以前よりリンク先にもさせて頂いている「カレイドスコープ」ですが、その本日の記事は(私とはアプローチの違いはあるにしても)たいへん興味深く、以下をクリックしてまずはご一読される事をお勧めします。
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4518.html
細かい話になりますが、こちらの記事の中盤辺りに『その邪心を滅する方法として、祈りや宗教があるのですが、その教祖自身が「邪」である場合がほとんどであるので、自我を確立していない人は近づくべきではない、というのが私の考え方です。』という記述が見られます。
私が「自我」という言葉を用いる時は、概ね「肉体的防衛本能に基づいた強すぎる自意識」という意味で使います。いわゆる「我が強く多分に自己中心的な思想」の元となる自己認識の在り方のことです。
しかし「カレイドスコープ」さんの示される「自我の確立」とはそういう意味では無く、私流に言えば「理性感情に支えられた自意識」の事だと思います。「理性感情」とは、「理性(=霊的)と感情(=体的)の比率が7対3以上に保たれた理性的且つ安定的な精神状態」のことです。
このように言葉というものは(本来は共通概念、共通認識が望ましいとは言え)文化的、学術的背景などによってニュアンスが変わるものですが、どのような流れの中で用いられているかでその主旨を理解し、「言葉そのものにこだわらない」事が肝要だと思います。
ところで、私の経験上「霊的認識と理解を深め且つ体現する」ためには「自意識」は希薄であるに越した事はないのですが、そうした流れを作る過程の或る段階で「葛藤」に打ち勝つための「非常に強い自己認識」が要求されることが有ります。おそらく「カレイドスコープ」さんの文中に有る「自我の確立」とは、そのことを指しているかと思われ、だとすれば十分理に適った記述であると思います。
それにおそらく「自意識が希薄」というイメージは、言葉の上ではなかなか正しく理解してもらえないはずで、せいぜい「認知症や薬物反応による放心状態」のように受け取られ、逆に誤解、曲解の元になる恐れが有ります。
ただ「奥義」のひとつに「人間は所詮操り人形に過ぎない。どうせ操られるなら良いものに操られるべく心すべし」というものが有ります。もちろん「多くの段階をクリアして(霊的)資格と権利を得た後であればそれも可能」ということです。
但しその見極めは「わかる人しか判らない」という性質のものなので、決して安易なイメージは持つべきではなく、それを思えば「(安易に)望むべきではなく、また(安易に)近付くべきではない」というのもある意味「正しい選択肢」と言えるのです。