青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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寺に生きる意味、寺の持つ意味。
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    今日のタイトルは、例によって「このようなキーワードでアクセスされた方がおられる」という事です。(過去には「寺に生まれて」というものもあったように思います。)

    私は従来より「宗教は問わない」立場を貫いています。それは「○○教でなければならない」もしくは「○○教であってはならない」という敷居を一切持たないという意味です。何故なら人間が「真理」を目指す場合には、必ず「アプローチ」が必要だからです。アプローチとは、いわゆる「形」を意味しています。人間にとって大切なのは「心」ですが、心を「単体の形」として表現する事は出来ません。しかし幾つかの形を統合的且つ普遍的にに用いる事で、心の幾ばくかを表現する事は可能と思えます。

    つまり「形」というものは「言語」の様に、目に見えない「心や意味を」伝え得るものに違い有りませんが、そのためには(言語と同じく)地域の風土や文化に符合(=マッチング)したものでなければ、滑らかに伝わりにくいのではないでしょうか。
    ですから、ある地域に於いて「信仰」が芽生え、それが「宗教」として発展、体系化されて行く過程に於いて、その多くは元々の風土や文化に「マッチング」されるものと考えるのが自然だと思います。そしてその「形」こそが、その地域に於ける「最も受け入れやすく伝わりやすいアプローチを持った宗教」であったとしても、何の不思議も有りません。

    例えば「厳しい土地柄」にあっては、「厳しさの先にある寛容さ」を「最高の美徳」とするかも知れません。また反対に「温和な土地柄」にあってこそ「物事に流されない厳格さ」が「最高の美徳」とされるかも知れません。これらは一見別々の方向性のように思えますが、どちらも論理的に同じものです。何故なら、「究極の真理」とされる「中庸」を理解するためには、ある時点でどうしても「足らざるもの」を求める必要があるからです。つまり「両端に均等の錘(おもり)が付いていないとやじろべいの如く中心で安定を保てない」ということです。

    要するに「宗教の違い」を「色合いの違い」と見るならば、それが問題の本質とはなり得ず、肝心な事は、如何なる宗教であれ、(信仰の)目的である「真理」の共通イメージが持ち得るか否かに尽きると思います。
    しかしそれを判断する際、ひとつ重要なポイントが有ります。それは「信仰に根ざした宗教」である限りは、「神仏」を対象としており、その事自体がじゅうぶん「霊的」であるがゆえに「霊界とは無縁であろうはずもない」という事です。
    私の所見では、宗教には本来その部分で矛盾を生じさせる要素は存在しないはずであって、もし仮にあるとすれば、それは信仰とは別の「何らかの唯物的概念」による阻害が働いているのかも知れません。
    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:26 | comments(0) | - |
    音もなく沈み始めた政権
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      5月13日の記事で“「政権はボロボロ」です。このままでは自沈してしまうでしょう。”と書きました。そしてどうやらその通りの事が起きている様です。
      今朝のTBSの報道では、今回の安倍総理の「消費増税先送り決定」をめぐって「解散総選挙に打って出るべし」とする麻生、谷垣派と、それを拒む安倍、菅派に意見が別れているとの事です。

      そもそも安倍政権に対しては、以前から海外メディアを中心として“アベノミクスの失敗”との酷評を初めとする「逆風」が吹き始めており、それを「政権と御用メディア」が(国民の耳に届かない様にと)何とか押さえ込んでいた危うい状況が続いていましたが、先日の「伊勢・志摩サミット」に於いてそれが「致命的な形」で露呈してしまいました。

      政権としては「サミット」を好機として一気に「大勢の立て直し」を図る目論見だったのでしょうが、あまりにも露骨にそれをゴリ押ししたために各国首脳の反発を招き、案の定「海外メディア」から一斉に(自分の失敗隠しにサミットを利用しようとしたとの)批判を浴びる結果となりました。
      これはさすがに日本の「御用メディア」と言えども隠し様もなく、(やや控えめではあるものの各国の手前)その件について報道せざるを得なくなり、少なくとも「安倍政権の姑息な立ち回りとアベノミクスの破綻」については、広く国民の知るところとなりました。(それでもNHKだけは“御用メディア振り”を貫いたとの事です。もしそうならハッキリ言って異常です。)

      しかし「転んでもただでは起きない」のが安倍晋三その人です。あらかじめ(保険として)「米大統領初の広島訪問」というカードを用意しており、それを各メディアに大々的に報じさせる事で、「サミットでの不始末」を払拭させようという狙いは明々白々ですが、逆に「ならば同じ様に安倍総理も真珠湾や南京に哀悼の意を伝えに行くべきでは」という論調を招く結果ともなっています。

      日本が昔から「自浄能力」に乏しいのは、(右にならいたがるという)国民性によるものでしょうか?しかし、そんな時にはこれまでにも必ず「外圧の嵐」が吹き荒れて「変革」を余儀なくされて来ました。但しその場合には「穏便」に事が運ぶとは限りません。外圧はとかく手荒いので、出来れば「自浄能力」を高めた方が良いと思います。
       
      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:17 | comments(0) | - |
      「霊界の近況」がわかる人にはわかる。
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        毎年2月の節分当日に「霊界」では、全ての人間ひとりひとりの一年間を総括するための「審判」が行われます。そして翌日の「立春」(厳密には前日の午後11時)より、審判の結果に基づいた「新年度の運命」がスタートします。つまり「運命」というものは「節分」を境に切り替わるということです。

        ところで「霊界で発生した因」が「現界で物理的に結果(=現象)」するためには、ある程度の「タイムギャップ」が存在するのが普通です。例えば「人の死」に於いてさえ、最低でも一週間程度のタイムギャップが存在します。
        そういう意味ではこの5月から6月にかけて、社会的、個人的に様々な変化が形となって現れてくることがあったとしても、ひとつも不思議では有りません。
        また、この時期の特徴は「既に仕込みは終わっている」ということで、謂わば「蒔かれた種から芽が出るのをじっと待っている」といったような、(仕込みや調整に余念のない時期に比して)ある意味の「落ち着きと達観」を伴うという事が言えるかも知れません。(今更バタバタしても始まらないという感じでしょうか。)
        ただ、「想念」はいつもクリアにして置かなければなりません。それは「現象した結果に真摯に対応する必要があるため」であると共に、既に半年後(11月)に控えている「想念審判」に備える必要があるからです。

        このような「霊界の動き」に起因した、或る種のバイオリズムのような感覚を感じる人は感じるかも知れません。しかし何れにしても「想念」というものは「無意識が持つ価値」なので、意識で急にどうなるものでもありませんが、唯一「見えないものを信じる」という、私たちが「理屈」を知る以前に持ち得た感覚を思い起こす事がヒントになるかも知れません。そこでは「良い事を良い」と思え、「悪い事を悪い」と単純に(理屈抜きに)思えたはずです。そして「人間性」とは即ち、そのことを言っているに過ぎないのです。

        余談ですが、今苦境を迎えている人、今後苦境に立たされる人は、すべて「審判」の結果ということです。
        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:38 | comments(0) | - |
        マイクロソフトの終わりの始まりか?
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          以下は私の別ブログの記事ですが、昨日の記事に関係するので転載します。(。そのままの「常体文」にて失礼します。)

          海外では「マイクロソフトの汚いトラップによってWindows7やWindows8.1が勝手にWindows10にアップデートされてしまう」との批判と共に大騒ぎになっているそうで、日本でも怪しいポップアップが出現するようになって、ユーザーから戸惑いの声が上がっている。

          そもそもWindows7のユーザーなどは、故あって敢えて使っているケースも多く、勝手にOSのアップデートが行われたりすれば、実害が生じてしまう事はマイクロソフト側としても分かり切っているはずだ。それを承知で今回のような「強行策」に打って出るということは、背後にビジネス上の、或いはもっと大きな政治上の理由があるとしか考えられないが、何れにしても一般ユーザーに対する背信行為、敵対行為と見なされることは避けられない。(因みにWindows10などに対し、明確な“スパイウェア”と見なす向きもある。)

          こうしたマイクロソフトの「傲慢無礼とも言える強気姿勢」は、一時代に世界を席巻した事による「ユーザーは他に(Windows以外の)選択肢が無いだろう」という気持ちの表れかも知れないが、実はそんな事はない。
          例えばネット環境は「Linux系」で、Windowsアプリは「ネット非接続のスタンドアローンのWindows系」と使い分ければWindowsのもたらすリスクは最小限に減らすことが出来る。(安全性を確保するためには「最小限の手間」を惜しんではいけない!)

          さしずめ「自ら化けの皮を脱ぎ捨てたマイクロソフト」と言うべきか、ともかく「今それをやればどういう事になるか」が判断出來ず、常軌を逸するほど「何かに追い詰められている」としか言い様が無い。

          ※ 参考までに、以下のURLに「Windows10へのアップグレードを抑止する方法」が書かれています。
          http://aka.ms/w10hus
          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:59 | comments(0) | - |
          社会はどこへ向かおうとしているのか。(2)
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            昨日「監視社会、管理社会」の項目で書き忘れたことが有ります。それはネットワークを前提とした「パソコンとスマホ」のことです。
            今から20年余り前ですと、パソコンは必ずしも「ネットワークに接続されたもの」とは限らなかったので、ソフトウェアもそのように作られていたし、データーのやり取りはフロッピーディスクやMOディスクなどで問題なく行われていたように思います。
            しかしネットワークで「高速通信」が可能となってくるに連れて、徐々にネットワークの依存度が高まって行き、同時にシステムやソフトウェアの仕様そのものが「ネットワーク接続を前提としたもの」へと変化して行くに従ってインターネット上の各種サービスも充実し、いつの間にか「パソコンと言えばインターネット」が当たり前とされる時代に至ったという事だと思います。

            ところでインターネットが「利用者にとって便利」ということは、「管理者にとっても便利」である事は言うまでも有りません。それについては最近イギリスのBBCニュースで興味深い記事が紹介されています。
            ソースはこちら→ “ウィンドウズ10更新、マイクロソフトの「汚いトリック」と批判”
            このことはNHKや毎日など国内のメディアも報じていますが、BBCほど苛烈でないにしても、マイクロソフト社の「ビジネス上の下心が見え隠れしている」ことには幾分触れている様です。

            つまり管理者が国であれ民間企業であれ、個々人をターゲットとしてインターネット上に様々な「仕掛け」をめぐらせる事は造作もない事と思われます。例えばウィルスやスパイウェアが侵入出来るという事は、「管理者」であればもっと容易に介入、操作出来るという事です。(それが為されるかどうかは、一重に管理者のモラルの問題に過ぎません。)
            そのことに「危うさ」を覚えるか否かは、昨日も申した様に、その人にとって「今の社会がどのように見えているか」に掛かっています。

            因みにこうした意識は年代によっても差があるのかも知れません。例えば私より20年余り若い人では、ネット上の「悪意やリスク」に対する抵抗感や警戒心はさほどでは無いようです。何よりネット環境が「インフラとして不可欠」という気持ちが強く、それを失う事の脅威に比べれば大した事ではないし、そのリスクも「物理的な空き巣や詐欺被害」のリスクと大した違いは無いということらしいです。
            確かにネット上であろうがなかろうが「悪事は悪事」であって、「せめてネットだけはクリーンでなければ困る」というのも変な話なのかも知れません。
            ただスマホなどで「自分の現況や位置情報が第三者に送られ続けている」というのは、従来に無い「新しい管理要素」と言うことは出来ると思います。(もちろん、誰かに自分を探して欲しいという時には重宝しますが)
             
            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:18 | comments(0) | - |
            社会はどこへ向かおうとしているのか。
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              現在、社会は「超管理社会」に向かいつつあると思われます。まずその先駆けは「監視カメラ」で、建前としては「防犯、防災、交通監視、看護、介護、その他の安全管理」という風に、私たちの「安全、安心、便利」に役立てるためとされているはずです。しかし、その全てが(管理者にとっては)一方的な「監視、管理」を容易にする事は事実です。

              次に「金融(銀行)システム」を通じたお金の流れが有ります。「預金、送金、引き出し、振込、引き落とし」など、お金の流れが全て記録され「データ化」され、一元管理される事が最早当たり前の世の中です。社会では「金融機関」の利用は最早「義務」に近いレベルですが、「自分のものであるはずの預金を希望通りに下ろせない」という現象を見るに付け、「利用者の安全、安心、便利」が建前であって、本音が別のところにある事を疑わざるを得ません。

              また、現金の不携帯を可能とする「クレジットカード(ICカード)」の普及は、更に「金融機関」への依存度を高め、それらを日常的で無意識、無感覚なものとするでしょう。このように私たちの財産、資産は、徐々に「現物や現金」から遊離したデジタル化された数字に置き換えられ、極めて把握や管理のしやすい状態へと移行されており、「私たちもそれを受け入れている」といっても過言では有りません。但し「電子化」されたそれらは、同時に「極めて盗まれやすいモノ」でもあるようです。

              先ごろ政府に依って導入された「マイナンバー」は、謂わば「個々人のありとあらゆる情報を一元管理する事を可能とするツール」です。もし行政側が、国民が必要なものやサービスを求める際に「ナンバーの提示を義務化」しさえすれば、ほぼ完全な個人データの収拾が可能となるでしょう。また、その意図が無いというなら、そもそもマイナンバー制度を導入した意味が不明で、不可解です。

              更に「各種ポイントカード」などの存在も侮れません。本来「現金取引」の実態は、そのままではデジタル化されず、個人情報とはなり得ませんが、ポイントカードを提示した瞬間にデータとして登録されます。

              このように私たちの住む社会(世界)の方向性は、明らかに「監視社会、管理社会」に向かっています。しかし、「管理されるのは生理的に嫌いだ」という人もいれば、「管理してもらった方が楽で良い」という人もいるので、この問題の是非はそういうことではなく、「誰が」「何のために」それを行なうかという事に尽きると思います。
              もし今の社会(体制)に対して「総体的に善意に溢れている」と感じるなら、管理を受け入れると良いでしょう。しかし反対に「どうも悪意に満ちているとしか思えない」というのであれば、今の流れをそのまま受け入れるのは「危険」です。何故なら「個人データのデジタル化」によって「悪意によるピンポイントでの個人攻撃」すら可能となってしまうからです。
              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:05 | comments(0) | - |
              個々の「能力差、適性の違い」について
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                私などが素直に「尊敬」したくなる相手と言うと、やはり「自分には到底出來そうもない事を軽々とやってのけてくれる人」だと思います。例えば引越し業者の人なんかで、50キロはありそうな荷物をヒョイと抱えてさっさと持って行ってしまう人。鳶(とび)職の人など、高所の細い足場で平然と作業出来る人。また、コンビニの多様な業務を淀みなくこなせる人なども、決して侮れません。
                自分はいつもそのような視点で人のやることを見ていますが、また別の人から見れば、中には私のやることが相手にとって(同じ理由で)「尊敬に値する」などという事もあるのかも知れません。

                私には、人間が(同じ規格で作られた工業製品のように)同じ様に学び、同じ様な訓練を受ければ、みんな同じ事が出来るようになっているとはどうしても思えません。もちろん人間の集団を統計的に見れば、「平均値」という最も層の厚い部分を以って「共通項」と考える事も出来るでしょうが、だからといって「みんなが平均値を達成目標とする」とか「集団として平均値の底上げを目指す」というような方向性が、果たして個々の人間にとって「最も有益な社会参加の形」と言えるかどうかは甚だ疑問です。

                例えば「義務教育」に於ける「学力、運動能力、芸術性などの平均値」を以って「国民の共通項」と見なし、それを「人並み」などと言い換える事も出来ます。そうなると「せめて人並みに」と思いたくなるのが人情ではないでしょうか。しかしそれは同時に「人並みに届かなければ劣等感」「人並みを超えれば優越感」という、社会の中での「順列」を自らイメージさせる事に繋がります。ところがそれは(良く考えると)決して自発的なイメージなどではなく、敢えて誰かに「人並み」を設定された事によってもたらされた(謂わば強要された)イメージに他ならないということです。

                そもそも「義務教育(=基礎教育)」の目的は何でしょうか?社会の人たちを全員「人並み」に到達させる事でしょうか?そうかも知れません。しかしそのためには、場合に依っては「能力差、適性の有無」を押しなべてゴリ押ししなければならないケースも有ります。もしかすると「適性の無い人に人並みを求める」事自体が「適性の有る人にとっては想像も及ばない苦痛を伴うこと」かも知れないのです。そのような苦痛が当人たちの「心を歪めてしまう」心配はないのでしょうか?そういう人たちの劣等感が絶対的にプラスに作用するという何か保証でも有るのでしょうか?

                私は「義務教育」によって子どもたちに「世の中にはこういう分野のこういう勉強があるんだ」ということを知ってもらえたら良いと思います。そして一通りを学ぶことで改めて「自分の能力や適性」を再確認出来たら、それが一番良い事だと思います。そして比較的早い時期に「自分に合った自分の生きがい」を発見して、そのために誠心誠意努力出来たら、その人は幸せだと思います。
                但し、そのためには当然ながら、学歴や職種そのものによる差別や格差などは「根絶」する必要が有ります。
                例えば、力自慢の人が社会でその力を発揮するなら、当然その希少性や働きに見合った処遇が与えられなければなりません。(当たり前の事をわざわざ書いていると何故か哀しくなります。)
                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:59 | comments(0) | - |
                警察署は何が言いたかったのか?
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                  東京小金井市の「女子大生アイドル刺傷事件」で、被害者女性が事前に武蔵野警察署を訪れ、数回にわたって相談していた件について、「警察の対応に問題がなかったか」などの声が高まっているようです。
                  事件当初の武蔵野署の談話として、(正確には再現出来ませんが)「その時点では事件性は認められなかった。ストーカー被害に関する相談は日々膨大な件数にのぼり、すべてに対応していては警察は“破綻”してしまう。」という内容のことがテレビのニュースで流されたのを記憶しています。(先ほどネットで検索してみたが、当該のコメントは見当たりませんでした。早々に削除されたのかも知れません。)

                  ところで、この「破綻(はたん)」という言葉に非常な重みを禁じ得なかったのは私だけでしょうか。それはつまり裏を返せば、警察の機能、役割として「一般市民、地域住民の安全、安心」に対しては、一定のところで「線引き」させて頂き、ある程度の「切り捨て」も辞さない、という意味になります。何故なら「それをすると破綻する」という事は、元々「それを前提とした作りになっていない」という事だからです。
                  前にもその事に触れた記憶が有りますが、警察の主な機能、役割は「政府や国家の体制」を護る事ですので、そのための「補助的な役割」と言える「住民の安全、安心」を100%保障するものではない、ということです。
                  つまり武蔵野署は「当初のコメント」で、その本音がポロッとこぼれ出てしまったという事でしょうか。

                  しかし、こうした国や警察の論理には(民主主義に於いては)致命的な欠陥が有ります。それは警察の機能、能力の及ばない部分に関しては「自分の身は自分で守れ」と言われているも同然で、最近流行(はや)りの「自己責任」にも似た論調ですが、もしそうなら(アメリカの一部の州の如く)武器の所持や携帯が許されなければつじつまが合いません。取り分け日本では(豐臣秀吉の刀狩り以来)そのような文化は有りませんし、「治安維持」の観点からも、今更それが認められる可能性は100%無いでしょう。

                  つまり「他者の理不尽な攻撃から自分で自分の身を守れ」という話自体、最初から「論理が破綻」しているのです。しかも憲法で「国民の生きる権利」が保障されているとなれば、「警察が死にものぐるいで国民を守る」しかないのです。上層部は「破綻してしまう」など、泣き言を言うぐらいなら、「住民サービスの向上、強化」を柱として、上に働き掛けて理解を得るべきです。(そんな気持ちは毛頭無いでしょうが。)

                  何れにしても、このような案件に対する画期的な改善は、当面期待出来ません。となれば、私たちに今すぐ可能な唯一の策は、「危険な環境に努めて身を置かない」ということです。そのためにはまず、「モノに毒されない」ことが肝心です。
                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:22 | comments(0) | - |
                  やっぱりさっぱり解らない「公共」
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                    これまでも何度か取り上げてきましたが、当ブログの記事にアクセス頂いた方々の検索キーワードの内、最も多いのが「公共とは」「公共の精神とは」など、“公共”にまつわるもので、全体の3分の1を超えています。これは言い換えると「すごく気になるけど意味が解らない」ということだと思います。
                    過去記事はこちら →http://blg-hal-kursk.jugem.jp/?search=%B8%F8%B6%A6%A4%CE%C0%BA%BF%C0

                    ところで何故「公共」が解りにくいかという端的な理由は、おそらく「人間の本質的な利益追求のスタンスにそぐわない」からだと思います。
                    つまり社会に於ける「公共のエリアや概念」が拡大すればするほど、個人的利益を追求出来るエリアが狭まる事になります。それではまるで国境線に設けられた「非武装緩衝地帯」のようなもので、弱者から見れば「必要不可欠」のものであっても、圧倒的強者からすれば単なる「邪魔なシロモノ」に見えるかも知れず、能力や立場によって人それぞれ感じ方に違いがあるものと思われます。
                    つまり「唯物思想に基づく自由競争原理のもとでは、“公共”の意味や評価を定める事自体難しい」ということかも知れません。(但し上記は「公=みんな」とした場合の話。「公=おかみ」とすると「国家統制」の意味となる。)

                    そこで今度は「唯心(唯神)思想」から見た「公共」を、最も小さい社会の単位である「家族」を例にして、考えて見ると、そこでは「親」がいて「子(=兄弟)を育てている」とします。(選択肢とは別に、それが人類存続の仕組みである事は否定出来ません。)
                    そもそも何故「親と子」という基本的定義が必要なのかと言えば、それは「神と人との間にある親子関係」がどういうものであるのかを「再認識」するためとしか言い様が有りません。(この世には親子関係の認識を必要とされない生物の方がはるかに多いのです。)
                    ここでは(まともな親であれば)親は子を無条件に愛し、無条件に責任を負います。そしてそうする事によってのみ、子は健全に成長します。(何故なら「神と人との関係」が正にそうだからです。)
                    更に兄弟(姉妹)がいるなら、親はすべての子に対し、努めて平等公平に接します。(もし結果が思わしくなければ、まず自らの「平等公平」を疑います。因みに「神と人との関係」では神は100%平等公平ですが、スパンが長いため人間の目で追い切れない場合が多々あります。)
                    更に兄弟同士でいさかいを起こし、互いに反目し合っても、親はどちらかに加担したり、親の愛に翳りを生じさせたりする事は有りません。ひたすら「子の手本」となるべき生き方を貫きつつ、子の理解を信じて待ちます。(“子のため”を貫き、信じて待つ」は正に「神の真骨頂」です。)

                    このように「親子関係」と「神と人との関係」は、どこを取っても非常によく似ています。その上で「神」にとっての「兄弟(姉妹)関係にある子どもたち」とは、社会に生きる「すべての人々」ということになり、「神の目」から見れば文字通り「人類みな兄弟」に違いないことになります。(ただ人間同士が中々そう思えないだけのことです。)それを思う時に、(兄弟である)人間同士が憎み合い、恨み合い、傷付け合い、殺し合う事が、どれほど間違いであり、(親である)神を哀しませ続けているのかが解るはずです。

                    それらを前提として、ここで改めて「公共の精神」に目を向けるなら、それは本来(兄弟としての立場を持った)人間同士が(当然の如く)「助け合い、協力し合い、影響を与え合い、影響を受け合う心」であり、その機会を提供する場が「公共の場」であるとするなら、それらは大きければ大きいほど良いということになります。
                    自分たちが「(神のもとに)正真正銘の兄弟だ」という自覚が持てれば、そこに優劣も格差も有り得ず「みんなで良くなろう」という気持ちが素直に持てると思います。(もちろん自分も良くなれます。)そしてそれは「何かの例え話」などでは無く、それが紛れもない真実だということです。

                    一方で未だに他人の事を「自分の権利や財産を脅かす敵」としか思えず、他人を追い落とし、踏み台にしてまで利益を追求した挙句、見えない影に怯え、寝首をかかれる事を恐れるアナタ、完全に「孤独」そのものですが、まさか人間が「そんなこと」のために生まれて来たなんて、本気で信じていないでしょうね。有り得ません。「兄弟」として生まれ来て孤独に陥るほど不幸な事は有りません。それは多分方向を180度誤った結果なので、この際「真逆」をやれば元に戻ると思います。いっぺん死んだ積りでそうした方が良いと思います。
                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:15 | comments(0) | - |
                    数少ない「真っ当と思われる人々」
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                      本日も私の別ブログと同じ記事の掲載となります。(常体文にて失礼します。)

                      テレビに出演している政治、経済、社会関連の学者やジャーナリスト(評論家)は、九割方信用するに足りないようだ。(目が死んでいるし顔にそう書いてある。)そもそも人前で「自分の個人的利害」を絡めて物を言っているようでは、少なくとも「正しい事」は言えないはずだ。ということは、「自分の利害損得を無視」して発っせられる言葉だけが「正しい」ということになるが、それは常に「この人、こんな事を言って大丈夫か?危なくないのか?」と視聴者が「一抹の危うさ」を禁じ得ない話の内容となるはずだ。何故なら、テレビの視聴者の大多数は一般の庶民であるからして、問題の追求や解決に際して「庶民が納得出来る話」の内容には、必ず「対峙する権力者への要求」が含まれる事になるからだ。「要求」には場合によって「批判や抗議」も含まれるので、権力者にとっての「不利益」となる事も多い、となれば当然、純然たる庶民の目線で物を言うこと自体が「権力者に対する敵対行為」と見なされる故に「発言者の立場が危うくなる」という事になる。

                      以下のサイトには、「テレビ、ラジオ、新聞、雑誌」などのジャーナリズムが庶民の期待に応えられない事情について、そのルーツや歴史的経緯を紐解く事でたいへん解りやすく書かれている。
                      こちら →「マスメディアが伝えない“新聞・テレビの歴史と今”」

                      また、こちらのサイトでは「(悪名高い)記者クラブ会員」でありつつも、「真っ当なジャーナリズム」を目指す数少ないジャーナリストの「至極真っ当な世評と分析」の存在を知ることが出来る。(テレビや新聞よりもはるかに信頼出来る。)
                      こちら →「ジャーナリスト同盟」通信

                      また、昨日テレビで「平均IQ122」とかで「英才教育」を売りにする幼稚園を紹介する番組を見て、その(スパルタ教育?の)醜悪さと勘違い振りに気分が悪くなった事もあって、その対極とも言える以下の清々しい記事を紹介したいと思います。(ここから意図的に敬体文にします。)
                      こちら →「各個人の才能・可能性をもっと引き出すことができたとしたら?」

                      これらの話は何れもむずかしく有りません。「真実や正しい事はむずかしいはずがない」というのが私の一貫した考え方です。何故なら「誰にでも一発でそれとわからなければ困る」からです。一方で「不正解」というものは「わかる必要も無い」故に難解至極ということなのでしょう。
                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:24 | comments(0) | - |