十分でない結果「争い」が際立ちます。

    ◎悪人 必ず 滅びる
     悪は悪同士(論理的に)最後の一人になるまで潰し合いますので必ず滅びますが、霊的には(それを待たずとも)「退場」のタイミングが定められています。

    ◎なるようにしかならない霊的
     これは「霊魂の定めに無いものを望んでも適う事は無い」という意味では正しいと言えます。但し「悪魔に魂を捧げてまで霊的に無いものを得よう」とする人間もいますが、正直「悪魔の正体」を知らな過ぎます。

    ◎気遣いとは 心遣いとは 違いは?
     「気遣い」は「立場欲」などから発する「損得勘定」でも可能で、意識神経を使います。一方「心遣い」は「深い思い」が形に表れるもので(ほとんど無意識的であって)神経を使いません。両者は全く別物です。

    ◎けつおきせいかく
     申し訳有りません。「けつおき」の意味、用法が不明に付きお答え出来ません。


    続きは次回に。
      
    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:05 | comments(0) | - |
    「洗脳」に関する興味深い記事
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      今日は「世界の裏側ニュース(=海外ニュースの翻訳を主体としたサイト)」から、「洗脳」に関する記事をご紹介したいと思います。まずはご一読される事をお勧めします。
      こちら→「最もよく使われている現代の洗脳テク10種」

      ここでは「洗脳方法」として一般的なものから順に「1.教育、2.広告とプロパガンダ、3.予測プログラミング、4.スポーツ、政治、宗教、5.食べ物、水、空気、6.麻薬(中毒をもたらすあらゆるもの)、7.軍部の実験、8.電磁スペクトル、9.テレビ、コンピュータ、フリッカーの頻度、10.ナノボット」と列挙されています。

      タイトルだけでは意味の解りにくいものもありますが、例えば3番目の「予測プログラミング」などは、SF的な本や映画によって「擦り込まれる」というものの様です。
      また、下へ行くほど「任意による選択」から「検知困難な強制力」となっていく様にも見受けられます。しかしそれさえも、必要な見識さえ備えていれば「政治、外交レベルで踏みとどまり(洗脳の魔手を)押し返す事は可能」と思われます。何故なら「洗脳の進行状況」は「国家間」に於いて必ずしも「同じ進み具合」を示している訳では無く、「国家の基本的なポリシー」に左右されている現状があるからです。

      「洗脳(=マインドコントロール)」とは、意図的に「事実誤認」を行わせ、その結果として「誤った価値観」を定着させる作業と言って良いでしょう。となれば、洗脳を解く鍵は「事実を正しく認識する」事に尽きると思われます。
      しかし「洗脳しようとする人々」は「事実を誤認させるため」に多くのお金と手間を掛けています。但しその「手間」とは、他人を顎の先で使うだけのものであって、自分たちが汗を流している「本当の手間」では有りません。
      一方で「真実を訴える人々」にはお金も権力も有りませんので、自分が汗を流し、命を削るしか方法が有りませんが、そこには必ず「本物(=真実)だけが持つ品格と輝き」が生じます。
      つまり、人は「人間としての品格と輝き」を感じる方向へ舵を切れば、概ね正解に行き着きます。(特にマンツーマンで接すれば、その違いは一目瞭然です。)
      但しそれでも「お金と権力の様を輝きと感じて止まない人」は、残念ながらその時点で淘汰される事となります。その人は「洗脳」云々では無く、元々そういう「思想」の持ち主であったという事です。
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:40 | comments(0) | - |
      「組体操」の事故について
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        一部の自治体が学校に於ける「組体操(=組み立て体操)」の全面禁止措置を打ち出した事が、物議を醸しているとのことです。理由は当然「事故が多発して危険だから」に尽きると思いますが、一方でこれを不服とする「組体操肯定派」では、「全員で難しい課題に取り組み成し遂げる達成感は教育上必要」または「学校ごとの自主判断が尊重されるべき」などの意見が多く見られる様です。

        ところで「組体操」に限らず、(登下校を含む)学校での事故に対応する保険制度として、ほとんどの学校が「日本スポーツ振興センターの災害共済給付制度」に加入していると思います。(保護者もPTA会費の一部として子ども一人当り500円程度の負担をしているはずです。)ですから「学校側」としても「事故が起きても大丈夫」のような、(車の任意保険に似た)変な安心感が持てるのかも知れません。
        しかし「無用な事故のリスク」は無いに越したことは有りません。問題は「組体操」がリスクを冒してでも「一般教育過程に取り入れるべき項目」であるのか否かということでしょう。

        私は「必要性は無い」と思います。何故なら「みんなで力を合わせて成し遂げる達成感は、別に組体操の専売特許とも思えない」からです。ですからもし、そう言い張る人がいるとすれば、逆に「組体操でなければならない根拠」を伺いたいと思います。
        それに「組体操」は「短距離走」や「ドッジボール」とは明らかに違い、(力学的に)専門性の高い種目で、しかも人体に決定的なダメージを与え兼ねない(重量や落下エネルギーによる)「大きな負荷」を前提としていますので、本来であれば(プロレス選手のように)「想定される負荷に抗し得る体作り」からスタートするのが筋だと思います。
        更に「指導する側」が「体育指導の専門家」でないケースに於いては、「児童、生徒の適性上、体調上の安全、危険の見極め」など望むべくも無く、ただマニュアルに従って「勘と手探り」に任せて良いことと悪いことが有ると思います。つまり自覚は無くても、専門的には「やっていることがデタラメ」である場合だってあるのです。

        以上のような理由から、学校として「どうしても運動会で(見栄えのする)組体操をやりたい」と言うのなら、最低でも「有志」を募り、「適性」を見極めた上で実行し、それでも何かあれば前述の「災害共済給付制度」のお世話になれば良いと思います。
        一部には「やりたくないという苦手意識を克服する事に意味が有る」という声もあろうかと思いますが、では体育に限らず、「音楽教育」に於いても「児童全員」に対して「ピアノでモーツァルトのソナタが弾けるように要求しても良い」ということになります。子どもたちに「大人の価値観」を押し付けるとは、そういうことです。

        私は「大人たちの本音」を知っています。特に「学校」の場合「他校との競争意識」、自治体レベルでは「メンツや対抗意識」のような「子ども染みたくだらないお粗末な動機」であるために、尚更「物事の本質」や「実情の把握」に無頓着という「教育上極めて不適切な教育関係者」が教育を語るという皮肉な現実があるということです。

        そうでもなければ年間8500件超(2013年度)という事故件数の説明が付きません。
        それに事故、事故と簡単に言うが、「死んだ子」もいるということを忘れないように!
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:11 | comments(0) | - |
        「ゲーム機バキバキ」について
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          当ブログは元々、子どもたちの直面する問題(=ほとんど親のせい)に光明を見出さんとする為のものですので、今回は「高嶋ちさ子」なる人物の行為について検証して見たいと思います。(尚、ゲーム機バキバキ事件の経緯については、多数の確認手段が存在するものとして割愛します。)

          結論から言うと、これは「人として恥ずべき行為」だと言うことです。また「教育、子育て」の観点から言うと「決して陥ってはならない真逆の方向性、即ち親子共々ダメになる典型的なパターン」でしか無く、従って本来なら「論議の対象」にも成り得ません。以下にその理由を説明します。

          まず、この人には「自分の育ち、やってきた事、歩んできた道筋は正しい」という確信が有ります。それは「東大法学部出身」のエリート官僚が「俺って、もしかすると間違っているかも」などと決して思わないのと同じで、そう思った瞬間に「鉄壁の牙城」が崩れ去ってしまうからです。しかし人間というものは、本当は「それ」を(なるべく人生の早い時期で)何度か繰り返さないと「本物」にはなれないものなのです。それはちょうど「鋼の焼入れ、焼戻し」のようなもので、人間の性質を「期待値」に近付けるために不可欠の工程と言って良いでしょう。
          因みに「最初から期待値を満たしている人」などいません。何故なら、人生とは「不完全を完全に近づける工程」とも言える訳ですから、その人には論理的に「生まれてくる理由」が無くなってしまいます。
          つまり「エリート街道を疑いもなく歩んで来た人たち」は、逆に「自らヤキを入れる」機会を逸しやすいというハンディを抱え込む事になり、仮に特定の能力では特化していても、人間としての組成そのものは「硬度や粘度の不足した鋼」の如く、極めて危うい状況であるかも知れないのです。

          それと「約束」に拘る人、取り分け「他人が(自分との)約束を破った事に激昂する人」には、ある共通点が有ります。それは「自分を何様だと思っている」という部分です。その「何様を裏付けるもの」は、人それぞれですが、総じて「誤ったプライド(=差別意識)」が強く、自己中心的な世界観によって、他人を理解しようという気持ちに乏しく、万事が独善的で「押し付けがましい」人だということです。しかも困った事に「頭が良い」という自負が有り、「論理的に正しい」と思い込める分、始末が悪いと言えます。例えば「姉を守るためのケンカ」などは「論理的」とは認められません。
          少なくとも自分にとって「尊敬する人との尊重すべき約束事」を好んで破る人などこの世に一人もおりません。「破った!破った!」と騒ぐ人は、そんなことも解らない程度の人だということです。もうひとつ言っておけば「親だから尊敬しろ」というのはダメ親です。実際そんな器用なマネの出来る人間がこの世にいたら、会ってみたいものです。(振りならたいがい出来るでしょうが。)

          いったいこの「高嶋ちさ子」なる人物の親は、娘にどんな育て方をして来たのでしょうか。とにかくその「娘」が自分の息子たちに行っている事は「圧政」であり「恐怖政治」の手法でしか有りません。おそらくは一方的な法律(=約束事)で縛り、法を犯せば「厳罰(ゲーム機バキバキ)に処す」ということであれば、どこも変わりません。「圧政」の先に何があるかについては、幾つかの「分岐」が考えられますが、ひとつとしてロクなものは有りません。
          そもそも「子育てとは親が子を通じて学び直すこと」という基本中の基本が解っていないから、こんなチンケな話を他人に吹聴して恥をかくハメになるのです。しかも「一芸に秀でる」事と「人間的に秀でる」事は全く無関係という当たり前の事すら理解出来ていないようです。

          これも「エリート意識というハンディキャップ」に翻弄され、人として肝心な事を見失ったツケを返上する(たぶん最後の)チャンスとして、死ぬ気でがんばって頂きたいものです。もちろん、かわいい子どもたちのために。
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:40 | comments(0) | - |
          「医療」と「三毒」の関係
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            「三毒」とは「薬毒、肥毒、学毒」即ち「薬剤(薬効成分)、化学肥料、(唯物的)学問」の事で、何れも「有益性」を主張しつつ、実際は人間を真実から遠ざける「毒」の作用を及ぼすもの、という意味です。これらは全て「自然が有する保全、調整機能を理解、尊重する事無く、機能自体を破壊の方向に導く」という共通点を持っており、近視眼的な「強欲」を助長する結果にしか至りません。この内「農業関係者」でないと解りにくいと思われるのが「肥毒」ですが、「有機農法」の対極に位置するものとして、「化学肥料はなぜいけないのか」などで検索すれば、その「猛毒ぶり」が理解出来ると思います。(因みに少なくとも60年前には「霊界」から「現界」に対して警告が為されていました。)

            ところで、こと「医療」に関しては「薬毒、学毒」を中心として発展してきた経緯が有りますが、ここに至って様々な「矛盾」、というより「人間に則さない実体」が顕在化して来たかも知れません。冷静に見れば首をかしげる様な話を人々が依然として受け入れているのは、そこに「医療は唯一無二のもので正しい」とされる「マインドコントロール」の成果であって、もしそのタガが外れてしまったら立ちどころに「訴訟の嵐」が巻き起こるかも知れませんし、そんなことにでもなれば、とても病院は持たないでしょう。

            例えば、私のように「無医薬」で40年以上何事も無く過ごして来た人間にして見れば、何十年にわたって薬が手放せない状態は「異常なこと」としか思えません。また殊更「予防」を声高に叫び、ワクチン接種に余念が無いのは(自費で有れば)結構ですが、「自前の免疫力」はいったいどこへ行ってしまったのか、何故「自分の免疫力、抵抗力をそれほどまでに不安視」するのか不思議です。これは農業に於ける「化学肥料の使用が病害虫を増やし、農薬の使用に拍車を掛ける」という「悪循環の奨励」と共通するように思えてなりません。
            現状のビジネスモデルでは、病院は「来い」と言い、製薬会社は「飲め」と言うに決まっています。みんな「それ」で生計を立てている訳ですから。

            「唯物思考」によって作られたシステムが正常な好循環を示す事は有り得ません。それらは早期に破綻をきたし、その後はダメージを覆い隠すべく「悪循環」を繰り返すしかなくなります。しかし最も罪深いのは、それを可能にするために「パブリックなマインドコントロール」を行ない続ける事でしょう。

            「医療制度」は今後、「文化的レベル」として(現状を覆す様な)抜本的な改革が必要と思われますが、それは「国」や「医療関係者」が自ら為すべき事として、私たちはそれに期待するしか有りません。しかしそれを待つまでも無く、私たちはまず「自分たちの中にある悪循環」をリセットして、「好循環を具現実行」する必要があると思います。それはもちろん「有機農法」と同じく、自身もさることながら「次世代の子や孫」のためです。
            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:10 | comments(0) | - |
            病気と医療の「霊的考察」
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              「霊的」に「病気治し」を標榜すると、一気に胡散臭さが増すように感じる人が多いと思います。(まだ予言や運命占いの方が馴染み易いと思います。)これは何故でしょうか。理由は2つ有りますが、ひとつは昨日の記事にもあるように、私たちが「病気や医療」に対して「強力な唯物的マインドコントロール」を受けているからで、日本の「医療文化」から簡単には逃れられないからです。そしてもうひとつの理由は、本当に「病気治し」と称するインチキ「霊感商法」が横行しているからです。これらの中には最初から詐欺目的のものもあれば、始末の悪い事に、当の本人が「出来ると思い込んでいる」ケースもあるでしょう。何れにせよ基本的に「霊能」と「ビジネス」は相容れないものなので、名目はどうあれ「高額な報酬」を要求する事自体、自ら「偽物」と言っているに等しいでしょう。これは逆に言うと「500円しか持っていない」と言って「それでいいよ」と言われたら本物の可能性も有る、ということです。

              ところで「霊能」の一形態として「浄霊」と呼ばれる「(事実上の)病気治し」が存在する事は事実です。しかし、そもそも「病気治し(=医療)」と公言する事自体が「医師法」に抵触する事から、表向きには「霊魂」を清め「精神」を高める事で自らの治癒力、治病力をアップさせる事を目的とする事になりますが、これはこれで(方便ではなく)れっきとした真実であり、ただ浄霊行為に伴う(体的毒素の分解排泄を促すという)医療行為に近似した側面を「伏せておく」或いは「ぼかしておく」必要が有る、ということです。

              そもそも「病気とは何か?」ということですが、これは人間の持ち得る「不幸の三要素」としての「病気、貧乏(貧困)、争い」のひとつであると言えます。「不幸」とはもともと「想念違いや慢心(=怠慢)」の結果「霊的価値」が低下した事によって(霊界に於いて)発生(または発動)した「悪因縁(=無用な負荷)」を指し、「不幸を感じる」とは「無用な負荷(の存在)を認識している状態」と言えます。ですから仮にそれらが積もり積もって「山盛りのてんこ盛り」に感じたとすれば、「絶望感に苛まされる」というのも頷けます。そして、それらの「無用な負荷」が現界に(人間に対する障害として)もたらされる際に、(原因や適性に応じて)「病、貧、争」の何れかの形になって表れる事になります。

              ここで重要な事は、「負荷(=障害)」の本来の意味は、「克服すべきもの」であり、その目的が「霊魂の立て直し」であることは言うまでも有りません。
              また、霊界では万事が「(徳、不徳の)共有」を基本としているため、「連帯責任」としての「負荷の配分」が行われる事も珍しく有りませんが、例えて言えば「部下の失態を有能な上司が九割がた穴埋めする」ようなもので、このような「縦線」に添った不幸の解決は「霊界」ではごく一般的です。(現界も大いに倣うべきでしょう。)

              このように「病気、貧乏、争い」は元々「霊的」なものですから、「唯物的」に理解し、対処しようとしても、うまく行かないばかりか、かえって見当違いの方向に向かってしまう事さえ多々有ります。特に病気の場合、「治癒力、治病力」が「霊的向上」に大きく依存するものである事は、もっと知られて然るべきだと思いますし、人には「天寿」が在る事の本当の意味も再認識する必要が有ると思います。それだけでも「医療」に対する概念はずいぶん変わってくるはずです。

              「鉄壁の医療制度」に関して「霊的」にとやかく言う事は、これまで極力控えていましたが、その部分だけ「タブー」として取り残しておくのも不自然なので、今後はバランスをとって行きたいと思います。取り分け「唯物思考の牙城」の如き体質は、医療の正しい方向性を見出すための障害となるでしょう。何故なら、人間も病気も共に「霊的」だからです。
               
              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:12 | comments(0) | - |
              最大のマインドコントロールは「医療」です。
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                私たちは生まれた時から「日本の医療制度」の中で過ごしており、その存在はあたかも空気の様であり、住環境の一部として、ほとんどの人は何ら疑問を持つこともなく「疑う余地の無いもの」として受け入れていると思います。
                この「医療制度」は法律(医療法、医師法、薬事法など)で細かく規定されており、強制力を含む権限や違反者に対する罰則などに見られる様に、「国民の生命に直接関わるもの」として「事実上の聖域」とされていますので、その事によって「安心、安全な医療」が担保され易いという反面、もし「誤った医療概念、医療行為」が存在していたとしても、外部からは見つけ難く、指摘し難いという仕組みになっています。
                つまり「制度としての医療」とは「善意のかたまり」である事が前提であって、「悪意の介在」は無論のこと、「固定観念による慣れ合いや慣習」「組織防衛や個人的利害」などといった「気の緩みや雑念」のもとでは、全く信頼に値しなくなるのも当然と思われ、最終的には「医師個人の資質」に帰結するでしょう。(これでもずいぶん「歯に衣を着せている」のです。)

                ところで「医療行為の基本概念は唯物思想」です。それらは「体を治す」ものであって「心(=霊魂)を治す」という発想では無く、しかも「治す(=修復する)」というよりは「(不快や苦痛の元となる)症状を抑えて(体を)楽にする」事に主眼が置かれているようです。それが証拠に「症状による不自由さ」を感じないのに病院に行く人はいません。つまり「楽になればそれで終わり」であって「体が本当に治ったかどうか」は、余り問題にされません。この事を理解するためには「体が本当に治るとはどういうことか?」を理解しておく必要が有ります。

                例えば風邪を引いて39度前後の熱が数日続いた状態の時、同時に体の節々が痛かったとします。放っておいてもやがて徐々に熱は下がって行き、7〜10日ほどでほぼ症状が収まったとします。ふと気が付くと、風邪を引く前よりも全体的に「体が軽くなった」気がするのは、風邪の間食欲が無かったせいだけではなく、「関節付近を中心として体中に溜まっていた毒素(=老廃物)」が発熱で分解され、汗や尿と共に体外に排泄されたからです。

                一般に体内の毒素は、運動量が多く、熱を持ち易い組織に集まり易いとされますが、冬場や夏の冷房など、急激に体が冷えやすい環境のもとでは、順調な排泄が行われる前に「固体化」してその場に留まる事が多くなり、それが徐々に体の不調の原因となって行きます。その最も合理的な解決方法は「体内の毒素量に見合った風邪を引く事」か、または「体内の冷えた箇所に効率的に(カイロや灸、温浴などで)熱を送る事ですが、即効、確実なのは意外にも「風邪による分解排泄効果」だと言え、保温に努める事はむしろ「毒素定着の予防」に適していると言えるでしょう。

                何れにしても39度の高熱?に「定期的」に身を委ねるのが嫌な人は、日常的に「保温」を心掛けるのが良いでしょう。そして間違っても「初めから病院で解熱薬(や抗生物質)を処方してもらうことを念頭に置かない」ことです。何故なら「解熱薬による(見かけ上の)症状の緩和」は、せっかく始まった「体の浄化調整作用の中断」であり、体の不調の原因が何一つ解消されないまま、毒素の蓄積と共に先送りされるだけでしかないからです。そしてその事がやがて大病を患う原因となります。当たり前です。毒素が溜まり過ぎるとどうなるかは「実際溜めて見ないと判らない」ということでは困るのです。

                多くの人々は「病院で医師が薬を処方するのは当たり前」と思っているかも知れませんが、まずそれを称して「マインドコントロールの最たるもの」と言って置きます。少なくとも「薬を処方したがる医師」というのは(前述の理由で)信頼に値しません。心ある有能な医師であれば「最低限の薬しか処方したがらない」はずです。そこでは「体を治す」事が主眼に置かれ、そのためにまず「薬が必要であるか否か」の責任ある判断が下されると思われます。つまり「診断の結果、何もしないで患者を帰す医師が正しい」場合もあるということです。それが正しいと思えないと言うなら、それは私たちが「洗脳」によって安易に醸成してきた「先入観」によるものです。
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:16 | comments(0) | - |
                心の働かない人々
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                  唯物思想の人々は「心」を働かせず、「五感と頭」を使ってモノを考えます。しかも「五感」は先入観に支配され易く、錯覚を伴うものですから、ある一点で堂々巡りを繰り返す事になりますが、もちろん当人はその事に気付いていません。例えば一旦他人を「怪しい」と思ってしまったら、素振りや口振り、立てる物音まで全て「怪しく」聞こえてしまうのが「人の常」ということです。結果的にどんなによく見てよく聞こう、よく知ろうとしても、相手の疑いを晴らす方向には一歩も進めなくなってしまうばかりか、逆に「疑い」は募るばかりとなります。
                  このような状態を「見てるつもり」「聞いてるつもり」「考えてるつもり」と言い、実際には「何もしていない」ということです。この「救いようのない状態」から抜け出すには、「心を働かせる」以外に有りません。何故なら「心」以外のアイテムは既に「使い切っている」からです。

                  そこでまず「働(はたら)く」という意味ですが、単に「仕事をする」に加えて「音(おん)」がもたらす意味として「傍(はた)」を「楽(らく)」にする行為であるということがあります。つまり「利他」の精神と行いでなければ「働く」とは言えないと言うことです。
                  一方で「心」というものは「霊魂本来の思想」に「経験知、体験知、感受性」などのアクティブな要素が合わさった「実践的な思い」ですから、その働きには必ず「利他の思想」が反映されている事になります。そしてそのように「心」が主体となって「五感」を活用する場合のみ、「利害損得に惑わされない正しい情報」を得ることが出来るため、瞬時に方向を見定めて片時も停滞する事無く、先へ進む事が出来るようになっています。

                  このように「唯物思想(=自己中心思想)」である限り、人間は(本当の意味で)「心を働かせる」事が出来ず、ただ考えや判断に際して「頭を使っている」に過ぎませんが、その能力差は「天と地」程もあるということです。その証拠に「国際問題や社会問題」がいつまで経っても同じところで「堂々巡り」しているのは、世の中で「心の働かない人々」が圧倒的に多いからです。これは宗教や社会的地位云々に関係なく「そういうこと」です。
                  何故そう断言出来るか、それは(経験的に)「心の働きの処理スピード」を以ってすれば、個人的な意思決定に5秒、他者を交えた合議に於いてさえ「5分以上の時間を要しない」ものだからです。
                  信じられませんか?(しかし古くから「ことわざ」にもある通りの事なのですが。)
                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:25 | comments(0) | - |
                  「二分の一成人式」「自分史」について
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                    まず「二分の一成人式」で検索を掛けると、予想外に多くの記事がヒットします。(今までそんなものがある事も知りませんでした。)
                    ウィキはこちら→https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E5%88%86%E3%81%AE1%E6%88%90%E4%BA%BA%E5%BC%8F

                    単刀直入に申せば「20歳で成人を迎える」ことに対して、それを機械的に2で割る設定の仕方自体には「大仰にイベント化する意味や価値」はほとんど有りません。何故なら、自分たちが10歳(小学校4年)の時を振り返って見れば判る事ですが、この時期の子どもたちは「急速な成長段階の真っ只中」にあって、まだまだ「自意識」もおぼつかず、過去や未来に対する意識も乏しく、「今日を生きる事に精一杯」の状態であり、「今までの総括やこれからの展望」に思いを寄せる余裕など全く無いと言っても良いと思います。(妙に大人びて計算高い子どもが例外的にいるかも知れませんが。)つまり10歳は「精神的にも肉体的にも何かの節目と成り得る歳では無い」ということで、そのような意味を持たせたいというのであれば「12歳」まで待たなければなりません。それであれば、子どもの側にとっても「子どもと大人の境目に際して」という「幾ばくかの意味合い」は持てるかも知れませんが、少なくとも「10歳」ではほとんど「大人の自己満足」レベルでしかないはずです。

                    しかし一方でこの「二分の一成人式」には、「家族の多様化、被虐待児のケアに逆行する」などを中心とした問題提起が為されているのも事実です。
                    例えばこちらの記事→http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20150119-00042352/

                    このような「重大な指摘」にも関わらず、多くの学校教育の現場で積極的に取り入れられている実情が有り、もし学校側が「明らかに(リスクよりも)教育的メリットが大きい」と安易に考えているとしたら、今の学校教育が全般として「如何に取るに足らない貧弱な発想の元で行われているか」を如実に表しているとしか言い様が有りません。(言うまでもなく学校教育という抽象表現の中身は、教育者という個々の人間の集まりです。)
                    しかし前述の様に、「10歳」を成長の節目と考える事はどう考えても無理が有り、従って「大人が期待するメリット」など何ら無く、ただ「リスクばかりが際立っているのが二分の一成人式」の偽らざる実体であるとすれば、即刻取り下げるのが妥当でしょう。私はこのままでは「変えられないPTA体質」と共に、「日本の学校教育の恥」だと断言します。
                    しかもこの際「子どもたちも喜んでいるから」というのは継続(=正当化)の理由になりません。喜んでいるのは「子どもたちが大人を信じている証拠」であって、であるなら尚更「大人こそが子どもたちをミスリードすべきで無い」と言わざるを得ません。

                    このような「家庭環境の多様化」に対する「甚だ無神経な学校側からの一方的な家庭像の押し付け」の一環として、子どもたちを通じて(くどいほど)行われる「自分史」の作成にも、現在の学校教育の「隠された意図」が見え隠れしています。「二分の一成人式」もそうですが、これらは暗に「家庭の内情」を調査しているのと同じことになります。保護者にして見れば、まるで学校から「痛くもない腹なら探られてもいいだろう」と言われているのと同じようなもので、結果的に「かなり家庭内のプライバシーに踏込んだ要求」が「授業の一環」として正当化されようとしている実情が有ります。もちろん保護者が真実を曝け出す事を好まないなら「嘘や作り話」でお茶を濁す事も可能ですが、それでは「子どもが傷付く」事になるでしょう。
                    百歩譲って「子どもたちの安全を期するためのプライバシーの収集」というならそれも結構ですが、それを正当化するためには「プライバシーを知り得た者がそれによって義務と責任を果たす」必要が有ります。今の学校(=教師、教育関係者)にその「気構えと能力」が備わっているなら結構ですが、もしそうなら逆にそういうコソコソしたやり方をする必要も無く、とっくに「真っ向勝負」が出来ているはずです。つまりこれは「何も考えていない」か、或いは「教育現場に於いてプライバシーを管理するシステム」を作ろうとしているだけであって、謂わば「システム任せの無責任体質」という逆の方向に向かっている怖れすら否定出来ません。

                    とかく昨今の人間は「責任を負う」ことを毛虫の如く忌み嫌います。だから何でも「安上がりのシステム」に喰い付きます。そうして何が起ころうとみんなで「システムのせい」にして、結局誰も責任を取ろうとしません。もし学校教育さえもそうであるなら、子どもたちはタマッたものでは有りませんが、何れにせよ「家庭のプライバシーに積極的に関わるとは、本来それだけ責任重大な事」であって、安易に扱われて良いものでは無いということです。
                     
                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:23 | comments(0) | - |
                    「霊的」の落とし穴
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                      そもそも「霊的理解を深める」とは「己を知る(=正しく認識する)」ということであって、もう少し具体的に言えば、「自分という存在が持つ”繋がりや関わり”について”目に見える部分”は元より”目に見えない部分”をも正しく認識する事に依って、自ずと”自分が何者”であって”どのように生きるべきか”理解する事が出来る」というものです。
                      つまり、あくまでも「自分だけの事」であって、「他人(の裏)を知る事」では無いということです。ですから「霊的知識や能力」を「他人の詮索」に用いようとする考え方や発想は全く正しく有りません。それは「重大なプライバシーの侵害」でもあり、そのような無作法な試みに対して容易に「邪神、邪霊」の類が関与して来る事は想像に難く有りません。繰り返しますが、特定の個人のプライバシーを霊的に暴く事は「ご法度」なのです。

                      特定の個人に対して「霊的理解や認識」を深める事は、結果的に(本人さえも知らない)その人間の「裏と表の全て」を知る事になります。そしてそれが許されるのは、その人間に対して(霊的に)責任を負う立場にある者だけ、即ち「神、祖先、そして本人」という事になります。ですからそれ以外の(親、兄弟、知人、友人を含む)人々にあっては「節度の有る関わり」が求められる事となり、それらの「一般的人間関係」が円滑に行われる必要が有る為にこそ「霊的実相」が目に見えない仕組みになっていると考えて良く、それらの関係性に於いては「目に見える結果」に対して「誠実に対応」して行く事で十分果たされて行くということです。
                      つまり「霊的」には厳然たる「ルールとマナー」が存在するということです。

                      このように人々が「霊的」の正しい意味と目的を良く理解するならば、先ごろのような「霊的詐欺事件」も起こり得なくなるものと思われます。例えば、そこには「水子の霊」という概念自体が正しいか否かも含まれますが、今は長くなるのでコメントは控えます。
                      何れにしても「正しい霊的に欲を絡める事は不可能」であって、それを無視した先には「落とし穴」しかないという事です。

                       
                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:11 | comments(0) | - |