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「理屈」とは非論理性の賜物です。
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    「理屈」という言葉の意味を、辞書では「物事の筋道、道理」などとされる事が有りますが、それでは「理」は良いとしても「屈」の部分が説明付きません。それについては、以下の「漢字愛好、研究家」の方のサイトでも確認する事が出来ます。
    http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-75c2.html

    つまり「理屈」とは「理(=論理)に屈した在り方」または「理を捩じ曲げた在り方」を指す言葉ということです。
    しかし、問題は言葉の意味や用法云々ではなく、世の中では「合理性」と称して(非論理的な)「理屈」が大手を振ってまかり通っていて、本来の「論理」を圧迫するまでに至っているという現状に有ります。
    つまり言葉の上では同じ「合理性」とか「論理的」とかを用いていても、その実、中身がそっくり「理屈」に置き換わっている場合も多く、そうなると当然、双方の話が噛み合わなくなります。

    そこで改めて「論理性とは何か」について考えて見たいと思います。おそらくそれは「あらゆる要素を排除せず、その何れから見ても整合性の取れた状態」というイメージで良かろうかと思います。それは例えば「解らないから除外する」という事ではなく、「解らないものは解らないものとして要素に組み入れる」ということです。
    そうする事で私たちは「論理性という思考の作業場」の中を、いつでもどこでも自由に行き来出来る環境を確保出来るという事です。これは「物事の発展性」という観点で非常に重要です。

    一方で「解らないものを除外する」という事では「思考の作業場」に次々とパテーションを設けて、その先を通行不能としてしまう訳ですから、それでは自らの「思考」に著しく制約を課す事になってしまいます。
    しかもこの場合の「解らないもの」とは平たく言えば「自分の現時点での能力では理解不能」という意味ですから、極端な場合には「自分の世界、自分の範疇で論理が完結してしまう」という事態に至ります。いわゆる「狭量な人間」ということですが、本人の中では既に「要素の除外は(論理的に)当然の事」とされているので、自分の思考のどこが「非論理的」なのかサッパリ解らないまま、ひたすら「理屈をこねる」結果となります。

    真に論理的な思考であれば、必ず「更なる広がりに対する余韻」や「更なる奥行きを予見させる深み」を感じさせるはずです。それは常に「更なる発展への道が開かれている」ものだからです。
    しかし「理屈」の場合、決まり事に固執したり、判で押したような発想に終始したりと、そこから些かの「余韻や深み」も感じ取る事は出来ません。そこには「唯物思考」へのこだわりが見え隠れしています。
    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:56 | comments(0) | - |
    「悪」に対する基本的な向き合い方
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      私たちはこの世に生まれてきた時点で、最初からすでに様々な「負の遺産」を背負っている状態であることを宿命付けられている、という認識が必要です。何故ならそれが「真実」だからです。それは私たちが「人や社会」と向き合う場合も、「自分自身」と向き合う場合も同じです。即ち私たちの「人生のスタート」は「負(マイナス)」から始まります。その理由は、私たちが成長するためには絶対に「負荷」が必要だからです。
      これは例えば、私たちが一枚のキャンバスに思い通りの絵(イメージ)を描きたいと思っている時に、私たちに与えられたキャンバスは既に汚されていて「真っ白ではない」ということです。ということは、私たちは何を描くにしても、とにかく一度キャンバスを「真っ白に塗り替えなくてはならない」事を意味します。

      この「与えられたキャンバスの汚れ」というものが、いわゆる「悪」ということです。場合に依っては、それは汚れというよりも、誰かによって描かれた何かの作品になっているかも知れません。それをそのまま自分の作品としてしまう事が、即ち「悪を受け入れる」「悪に染まる」ということです。
      「しょうがないだろう。最初からそうなっていたんだから」と言うのは、都合の悪いことを何でも人のせい、社会のせい、モノのせい、そして「神のせい」にする人の典型です。つまり「自分以外のあらゆるもののせい」であるにも関わらず、「自分のせい」とだけは決してならないという「奇跡的な発想」をする人です。

      自分に与えられたキャンバスは「自らが責任管理」すべきものです。そしてそのキャンバスの当初の状態というものは、全て「自らの責任能力の範疇」にあります。つまり全て自分と「因縁」の在ることだということです。それが証拠には全てが「解決可能」となっています。(人間には因縁の無い事を解決する術は有りません。)
      ですからそれを怠る事は、一重に「怠慢」の成せる業ですが、その根底には「慢心」が有り、更なる根本には「反逆」の意図が存在します。しかしこの「反骨精神?」は全くの空振りに終わります。何故なら「反政府運動」ならまだしも、「反霊界運動」を結集する勢力など、その実どこにも存在しないからです。確かに「正神界と邪神界(=神と悪魔)」という住み分けは在るにせよ、それによる「雌雄を分かつ最終決戦」など存在しません。元々そういう意味合いのものでは無いからです。(何百年も騙され続けている人々もいるようですが。)但し「おとり捜査」に近い手法は有るかも知れません。

      話を戻すと、「悪とどう向き合うか」とは、「理不尽を感じた時にどうするか」に言い換える事が出来ます。
      例えば、自分の生い立ちから始まって、家族の問題、健康の問題、能力の問題、学校の問題、職場の問題、社会の問題などは、時として不公平、不平等、ハンディキャップなどの「理不尽」として映る場合が有ります。
      もちろん「何故?どうして?」と思っただけでは何も変わりませんが、だからと言って「いくら考えても堂々巡りにしかならない」ばかりか、だんだん「憤り」さえも覚えるようになります。そこには「自分のせいじゃない」という強い思いが醸成されて行きますがそんなことは無く、元々理由の判らない事を「考えて知ろうとすること」自体が間違っています。
      実は「理不尽を感じようと感じまいとやることは同じ」なので、本当は「ただやれば良いだけ」の話なのです。
      その場合の「やる」とは、白くないキャンバスを一旦白く塗り直して、改めてイメージを描いていくという「二度手間」を惜しまないということです。そうすると不思議な事に、当初「理不尽」と思えたことの本当の意味まで解ってくるもので、いわゆる「一挙両得」となります。

      もう一度整理すると、「悪に対する基本的な向き合い方」とは、「心にズルさを持たないこと」と言えます。
      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:04 | comments(0) | - |
      「悪」に染まる人々
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        改めて「悪とは何か」と問われれば、「自己を中心として常に己の利益を最優先させようとする心と行ない」と言って良いでしょう。

        ところが現代の大方の人々にとっては「そんなのは普通だ。」「生きるということは基本的にそういうことだ。」という気持ちが強い様です。ただ余り露骨にそれを周囲に曝け出すと「競合が起きる」ということを学習しているため、バランス感覚を駆使して「反感や攻撃の対象とされない程度に留めている」というのが実情ではないでしょうか。

        そのように、誰しも普段から「利益の追求を我慢している」という側面を持っているため、「他人に抜け駆けされる」ことに異常に反応し、すぐに「アイツはズルい、汚い、最低だ」という話になりますが、それは「正義感」というより、むしろ悪の世界の「掟破り」「裏切り」にたいする怒りの感情であって、その結果「復讐、報復的な断罪」を強く求める様になります。

        つまり、他人の悪行に対して同調するのも怒りを覚えるのも「根っこは同じ」という事で、「強く反応してしまった」ことに変わりは有りません。何が「反応」したかと言えば、もちろん自分の心の中の「抑圧された悪心」がです。

        因みに「善の心」が主体となる場合、「悪心や悪行」に対しての「備え」は有りますが、「反応」はしません。何故なら、「善と悪」とは例えるなら「水と油」のような関係なので、隣り合ったとしても自ずと「弾いて」しまって、関わりようが無いからです。そのような「弾く感覚」が乏しい場合、自分の中に「相手と同種の要素が多分に在る」と見て間違い有りません。つまり「非常に染まりやすい状況下にある」ということです。

        そのような人々に限って、悪を「自分の身近」に捉えようとしません。例えば宗教的に「原罪」とか「煩悩」とかの漢字熟語に概念化する事で、どこかしら他人事(ひとごと)の様に(変に冷静に)考える向きが有りますが、その感覚は「悪に対する備え」とはならないばかりか、「隙だらけ」と言わざるを得ません。

        少なくとも、悪は「本能と連動」して、いつも自分の「身の内」にあるもの、最も身近なものという認識が不可欠です。ただ「理性と感情」の比率を7:3以上で保持する事を以ってのみ、前述の「水と油」の関係で盤石な備えが出来るという事に過ぎません。
        これだけはハッキリ言えますが、人間は「善」だけでは生きられません。「本能と連動した悪」が適正な比率で健康状態を維持しているから生きられるということを忘れてはならないのです。

        人間はもっと「サポーターに徹する悪」に感謝すべきだと思います。
        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:46 | comments(0) | - |
        このところカテゴリー「証明出來ない?」が続いています。
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          当ブログに於けるカテゴリー「証明出來ない?大事なお話」は、ほぼ「霊的、霊界」に関する内容となっています。その事については以前に「何故、今「霊的」なのか?」というタイトルで記事にしていますが、単純にアクセス数の事を考えれば「霊的」な話題では明らかに伸び悩み、限定的なものとなります。それよりも旬のキーワードを織り交ぜた「時事関連」の話題や問題提起にアクセスが集中するのは当然と思われますが、別にこのブログは「アクセス数を稼ぐ」ことを目的として開設した訳でも継続している訳でもないので、今後も「必要と思われる事を必要と思われる分だけ」を逐次発信して行くことに何ら変わりは有りません。

          ところで「霊的」について話をする時に「確信の持てない事」を無責任にしゃべる訳には行きません。もちろんそれは「霊的」に限らず、どんなことでも同じだと思いますが、こと「霊的」に関しては、「目に見えない、音に聴こえない、手で触れない(=五感で確認出來ない)」という、確信に至り難い決定的な要素が在るにも関わらず、実は(やる気さえ有れば)ちゃんと「確信(=証明)」出来るようになっているものです。(ですからカテゴリー名も「証明出來ない?」と疑問符付きとなっています。)

          まず一つには、例えば「因果関係」が科学的に証明出來ない事象に関して、1000回それを繰り返し、何れも同じ結果が得られたとすれば、それは「偶然ではなく必然」と見なされ、そこに「因果関係」が在ると考えるのが普通です。このような地道な作業を何十、何百もの様々な事象に対して行ない、その結果を積み重ねて行くことで、自ずと「全体像」が朧(おぼろ)げながら見えてくるはずです。

          もうひとつには、「水の中を覗き見る場合」と同じ様に、ひたすら「濁り」を除去する方法もあります。
          例えば、人の気持ちが理解出來ない(=見えない)のは、自分の側に様々な思惑(=濁り)が有るからです。それが無ければ人の気持ちは(痛いほど)伝わって来ます。つまり、何を以って「濁り」とし、どこまで「透明度」を高めるかは、その人次第ということで、同じように「心の目」で見えるもの、見るべきものが、実は世の中にはたくさん在るということです。

          言うまでもなく「安心、安全」とは、ものが正しく見えている事が大前提です。だからこそ、いつも「霊的」を最優先にお話しています。
          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:49 | comments(0) | - |
          霊界が最後の最後まで証明出來ない訳
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            それは「証明出来ると困る」からに他なりません。そのため「決して証明させない」力が働いていると思っても良いでしょう。その理由をこれから説明します。

            昨日もお話した通り、「霊界」は完全な縦構造を持ち、上から下へ向かう「命令」の流れを「精密且つ忠実に実行」するための仕組みであり、全ての霊魂に対して、「それに則する価値」に到達する事が求められています。(無論、価値の満たない霊魂は任務に従事する事は出来ません。)
            これは言ってみれば「霊界には絶対的な権威が存在し、強大な権力が行使され、厳格な格差が在る」ということです。つまり言葉の上では「独裁国家に等しい」ことになります。但しその違いは文字通り「天と地」ほども有ります。独裁国家の場合は「物欲、立場欲、支配欲、偏見、猜疑心」などが根拠とされるものがほとんどですが、霊界の場合は「広大無辺な愛に裏付けされた義務感、責任感」が全てとは言え、そこに「比類無き厳しさ」が存在するのもまた事実です。

            ところで「厳しい」ということは、それだけで多くの人々にとって霊界は「恐れ」の対象となるでしょう。この場合の「恐れ」とは、「畏敬の念」のような「身を正す」意味ではなく、「身を隠したくなる(=逃げ出したくなる)」という意味です。
            もし、人々の前で「霊界の存在」が証明される事にでもなれば、その余りの「厳格さ」に逃げ出したくなるに違い有りませんが、もちろん(超監視社会の如く)逃げも隠れも出来ません。そうなると次はどういう事になるでしょう。人はせめて「心だけでも隠す」に違い有りません。それは「心を装う」事であったり「媚びへつらう」事であったり「自己暗示に徹する」事かも知れません。とにかくそのようにして「見た目を従順に取り繕う」以外に選択肢は無くなるに違い有りません。つまりそれは「独裁国家」で無難にに暮らすための、人々の「心の動き」と同じものです。普通に考えても「コワいから言うことを聞く」には(精神的に)何の価値も無い事は明白です。

            一方で「自ら進んで良いことを考え行なう」事は非常に重要です。何故なら、そこには相応の「理解」が在り「思想」が在るからです。即ちそれが「自分自身の価値」です。自主、自律の精神を以って主体的に物事に取り組んで行く以外に「自分自身の価値を高める方法」は有りません。
            無論「霊界」もその事は先刻承知しています。ですから「霊魂の価値を積極的に構築する場」であるところの「人間界(=現界)」に於いては、個々の人間に対して「有り余るほどの自由」が与えられています。それが「向上の自由と下向の自由」です。
            驚くべき事には、私たちは「霊界に籍を置く身」でありながら、これらの自由に対しては一切「管理」されていません。もちろんそこでは「自由なるが故のリスク」も生じることになりますが、そうした「リスクの大半は霊界が請け負っている」ということで「私たちの自由が保障され続けている」事も忘れる訳には行きません。

            そうまでして「霊界」が人間をこの世に送り出し続ける目的は「一人でも多くの人間性豊かな人間(=一体でも多くの価値有る霊魂)」を育み、本物の世界の本物の社会を実現させる事に他なりません。
            それにはまず、「人間性とは何か」を(学問では無く)感性によって十分にイメージする必要が有ります。

            ※余談になりますが、「自主、自律の精神を持って主体的に悪事に関わる事は十分可能」です。善と悪とは「心の一点」を除けば驚くほど似た構造である事がしばしばあります。もちろんそれにも理由が有ります。
            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:51 | comments(0) | - |
            霊界をコンピューターになぞらえると
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              意外に思うかも知れませんが、「霊界」と「コンピューター」は良く似ています。もちろん、それは「バグやエラーが皆無の100%機能するコンピューター」という意味です。
              詳細は憚(はばか)られますが、そこにはもちろんハードウェアに該当する部分と、ソフトウェアに該当する部分があって、何より当然「ユーザー」に該当する存在が在るということです。
              その基本的な機能が「インプット(入力)→処理→アウトプット(出力)」であることも同じです。この流れは霊的には「原因→処理→結果」と読み替える事が出来ます。このように極めて整然とした仕組みと実態を有しているのが「霊界」で、そこには一切の淀みも濁りも在りません。

              この時点で既に賢明な読者の方々はお気付きかと思いますが、その機能は(コンピューター)と同じく「命令→実行」という簡潔なものです。そこには完全に「上から下へ処理が渡される論理的な流れ」しか在りません。(下から上へ逆行する流れも無ければ、横方向への浸透なども在りません。)コンピューターのような「機械」であればまだしも、私たち人間は「生きもの」ですから、「感覚的に馴染めない」というのが正直なところでしょう。
              しかし、それぞれが数千単位の因縁を携える数十億の人間の霊魂と肉体を(一人の漏れこぼしも無く)同時に責任管理するのに、「感覚的に」行なえるはずも有りません。即ちこれが(私たちのための)正解なのです。
              それに加えて「霊の世界」ではその成り立ちからして、元々「分霊」という「個」の概念の極めて乏しい状態を素としており、完全な縦構造に於ける「義務と責任」を極めて自然のものとして受け容れられる様に出来ているため、(後天的に取得した執着以外には)それを阻害する要因はほとんど有りません。

              以上は「霊界の実相」の話でしたが、一方で私たちの住む「現界」では「霊界と同じ」という訳にはとても行きません。
              例えば霊界は「完全な階層構造」で、その事を認知しなければ何も始まりませんが、現界では「誰の霊層が誰より何階層上とか下とか」が判ったり、それを気にしたりすると、逆におかしな事になってしまうでしょう。何故なら、現界には現界ならではの上下や横の常識的な概念が別途に存在し、混乱してしまうからです。「親子、兄弟、師弟、主従、夫婦」などがそうですが、それ以前に「公平、平等、同権」など、敢えて「縦の区別」を抑制する方向に意識や力を働かせるのが今や一般的と言って良いでしょう。
              これはこれで一つの正解、つまり現界での円滑な関係構築のためには「霊界の厳格な階層構造」自体は判らなくて構わない、というより判らない方が良いということです。

              但しそれには一つだけ条件が有ります。それは「各自が主体的に人間性を磨くこと」です。何故なら、人間同士が互いに「人間性を以って交流すること」が、結局(最もおだやかに自然な形で)霊界の階層構造とその機能を私たちの暮らす現界に反映させ得る「最良の方法」と言えるからです。即ち「思いやり」「いたわり」「親切」とは、霊界では「義務であり責任であり命令」かも知れませんが、「人間性というフィルター」を通すことにより、それらが「自発的であり優しさであり勇気」として、私たちみんなを「在るべき方向へ導く力」として働くことは間違い有りません。しかし、いったい誰がこのように巧妙な仕組みを作ったのでしょう。
              それは自らコンピューターを設計し、製作し、運用する「ユーザー」に他なりません。
              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:07 | comments(0) | - |
              自分の価値を「錯覚」する原因とは
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                おそらくこの世は「自分の価値を錯覚している人々」に満ち溢れているのだと思います。その主な要因は、マスメディアやネット社会、出版物など、多くの発信源から日々繰り出される(ほとんど「氾濫(はんらん)」と言って良いほどの)「情報過多」によって、人々が「知ったつもり、解ったつもり」になってしまう事が大きいと思います。

                実は、ここには非常にデリケートな問題が含まれているので、注意深く話を進めて行く必要が有ります。
                まず、「物事に疑問を感じ、関心を持つ事」は悪いことでは有りませんが、その際重要となるのは、「そのことが自分(の日常)にどういう関わりが有るのか」という事です。
                これは「物事の優先順位」というよりも、むしろ「物の順序、段階」と言うべきかも知れません。

                例えば、国際問題を扱う度量も技量も力量も持たない(=価値の無い)人間が国際問題を考え、語ってどうなるものでも有りません。多分現状を捉えきれず、分析し切れず、実効性の極めて乏しい「矮小な話」にしかならないはずです。残念ながら、それがその人の「(今現在の)価値」であり、しかもそうした(分不相応な)行為の中では「その人自身の価値を高め、成長させるための要素」と言えるものは何一つ生じません。つまり「無意味」です。何故なら、その人は(価値が無いので)その事に関して「何一つ堅実な行ないが持てない」に違いないからです。

                そこで確認となりますが、人間が一歩一歩自分の価値(=人としての度量、技量、力量)を積み重ねて行くためには、絶対的に「経験値、体験値」が必要であって、「見た、聞いた、知った」では「解った(=理解した)」事にはならないのです。何故なら「理解する」とは「身に収める」ことであって、それには「経験、体験が不可欠」だからです。つまり「他人の話を理解する」ためにも、自分の中にあらかじめ「それに呼応する経験や体験が必要」という事になれば、人間は(例えば)「考えること」を1とするなら、後の9は体を使ってなるべく多くの経験を積んでおいた方が、後々遥かに多くの価値を養う事が出来るという事です。

                ところで「人の一生」とは、0から一段一段と階段を上って行く事に他なりません。ということは、基本的に「遠くを見る必要」などなく、足元を踏み間違えないようにするだけで良いという事です。足元とは具体的には「周辺を含めた日常的な目の前の課題」の事で、更に具体的には「優先順位に添って様々なアンバランスを解消して行く作業」となり、それらは段階を経るごとに(質、量共に)レベルアップして行く事となるでしょうが、それとて(その人の)日常が変容して行くだけの事で、やっていることは(感覚的には)ずっと同じです。
                それが唯一「自分の価値を錯覚しない生き方」です。

                最後に、もし途中で自分の価値を錯覚していた事に気付いた人は、(とても勇気の要る方法ですが)もう一度0段目に戻って一段ずつ(今度はしっかり確認しながら)上り直すのが「確実でお勧め」です。因みに私は40年前にその方法を選びました。(当ブログでは責任上、すべて経験値の裏付けの下に記述しています。)
                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:07 | comments(0) | - |
                小学校の「PTA総会」に行ってきました。
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                  当ブログでは、以前にも何度か「PTA」について触れています。そこで改めて「PTAとは何か」について整理して見たいと思い検索したところ、ちょうど良い感じで解りやすいサイトが有りましたので、リンクを貼らせて頂きます。
                  こちら→ 「PTAのホントのところ」http://pta55.blog57.fc2.com/blog-entry-2.html

                  PTAの理解すべき要点は大きく言って二つ有ります。それは上のサイトでも明示されている様に、「任意加入で入退会自由」である点と、その第一義的な目的が「大人(会員)の学びと成長」である事ですが、逆に言うと、それさえ押さえておけば「在るべき姿と問題点が同時に見えて来るので、思い悩む必要はなくなる」ということです。

                  実は「PTA総会」に出席するのは今回が初めてです。理由は単純に「仕事が重なっていた」からですが、行く前から(どんな会になるのかは)何となく予想は付きました。果たして結果は「見るからに盛り上がりに欠けた」もので、具体的には児童数330余りに対して会員数260有余、出席者数30名+委任状160通との事で、議案の承認条件を満たしているとの事でした。しかも出席者の内半数は先生方(会員)ですから、保護者側の(PTA総会に対する)関心の薄さは正に極限状態に達していると言って良いかと思われます。
                  もしかして、過去何十年となくこの状態を延々と続けてきて来たということなのでしょうか・・・。不思議です。

                  とにかく形式的で通り一遍の議事進行が、静まり返った中で粛々と行われ、各委員会ごとに「新年度の活動計画案」が読み上げられ、質疑応答は議案承認の議決前にまとめて行なうとの事でした。
                  やがて議長より「以上の活動計画案に対して質問のある方は挙手でお知らせ下さい。」との言葉があったので、私が元気良く「ハイッ!」と手を上げると、一瞬その場が凍り付くのを見て取る事が出来ました。当然担当委員は予想だにしなかった展開に対応出来るはずもなく、長い空白の時間が流れたので、私の方から「わかる方ならどなたでも結構ですので」と助け舟を出し、結局「PTA会長」が応えて下さる事になりましたので、私は恐縮の極みで有る旨を伝え、最後に感謝の意を表し、その場をうまく収める事に専念しました。(他人をやり込める事が本意では無いからです。)
                  何よりも良かったと思ったのは、私の後にもう一人の「お母さん」が、別の質問をしてくれた事です。そのことで(役員を含めた)参加者の皆さんが、「PTA総会は質疑応答の場である」という認識を持って頂ければ、これに優る幸いは無いと思っています。

                  今後PTAが(総会に限らず)闊達な「意見交換の場」となり、健全化して行く事を願って止みません。
                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:58 | comments(0) | - |
                  人間の「籍」は霊界に在ります。
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                    人間は元々「霊的存在」であって、それが(たまたま)物質界に於いては「物質的な関わり」を持つに至っているだけの事ですから、その本質が「霊的」であることに何ら変わりは有りません。そして人間が籍を置く「霊界」が極めて安定した世界であることも、悠久の時より何ら変わりは有りません。

                    しかしその反面、私たちの知る限りの「現世(=物質界)」は過去から現在に至るまで、常に「不安定要因」に塗(まみ)れているかの様です。
                    いつも不自由を強いられ、何かに困窮し、誰かと争っています。それらが根源的な「不安感、焦燥感」をもたらし、挙句誰もが「自分だけの事しか考えられない状態」にまで追い込まれています。
                    そして重要な事は、それを決して「自分のせいだと思っていない」ということです。
                    しかし、それは本当でしょうか?本当に「自分のせい」ではないのでしょうか?

                    確かに「世界で起きている戦争やテロ」「跋扈する悪徳政治家や官僚」「富を独り占めする大金持ち」「反社会勢力の台頭」「その他のズルい人、コワい人、エラそうな人・・・」などが存在するのは自分のせいでは無いかも知れませんが、それと「自分が自己中心な人間になる」という事とは、実は全く関係が有りません。
                    むしろその場合、関係無い事を関係付けようと目論む「自分のズルさ」が問題だと思います。

                    人間が「物質界の不安定要因に翻弄された結果、自己中心思想に陥る」のは、一重に「霊界との繋がりが細くなる(=霊界と乖離する)」からです。「霊的存在」である人間が「霊界と乖離する」のは、ある意味致命的です。何故なら「霊界に在籍したまま評価を受け続ける」事になり、その評価は「怠慢及び慢心」であり、それは霊界に対する「造反、反逆」を許したとして、まず該当する祖霊が糾弾(断罪)されるハメになるでしょう。つまり結果的に「先祖殺し」の罪に問われる事になります。

                    その時点で最早先祖のバックアップを受ける事は不可能となりますので、事態は益々悪化の一途を辿りますが、その前に「危機感を募らせた先祖が動きを見せる」かも知れません。優秀で力量のある先祖であれば、(祖霊界全体を守るために)必ずそうするでしょうが、哀れを極めるのは(何らかの執着等で)先祖にその力が無い場合です。その場合、「たった一人の子孫の過ち」のために、すべての祖霊が転落の憂き目を見る事になります。

                    混乱の極みにある現状であればこそ、私たちに出来る最善の策とは、「霊界との繋がり」をより太く持って「豊かな人間性」を発揮する事に尽きると思います。少なくとも「損の得の」と他人の言葉に振り回されている場合では有りません。
                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:33 | comments(0) | - |
                    「崖っぷち」を覚悟すべし
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                      「神は崖っぷちで救う」という言葉が有ります。(聞いたことが無いという人は是非覚えて下さい。)
                      例えば、善良で人間性豊かな人は「神の加護」が厚く、自ら過ちを犯す事も無く、従って生涯を通じて「安穏とした人生」を送ることが出来る・・・などということはまず有りません。何故でしょう?

                      それは「人間の生きる目的」に関わりが有ります。実は人間には「平穏無事な人生を送る」という目的は初めから有りません。つまりそれを望み、それを実行するという想定すら元々されていないのが「人生」の正体なのです。何故なら、現状でもしそれを望めば(限られた資源獲得のために)周囲と様々な競合が生じ、勝つために「心を汚さなければならない」からです。それが「自己中心思想」というものです。

                      一方で「(身内ではない)他者の平穏無事」を願う気持ちは、あらかじめ「人間性」に組み込まれたものです。また、他者の不幸をよそに「自分さえ良ければいい」という気持ちになれないのも同じです。そのようにして「他者の状況に突き動かされるべく自ら(の在り方)を決定して行く」というのは、人間として「極めて自然な生き方」と言って良いでしょう。その証拠に「政治や行政」の在り方も、「民間企業の商品開発」でさえも、「社会的な建前」というものは全てそうなっています。(実情は正反対だとしても!)
                      つまり「まず他人を押し上げ、その分だけ自分も(自動的に)引き上げられる」というのが(唯物的に見た場合の)人間の自然な姿であり、それが行えるためには(唯心的には)常に一歩も二歩もリードしていなければならない、ということになります。そして「それをするために今生きている」というのが「(霊的に正しい)生きる意味」ということです。

                      つまり「生きる目的」の最終イメージとして「みんなが(平穏で)良くなる」ということが確かに在るとしても、現状が直ちにそうでなければならないという意味にはなりません。むしろ「(利他に向けた)努力の日々」であることこそがその証しと言えるのではないでしょうか?
                      そこで先刻の「崖っぷち」の話となるのです。実は通常、人間は自分自身が「どこまで本気でどこまでやれるのか(=自分の今価値)」について、明確に確かめる術が有りません。もし唯一可能だとすれば、それは「崖っぷちに立たされた時」だけです。であるとすれば「神は崖っぷちで救う」というのは大変理に適った事であるのが解ります。何故なら、それは人間が「本当の自分自身を知る(=覚る)」またとないチャンスに違いないからです。言うなれば「可愛い子には旅をさせろ」の神様版ということでしょうか。
                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:25 | comments(0) | - |