私たちはその昔、《敗戦》を機に日本に於いて「中央集権による全体主義国家」から「国民主権による民主主義国家」への転換が為された時、多くの国民はその事を(あくまでもイメージとして)「民衆がようやく自由を手にいれた」ような感覚で受け止めたのかも知れません。何故なら「自由主義」「自由競争」或いは主に「日本国憲法第十九条〜二十三条」で謳われている如くに、私たちの周囲には「自由」という言葉が宝石の様に散りばめられていたからです。
※日本国憲法全文はこちら→ http://www.jicl.jp/kenpou_all/kenpou.html
ところで改めて「民主主義=デモクラシー(democracy)」の語源を調べてみると、元々古代ギリシア語で「民衆+権力(支配)」だというのです。日本語では「国民主権」などと抵抗なく使われていますが、正確には「国民権力(支配)」というかなりイカツいイメージとなってしまいます。
ソースはこちら→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ギリシアでは後には「衆愚政治」の意味となってしまい、使われなくなったとまで書いてあり、あまり良い言葉のイメージではないようです。
私が問題だと思うのは、この「政治的主義主張」に関わらずまるで“風呂場のカビ”のようにどこまでも根を張ってこびりついている「権力」とか「支配」とかといった概念そのものです。
例えば「権力支配」が嫌で「革命」か何かで「君主制」を廃して「共和制」や「民主制」を選んでも、単に「役者が代わった」だけで「権力支配構造」自体がなくなる訳では有りません。にも関わらず、人々はどこかそれで納得してしまっているような向きが有ります。まるで「民主」とか「共和」という言葉の綾に騙されているかのようです。
こうした「権力や支配」の問題の根幹には必ず「支配者や権力者はイイ思いをする」という“不滅の法則”めいた「如何わしい不文律」が存在しますが、まずはそれを撤廃する必要が有ります。即ち「社会のリーダーや代表者を優遇する必要など一切ない」ということです。それらを選出する際に、最初にその条件でふるいにかければ良いだけのことです。
「そんなことをしたら、なり手がいなくなる」という声が聞こえてきそうですが、そんなことは有りません。実は現在の制度の「優遇や厚遇の甘い汁」に目の色を変えて鼻息の荒い人々が群がって来るために、そういう「清廉潔白で本当のリーダーシップを取れる人」の出番が回って来ないだけの話です。
例えば、親が自分の子どもを育てる時に「それによって親がオイシイ思いが出來ないなら、子育てなんてやってられない!」という話を社会通念として受け入れられるでしょうか。もしそういう主張をする人がいたら、その人は「親になる資格のない人」です。
社会のリーダーや代表者もそれと同じで、「社会に尽くす事とオイシイ思いとは、元々関係が無い」ということです。そして世の中に「まともな親」がいる限り、少なくとも同じ数だけの「権力や支配」という概念とは無縁で「オイシイ思い」に関心のない「適任者」がいると考えて間違い有りません。