2016.04.30 Saturday
「理屈」とは非論理性の賜物です。
「理屈」という言葉の意味を、辞書では「物事の筋道、道理」などとされる事が有りますが、それでは「理」は良いとしても「屈」の部分が説明付きません。それについては、以下の「漢字愛好、研究家」の方のサイトでも確認する事が出来ます。
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-75c2.html
つまり「理屈」とは「理(=論理)に屈した在り方」または「理を捩じ曲げた在り方」を指す言葉ということです。
しかし、問題は言葉の意味や用法云々ではなく、世の中では「合理性」と称して(非論理的な)「理屈」が大手を振ってまかり通っていて、本来の「論理」を圧迫するまでに至っているという現状に有ります。
つまり言葉の上では同じ「合理性」とか「論理的」とかを用いていても、その実、中身がそっくり「理屈」に置き換わっている場合も多く、そうなると当然、双方の話が噛み合わなくなります。
そこで改めて「論理性とは何か」について考えて見たいと思います。おそらくそれは「あらゆる要素を排除せず、その何れから見ても整合性の取れた状態」というイメージで良かろうかと思います。それは例えば「解らないから除外する」という事ではなく、「解らないものは解らないものとして要素に組み入れる」ということです。
そうする事で私たちは「論理性という思考の作業場」の中を、いつでもどこでも自由に行き来出来る環境を確保出来るという事です。これは「物事の発展性」という観点で非常に重要です。
一方で「解らないものを除外する」という事では「思考の作業場」に次々とパテーションを設けて、その先を通行不能としてしまう訳ですから、それでは自らの「思考」に著しく制約を課す事になってしまいます。
しかもこの場合の「解らないもの」とは平たく言えば「自分の現時点での能力では理解不能」という意味ですから、極端な場合には「自分の世界、自分の範疇で論理が完結してしまう」という事態に至ります。いわゆる「狭量な人間」ということですが、本人の中では既に「要素の除外は(論理的に)当然の事」とされているので、自分の思考のどこが「非論理的」なのかサッパリ解らないまま、ひたすら「理屈をこねる」結果となります。
真に論理的な思考であれば、必ず「更なる広がりに対する余韻」や「更なる奥行きを予見させる深み」を感じさせるはずです。それは常に「更なる発展への道が開かれている」ものだからです。
しかし「理屈」の場合、決まり事に固執したり、判で押したような発想に終始したりと、そこから些かの「余韻や深み」も感じ取る事は出来ません。そこには「唯物思考」へのこだわりが見え隠れしています。
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-75c2.html
つまり「理屈」とは「理(=論理)に屈した在り方」または「理を捩じ曲げた在り方」を指す言葉ということです。
しかし、問題は言葉の意味や用法云々ではなく、世の中では「合理性」と称して(非論理的な)「理屈」が大手を振ってまかり通っていて、本来の「論理」を圧迫するまでに至っているという現状に有ります。
つまり言葉の上では同じ「合理性」とか「論理的」とかを用いていても、その実、中身がそっくり「理屈」に置き換わっている場合も多く、そうなると当然、双方の話が噛み合わなくなります。
そこで改めて「論理性とは何か」について考えて見たいと思います。おそらくそれは「あらゆる要素を排除せず、その何れから見ても整合性の取れた状態」というイメージで良かろうかと思います。それは例えば「解らないから除外する」という事ではなく、「解らないものは解らないものとして要素に組み入れる」ということです。
そうする事で私たちは「論理性という思考の作業場」の中を、いつでもどこでも自由に行き来出来る環境を確保出来るという事です。これは「物事の発展性」という観点で非常に重要です。
一方で「解らないものを除外する」という事では「思考の作業場」に次々とパテーションを設けて、その先を通行不能としてしまう訳ですから、それでは自らの「思考」に著しく制約を課す事になってしまいます。
しかもこの場合の「解らないもの」とは平たく言えば「自分の現時点での能力では理解不能」という意味ですから、極端な場合には「自分の世界、自分の範疇で論理が完結してしまう」という事態に至ります。いわゆる「狭量な人間」ということですが、本人の中では既に「要素の除外は(論理的に)当然の事」とされているので、自分の思考のどこが「非論理的」なのかサッパリ解らないまま、ひたすら「理屈をこねる」結果となります。
真に論理的な思考であれば、必ず「更なる広がりに対する余韻」や「更なる奥行きを予見させる深み」を感じさせるはずです。それは常に「更なる発展への道が開かれている」ものだからです。
しかし「理屈」の場合、決まり事に固執したり、判で押したような発想に終始したりと、そこから些かの「余韻や深み」も感じ取る事は出来ません。そこには「唯物思考」へのこだわりが見え隠れしています。