青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「民主主義」という言葉の綾(あや)
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    私たちはその昔、《敗戦》を機に日本に於いて「中央集権による全体主義国家」から「国民主権による民主主義国家」への転換が為された時、多くの国民はその事を(あくまでもイメージとして)「民衆がようやく自由を手にいれた」ような感覚で受け止めたのかも知れません。何故なら「自由主義」「自由競争」或いは主に「日本国憲法第十九条〜二十三条」で謳われている如くに、私たちの周囲には「自由」という言葉が宝石の様に散りばめられていたからです。

    ※日本国憲法全文はこちら→ http://www.jicl.jp/kenpou_all/kenpou.html

     

    ところで改めて「民主主義=デモクラシー(democracy)」の語源を調べてみると、元々古代ギリシア語で「民衆+権力(支配)」だというのです。日本語では「国民主権」などと抵抗なく使われていますが、正確には「国民権力(支配)」というかなりイカツいイメージとなってしまいます。

    ソースはこちら→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9

    ギリシアでは後には「衆愚政治」の意味となってしまい、使われなくなったとまで書いてあり、あまり良い言葉のイメージではないようです。

     

    私が問題だと思うのは、この「政治的主義主張」に関わらずまるで“風呂場のカビ”のようにどこまでも根を張ってこびりついている「権力」とか「支配」とかといった概念そのものです。

    例えば「権力支配」が嫌で「革命」か何かで「君主制」を廃して「共和制」や「民主制」を選んでも、単に「役者が代わった」だけで「権力支配構造」自体がなくなる訳では有りません。にも関わらず、人々はどこかそれで納得してしまっているような向きが有ります。まるで「民主」とか「共和」という言葉の綾に騙されているかのようです。

     

    こうした「権力や支配」の問題の根幹には必ず「支配者や権力者はイイ思いをする」という“不滅の法則”めいた「如何わしい不文律」が存在しますが、まずはそれを撤廃する必要が有ります。即ち「社会のリーダーや代表者を優遇する必要など一切ない」ということです。それらを選出する際に、最初にその条件でふるいにかければ良いだけのことです。

    「そんなことをしたら、なり手がいなくなる」という声が聞こえてきそうですが、そんなことは有りません。実は現在の制度の「優遇や厚遇の甘い汁」に目の色を変えて鼻息の荒い人々が群がって来るために、そういう「清廉潔白で本当のリーダーシップを取れる人」の出番が回って来ないだけの話です。

     

    例えば、親が自分の子どもを育てる時に「それによって親がオイシイ思いが出來ないなら、子育てなんてやってられない!」という話を社会通念として受け入れられるでしょうか。もしそういう主張をする人がいたら、その人は「親になる資格のない人」です。

    社会のリーダーや代表者もそれと同じで、「社会に尽くす事とオイシイ思いとは、元々関係が無い」ということです。そして世の中に「まともな親」がいる限り、少なくとも同じ数だけの「権力や支配」という概念とは無縁で「オイシイ思い」に関心のない「適任者」がいると考えて間違い有りません。

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:21 | comments(0) | - |
    自民党の選挙用ポスターの謎
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      このところ外出の度に見かける自民党の(たぶん参院選に向けた)ポスターがあまりにも気になったので、「自民党の公式サイト」からダウンロードして確認して見ました。

      https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/20160608_poster.pdf

       

      まず目を引く(というか気になる)のが、安倍総理の表情です。あまりにも表情を作りすぎたのか、かえって不自然極まりない(まるで蝋人形のような)焦点の定まらない作り物のような顔になってしまっています。つまり「どういう人で何を考えている人なのかまったく表現されていない」のです。これは「人物主体のポスター」としてはうまくないのではないでしょうか。

      撮影するのは当然一流どころの人たちでしょうが、誰も違和感を感じなかったのでしょうか。それとも敢えてこの一枚を選んだとなると、逆説的に「これ以上の表情は望むべくもなかった」ことになり、そちらの方が問題です。

       

      それから「真っ白な背景」に「薄緑色の文字」の組み合わせが、どういうイメージを演出しようとしたものかは知る由も有りませんが、『この道を。力強く、前へ。』の標語の内容に相応しいのかどうか疑問です。また、その逆の配色による『政治は国民のもの 自民党』で「清廉潔白」を表現したいのかどうかはわかりませんが、むしろ「消え入りそうなイメージ」にならないでしょうか。

       

      そんなわけで、私には今回の自民党のポスターに於いては「勝ちにイッている感」があまりにも乏しい様に感じられてなりません。明らかな失敗作だと思いますが、自民党らしく有りません。これは「考えすぎたせい」でしょうか?それとも「誰かにまんまとハメられた」のでしょうか?

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:52 | comments(0) | - |
      缶詰も瓶詰めも戦争目的だった話
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        まだ小学生だった頃に缶詰や瓶詰めが「元々は軍事目的で発明されたもの」と知って、不思議な感慨を覚えた記憶があります。(調べて見るとナポレオンが関わっていたようです。)

        ソースはこちら→ http://www.seikan-kyoukai.jp/history/index.html

        また、自動車などは当然のように軍事目的が起源とされています。(最初は蒸気機関だった。)

        ソースはこちら→ https://gazoo.com/car/history/Pages/car_history_001.aspx

         

        近年でいうと、インターネット、カーナビ、レーダー技術(=電子レンジ)などもそうですが、そもそも昔から画期的な技術やアイデアに限って、それらの多くが「戦争」によってもたらされる事に「大いなる皮肉」を禁じ得ません。戦争は如何に大義を振りかざして見たところで醜く汚い(心と)行為であることに変わりはなく、(そうならなければ人は殺せません、絶対に。)そうした野心や欲望に駆り立てられでもしなければ、私たちはまともなアイデアや技術の恩恵に浴する事すら出來ないのかとさえ思わされます。

        そして何より、これは「人間の進歩や発展は悪によって牽引されているのか」という「命題」でもあります。

         

        これは或る意味で「そう」とも言えます。何故なら「欲にまみれた人々」ほど活発で元気そうに見えるからですが、良く見るとそれは「先手必勝」の一念で常に先走っているからである事が判ります。

        例えば「悪魔的技術の代表格」とも言える「核兵器(原子爆弾)」などは、まさに先走りの結果です。本来の「核エネルギー」とは、「安全な内燃機関」として提供されるべきものであって、別に1945年に「爆弾」として使用される必要も、その後に続く「不安定で危険と隣り合わせの原発」として(急ぎ)使用される必要も(結果的には)なかった事がすでに判明しています。

         

        また、その後の日本の「高度成長期」に於ける「公害、環境汚染問題」も、先走りの結果であって、川を汚し海を汚し土壌を汚せばどうなるかぐらいは小学生でもわかるほどの「愚かしい行為」でした。現在の様にただ「汚染物質をそのまま垂れ流さない対策」を並行して行なうだけで良かったはずですし、「そんなまどろっこしいことはしなくていい」などと国民が言った訳でも有りません。(でも誰かがそう言ったのです。)

         

        実はここまでの話は前置きで、これからが本番なのです。

        今朝は少し「ビットコイン」などのいわゆる「仮想通貨」の勉強をしていました。これは海外では「暗号通貨」という概念だそうですが、その大きな特長として(通貨と違い)「発行者や中央管理者がいない」にも関わらず(通貨と同様に)流通させることが出来るという事があるそうです。つまり(インターネットと同様に)「合意のもとに広く利用されている実績そのものが信用の根拠」となり得るものだそうです。

        しかも面白い事には、今更ながら「これは通貨か?モノか?」という判断が微妙となる側面があるようで、もし「モノ」として扱って良いなら「物々交換」即ち新たな「バーター制」の発想として展開可能と思えます。

        何故そこに食いつく必要があるかというと、通貨自体が物々交換から代用品の金銀、そして金本位制の通貨と、元々「物々交換」の発想でしかなかったものが突然「不換紙幣」で物との関係を失っておかしくなってしまった経緯があるからです。

         

        何でもグローバリストたちも「通貨のリセット」の必要上、「独自の仮想通貨」への移行を目論んでいるとの事ですが、正直これはうまく行かないと思います。何故ならそこには、例の「先手必勝」を狙った先出し感が感じられないからです。(専門家でないので論理的説明は出来ませんが。)

         

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:10 | comments(0) | - |
        人は「誰かを喜ばせる」ために生きている
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          「生きる目的」などと改めて言われると考え込んでしまうかも知れない人でも、「誰かを喜ばせようとして生きている」ことに間違い有りません。但し「それが誰であるか」は、人によって様々な違いが有るということだと思います。

           

          例えば「自分を喜ばせるため」と言ってしまえば身も蓋も有りませんが、それは本来は「誰かを喜ばせた結果、自分も嬉しい」という副次的な喜びであるはずのもので、もし人々が最初から「自分さえ喜べれば良い」とだけ思ってしまったら、世の中は人間同士の関係が希薄になって殺伐としてしまうに違い有りません。何故ならそこでは「人が喜ぼうが悲しもうが知ったこっちゃない」となってしまうからです。各々が「自己中心的」にものを考える社会とはそういうものです。一応「仕事としての社会的(公益的)行動」という形はあっても、そこでも単に「お金になればいい」だけの事であって、腹の底では互いに「相手のことはどうでもいい」といった心の通わない関係でしか有りません。

          このような社会では、やたらトラブルや事故が多いのが特徴と言えます。やること為すことに誠意が無く、心がこもらなければ当然です。(現在の日本社会もそれに近いものがありますが。)

           

          昔の日本人はよく「ご先祖様に申し開きが立たない」などと言葉し、また実際にそれを生き方の指針としていました。つまり「誰かを喜ばせる」という一番に「先祖代々」を掲げていたということです。

          また、信仰に集う敬虔な信者の場合、「神を喜ばせる」という目的を持つのがむしろ普通でしょう。

          良好な親子関係では、親は子どもが喜ぶ顔が見たいと思い、子どもは親を喜ばせたいと思うに違い有りません。

          他人に対してでも「親切」や「思いやり」「いたわり」の気持ちで接するのは、相手を喜ばせたい(悲しませたくない)からに他なりません。

          また、社会にある仕事のほとんどは、人を喜ばせる(人の為になる)主旨を持っています。

          つまり私たちは、既に「誰かを喜ばせる」という仕組みの中に生きているということです。後はそれを「どれだけ自分が活用出来るか」に掛かっており、逆にそれらを「自己満足」のためにだけ利用しようとする方がよっぽど不自然な生き方とならざるを得ません。(後ろめたさや屁理屈が付きまとうのはそのためです。)

           

          私たちは今一度「自分が誰を喜ばそうとしているのか」について考えて見た方が良いかも知れません。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:22 | comments(0) | - |
          「イギリスのEU離脱」で思うこと
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            テレビのワイドショーで「これについてどう思いますか」とコメントを求められた女性のコメンテーターが、いきなり「日本経済の影響がどうのこうの」と話し始めたのに違和感を禁じ得なかった。まずは当事国のイギリスと、影響を受けるEU諸国についてひと言ふた言あるべきではないのか?しかも日頃「国際政治に詳しい○○さん」と紹介されている人物であれば尚更だ。こういう人が日本人の民度を下げ、日本をミスリードする片棒を担いでいるのがよくわかる。(仮に台本通りに読まされているにしても責任に変わりはない。)

             

            また、このような各国のEU離脱への動きを「グローバリズム対ナショナリズム」のような対立構造とするのは結構だが、報道では一様に離脱派勢力の事を「極右勢力、極右政党」と報じているが、この認識は本当に正しいのだろうか。(それならイギリス国民の半数以上は「極右」となる。)

            これは最初からグローバリズムに対しては「無批判」とすることを前提として、「国家の枠組み」を守ろうとする姿勢のみを「矮小で視野の狭い極端な発想」と印象付ける事になるだろう。ハッキリ言えば「反グローバリズム」を悪者にしたいらしい。

             

            そうではなく、理想はともかくとして、現実のグローバリズムの問題点や誤りが浮き彫りになった結果に対する意思表示と捉える事は出來ないのだろうか。(例えばTPPに反対を唱えればそれだけで「極右」と言われるようなものだ。)

            だいたいからして遠い海外の国の「単なる自国の意思決定」が、日本経済の屋台骨を危うくする仕組み自体に甘んじている事が問題とは思わないのだろうか。それでは地球のどこかで何かが起きたら助けに行くどころではなく、「どこかで何かあったら全部終わり」という、まるで「核戦争」のような構図ではないか。

            グローバリズムも結構だが、それはあくまでも「自然発生的な共同体構想」である必要があると思う。もし現在のグローバリズムがそうでないのなら、傷が浅いうちに一度叩き壊して「自然な生成」を待つという手もある。

             

            とにかく「変なことは変」だし「おかしいことはおかしい」と思うべきです。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:10 | comments(0) | - |
            年は取りたくないもんじゃ?
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              嘗て「オリンピックは参加することに意義がある」と言われていた時代が有りました。(今は誰も言わなくなりましたが。)それと同じように「人間は長生きすることに意義がある」というのがあって、こちらの方は(特に論理的な検証が為されるでも無く)多くの人から当たり前のように受け入れられています。仮に「いや、そんなことはない」などと言おうものなら、「なんて不謹慎な!」「命の尊厳がわかってない!」などと、非難轟々(ひなんごうごう)となるかも知れません。

              しかし私は思うのですが、人間はただ「生きているという事実」に価値が有る訳ではなく、人として「やるべきことをやり果(おお)せる」事、もしくは「やるべきことに懸命(けんめい)する姿」にこそ「生きる価値」が有るように思えてなりません。ですから「生きる長さ」についても、その過程で「たまたま長かったり短かったりする」という程度の事としか思っていません。

               

              例えば私の場合、子どもの頃から「ある体質的な問題」を抱えていて、(当時の医療レベルでは改善も困難ということもあって)十代の終わり頃にはハッキリと「あと10年は生きられない」と自覚したものです。

              しかし二十歳(はたち)の終わり頃にたいへん幸運な巡り合わせのおかげで「命に対する本質的な不安」が払拭され、それまで自分の中に存在しなかった「数十年単位の人生」というものが突如として出現したのです。

              この喜びは(経験が無いと解らないかも知れませんが)何事にも代えがたいもので、その瞬間から私は人生を「宝物」として、文字通り「一分一秒たりとも無駄にしたくない」と思うようになりました。しかし同時に「どうせ最初から無かったものなので、たとえそれが5年でも10年でも一向に構わない」という気持ちでも有りました。

               

              その後の私の人生は、一言で表すと「身も心も出し惜しみしない」ということになります。つまりまるで「幼い子ども」と同じで、いつも全力疾走でした。ところが二十代の頃はまだ良いとしても、三十代、四十代と一貫してそうなものですから、とっくに「衰退期」に入っている体の方を相当に「酷使」する事になります。しかし、それを自分から気にする訳には行きません。何故ならそれは「手加減、さじ加減」と言って「ずるさ」と紙一重の発想だからです。ということで「倒れる」までは続け、「倒れてのち止(や)む」の通りに「倒れる事を以って限界とする」方式のまま六十を過ぎた現在に至っています。

               

              賢明な皆さんにはお解かり頂けることと思いますが、このような生き方をすると「体がボロボロになる」惧(おそ)れが有ります。実際「身体機能を長持ちさせようとか温存しようとか」とは無縁の生き方です。私など、ただでさえ身体機能全般が若い頃の半分程度まで低下しているところへもって部分的な故障により、一部機能では「わずか若い時の半分の能力を維持するために、更に3倍の努力とエネルギーを必要とする」状態と言って良いでしょう。つまり(部分的には)実質若い頃の6分の1まで身体能力が落ち込んでいるということです。

               

              「痛い、苦しいは生きている証拠」という話ではありますが、それは「痛みをおして通常の機能が維持できれば」という話であって、事が足りていないのに「自己満足」している場合では有りません。そういう時はさっさと若い人たちにポジションを明け渡すという選択肢だってあるのです。何故なら、私が今生きているのは未来永劫に自分が地上に君臨するためなどではなく、出来る限りよい形で次世代の人々に「人間という立場」を引き継いでもらうためだからです。

               

              そういう自分から見ると、「いつまでも若々しく」などと食事、運動、健康食品、滋養強壮剤、美容、美容整形など、老いに逆らうことに情熱を捧げる姿が不思議です。(それではいつまでも若い人と競り合う事になりはしないでしょうか。)

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:10 | comments(0) | - |
              年を取るとはどういうことか。
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                成長期の終わった人間にとって「年を取る」とは、問答無用に「体が劣化する」「身体機能が衰える」ということでしか有りません。当たり前の事です。人間は他の生き物に比べて寿命が長いので「長い安定期」みたいな時期があるようにも感じられるのでしょうが、寿命の短い生き物たちの場合は非常に顕著です。だから無駄な事は何一つせず、全力で生きてそして終わって行きます。

                 

                ところで、まだまだ成長過程にある「青少年」と大人(壮年、老年)の違いはと言うと、大人の場合、俗に言うところの「知識と経験」が若者よりも豊富というぐらいのもので、それを除けば「実務的」に見ていいところなど殆ど有りません。それは「実務」の大半が「身体機能」に依存しているためです。

                例えば約一世代分(20〜30年分)の「知識と経験」を大人が本気で若者に伝えようとし、若者が本気でそれを吸収しようとするなら、その目的は10年もあれば達成出来るでしょう。つまり遅くとも25〜30歳ぐらいの間には、若者は(実務的な)次世代の担い手としての成長を遂げる事が出来るということです。

                「いやあ、それじゃまだまだ青二才だろう」というのは(いつまでも立場に執着したい)大人の「希望的観測」に過ぎず、若者の吸収力を以ってすれば、それで十分です。

                 

                これまでは「身体機能に因んだ話」であって、私たちはそこは受け入れなければならないと思います。

                但し人間の構成要素はもちろん「身体機能」に限ったものだけではなく、人としての「心の価値や能力」もあって、これは年を重ねる事による「劣化、衰え」などは無いばかりか、むしろ生涯にわたってその価値を高めて行くことが出来るものです。

                しかし、ここで勘違いしてはならないのは、「心の価値は、それ単体で活用すべきものではなく、人との日常的、実務的関わり合いの中で添えられるもの」であるということです。ということは、それさえも「実務と共にその役割を終える可能性が高い」ということです。しかし先ほども申し上げた通り、それは生きている限り成長を続けるものであるからして晩年になればなるほどその輝きと影響力を増すことになるので、結果としてその人は「惜しまれつつ去って行く」事となるのです。(「惜しまれつつ」とは、決して慣用句や常套句では有りません。)

                 

                それが、あるべき「世代交代」の姿だと思っています。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:12 | comments(0) | - |
                役に立つ「馬鹿さ」と立たない「馬鹿さ」
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                  昨日は「若者は馬鹿さでがんばろう!」という話でしたが、そういうと勘違いをする人がいます。よく「○○馬鹿」などと言って、「馬鹿みたいにスポーツに打ち込んだり、学業に没頭したり」と、何かひとつの事に執着(しゅうちゃく)する事だと思っている人がいますが、これは違います。というか、へたをすると「本物の馬鹿」になってしまいます。(今の時代、そういう人間が珍しく有りません。)なぜなら「馬鹿(ばか→まじか)」の本来の意味は「自分の間近(まぢか)」を知らない、つまり「足元が見えていなくて危険な状態」ということだからです。

                   

                  なぜ「足元が見えない」あるいは「周りが見えない」ということが起こるのかと言うと、「自分の未来の夢」ばかりに目をうばわれて「それに関係の無い現実」を見ようとしないからです。自分の足元や周囲、または社会の現実というものは「客観的」なものですが、それを「主観(=自分の都合)」で勝手に無視したり軽視したりすることは、仮に何かひとつの事に秀でたとしても、全体としては大変バランスの悪い歪(ゆが)んだ感覚や考え方をもたらします。そういう人はいくら勉強が出来て頭が良くても「自分の足元も見えない本物の馬鹿」でしかなく、自分の行く末のみならず社会にも害悪を及ぼしかねません。(実際そういう大人たちが寄り集まって世の中を悪くしています。)

                   

                  「若さは馬鹿さ」とはそういう意味ではなく、「あらゆる事に全力を尽くす」「何事も匙加減(さじかげん)しない」「心にずるさを持たない」「物事に誠心誠意で臨む」などの事で、これらは良く考えれば、実は私たち人間が生まれて間もない0歳〜5歳くらいの間に「普通にやっていた事」なんですね。だから本当はそのまま大人になれば良いだけの話なのですが、なぜかその後の10年足らずの間に、「賢(かしこ)い」事と「ずるい」事を取り違えてしまって「安っぽい損得計算」にうつつを抜かすことで、人間本来の「童心」を忘れてしまう人が右にならえで圧倒的に増えてしまうのは、まことに残念な限りです。(それを教える大人が悪い!)

                   

                  私の経験上、普通に健康であれば30歳くらいまでは「若さは馬鹿さ」のままで全然OKです。個人差もあるでしょうが、私の場合50歳くらいまでは問題なくその感覚で行けました。さすがにその先は「体と相談」せざるを得なくなってきますが、おかげさまで心の方は今でも「子どもたちと同じ感覚」でいることができて、それが何より幸せに感じます。それと同時に私のような感覚や考え方の大人がもっともっと増えることを切に望んでいます。

                  | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 09:55 | comments(0) | - |
                  若さは馬鹿(ばか)さか?
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                    久々に青少年の方向けに記事を書いてみたいと思います。元々はそのつもりで立ち上げたブログでしたが、「大人たちが何とかならない事には子どもを救う手立てが無い」ということで、しばらく大人を対象として記事を書いてきましたが、やっぱり子どもは良いものです。(ほっとします。)ぜひとも今のきれいな精神のまま大人になって欲しいと思います。

                     

                    ところで「若さは馬鹿さ」というダジャレのような言葉が有ります。しかしこの「馬鹿」はあながち捨てたものでも有りません。これはたぶん「分別がない」とか「加減がわからない」という意味だと思いますが、では「分別や加減」は知っておいた方が良いのかというと、自分の経験上必ずしもそうとは言えません。

                     

                    例えば自分は若いころ「不死身」だと思っていました。少なくともそう言って自分に良く言い聞かせていました。「オレは死ぬまでは不死身だ。」といった感じです。本当に馬鹿みたいな話ですが、これの良いところは「自分のことを守ったりかばったりする必要がない」というところです。「不死身」なので当たり前です。そしてそれには「物事を何でもギリギリのところまでチャレンジする事ができる」というメリットが有ります。また、それによって「自分の本当の力と本当の限界」を同時に知ることもできます。(ただし、自分が倒れた後にですが。)

                     

                    若者にこのような「暴挙(=乱暴なやり方)」が許されるとすれば、それは「倒れてもすぐに立ち直れる」だけの生命力(=回復力)に満ち満ちている時期だからです。同じことを大人がやれば倒れるだけでは済まず、体を壊してしまったり、本当に命取りになったりします。「年寄りの冷や水」とはそういう例えです。

                    このように、せっかく人生の一時期にしかない「不死身の時期」を惜しみなく活用するかしないかで、その後の生き方が大きく方向付けられると考えられます。なぜなら「本当の限界を知ることは本当のバランスを知ること」だからです。本当のバランスとは「正しい分別や加減」のことですから、結局「若い時の馬鹿さが本物の分別や加減を知った大人を作る」と言えます。

                     

                    ところで若者が「馬鹿さ」を発揮しようとすると、迷惑がって知ったかぶりして上から目線でがたがた言う大人がいます。そうではなく、若い人の自発的なチャレンジは、その意味を理解しギリギリまでやらせてあげるのが大人の甲斐性というものです。仮に大人目線でやめさせたりすると、そのせいでその若者は「小粒で取るに足りないような大人」にしかなれないかも知れません。

                    そうなるとやはり「ダメな大人の無理解が子どもや若者をダメにする」ということになってしまいますが、ぜひ若いみなさんにはめげずおくせずがんばっていただきたいと思います。

                    | 青少年の味方の人 | 大人になるための大事なこと | 10:28 | comments(0) | - |
                    「優劣」と「平等」の関係
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                      人には「優劣」が有ります。それは単純に「能力差」が有るということで、まずそれは認めなければなりません。(但し、悪知恵や他人に危害を及ぼす類の能力の話は除外します。)そしてその「能力」が社会的に有用性が高いと認められるほど、「その能力の持ち主」は、社会で重用(ちょうよう)されるため、自ずと社会的に優位(=有利)な地位や立場が得られることとなり、それと同時に経済的にも厚遇されることとなります。そしてそれらは全て「能力があればこそ」の当然の結果と理解されることとなります。

                       

                      ところで一見正しい事が書いてある様に見える上の文章の内、実際に正しいのは「青字」の部分だけで、それに続く「赤字」部分は、すべて間違っています。何故なら「自由主義、民主主義、資本主義」などのお題目のもとに「自由競争」によって「能力別の仕分け」が行われた結果、「良い思い」をするのは10%にも満たない人々だけで、90%以上の人々は「能力がないので仕方がない」という卑屈な思いと、ひっ迫した暮らし向き、やり場の無い不満や憤りを安値の娯楽や酒で誤魔化しながら生きるしかないというのが現状だからです。

                      これらの人たちは「自由」とか「民主」とかといった「耳触りの良い響き」に誤魔化されて、あたかも現状の「人間仕分けシステム」を自分たちの意思で勝ち取った権利か何かの様に勘違いしているに違い有りません。だから「勝ち組、負け組」などという侮辱的な言葉を自ら用いて「しょうがないよ」などと変に納得しているのです。

                       

                      この際言っておきますが、「自由主義」も「自由競争という社会システム」も、私たち民衆が望んだものでは無く、「権力者たち」が統治に都合の良い仕組みとして社会にもたらしたものです。何故そう言えるかというと、もし私が権力者であったなら、必ずそうするであろうからです。

                      嘗ての様に社会が「階級制度」で成り立っていて、頂点に国王や皇帝のような「絶対君主」が君臨している限り、社会に内在する不満はすべて「絶対君主」や「権力構造」そのものに向けられ、それらは当然批判や攻撃の対象となります。しかし、表向き「国民主権」とすることで、それらの不満は「国民自身が負うべきもの」とされ、批判や攻撃さえも(うまくやれば)「国民相互の対立軸」として処理されます。つまり「権力者たち」は、一般人の振りをして「裏で糸を引いていれば良い」ということです。(その実質が権力支配である事に何ら変わりは有りません。)

                       

                      では「自由主義」でなければ「何主義」が良いかと言えば、社会であるからには「みんなで良くなろう」ということであれば、(厳密には理想型は有るにしろ)取り敢えずは何でも良いと思います。実際「社会の良し悪し」は「主義の問題ではなく思想(=人間性)の問題」だからです。例えば「封建制度」のもとでも「君主が名君」であれば、その社会は「良い社会」です。

                       

                      何れにせよ、今の社会の様に「優劣や能力差」が富の分配に直結するような考え方や仕組みは異常です。それも10段階以上のなだらかな曲線を持つ評価ならまだしも、狭き門を設定しておいて「優か劣の2段階」しかないような分け方をされれば、「どんな不正をしてでも喰い込んでやろう」とする人間が現れたとしても不思議では有りません。このような社会は「少数のエゴのために大多数が犠牲になる」という最も悪いパターンです。(不思議な事に今の日本人はこの仕組みを受け入れています。)

                       

                      そもそも人が集まって社会を形成する目的とは、それによって個々が「より生き易くなる」からに相違無く、だとすれば、すべての人に「生き易さを実感出来るだけの配分」が為されなければなりません。そのためには「偏りの無い平等な配分」がもっとも合理的で、目的を達成しやすいに決まっています。「能力給」云々の話は、あくまでも当初の社会目的が十分に達成された後に「余剰分をどうするか」と言うなら、まだわからないでも有りませんが、現実に社会の中に困っている人がいる中で言うべきことでは有りません。

                      実は「そのような冷酷な感覚」を排除するだけで、社会はものすごく良くなるものです。

                       

                      ということで、人間の「優劣」とは社会の平等性を何ら損なうものでは無いということです。逆に平等性を損なわせるような話は、すべてインチキだと思って良いでしょう。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:16 | comments(0) | - |