青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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公共の精神と自己執着
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    3月も今日で終わります。そこで今月、当ブログにアクセスされた方々の検索キーワードを調べてみると、相変わらず「公共の精神」に纏わるものがトップで、次に多かったのが「自己執着」という訳です。実はこの2つは「対極の関係」にあるもので、どちらのキーワードもアプローチの違いは有るものの、「求める答えは同じ」と言うことになります。つまりそれは「世界(=社会)の中の自分の(然るべき)立ち位置」という事です。それが判らないと人間は落ち着かないし、それを過てば上手く生きられないという思いさえ有ります。(少なくとも人間以外の全生物は、それを知っています。)

    しかし、何故そのような(あらゆる生物にとって)基本的な事に、人間だけが悩まなければならないのかという謎が残ります。それは人間だけが(厳密に言えば)9000通りもの基本思想から自由に選ぶ事が出来るからに他なりません。もちろん形の上ではそこまで自由な訳ではなく、権利や義務という社会的概念の下、個人と全体の程よいバランスとされる経験的規範が示されています。

    しかし、それはあくまで「そういう形を示せば良い」とされるものであって、「心の様」を問うものとは言えません。現実に「心を伴わない形」など、この世には幾らでも有ります。但し「心を求める人たち」にとって、それらのものは、「無味乾燥で空虚なもの」としか感じられないかも知れません。

    「公共の精神とは、個人と全体の利害得失を一つのものと感じる心」であって、全体の為と称し、個人に犠牲を強いる「全体主義」を指すものでは有りません。つまり「自分も含めたみんなにとって良い事を目指す」というものです。従って自価値相応の世界観を持つ事が、常に正しい立ち位置を知る上で重要となります。

    一方で「自己執着」とは、「自己満足の為にその他全てを利用するだけ」の生き方を指します。その場合、自分は常に「世界の中心」に位置し、その世界観は極めて主観的であって、仮に真実に程遠いもので有っても構わないことになります。しかし最も問題なのは、「その心が閉ざされている」という事実でしょう。
    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:53 | comments(0) | - |
    「バカ正直」な自民党
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      今日は、例によって私の別ブログより転載します。記事の性質上「常体文」で書かれていますが、何卒ご了承願います。

      《転載開始》

      人間、嘘をつく際に「如何にもウソ」とすぐ判る様な嘘を言えば、これは「嘘をついた」事になっておらず、逆にそれを聞いた人に「この人は不誠実だ」と、ただ思わせているに過ぎない。
      また、明らかに他人の顰蹙(ひんしゅく)を買う様な持論を人前で堂々と述べるからと言って、「実直さ」をアピールした事にはならない。「人を小バカにしている」と思われるのが関の山だ。
      更には、「反論を無視」して平然と物事を推し進めるのも、別に「肝(きも)が座っている」からでは無く、むしろ小心者で「受けて立つ自信」が無いからに過ぎない。

      これらの「人間的不備」は「面倒くさい」という心理に端を発する。そして「物事を面倒くさがる」のは、「物の道理が理解出来ない(=短絡的である)」からで、「短絡的になれる」ということは、「目的意識が希薄」であるからだ。そして「目的意識が希薄(=乏しい)」ということは、(突き詰めれば)そもそも「どうでもいい」と思っていることになる。
      つまり「どうでもいいこと」だから「テキトー」にやって「面倒くさいコト」はどんどん切り捨ててしまえ、ということになる。

      まあ、広い世間にはそういう「イイ加減な人」がいたとしても可笑しくはないだろうが、困った事には、これは「政権与党を担う政治家?政治屋?」の話なのだ。しかも、その中の一人、二人の話では無く、「類は友を呼ぶ」のか、(全員がそうかどうかは知らないが)出てくる人、出てくる人の大方が「イイ加減な人」で、その数は異様に多く、このような政権は「前代未聞」らしい。
      但し、今までの政治家だって似たようなもので、それを上手く隠し通すか、曝け出すかの違いだけ、と言われれば、そうかも知れないが、そうなると自ずと「隠す事も出来ないほどヒドいレベルの人たち」ということになってしまう。つまり「バカ正直」に、「驕(おご)ったら最期、明らかにそれと判るほど驕り高ぶる人々」という事だ。

      しかし我々も人ごとではない。もしかすると、次の選挙で(性懲りも無く)そういう政権与党の「イイ加減な人たち」に(はした金欲しさに)票を投じてしまい、民度の低さを「バカ正直」に曝(さら)け出さないとは限らない。
      少なくとも、そんな「お互い様」は真っ平ゴメンだ。

      《転載終了》


      特定の「政党支持」は、ある程度「地域に根付いた風潮」でもあり、「地域で安心して暮らすための選択」という考え方は解りますが、それは「堅実で無難な政治」が為されている場合の話であって、「政党の政策が国民生活を脅かし災いを招く恐れがある場合」に於いて、そうした関係を無思慮に継続する事は明らかな「本末転倒」で、それは「地域もろとも安心して暮らせなくなる(=自分たちの首を締める)」事を意味します。
      自分たちの子や孫や隣人の将来をもう少し真剣に考えれば、本当に「地域のため」になる選択は他にもあるはずです。(それが「民度を高める」ということです。)
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:44 | comments(0) | - |
      「黄金の金玉を知らないか?」について
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        以前「カレイドスコープ」というサイトの紹介をさせて頂きましたが、こちらの「黄金の金玉を知らないか?」でも、非常に秀逸で迫力のある記事が多々見受けられます。例えば、以下の様な記事は、平易でユーモラスを交えた中に、確固たる信念と情熱が伝わって来ます。それは「人間力(ご本人はウルトラマンとおっしゃっているが?)」と言って良いものと思われます。
        こちら→ http://golden-tamatama.com/blog-entry-1217.html

        因みにこちらのサイトの記事は、「カレイドスコープ」でも引用されるほど、内容が深く信頼性の高いものが多く、筆者の見識の深さ、豊かさが窺える事から、これらのサイトの方々は何れも「社会的に確かな役割を果たしてきた方々」のように見受けられます。
        また、ブログタイトル自体が一風変わったもので、正直(当ブログでの紹介を)躊躇(ためら)う一因でも有りましたが、ご本人が「ウルトラマン」であることも合わせて、常人には理解出來ない大きな意味が有るのかも知れません。ということで、一度アクセスされる事をお勧めします。

        ところで今回の様に、他人様のサイトを紹介させて頂く度に、「人との関わりや結びつきの中で最も重要な事は、基本思想を共有する事だ」という思いが強くなります。何故なら、それが「他者を認め信頼する根拠」となっていることに気付かされるからです。
        おそらく、前述の両サイトの方々は、私とは年齢も違えば性格も違い、人生に於ける経験の量や種類も異なっていると思われますが、それなのに何故、たかだかブログ記事だけで「確かな共感」を覚えるのかということがあります。それは「基本思想(=何のために生きるか)」の部分を共有する事により、人生の「目的、目標」に共通性(=仲間意識)が生まれるからだと思います。

        例えば私の場合、「みんなで良くなろう」としていますが、もし他にも同じ様に「みんなで良くなろう」として活動している人がいたとすると、その人の活動や成果は「私自身の活動や成果」でもあるのです。そして、そのように思える事に依って、私自身の中に「相手と自分との区別」が無くなるのです。ですから私は、自らその人の活動を可能な限り支援し、失敗すれば同じ様に悲しみ、成功すればその人と全く同じ様に喜ぶ事が出来ます。
        因みに「みんなで良くなろう」とする人の特徴は、「争いを好まない」事と、「良いと信じる事を(たった一人でも)率先して行なう」事です。

        そのような人たちは確実に増えています。何故なら、経済システムや社会構造や人間関係など、「あらゆる物事の行き詰まり」を多くの人々が肌で感じ、それらに代わる新しい生き方を切望し始めているからです。

         
        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:27 | comments(0) | - |
        「生まれ性」と見た目のハンディについて
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          昨日は、「(霊的には)現世のスタートライン(=生まれ性)に於いては、如何なる人もみな公平、平等である」という大前提についてお話しました。但し「見た目の様相」はそれぞれに異なっていて、人によって大きな差異が生じている様に思えますが、その理由は「一人として同じ前世、前前世を持った人がいない」事によるものです。更に言えば、それに加えて「人それぞれの有する(使命、天分、職業という)将来」が異なり、また「与えられた因縁上の課題」も異なる事から、人間の目にはむしろ「公平、平等」を示す要素が見えにくく感じられると言うことでしょう。

          つまり、人生に於ける「公平性、平等性」は、ある程度やって行く過程で初めて「実感」出来るもので、「やる前からそれと判る性質のものでは無い」というのが重要なポイントです。つまり私たちは「いの一番にヤル気を試されている」という事です。何故でしょうか?何故「霊界」は私たちにそうまでして「ヤル気」を求めているのでしょう。
          それは「無垢のヤル気(=向上心)」こそが「生に対する感謝の証し」だからです。それは正に「幼子(おさなご)」の心そのもので、そこには「人として成長する事そのものへの喜び」が有ります。

          何故そのことが(霊界で)そんなにも重要視されるのかについては、「ヤル気の出ない状況や状態」について考えて見れば、すぐに解ります。それは単純に「損得勘定」によって説明されます。つまり人間は「損をする事があらかじめ判っている事に対してはヤル気が出ない」ということが有り、事を行なう前に「損か得か」を判別しようとする傾向が有ります。その基準は往々にして「自己を中心とした価値観」である事が多く、このような傾向が極端になると、「ずるさ」となり、その計算が巧みな人間を「ずる賢い人間」と言います。

          ところで「霊界」はこの人間の「ずるさ」を最も嫌います。そのため「霊界」は、この「ずるさを選別し、排除する仕組み」で作られていると言っても過言では有りません。というより、結果的にどうしてもそのようになります。
          例えば、「生まれ性」という自分のスタートラインが、本人の目にどのように映るかは、人によって違いが有ると思いますが、少なくとも赤ん坊の時はみんな等しく「他人と比較する事も無く、それを喜び受け入れていた」、しかも「明らかな不備」が有ったとしても、です。

          「赤ん坊は何も解らないからそれが出来た」と思うのは大きな間違いです。それは全くの逆で、「赤ん坊は真実が解っているからそれが出来た」のです。それが証拠に、歳を重ねる毎に「霊層」が下がり続け、気が付けば「赤ん坊の時が一番霊層が高かった」などと言う人間はゴマンといます。
          つまり「自分の生まれ性に文句を付ける人間は、みんなズルい人間」と見て間違い有りません。「
          それは身体的、能力的ハンディキャップが有ろうが無かろうが同じ」です。(そういう私も体質的には40年近く前に死んだとしても、一つも不思議ではない人間だったという事実も含めて、敢えてそう言っています。)

          ハンディキャップを持つ人たちに一つ言えるのは、「霊界」は鬼では無いので、正しくハンディに応じた評価が行われているという事です。
          例えば、健常者が10の仕事をして1ポイント付与されるのに対して、ハンディを持つ人は1の仕事に対して1ポイント付与されるということです。これは当たり前の事ですが、後者は1の仕事に対して「10の努力」が必要となるからです。つまり「1ポイントに要する努力量はどちらも同じ」で、「生涯見込まれるポイント数もまた同じ」ということです。

          最後になりますが、人間である限り(ハンディの有無に関わらず)評価の基準は(霊的には)「霊層段階」であり、(人間的には)「人格(=人間性)」です。子どもから老人まで、この基準を免れて良いとされる世代もなければ、立場やハンディも存在しないのは当然です。何故なら、社会は本来それを前提としてデザインされ、人間はそうした社会の実現を目標として生まれ来ているからです。

          いつの場合も「自らのハンディは自らの人間性で克服すべきもの」であって、それ以上でもそれ以下でも無いと言うことです。その事を理解しない限り、本質的な問題は決して解決しないでしょう。
          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:21 | comments(0) | - |
          「生まれ性」の霊的考察
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            「生まれ性(じょう/しょう)」とは、性別や先天的特徴、血縁関係、その他の出生条件など、予め定められた自らの「スタートライン」と理解しても良いでしょう。その意味では「生まれ定(じょう)」と言った方がむしろ解りやすいかも知れません。問題はこの「生まれ性」に明確な意味や理由が有るのか、それとも単なる偶然や確率の結果でしかないのか、そしてその考え方如何では「公平、平等」または「不公平、不平等」といった、180度異なった意識を以って自らの人生を「スタート」させる事になります。

            この際どちらの意識(というより理解)が今後の道程にとって好ましいかは、明らかです。何故なら、自分の生まれ性を肯定して受け入れる事のみが「感謝と明るさ」の条件となり、それは社会参加にとって本来「不可欠」のものだからです。
            一方で、もし自分の「生まれ性」に対して「何かの間違いだろう」として否定的になり、他者との比較に終始し、不満を募らせる事が有ったなら、そこでは「何者かに対する恨みや憎しみ」を主体とした「屈折した世界観」が支配的になるかも知れません。

            霊的には、すべての人間の「生まれ性」は「原因結果の法則」の下に遍く「公平、平等」であり、少なくとも「偶然や確率に依存する部分は皆無」とされています。そして今世のスタートライン(の多く)は「前世までの所業に起因するものが多い」とされています。何故なら、今世とは人間にとって「復習と予習の学びの場」でもあるからです。
            その中でも、自分の「生まれ性」に対する「謎解き」は、私たち人間にとって(霊界によって付与された)「人生最大の課題」と言っても良いでしょう。何故なら、それが解れば「自分が何者であるか」が解り、それと共に「自分がどう在るべきか」がようやく理解出来る仕組みになっているからです。そしてそこからが「自分の本当の人生」と思える生き方が出来るという事になります。

            自分の「生まれ性」の謎解きは、決して難しいものでは有りません。但し、「絶対的に素直」である必要が有ります。その意味では「頭で物事をこねくり回す癖を持つ人々」には、やや難しいかも知れません。
            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:04 | comments(0) | - |
            なりふり構わない人々
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              「形振り(なりふり)構わない」という表現には、二通りの意味が有ると思います。これは言い換えると「傍目(はため)を気にしない」ということですが、まず、「正しいと信じる自らの信条を貫く行為、行動」の際に、人は「他人からどう思われても構わない」という心境になりますが、この場合、「他人の目」の存在は充分に意識出来ていますが、敢えてそれに左右されないという「意思の力」を働かせるという事です。
              ところが、もう一つの意味としての「なりふり構わない」場合、「他人の目(=他人の評価)に対する意識自体が希薄になる」という特徴が挙げられます。これは単純に「社会性の欠如、衰退」がもたらしたものと考えられます。しかし良く見ると、そのような人でさえ「社会構造の中の、自分にとって都合の良い部分はしっかり残している」ことが判ります。

              例えば、「社会に関心が無く、他人の目も気にしない」人であっても、「公共の安全、安心の仕組み」や「便利な公共サービス」の中で、それを当たり前のものとして受け入れ、利用しています。これは無意識に社会の「いいとこ取り」をしているということであって、「傍目(はため)」というものは「社会の悪いところだから受け入れられない」と、暗に言っているのと同じです。

              「歩きスマホ」などがその典型で、「インフラとしてのインターネットサービス」と「公道や公共の場に於ける歩行の安全性や治安の確保」を基に、(他人を介さない)自分と社会との(選択的な)関わりを実現させているということだと思います。それらの特徴としては、「社会」とは「人」ではなく「サービス」であるということです。従って「なりふり」が問題となるのも、「人」に対してではなく、(不払いや規約違反など)「サービス」に対するものに限定されることになります。
              ですから、安全上前方には多少の意識を向けるものの、左右や後方の他人については「ほぼいないも同然」で良い訳です。

              しかし、みんなが「個人と社会サービス」のみの関係性に終始するとしても、それが問題なく許されるのは「一人ひとりに充分なスペースが提供される場合のみ」で、混みあったスペースや限定されたサービス環境では不満が発生し、予期しないトラブルに見舞われます。こうした場合、「社会とは人である」との基本を知らず、そのための訓練が為されていない人々に、正しい対処が出来ようはずも有りません。事実世の中は、近年余りにも稚拙で短絡的、自己中心的にして愚か過ぎる不幸な結末で溢れています。それは社会が「なりふり構わない人々」で溢れ返ってしまった結果です。そしてそれは、人々が「大々的に宣伝される商業主義的トレンド」を勧められるままに選択して来た結果でもあるということです。はっきり言ってこれ以上は「危険」です。

              例えば「民主主義」では、人々が自分たちで物事を円滑に進めていく能力が求められています。その意味では「代議制」も、「隣近所の話し合い」も同じ事で、人間同士が話し合い、理解し合える一定のレベルが必要です。もしそれが(現在のように)失われ、レベルに満たないというのであれば、混乱により社会が維持できず「民主主義」は成り立ちません。それこそ専制君主による独裁政治を受け入れざるを得なくなります。(少なくとも混乱は強制的に排除され、治安は維持されるでしょう。)
              これは冗談ではなく、今現在その瀬戸際まで来ています。(だから強圧的な政権を平気で受け入れて疑問に思わないのです。)
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:50 | comments(0) | - |
              乙武洋匡氏の件について
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                これは(理由を問わず)「障害、不備(=ハンディ)」を抱える人々自身と、それと向き合う人々の「社会を背景としたそれぞれの意識」の問題の様に思えます。そして、その核と成り得るのは「万人に共通の健全な社会理念」に尽きると思います。即ち、そこがしっかりしていないので「ああでもない、こうでもない」という話にしかならないのだと思います。

                ところでまず、ハンディに対して「先天的、後天的」などの色付けをしてしまうと、問題点が判りにくくなってしまいますので、あくまでも「現状がどうであるか」に添って話を進める必要が有ります。何故ならハンディという「結果」が同じなら、先天性、後天性の差異は単なる「時間差」に過ぎず、それは実際「0歳より無段階に存在する差異」として「線引き」が困難だからです。

                次に、「ハンディは様々な形の違いは有っても、(厳密には)誰にでも存在する」という事実を忘れない事です。特に「自分の持つハンディに比べれば、あの人間のハンディなど取るに足らない」という考えは禁物です。「ハンディ」には「見た目でそれと判る部分に対して、それに付随する(目に見えない)様々な要素」が存在しているものなので、他人のハンディはそう簡単に自分と比べて評価出来るところのものでは有りません。
                また、それこそ「先天的なキャパシティ」も人によって異なるので、それによって(見た目は同じでも)「相対的な負荷」が全く違っており、それも本人のみが知り得る事なのです。

                例えば、ハンディに悩む生徒に対して「何だ、そのくらいの事で。意気地が無いぞ。先生の若い頃は・・・」などと教師がしたり顔で語っているうちに、その生徒は自殺してしまうのです。これらは特に「自分は大きなハンディを克服してきた」という自意識を持つ人々に多い過ちと言えます。
                社会に於いて、このような心の行き違いによる「不幸」を防ぐためにも、「人はみんなハンディを背負って生きている」「他人のハンディの重さはその人しか判らない」という基本を、各自が心にしっかりと刻んでおく必要があります。

                「ハンディ」と言えば、身体的なハンディが代表的なものとされ、「社会に適応、進出する上でのリスク管理」が重要な課題とされるのは周知の事実ですが、同様の「リスク管理」で言えば、「性格や感性」の上で社会的に「異質、異端」と見なされる事となる「精神的ハンディキャップ」もまた、「同等のハンディ」との認識があって然るべきと思われますが、おそらく「外見が普通に見える」事を理由に、なかなか社会的理解が進まないのが現状ではないでしょうか。具体的には、それを理由として「診断書」が発行され、「障害者手帳」が貰えるかどうかを考えて見れば解りますが、現状では100%無理でしょう。そればかりか「落ちこぼれ」などという、人格を否定され兼ねない状況でさえある様に思います。しかし「本人自身ではどうにもならない」という事実がある限りに於いては、「身障者と同列のハンディ」と考えるのが物の道理で有り、そうでなければ「差別待遇」を受けている事になります。

                このように様々な行き違いや見落としが存在する中で、たまたまブームやビジネスチャンスの様な感覚で「特定のハンディ」がクローズアップされている社会が真っ当とは到底思えず、やはりそこに「万人に共通の健全な社会理念」があってこそ、真に好ましい「自分と他人のハンディに向き合う形」が持てるのだと思います。(まるで縄張り争いのようなギスギスした雰囲気は、もううんざりです。)それは「お互いに足りないものを補い合う心と気持ちを持つ」事によって「みんなが良くなっていく社会」を実現する事だと思います。つまり一言で言えば「助け合いの精神」となります。

                しかし世の中には色々な人がいます。例えば「自分は他人の世話になる必要なんか無い。だから他人も助けたくない」という人は、自分がお金を払って必要な物を手に入れる事は「他人の世話になっている」とは考えない人だと思います。しかし、実はその人には「そう考えたくない」という精神的欠陥が有るに過ぎず、それは「傲慢」という立派な「ハンディ」である事に、本人が気付いていないだけの事です。(そのような人に限って、将来「お金を払っても物が手に入らない状況」に陥るものです。)

                私の見るところ、(私自身も含めて)あらゆる人間が今現在「ハンディ」を持って生きています。そのためいつも誰かによって助けられて生きているのが現実であり、そのアンバランスを解消するため、いつでも誰かの助けになれる様に「気持ちのスタンバイ」を必要とされているという事です。
                人間は「そのこと」が解っただけでも、ずいぶん「生きること」が楽になるはずです。
                 
                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:47 | comments(0) | - |
                次々に「挙げられる」人々
                0
                  毎年11月に「想念審判」が行われます。その結果を基に翌年の2月、今度は「宿命審判」が行われます。もちろんこちらが本命で、全ての人間一人ひとりのその年の経過や帰趨が(良くも悪くも)ほぼ決定される事となります。「70億もの人間の一人ひとりに対してそんな精細な決め事が出来る訳ない」という(お決まりの)疑念は、この際ほとんど無意味です。何故なら、そのような「人智を越えた想像を絶するシステム」が先に作られ、これで良しとなってから人間が地上に姿を表す運びとなったからです。つまり「人間の誕生」とは、そのような「神が全知全能を投入して創造した壮大なプロジェクトである」と、まず以って理解する必要が有るということです。

                  一部の「怪しげな人間たち」は、その「神」のシステムを真似て、ネットワークや科学の粋を凝らして「世界や人間を総合的にコントロール」しようと目論んでいるのかも知れませんが、凡そ足元にも及ばないでしょう。彼らにあっては、そもそも「時」を支配する能力が無く、それは「霊的要素」についても同様なのですが、彼らはその部分については「悪魔の力」を借りて成し遂げようとするかも知れません。しかしそういう輩は例外なく「悪魔にイッパイ喰わされる」のがオチでしょう。何故なら悪魔は本質的に「嘘つき」で、しかも「システムの一部」でしかないからです。また、今年は特に、その事を身を以って知らされる人々が巷に溢れ返るはずです。何故ならそのための「宿命審判」でもあったからです。

                  こうして「中途半端な人間たち」が屯(たむろ)する「外堀」から、徐々に埋められて行きます。そして最後には、世界中から集められ山と積まれた「ビッグデータ」やら「個人情報」やらを、夢中になってイジクり回すひと握りの人間たちが取り残される事になるでしょう。彼らはそれらを駆使する事で、本気で「神になれる」とでも信じているのでしょうか。多分あと「億兆倍の能力」を積み重ねなければ無理でしょう。もっとも、「神の代行者」に甘んじるというのなら話は別ですが、それでも「霊層段階」にして、あと「最低100段」ぐらいは上げないと無理です。

                  例の「野球賭博問題」に於いても、(高木選手のように)自主申告した者には「情状酌量」の余地が有るそうですので、(プロ野球に限らず)今年の「宿命審判」の結果を受けて「これから槍玉に挙げられそう」な(身に覚えの有る)人は、この際自主申告がお勧めです。(乙武氏も速やかに謝罪しました。本心である事を強く希望します。)

                  何人(なんぴと)たりとも逃れられないのが「宿命審判」であり、それは年一回、必ず行われるという事は知っておいて損は無いと思います。(もちろん厄年の結果にも反映します。)
                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:20 | comments(0) | - |
                  相模原中学生自殺について
                  0
                    さすがにこれには「腹立たしさ」を通り越して、強い憤りを感じます。人間には「理性と感情」が備わっていますが、全く「ここで「感情」を使わなければどこで使うのか」と言って良いぐらいの酷い案件だと思います。心ある大人は子どもたちのためにもっともっと騒いだ方が良いでしょう。
                    概要はこちら→ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160322-00000043-asahi-soci

                    まず一番の問題は、一端打(いっぱしぶ)った大人たちに共通する「子どもの言う事は信用出來ない」「話半分に聞かないと危ない」といった認識の仕方に有ります。しかし、私に言わせるとこれは話が全く逆で、「いっちょ前の顔をした大人達」こそウソつきで、話半分どころか「全く信用出來ない」と言わざるを得ません。

                    よろしいでしょうか。例え子どもたちの主張に、ある程度の「嘘やずるさ」が混じっていたとしても、それは(親を筆頭にした)大人たちから学んだもので、まだ完全に根付いて自分のものとなっている訳では有りません。そのため子どもたちは(大人に比べてはるかに)嘘がヘタなので、大人たちに前述の「誤った先入観」さえなければ、子どもの言っている事が「真実か嘘か」の正しい判断は(言葉の拙さを考慮したとしても)すぐに出来るものです。

                    ところが「ズルい大人」に限って「まだまだ子どもだから」「子どもの癖に」などと、意図的に子どもを見下し、子供扱いした挙句、「まともに取り合わない」という傾向が有ります。何故かと言うと、「子どもの言葉の中に有る真実を認めてしまうと、立場を脅かされる事になる」からです。その典型が「面倒くさいヤツだ!」「親に向かって何だ!」など、話の中身に関係の無い「高圧的な暴言」です。親がこのような反応を示す場合は、逆に「子どもの側に正当性が有り、子どもが真実を語っている証拠」と言えます。

                    今回の事件で何故、相模原の児童相談所の職員らが「子どもの真実の訴え」を正しく受け止められなかったかは明白で、言い訳はともかく、前述の理由によって「子どもだからという理由でまともに取り合わなかった」からに過ぎません。おそらく自分たちの子どもに対しても似たような態度で「まともに取り合っていない」に相違なく、従って彼らはこのような「子ども相手の職務に相応しくない、使命感や責任能力の欠如した(チンケな立場だけにはやたら執着心の強い)「不適格者」と言えます。(そう言われたくなかったら、死ぬ気で反省して死ぬ気で努力すべきです。)

                    考えたくは有りませんが、今回の事件も「氷山の一角」に過ぎないのでしょう。そして計らずも「子どもを救うには、大人を変えるしかない」という従来の私の主張が証明されてしまいました。
                    ということで、心ある大人の皆さん、よろしくお願い致します。
                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:09 | comments(0) | - |
                    安倍総理の「レッテル貼りだ!」の論理的考察
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                      国会に於ける野党の追求に対する安倍総理の「レッテル貼りだ!」は、一見「正論」の様に聞こえますが、重大な論理的な誤りが有ります。そもそも「レッテル」は中身の判らない商品パッケージに対して、「中身がどういうものであるか」を表示して販売するための「必要不可欠」なものです。ですから八百屋でダイコンやニンジンを並べて売る際に、わざわざレッテルを貼る必要は有りません。(手に取って目で見て確かめれば済むことです。)一方で(当たり前ですが)「缶詰」にレッテルが貼ってなければ誰も買えません。また、同じ形のポリ容器でも「水用と灯油用」の色分けが為されているのも「レッテル貼り」と同じ意味です。このように「危険なものほど明確なレッテル貼りが必要とされる」のは常識です。

                      翻って「政権」の打ち出す「政策や法案」にレッテルを貼る必要が無いのかと言えば、そんな事は有りません。何故なら、それらは概ね「誰にどれだけのメリットとリスクが伴うか」を基準として合議に掛けられるのが常だからです。この内「リスク」の部分は間違いなく「危険や不安」の要因となるものです。しかも、それらの「政策や法案に懸念が生じている」とすれば、(先のTPPや安保法制の如く)それは「中身が判りにくい、或いは判らない状態」だからに他なりません。つまり、これらは商品に例えれば、自ずと「レッテルを貼って中身を明示しなければならないシロモノ」という事になります。更に「売る側が中身を偽装したレッテルを貼っている」事が発覚したならば、誰かが「正しいレッテルに張替えなければならない」という事になり、安倍総理の言う「レッテル貼りだ!」は、正にその作業を行おうとする者に対するクレーム、即ち「政府の貼ったレッテルを剥がすな」という意味でしか有りません。しかし、国会はそもそも「政府の貼ったレッテルが正しいものかどうか」を検証する場でもある訳ですから、「安倍総理の言は根本的に間違っている」ということになります。従ってこのような屁理屈を許してしまえば、政権は自重する必要すら無くなり、横暴の限りを尽くすであろう事は想像に難く有りません。そして(マスメディアへの恫喝等に見られる如く)、現にそうなっているでは有りませんか。

                      繰り返しますが「政策や法案に対する(正しい)レッテル貼り」は、全く非難されるべき事では無く、そればかりか、むしろ私たち国民と、真に国民の付託を受けた人々の「義務と責任」であるという理解が必要です。
                      それはちょうど「猫の首に鈴を付ける話」と似ている如く、私たち国民にとってどうしても必要な事なのです。
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:35 | comments(0) | - |