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本日の「カレイドスコープ」が興味深い
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    以前よりリンク先にもさせて頂いている「カレイドスコープ」ですが、その本日の記事は(私とはアプローチの違いはあるにしても)たいへん興味深く、以下をクリックしてまずはご一読される事をお勧めします。

    http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4518.html

     

    細かい話になりますが、こちらの記事の中盤辺りに『その邪心を滅する方法として、祈りや宗教があるのですが、その教祖自身が「邪」である場合がほとんどであるので、自我を確立していない人は近づくべきではない、というのが私の考え方です。』という記述が見られます。

    私が「自我」という言葉を用いる時は、概ね「肉体的防衛本能に基づいた強すぎる自意識」という意味で使います。いわゆる「我が強く多分に自己中心的な思想」の元となる自己認識の在り方のことです。

     

    しかし「カレイドスコープ」さんの示される「自我の確立」とはそういう意味では無く、私流に言えば「理性感情に支えられた自意識」の事だと思います。「理性感情」とは、「理性(=霊的)と感情(=体的)の比率が7対3以上に保たれた理性的且つ安定的な精神状態」のことです。

    このように言葉というものは(本来は共通概念、共通認識が望ましいとは言え)文化的、学術的背景などによってニュアンスが変わるものですが、どのような流れの中で用いられているかでその主旨を理解し、「言葉そのものにこだわらない」事が肝要だと思います。

     

    ところで、私の経験上「霊的認識と理解を深め且つ体現する」ためには「自意識」は希薄であるに越した事はないのですが、そうした流れを作る過程の或る段階で「葛藤」に打ち勝つための「非常に強い自己認識」が要求されることが有ります。おそらく「カレイドスコープ」さんの文中に有る「自我の確立」とは、そのことを指しているかと思われ、だとすれば十分理に適った記述であると思います。

    それにおそらく「自意識が希薄」というイメージは、言葉の上ではなかなか正しく理解してもらえないはずで、せいぜい「認知症や薬物反応による放心状態」のように受け取られ、逆に誤解、曲解の元になる恐れが有ります。

     

    ただ「奥義」のひとつに「人間は所詮操り人形に過ぎない。どうせ操られるなら良いものに操られるべく心すべし」というものが有ります。もちろん「多くの段階をクリアして(霊的)資格と権利を得た後であればそれも可能」ということです。

    但しその見極めは「わかる人しか判らない」という性質のものなので、決して安易なイメージは持つべきではなく、それを思えば「(安易に)望むべきではなく、また(安易に)近付くべきではない」というのもある意味「正しい選択肢」と言えるのです。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:09 | comments(0) | - |
    もはや「数」で決する時代は終わっています。
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      満席であろうとガラ空きであろうと関係なく、沈む船は沈み、堕ちる飛行機は堕ちます。当たり前の事ですが「欠陥や故障や操作ミス」が結果するだけの事であって、「満席だから大丈夫」と考える人などいないと思います。

      また、「大船に乗ったつもりで」の比喩にあるように「大きい船だから大丈夫」というのも、ただ「横波に強い」という限定的なリスクに対する意味でしかなく、逆に「大き過ぎて行き届かない面」を考え合わせればリスクは似たようなものでしょう。

       

      それなのに、まるでそれが「正しい選択」でもあるかのように、人々が「多数派」と思われる方向へ吸い寄せられて行くのはいったいどうした事なのでしょうか?

      昔から「寄らば大樹の陰」という言葉が有りますが、そこで言う「大樹」と「多数派であること」は、全く意味が異なる事に気が付かないのでしょうか。

       

      実は自然界に於ける「大樹」は「絶対的な善」の象徴であって、そこには「困難をものともせず他者を護り、助け、育む自然界の調整者」としての生まれ持った使命感が有ります。即ち「一欠片のエゴも無いもの」、それが「大樹」の意味です。

      一方で「社会の多数派」は、己の損得勘定や利害の一致によってたまたま集まった「エゴイストの集団」である事も決して珍しく有りませんので、そこには自ずと「公平とか平等」などという概念も存在せず、単純な力関係とその場その場の都合しか存在しません。例えば「利用するだけして用が無くなれば容赦なく切り捨てる」などといった事も公然とまかり通る世界ですが、お互いが少なからずエゴイストであることを思えばそれも頷ける話です。

       

      それでも自分が「少数派」或いは「一個人」として「多数派と対峙」するよりはまだマシだという「悲壮な思い」で敢えて「多数派」に身を寄せるという考え方も有るかも知れませんが、(昔はいざ知らず)もはや現在はそのような時代では有りません。何故なら「多数派という体質の欠陥」が次々と露呈し、それこそ何時突然爆沈するかも知れない危うい状況だからです。つまり「多数派であることが何の安全保障にもならない時代」に既に突入してしまったのです。

       

      そもそも「エゴイスト」にとって「団結」とは自らの経済活動の一形態でしか有りませんので、「沈みゆく船と運命を共にする」義理など存在しません。まして「他人のエゴに付き合う」などもっての外(ほか)です。

      このようにして「強大な組織的エゴ」という如何にも「非論理的な幻想」は崩壊し、エゴイストとは単なる脆弱な個々人でしかない事を思い知ることとなるでしょう。(但しマインドコントロールから覚めない人たちは文字通り「船と運命を共にするでしょう。」)

       

      ということで、私たちは「多数派」という陳腐な幻想にとらわれる事なく、自らの意思と信念で明日の「都知事選投票日」に臨もうでは有りませんか。

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:06 | comments(0) | - |
      ダウン症で何が悪い!
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        相模原の障害者大量殺傷事件以来、論議を読んでいるのが容疑者の「障害者なんていらない」発言、というかその思想の是非についてだ。昨日も記事にしたように、現在の「政権与党」に属する議員諸氏を初めとして、(障害者に限らず)様々な対象に向けられた「差別発言」が、このところ跡を絶たない。それだけ多くの人間たちにとっては「(憲法で保証された)基本的人権の尊重」がお気に召さずに「うっぷんが溜まっている」ということだろう。それはそうだろう。人間が何のために(生かされ)生きているかもわからない「自己中心主義」に凝り固まった目で他人のことを「主観的」に見れば当然のことだ。

         

        しかし客観的に「どうすれば誰もが豊かで快適な社会にすることが出来るのか」を考えて見ればすぐにわかると思うのだが、それには「この世に自己中心な人がいなくなること」が一番であり、心ある人々はみんな「それを目指している」ということを、その人たちは知らない。何故なら、その人たちにとっては「人間は自己中心が当たり前であって、そうじゃない人がこの世にいるとは夢にも思わない」からだ。(実際「自己中心思想」の人と話して見ると、そういうニュアンスが色濃く伝わって来る。)

        繰り返すが、現実に社会の豊かさ、快適さを阻害しているのは「自己中心な人々」の考え方と行ないであることは間違いない。

         

        これは実話だが、或る妊婦が病院の定期検診で担当医に「胎児にダウン症の疑いが有る。」と告げられて頭の中が真っ白になり、家に飛んで帰ると青くなってその事を亭主に話した。そこで次回の検診は二人で連れ立って出掛けた。

        担当の女医はカルテを見ながら「あ〜、これは〜、すぐに羊水検査をした方がいいわね〜。」「心配ないわよ、そういう(堕胎する)病院もちゃんと紹介するし」などと夫婦に告げ、その口振りから「多分間違いない」とのニュアンスと共に、「これを発見した私はさすがね」という自画自賛すらも感じられた。

         

        うろたえ気味の女房をよそに亭主が言葉を発する。「先生、(診断確定のための)羊水検査ってのは、堕ろす時に必要なんですよね。」それを聞いた担当医は「そうですよ。」と怪訝そうに答える。この女医の頭の中には「胎児がダウン症と確定しても堕ろさず出産する」という選択肢は皆無の様だ。

         

        女医の機械的で無神経な態度に些か不快の念を覚えつつも、亭主が「ならば羊水検査の必要は有りません。羊膜を傷付けるリスクも避けたいですし」と告げると、女医は驚きの様子も露わに「アナタ何を言っているかわかってるの?ダウン症の子を育てることになるのよ?」などと、障害者に対する差別意識を露骨に口にするに至り、亭主は些か声を荒らげて万感の思いと共に言葉を返す。「ダウン症で何が悪い!あんなにキレイな心でいっしょうけんめい生きている人たちは他にいないだろう。」

        その一言で30歳前後の経験不足の女医は完全に「沈黙」してしまった。

         

        因みに「亭主」とは私のことです。生まれた娘はダウン症ではなく健常者としてスクスクと育っていますが、だからどうだということでは有りません。娘も私もただ自分の運命を全うすべく(与えられた全てに)全力を尽くすのみだということです。(ダウン症の人たちには到底及びませんが)

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:01 | comments(0) | - |
        相模原の障害者殺傷事件について
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          今回の痛ましい事件の背後にある主な要因のひとつに「障害者に対する差別意識」が存在する事は間違い有りません。しかし誤解を恐れずに言うならば、差別意識そのものは社会の多くの人々の心の内に存在するものと見た方が、むしろ問題の本質に近づく事が出来るように思います。何故なら「差別意識」というものは、ある特定の思想のもとでは「論理的且つ合理性が有る」ものと認識されるに違いないからです。そしてそうした場合に限って言えば、「差別」そのものを問題視しても殆ど効果は無く、差別を正当化出来るような「特定の思想そのものに欠陥が有る」ことの論拠を明らかにしない限り、決して差別はなくならないと思われます。

           

          例えば今回の場合、容疑者は(証言に依れば)常日頃「世界平和や人々の幸福」を口にしながら凶行に及んでいることから、「差別に対する一定の合理性」を見出しており、それに基づいた行為を「社会的救済」と認識しているようです。こうなると「カルト的宗教思想」と殆ど区別が付かなくなりますが、そうした「合理性の元となる思想」とはいったい如何なるものでしょうか。

           

          それは「物事の全てを物理的因果関係のみで判断し、そこから自身の行動を導き出そうとする思想(=唯物思想)」であり、これは頭の良し悪しには関係なく、むしろ頭の良い者ほど先々の類推、憶測が可能となるため、その傾向が顕著となるでしょう。そしてその「唯物的合理性」を以ってすれば、(障害者に限らず)社会に於いて「生産性に乏しく消費に明け暮れる存在」自体がが如何にも不合理で「健全な社会の成長を阻害している」と映るのは当然の帰結と言えるでしょう。

          このように「唯物思想」とは、神のように人間を超越した目に見えない存在を信じる、信じないに関わらず、発想そのものが「物理的因果関係」のみで成り立っているもの全てを含みます。従ってカルト宗教や悪魔教などは紛れもない「唯物思想」と言えます。

           

          現代社会のコワいところは、社会全体の価値基準がこの「唯物思想」に染まりかけているところです。ですから「命の尊厳」とか「人間の尊厳」などと倫理的、道徳的に説いてみたところで、そこに何ら「重み」を感じません。何故なら、そう言葉する人自体がその意味を良く理解出来ていないまま、ただ「おまじない」のように唱えているに過ぎず、それではとてもそういった概念を社会全体に浸透させることなど出来ません。

          どうしてそうなるかと言えば、それらの概念は端から「唯物思想」の外に存在しているものだからです。

           

          このように問題の本質に「誤った因果関係の認識」がある限り、社会からこの手の事件を一掃する事はおろか、歯止めを掛ける事すらも困難だと思います。むしろ格差社会による社会情勢の悪化に伴い、余裕を失った人々の矛先は「生産性を持たない人々の存在」自体に一層向けられるようになるかも知れません。その場合(執拗なマインドコントロールの甲斐あってか)何故か「格差社会を目論む人々」の方には向けられません。

          それはともかくとして、今最も必要且つ重要とされる事は、(当面の緊急対策を除けば)人々の「誤った因果関係の認識を正す事」に違い有りません。

           

          ところで多くの人々が薄々感付いている如く、人間そのものは「霊と体の複合構造」で成り立っています。(そうでなければ「成仏」などという概念自体が無意味になります。)それと同じように、この世の中は「霊的構造」と「物質的構造」という「複合構造」で成り立っています。しかもこの2つの構成要素は決定的な法則のもとに関連付けられており、それが即ち「霊主体従の法則」です。何故「霊主」なのかと言えば、それは「創り主」自体が「霊的構造」に属するからとしか言いようが有りません。

           

          この「霊主体従の法則」の存在により、まずあらゆる物事の原因は「霊的構造」の中で「霊的意味付け」によって生み出される事になります。つまりそれがものの起こり(スタート)です。そしてそれが(必要に応じて)「物質構造」に波及した結果が人々が目にする事の出来る「見かけ上の原因」となりますが、本当の原因は「霊的構造」の中に存在するため、目に映る部分だけで正しい「因果関係」を理解することは構造上不可能なのです。(実際この時点で多くの人々が過ちを犯します。)

           

          もし「霊的構造」に端を発する「本当の因果関係」を理解し、それに基づいて行動することを欲するならば、「人間性」を磨き高めるしか有りません。「人間性」とは、その人の「心の価値」の別名ですが、「霊的構造」に属するため「正しい因果関係」や「事象の本当の意味」などを理解する能力として働かせる事が出来るようになっています。

          ですから例えば「障害者として生きる意味」「介護者として生きる意味」「障害者と共に成長する社会の意味」などは全て、「高い人間性」を以って完全に理解出来る仕組みになっています。

           

          それに「他人を差別する思想や心」を持っていること自体が、逆に言えば「十分に差別の対象となるほどの致命的な欠陥」であるという事実にいち早く気付くべきではないかと思います。そうでなくとも、それは自分の運命にとって「良い因」とは決してならないでしょう。

           

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:18 | comments(0) | - |
          今日はNHKに行ってきました。
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            皆さんは多分ご存じないかも知れませんが、視聴者にとっての「NHKの窓口」とされている「NHKふれあいセンター」は、実はNHKではなく「NHKの委託業者」のひとつに過ぎません。よってその対応は当然の如く「通り一遍」なものでしかなく、そこには知識、責任、権限の何れも存在せず、とても「視聴者の受け皿」となれるようなシロものでは有りません。(それを承知でそのような仕組みを設けているNHKのこずるい奸計が透けて見えます。)

            そのため私は「NHKに対する意見や要望、或いは受信料に関する苦情、相談」などは、必ず正規のNHK職員の耳に届けるべく最寄りの営業所(営業センター)にアポを取った上で、こちらから出向いて1時間以上掛けてしっかり伝えるようにしています。

            そして対応してくれた職員個人にまだ「良心のかけらが残っている」と感じれば、対価としてではなく「期待値」として「受信料の全額」を支払います。その後、相手の人が「自分の良心とどういう向き合い方をするか」は、正直私の知ったことでは有りません。しかし唯一言えることは、私には「それ以上のこともそれ以下のことも出來ない」ということです。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 18:09 | comments(0) | - |
            「国家」と「国民」は二者択一
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              国民が主権者と定められ、「国家が国民の為を行なう」のが「民主主義国家」であるのに対して、国家が権力を行使し、「国家の繁栄を目的として国民が国家の為を行なう」のが「国家主義(全体主義)」だと思います。

              物の考え方としては、「民主主義」では「国民が豊かであれば国家も自ずと繁栄する」のに対して、「国家主義」では「国家が繁栄すれば自ずと国民も豊かになる」ということで、一見するとどちらも「同じ結果に対する単なるアプローチの違い」のように思えてしまいますが、実はそれは「とんでもない思い違い」です。

               

              何故そんな思い違いが起きるかというと、「国家」という言葉(概念)を「そのような枠とか器(=家)」扱いし、「国家と国民」の関係を「家と人間」のように錯覚しているためと思われます。

              例えば「みんなで堅固で難攻不落の城塞(=国民の家)を作ろう」という発想をあたかも「国家主義」のようにイメージするなら、あながち間違いとも思えなくなるでしょう。そして「そのように国民全体に有益な改革を進めて行くためには、もっと国民に国家意識が広く浸透する必要がある」と言われれば「それもそうかな」ぐらいに思えて来ます。

              実際に現政権が推し進める「改憲」の手始めとされている「緊急事態条項」では、「国民の生活と安全を守る為の鉄壁の仕組みを作ろう」というスローガンが用いられているはずです。

               

              このような一見正論を装う「国家主義的発想の決定的な誤り」とは何でしょうか。

              それは彼らのイメージする「国家」が「国民の家」などでは決して無く、「国家と称する少人数の特定の人間たちのグループに過ぎない」という事です。

              近年ではよく「1対99」という表現が用いられますが、それで言うと「国家」とは「国民の僅か1パーセントの特権階級」を表し、対して「国民」とは「残りの99パーセントの人々」を意味することになります。

              つまり現状に於ける「国家と国民」とは、利害の相反する「1パーセントの特権階級と99パーセントの普通の人々」のように理解しない限り、その関係性も、何をどうするべきかも皆目見当が付かないということです。

               

              例えば「国家の資産」とは「特権階級の人々」にとっては「自分たちの資産(という意識)」ですから、「99パーセントの人々のために有効に活用しよう」などと思うはずも無く、国が(本当の意味での)社会福祉や子育て、教育、医療、復興支援など、弱者救済に積極的でないのはむしろ当然のことです。

              故に、今の日本国憲法によってまだ「国民(=99パーセント)主権」が明確に保証されている間に、私たちは「大いなる危機感」を以って「国家か国民かの二者択一」を迫られている事実をしっかりと認識すべきだと思います。

               

              因みに現状で「国家主義」を選択して「改憲(=憲法改悪)」に加担すれば、「99パーセントの国民の期待は(孫子の代まで)100パーセント踏みにじられる」でしょう。その理由は先に述べた通り「(現行の)国家と国民は利害が相反する」からです。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:44 | comments(0) | - |
              世論調査の信憑性と弊害について
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                今朝のニュースで「都知事選候補者の支持率に対する世論調査」の結果が報道されていた。「前回に比べて・・・」と言っていたところを見ると、頻繁に行われているようである。この分ではおそらく「投票日直前」にも最新の調査結果が公表されるに相違ない。一説によればメディア各社を合わせると「4日に一回」というとてつもない高頻度で何らかの「世論調査」が実施されているとのことだ。

                 

                ところでこの「世論調査」の主流は「RDD方式」という「コンピューターで無作為に抽出された(とされる)固定電話」を対象に「主に昼間の時間帯」に実施されるところから、その結果の「信憑性」が疑問視されて久しい。ちょっと想像力を働かせて見れば判ることだが、若い世代の固定電話の普及率、昼間に在宅率の高い年代層や職種などを考慮すれば、調査の結果に「一定の傾向や偏り」が生じても不思議ではない。つまり「RDD方式」自体が現状に即していない「誤った結果」を導き出す恐れがあるという事に加えて、現状では「その数字の正しさを実証する必要性に迫られていない」ことから、「目的に沿って意図的に数字を作り出す事も十分可能」と考えられる。

                 

                しかし「世論調査」はその「お手軽さ」に比して「政治、経済、社会全般に与える影響が余りにも大きい」と言わざるを得ない。取り分け「村八分という文化的背景のもと、多数派に流されやすい傾向の強い」日本では特にそうだ。つまり「為政者」にとっては「世論調査」の結果が自分たちの都合の良いものである限り、それを以って思いのほか楽に「大衆煽動」が可能となり、それによって政治の流れを自在にコントロールする事が出来るようになる。反対に万一「調査結果が為政者にとって思わしくない」ものだった場合は、その結果を改ざんさせるか、ただ「伏せておけば良い」だけの事だ。

                何れにせよ「世論調査」が公表されるタイミングには、政治的に「相応の理由(わけ)がある」と思わなければならない。

                 

                ところで今回のような「候補者の支持率なるものの世論調査の公表」が「選挙妨害」に当たらないのが不思議だ。そもそも「有権者の投票行動」は、「自らが最善と思う候補者に票を投じる」以外の要素は不要且つ邪道であるはずだ。だから文字通り「結果は蓋を開けてみるまで判らない」というのが正道であって、それを事前にいちいち「誰々が優勢」とか「誰々に決まりそう」とか、如何に調査結果とは言え、有権者にとっては「雑音」以外の何ものでもないはずだ。しかも気の弱い人間ならこの時点で「どうせ死に票だからやめよう」と、すっかりやる気を失ってしまうだろう。もちろん「報じる側」ではそうした心理的影響は承知しているはずで、だとすれば明らかに「特定の投票行動に対する牽制効果」を生じさせていることになり、「選挙妨害」だ。事実前回の参院選でも事前に「与党圧勝」などの風評を流し、一部有権者の投票行動に影響を与えた。

                 

                ともかく選挙期間中の「世論調査」と、投票日当日(時間終了前の)「出口調査」の公表は、どちらもその「信憑性」が問われるばかりか公平性という観点での「弊害」が大き過ぎるので、これ以上「悪意」を疑われたくないのであれば「大いに慎(つつし)むべき」だと思う。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:05 | comments(0) | - |
                安倍政権による露骨な「沖縄イジメ」の実態
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                  先の参院選で現行の沖縄担当大臣が落選、「反自民、反基地」の候補者が当選し、沖縄の民意により物の見事に敗北を喫した安倍政権が「ナメるなよ」と言わんばかりの報復的なタイミングで沖縄県東村高江に於ける米軍ヘリパッドの建設工事を再開、その際過剰とも思える500人もの機動隊を投入して反対する市民を力ずくで排除したという。

                   

                  ここでの問題は(市民側の弁護士によれば法的根拠がないとされる)強制排除、実力行使を恫喝的に行なう国(=政権)側の暴挙をある程度報じているのは地元紙(沖縄タイムスなど)のみで、テレビや全国紙などでは「工事再開」の事実を小さく報じているに過ぎず、これでは多くの人々は「あっ、そう」としか思えないばかりか、ヘタをすると記憶にさえ留まらないかも知れない。

                   

                  これは政府を初め「日本国民の多くの人々が沖縄の人々を日本人扱いしていない」という動かぬ証拠であろうと思う。普通ならヤクザでも犯罪者でもない一般市民が警察によって暴力的に排除されればそれだけで大問題となり、ニュースで大きく取り上げられるに違いないからである。

                  因みにこの一件については以下の記事で生々しく報じられている。

                   

                  http://lite-ra.com/2016/07/post-2439.html

                   

                  http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20160723-00060291/

                   

                  ところで今回のような事があると、あることに気付かされる。例えば嘗てヒトラー率いるナチ党がドイツを席巻した折にも、ドイツ国民はヒトラーの演説やナチ党の行動力に魅了され熱狂したとされているが、一部には確かにそのような(ビジュアル的)要素があったにせよ、その実態は「異常な情報統制」によって人々の意思の流れを遮断することによる「各個分断、各個撃破」が基本ではなかったのかということだ。つまり「反対勢力を結集、団結させないこと」にエネルギーを注ぎ込み、孤立化、脆弱化させた上で効率的に叩くことで一気に流れを作る「電撃作戦」さながらの戦法である。

                   

                  現に沖縄問題は「日本全体の問題」とされず、孤立化、矮小化され叩かれている。そして気が付けば(沖縄に限らず)日本全国津々浦々のあらゆるシーンでそれと同じことが起こりつつある、というより実際に起きている。例えば「レッテル貼り」などでは、レッテルを貼られるのは気持ちのいいものではないので、多くの者がそれを避けようとすれば「貼られた者」だけが自ずと孤立化する。そこを叩かれ潰される。

                  何とも卑劣な手段だが「それが政治というものですよ。」などとうそぶく。バカヤロー、違うだろ!というしかない。

                   

                  しかし本当に悪いのは、目先の保身のためにそんな分かりきった「イジメや嫌がらせ」に面白いように反応し萎縮して何食わぬ顔でトボケて生きている連中だ。そんなに自分の将来はおろか、自分の子や孫の将来までもどうでもいいと思えるのが不思議だ。人間とはそんなものではないはずだ。従って我々は今、まさに「自分が人間であるかどうか」を試されているとしか思えない。

                   

                  私は最期まで人間らしく生きたいと思います。あなたはどうしますか?

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:01 | comments(0) | - |
                  過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し
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                    これは「度が過ぎることは足りないことと同じくらい良くない、または害になる」ということを意味する格言ですが、昨今の人々の生き様を見る限り「社会を挙げて完全無視」を決め込んでいるかの様です。そして人々が「そうせざるを得なくなる」理由は「資本主義経済」と「競争社会」によって定義付けられていますが、更に元を正せば単なる「我欲」に過ぎません。何故ならどのような社会体制の中に合っても人として「節度を保つこと」は可能だからです。(そのような人たちが例え少数派であっても。)ただ、今の社会システムに於いては「我欲を出してもいいよ」と言われているようなものなので「出したい人が出している」という状況です。

                     

                    ということで、まず日本の多くの人々は「食べ過ぎ」「飲み過ぎ」を初めとして「買い過ぎ」「仕事し過ぎ」「遊び過ぎ」「旅行行き過ぎ」「ゲームやり過ぎ」「勉強し過ぎ」「習い事やり過ぎ」「情報入れ過ぎ」「病院行き過ぎ」「薬飲み過ぎ」「しゃべり過ぎ」「考え過ぎ」「考えなさ過ぎ」「気にし過ぎ「気にしなさ過ぎ」「寝過ぎ」「寝なさ過ぎ」「金使い過ぎ」「欲しがり過ぎ」「欲の皮ツッパリ過ぎ」など際限なくバランスの悪い日常を受け入れています。

                    例えば前述のような行き過ぎた「思いっきり健康に良くない生活を送りながら、足繁く病院に通い、薬を愛飲する」とか「悪条件の労働環境の中必死に稼いだお金を、惜しげもなく旅行やレジャー、ショッピングで使い果たす」などを見ると、どうしてもっと「効率的な程々のバランスの良い生き方」をしようと思わないのか不思議です。

                     

                    そこには「物質的に満たされる(=満足する)ことが生きる目的であるという錯覚」が働いているように思います。なぜそれが「錯覚」かというと、「満たされる」という状態自体が既に「過ぎたる」状態に他ならないからです。物事に於いて「適度(快適)」というのは、何事に依らず常に「一定のマージン」が確保された状態を指します。つまり「満たす為に食べる」のでなく「動く(=生きる)為に食べる」のであれば、そういう食べ方しか出來ないはずなのです。ですから(健康を害する)「満腹」を求める人は必然的に「食べることが生きる目的にすら適っていない」という理解不能な状態に陥ることになります。

                     

                    「資本主義経済」の世の中が(経済発展と称して)消費者に対し「行き過ぎた消費」「不要な消費」を促すのはむしろ当然です。しかしそのような「現状の社会システムに対する是非」も含めて、言われるがまま「過ぎたる状態」を受け入れ負のスパイラルに陥るか、それとも「目的に応じた快適でバランスの良い生き方」を目指すかは、あくまでも私たち次第だということです。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:25 | comments(0) | - |
                    「公共」という概念のすり替えに注意!
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                      理由は定かでは有りませんが(ブログの管理データによると)、毎月当ブログにアクセスするための「検索語句」の50%以上は「公共」に関するものです。(例えば「公共の精神とは」など。)しかし果たして「公共」とは人々にとってそれほど理解に苦慮し、答えを探しあぐねなければならないものなのでしょうか?

                       

                      現行の日本国憲法では、その「前文」及び「第一条」に「日本国民(全員)が主権者」であることが明記されています。それは同時に「それを超越する他の権力者や支配者」が存在しないことを表しています。その事を前提に「個人」の反対語としての「公共」をイメージして見れば、答えは明白です。

                      即ち「公共」とは「個人的所有物とその管理」に対する「みんなの共有物とその共同管理」の事であって、それ以上でもそれ以下でもないという事です。

                       

                      例えば「公共機関」としての「役所」「警察」「消防」などは、日本国憲法のもとでは「主権者である国民により委託された業務を行なうための国民の共有物」であり、「国民の税金による共同管理」が為されている事になります。ですから戦後、現行憲法が制定されてしばらくの間は、その事を広く国民に知らしめるために「公僕(=公務員)」という言葉が一般的に広く用いられていました。

                      つまり現行憲法に忠実であれば「公共」の(辞書的意味に於ける)「おおやけ=お上(かみ)=上位の存在」という概念は含まれていない事になります。何故なら既に「権力の最上位に国民が置かれている」からです。

                       

                      ところが世の中には(過去の反省に基づく)現行憲法の「(国民主権の概念によって)権力を広く分散させる事により、権力の一極集中を防ぐ仕組み」自体を快く思わない人々が(全体から見れば少数ながらも)存在する事は事実です。それはもちろん「権力を手中に収めたい人々」であり、あの手この手の「不正な手段」例えば「憲法の歪曲や拡大解釈」「買収や恫喝」「捏造や隠蔽」「嘘やデマによる大衆煽動」など、ほとんど「権力を独占し行使する」ためには何でもなり振り構わず何でもやります。(ハッキリ言って現政権がその典型です。)

                       

                      そのようなおぞましい考え方を持つ人々が「目の敵」にしているのが「国民主権のもとでの公共」の概念です。何故なら、現行憲法のもとでは自分たちは「一介の公僕」であり、決して「権力者」にはなれないからです。

                      そこで彼らは「公共の概念のすり替え」を行ないます。それはあらゆる教育の場、啓蒙活動の場で繰り返し行われています。その結果人々は以下のように思わせられるようになります。

                      「公共とは全体の利益を優先するために個人を制限すること」

                       

                      これは一見正しいようにも見えますが、2つの大きな落とし穴が有ります。

                      ひとつは、ここで言う「全体」が必ずしも「主権者である国民の総意」とは限らず、むしろ「少数の権力者の意向」とすり替えられている可能性を排除出來ないこと。

                      もうひとつは、事と次第によっては「限りなく個人に制限が掛けられてしまう」可能性を否定出來ないこと。

                      つまり「公共=個人の制限」という考え方は明らかな「すり替え」であって、根本的に「国民主権」にそぐわないということです。

                       

                      そうではなく「公共」とはあくまでも「個人で所有、管理」するよりも、より合理的で利便性が高く、快適な社会生活を国民一人ひとりが送るための「ツール」であるはずです。公共交通機関、公共施設、公共設備など、みんなそういう意味合いのものです。(現在「公共放送」のみ脱落中。ガンバレ、根性見せろよNHK!)

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:43 | comments(0) | - |
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