2016.05.31 Tuesday
寺に生きる意味、寺の持つ意味。
今日のタイトルは、例によって「このようなキーワードでアクセスされた方がおられる」という事です。(過去には「寺に生まれて」というものもあったように思います。)
私は従来より「宗教は問わない」立場を貫いています。それは「○○教でなければならない」もしくは「○○教であってはならない」という敷居を一切持たないという意味です。何故なら人間が「真理」を目指す場合には、必ず「アプローチ」が必要だからです。アプローチとは、いわゆる「形」を意味しています。人間にとって大切なのは「心」ですが、心を「単体の形」として表現する事は出来ません。しかし幾つかの形を統合的且つ普遍的にに用いる事で、心の幾ばくかを表現する事は可能と思えます。
つまり「形」というものは「言語」の様に、目に見えない「心や意味を」伝え得るものに違い有りませんが、そのためには(言語と同じく)地域の風土や文化に符合(=マッチング)したものでなければ、滑らかに伝わりにくいのではないでしょうか。
ですから、ある地域に於いて「信仰」が芽生え、それが「宗教」として発展、体系化されて行く過程に於いて、その多くは元々の風土や文化に「マッチング」されるものと考えるのが自然だと思います。そしてその「形」こそが、その地域に於ける「最も受け入れやすく伝わりやすいアプローチを持った宗教」であったとしても、何の不思議も有りません。
例えば「厳しい土地柄」にあっては、「厳しさの先にある寛容さ」を「最高の美徳」とするかも知れません。また反対に「温和な土地柄」にあってこそ「物事に流されない厳格さ」が「最高の美徳」とされるかも知れません。これらは一見別々の方向性のように思えますが、どちらも論理的に同じものです。何故なら、「究極の真理」とされる「中庸」を理解するためには、ある時点でどうしても「足らざるもの」を求める必要があるからです。つまり「両端に均等の錘(おもり)が付いていないとやじろべいの如く中心で安定を保てない」ということです。
要するに「宗教の違い」を「色合いの違い」と見るならば、それが問題の本質とはなり得ず、肝心な事は、如何なる宗教であれ、(信仰の)目的である「真理」の共通イメージが持ち得るか否かに尽きると思います。
しかしそれを判断する際、ひとつ重要なポイントが有ります。それは「信仰に根ざした宗教」である限りは、「神仏」を対象としており、その事自体がじゅうぶん「霊的」であるがゆえに「霊界とは無縁であろうはずもない」という事です。
私の所見では、宗教には本来その部分で矛盾を生じさせる要素は存在しないはずであって、もし仮にあるとすれば、それは信仰とは別の「何らかの唯物的概念」による阻害が働いているのかも知れません。
私は従来より「宗教は問わない」立場を貫いています。それは「○○教でなければならない」もしくは「○○教であってはならない」という敷居を一切持たないという意味です。何故なら人間が「真理」を目指す場合には、必ず「アプローチ」が必要だからです。アプローチとは、いわゆる「形」を意味しています。人間にとって大切なのは「心」ですが、心を「単体の形」として表現する事は出来ません。しかし幾つかの形を統合的且つ普遍的にに用いる事で、心の幾ばくかを表現する事は可能と思えます。
つまり「形」というものは「言語」の様に、目に見えない「心や意味を」伝え得るものに違い有りませんが、そのためには(言語と同じく)地域の風土や文化に符合(=マッチング)したものでなければ、滑らかに伝わりにくいのではないでしょうか。
ですから、ある地域に於いて「信仰」が芽生え、それが「宗教」として発展、体系化されて行く過程に於いて、その多くは元々の風土や文化に「マッチング」されるものと考えるのが自然だと思います。そしてその「形」こそが、その地域に於ける「最も受け入れやすく伝わりやすいアプローチを持った宗教」であったとしても、何の不思議も有りません。
例えば「厳しい土地柄」にあっては、「厳しさの先にある寛容さ」を「最高の美徳」とするかも知れません。また反対に「温和な土地柄」にあってこそ「物事に流されない厳格さ」が「最高の美徳」とされるかも知れません。これらは一見別々の方向性のように思えますが、どちらも論理的に同じものです。何故なら、「究極の真理」とされる「中庸」を理解するためには、ある時点でどうしても「足らざるもの」を求める必要があるからです。つまり「両端に均等の錘(おもり)が付いていないとやじろべいの如く中心で安定を保てない」ということです。
要するに「宗教の違い」を「色合いの違い」と見るならば、それが問題の本質とはなり得ず、肝心な事は、如何なる宗教であれ、(信仰の)目的である「真理」の共通イメージが持ち得るか否かに尽きると思います。
しかしそれを判断する際、ひとつ重要なポイントが有ります。それは「信仰に根ざした宗教」である限りは、「神仏」を対象としており、その事自体がじゅうぶん「霊的」であるがゆえに「霊界とは無縁であろうはずもない」という事です。
私の所見では、宗教には本来その部分で矛盾を生じさせる要素は存在しないはずであって、もし仮にあるとすれば、それは信仰とは別の「何らかの唯物的概念」による阻害が働いているのかも知れません。