青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「子どもが死ぬ」ということ
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    「子どもの命が断たれる」ことには、誰しも一様に深い悲しみを感じると共に、その余りの理不尽さに憤りさえ覚えると思います。それが身近な話であれば当然ですが、例えテレビのニュースで知った話でも、同様に思えるでしょう。それは「子どもは死んではいけない」「それは間違ったことだ」という明確な認識の表れだと思います。

     

    しかし、私たちのそういう気持ちに反して、世の中では「事件、事故、災害、病気」など(一定の割合で)「子どもが死ぬ」ということは起きています。特にその死が悲しく切ないのは、「(良いも悪いも無く)殆どまだ何もしていないのに」「いったい何のために生まれて来たのかわからない」或いは「こんな良い子がどうして」と、その「無慈悲な死」の意味さえ判らず、疑問が尽きないためだと思われます。

     

    ところが、あらゆる人間の生死を司るのが「霊界」だとするなら、どのような人の「死」も、それが例え子どもであっても「原因結果の法則」或いは「因果応報」という仕組みのもとに「100%妥当な結果」であることを受け入れる必要があるということになります。もちろんそれは「回避するための適切な策を講ずれば死という結果は回避出来たことも含めて受け入れる」という意味になります。

     

    私たちにとって「子どもの死」というものは「ある種のタブー」とされているのかも知れません。そこでは「冷静な分析」よりもただ、ひたすら「感傷的」であることが正しいとされるのかも知れませんし、それを強く訴え掛けることで「子どもの死」自体を無くせると信じられているのかも知れません。

    しかし(繰り返しになりますが)、「人の死」とは例外無く(その時点での)「100%妥当な結果」であると認める時に、本当の意味で「二度と起こしたくない」という思いを適える為の進展を見る事が出来るように私には思えるのです。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:19 | comments(0) | - |
    「幸福論」に始まり、「幸福論」に終わる
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      「幸福」とは「基本的にお金や物を貯めこむことにより、お金や物の不自由を感じないで済むこと」と感じている人には、幾ら「そうではない」と言っても全く話が通じません。また(数は少ないでしょうが)「質素な生活」を旨とする人に、幾ら「それは常に不安と隣り合わせの生活であり、とても幸福とは言えない」と言っても、やはり同意は得られないでしょう。

      このように、人はみな「幸福でありたい」と思いつつ生きていながら、肝心な「幸福とは何か」という基本的なイメージが人によって大きく異なっていて、場合に依っては「真逆のもの」であったりします。

       

      しかしこの「幸福とは何か」という話は、実は突き詰めれば「人間とは何か」という問いの答えによって「自動的に導き出される」性格のものです。そして当の「人間とは何か」に対する論理的な答えは、実は一つしか有りません。それは例えば「ライオンとは何か」「キリンとは何か」に対する答えと同様に、「論理的な答えでなければ意味を為さない」ということです。

       

      ところで私たちは自身が人間でありながら「人間とは何か」に対する理解度となると、0パーセントから100パーセントの間で人によって大きな差異が生じているのが現状で、そのことが世の中に「様々な幸福論」が存在する理由となっています。繰り返しますが「理解度が共通であれば、幸福のイメージもみな共通となる」ということです。

      また「生きる環境」によって「幸福のイメージ」が左右されるという考え方も正しく有りません。何故なら「生きる環境」によって「人間とは何か」という本質が変わるはずも無いからです。

       

      一般的に「幸福感(=至福感)」というものは「充たされる」という感覚によってもたらされますが、大きくは「精神的(=心の)充足感」と「物質的(=体の)充足感」に分かれます。

      この内「心の充足感」は非常に些細な因であっても大きな充足を得られる事が有り、また(受けた恩義を終生忘れないなど)永続性も非常に高いという特徴が有ります。

      対して「体の充足感」は(満腹感のような)一時的な「満足感」で終わることが多く、インパクトが強い半面「飽きる、慣れる」などの要因もあって「得難く失い易い」という特徴を持っています。

       

      「人間とは何か」を問い直す時に、「どのような幸福のイメージが、より人間らしいものであるか」は一目瞭然だと思います。しかし最も重要な問題は「その人の幸福論が、その人の末路を決定する」という事実にあると思う次第です。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:31 | comments(0) | - |
      もしも「神」が目に見えたなら
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        もしも「神」が目に見えたなら、世の中には「寄って行く人」と「遠ざかる人」の二通りしかいません。逆にもしも「悪魔」が目に見えたとしても、やはり「寄って行く人」と「遠ざかる人」の二通りしかいないでしょう。

        ところで、この両者は基本的にこの世に「善悪」の存在する事と共に、おぼろげながらもその「定義」を認知している事になります。何故なら「善悪」の存在を認める事そのものが「神と悪魔」の存在を認めている事になるからです。従ってこれらの人々は人生を「二者択一」とイメージするが故に、結果的に「寄るか遠ざかるか」という二通りに別れる事になります。

         

        それでは「無神論者」の場合はどうでしょうか。無神論にあってはまず「善悪の定義」は意味を為しません。当然ながら「徳や不徳」といった概念も存在せず、そこにあるのはただ「人智で計り知れる範囲での因果関係」や「経験によるバランス感覚」、はたまた「弱肉強食的論理」程度のいわゆる「合理主義」でしか有りません。更には「予測不能の事柄」に対しては、「マージンを大きめに取る」事で対処する事になるでしょう。例えば「飛行機は墜ちるかも知れないので乗らない」などです。

         

        しかし、ここにひとつの疑問が生じます。それは「無神論者」に取っては「自己中心」であることや「自己満足」を求めること、また世の中が「弱肉強食」で成り立つことなどに対して「抑制」を働かせる理由が見当たらない事です。これでは事情の許される限り「何をしてもいい」という事になってしまいます。しかももしそうであれば、それは積極的に「悪魔」を崇拝する人々と「何ら変わらないメンタリティ」ということです。

        つまり「無神論」とは「善悪」の双方を否定するものでは無く、結果的に「善のみが否定され、(図らずも)悪が肯定される」という意味では、悪魔的なトリックのひとつと考えることが出来ます。

        もし「神や悪魔」が目で見えた時、このような人々がいったいどういう行動に出るのか興味深いところです。

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:56 | comments(0) | - |
        「起こるべくして起こる」事件の数々
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          東松山市の河川敷での遺体遺棄事件、タレント高畑裕太の女性暴行傷害事件など、私にはみな「起こるべくして起こっている」様にしか思えず、その因果関係は明白で「なぜ?どうして?」などという疑問符の介在する要素はほぼ有りません。ただ、何れも殆ど10年も前から結果が判りそうな話であるにも関わらず、近親者を初めとする周囲や社会が全く「子どもの生育環境」に対する改善を試みようとしなかった事は残念としか言い様が有りません。この場合「努力した」というのは「嘘」になります。何故なら、もしそれが本当なら必ず「因果関係」に改善が見られたはずで、結果的に「痛ましい事件」が起きるはずが無いからです。

           

          こういう場合の物の考え方として「こちらは努力したけれど、相手には通じなかった」という話は「完全にボツ」です。凡そ「努力」というものは、努力対象に対してセンサーを張り巡らし「逐一効果の程を見極めながら行なうもの」であって、ただ一方的な思い込みで行なうものでは有りません。因みにそういうものは「努力」とは呼ばず「自己満足」と言います。

           

          特に子どもが親の思い通りにならない場合、親が子どもを愛せずに憎らしく思う事は良くあることです。それが子どもにとっての「最大の不幸」と言っても過言では有りません。しかし、それは基本的に「子どもの間違い」では無く、「子どもを親の思い通りにしようとする親の考え違い」なのです。子どもは「親のことを愛したい」のに、親に憎らしく思われては「子どもの立つ瀬」が有りません。だから絶対に親は「子どもを自分の都合に合わせよう」としてはならないのです。むしろ親が「子どもの都合にどこまで合わせられるか」を実践する時に、こどもは親を尊敬し、信頼し、無条件に愛する様になります。

          この際誤解の無いように言っておきますが、「子どもの都合」とは「わがまま」の事では無く、「子どもの持つ特質や特徴」の事で、当然一人ひとり違います。

           

          こうした「物の道理」を一切無視した「愛情ゼロ」の子育ての先には、親と子の双方を巻き込んだ「不幸な結末」しか有りません。それを「起こるべくして起こる事件」と言います。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:12 | comments(0) | - |
          白か黒か灰色か
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            物の価値観の考え方として「白か黒か」というのは解ります。更に白とも黒とも言えない場合に「灰色」というのも解ります。そして世の中には「白とか黒とか」と明確に言えるものは意外に少なく、ほとんどが「灰色」であるということも解ります。「だからそれでいいのだ」となるかと思いきや、実はそうは行かないのです。

             

            例えば「食品衛生上の観点」から言えば、異物や不純物が僅かでも混入していれば、当然その製品は「灰色」ではなく「黒」として廃棄処分される事になります。つまりそこでは「灰色」という概念自体が無い(=許されない)ということです。

            それと同じように「世の中の灰色」も、それが「白か黒か」と問われた場合には「黒」と言わざるを得ません。ただ「黒」の程度が中途半端なために「灰色」と感じられるだけで、決して「白」ではないということです。

             

            灰色が真っ黒になれない理由は、単純に「黒で押し通す自信」が無いからで、決して「白」の要素が多いからでは有りません。例えば「黒」には「黒であることのリスク」が付いて回り、世間の風当たりもそのひとつでしょう。それを避けるためにはどこかで人を騙し、他人の目を欺かなければなりません。そうした事が一定のバランス感覚を以って行われるため「灰色っぽく見える」に過ぎません。一見「真面目そう「勤勉そう」「明るそう」など、すべてそういうことです。つまりその人は「ズルい人」だということです。

             

            こうした「ズルい人」の不幸は、「極悪と言われる人たち」よりも更に「更生が難しい」事で、こうした「実質的には黒であるにも関わらず灰色に見える人」に限って、そう簡単には「白」には戻れないということです。

            ですから本当は「真っ黒じゃなく灰色で良かった」などと高をくくって喜んでいる場合ではないのです。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 12:53 | comments(0) | - |
            啓蒙または啓発から警報へ
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              このところ当ブログでは「消滅するレール上の列車」「沈没する船」などという表現で、一刻も早いそこからの離脱を呼び掛けています。これらの一貫したイメージの裏には「自滅サイクルによる内部崩壊」への危機感があります。そして私自身がその根拠とするのが、世の中で現実に起こっている「個人レベルや組織レベルでの自滅の実態」であって、それらは或る意味「原因に基づく結果として理に適ったもの」であるということです。

              これらの個々の事象、因果関係については、当ブログでも今まで幾多もの記事で解明に尽くしてきたつもりでは有りますが、一言で言うなら「今までの認識の仕方がおかしかった」だけの事で、今起きていること、そして今後起こるであろうことが「まともな物事の結果」であろうかと思われます。

               

              どうして今まで「まともな認識」が適わなかったのかと言えば、それは一般的に人々が「あまりにも短すぎる時間の単位でしか物事を捉えようとしなかった為」としか言い様が有りません。それは例えば「悪事」を働いたり「嘘」をついても、それがバレなければその行為が「成立した」と思い込む様なものです。つまり今後私たちの身に起こるであろう事は、「実は成立していなかった」という誰にでも判る(有無を言わせぬ)結果だということです。

              しかし「自らの行為が成立するかしないか」は、そのように長い時間を待つまでもなく、本当は「行為の直後に胸に去来する思い」によって判明しているのですが、「成立する」と信じたい人々の強い願望が「微かではあるが確かなその答え」を全て打ち消してしまうことがそもそもの発端となります。

              そのような人間の心の動きを「ずるさ」と言います。

               

              私は過去数十年にわたって「みんなで良くなる」ための、社会に対する「啓蒙や啓発」が必要と考えて来ましたが、今は「警報」が最優先されるものと考えています。実際の状況は既に個々のレベルで「間に合うか間に合わないかの瀬戸際」に来ていると思っています。一方で組織的なレベルでは既に多くは手遅れと思われます。それは大きな組織ほど機敏な対応が困難である事に起因します。

              それ故、今私たちに必要なイメージは「沈没する船から海へ飛び込み、消滅する列車から飛び降りること」によって、とにかく「個人レベルで生き延びること」だと言っている訳です。

               

              船や列車に護るだけの価値は有りません。また後で作り直せば良いだけのことです。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:56 | comments(0) | - |
              どんどん「影が薄くなっていく」人々
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                一般的に「影が薄い」と言えば、グループや集団の中で影響力(=存在感)が乏しく目立たなくなる事を言いますが、「霊的」な見地からすると少し違っていて、文字通り「影(=存在)」が希薄になることです。この際注意すべきは「存在感」では無く、「存在(=実体)」が希薄になると言うことですので、必ずしも直ちに社会的な「立場」を失ったり「影響力」を行使出来なくなるという意味とは限りません。但しそれは言い換えれば、より本質的で、より深刻な状況を表しています。

                 

                ところで今年になって、一部の人々の「影」が急激に薄くなっていく現象が見られます。見た目には大きな変化は感じられないかも知れませんが、何と表現すれば良いのか、まるで「精気」だけが急速に抜けて行くようです。これだけ振れ幅が大きいと、さすがに当人たちも「微かな自覚」を感じるかも知れません。そこで栄養ドリンクでも飲んで気合を入れ直そうとするかも知れませんが、もちろん何の効果も得られるはずも無く、前述のように「本質」を改めない限り、この現象を止める事は出来ません。

                 

                この「影が薄くなっていく」現象は、その人たちが現在「どのような軌道上にあるか」ということと関わりが有ります。人間は皆、自らの意思で様々な方向に向かって延びる幾多もの軌道(=敷設されたレール)の内、思想的、性格的、能力的に自らに合致していると思われる軌道に乗る事を希望し、また実際乗っていますが、問題はそのレールが「どこに向かっているのか」ということだと思います。

                 

                取り分け「霊界のセッティング」が完了してこの方、それまで無数に存在するものと信じられていた軌道の「絞り込み」が行われているようです。そしてその事は、今まで「未来に向かうもの」と信じられていたレールの内の幾つかが、近い将来「消滅」する事を意味します。しかしそれは何も唐突な事では無く、それらの大部分に於いてはその「論理的な整合性」が久しく疑われて来たことを思えば、それがただ「形となって表れたに過ぎない」とも言えるのです。

                 

                このように、現存するレールの多くが既に「消滅」し始めており、それに伴って世の中に変動が生じ、社会は変化を余儀なくされるでしょう。しかし直近の問題は、今現在そのレール上に在る人々です。あくまでもそのレールに執着するならば、「消滅するレールと運命を共にする」という事態も十分に考えられ、然らばその過程に於いて「急速に影が薄くなっていく」のはむしろ当然と思われます。

                 

                そのような深刻な事態を回避する唯一の方法は、一刻も早くそのレールを走る列車から飛び降り、消滅する軌道から少しでも遠ざかる事です。手遅れとならない内に。

                | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:10 | comments(0) | - |
                悪い影響を受けない為には
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                  自分の為にならない情報に触れない、或いは取り入れない事です。他人の様を見ていると、「いったいこの情報がこの人にとって何の役に立つのだろう?」と訝(いぶか)ざるを得ないことがよく有ります。また、何でもかんでも首を突っ込んで小言や文句を言っている人の大半は、「自分に関係の無い事」で憤りを覚えています。

                   

                  何故、人はこのように「自分にとって全くの無駄、或いは悪い影響を及ぼし兼ねない行為」に走るのでしょうか?

                  その答えは至極簡単で、「身の程」をわきまえない(=知らない)からです。何故か多くの人々の中に「実際の自分の価値以上に自分を高く評価する」という傾向が見られます。それを一言で「慢心」と言います。

                   

                  慢心の核となるものはもちろん「自我」ですが、それが「自己中心思想」を持つと必然的に「自己満足」を目的とした生き方となります。そのためには戦略的に「生存エリア拡大」が必須となりますが、そのため戦術的には「自己主張」を繰り返すこととなります。

                   

                  「自己主張」とは、己の価値とは無関係に他者との差別化を図ろうとする事です。何故なら、自らの価値が実際に「人の認めるところのもの」であれば、「自己主張」する必要すらないはずだからです。

                  つまり「自己主張」という目的のために、中身の伴わない「形ばかりの体裁」に捉われている内に、それが「自分の価値」であるかのように錯覚した状態を「慢心」と言います。

                   

                  「慢心」の一番怖いところは、自分の行為、行動が自らに与える影響を正しく評価出來ないというところです。

                  例えば人間の価値のひとつに、外部から入ってくる刺激や情報を、自分にとって必要か不要かの取捨選択を行なう「フィルター機能」が有ります。この働きは思想レベルによって左右されるため、思想レベルが低い場合には、フィルターに頼る以前に「刺激や情報そのものの流入を遮断する」必要があるにも関わらず、「慢心」があるとそのような処置を取ることが困難となり、結果的に悪い影響をダイレクトに受ける事がよく有ります。

                  つまり「慢心」は、自らの「精神的、身体的及び運命的ダメージ」に対する防御力を著しく弱め、非常に悪循環の起こりやすい「危うい状態」であるということです。

                   

                  このように人間にとって「自滅サイクル」となり得る恐ろしいものであり、また非常に起こりやすい「慢心」という現象を回避する為には、「自分はエラそうではない」という自覚だけではまったく不十分で、むしろ「自分は慢心しているかも知れない」という警戒感を自らの常態とするくらいがちょうど良いと思います。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:17 | comments(0) | - |
                  今年になって一層顕著になった事
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                    それは、これまでは罷(まか)り通っていたような「イイカゲン、インチキ、デタラメ」が、僅か数日後には炙りだされて通用しなくなるという事です。これはそうした見極めのテクノロジーが進歩したという事と共に、全体の流れがそうしたモノを「排除」する傾向に向かっているためと思われます。

                    その結果として(政治家やメディアなどの)建前を飾り立てるための「あらゆる嘘と不誠実」は実質的に意味を為さなくなり、吐いた言葉は片っ端から「裏の本音」が透けて見える状態となり、最早取り繕うことも不可能となりつつ有ります。

                     

                    これは多くの人々がそれらの「不誠実」に対して心に抱く「もううんざりだ」という気持ちが大きな流れに反映しているものとも考えられます。つまり、その先に「未来は無い」という明確な予感が、それとは別の流れをもたらしているという事です。そしてこの流れは最早止めようが有りません。何故なら、それは「正しい選択」だからです。この流れは一時的に多くの破壊と停滞をもたらすかも知れませんが、その覚悟さえ持てるなら、多くの人々にとってそれが「最良の選択」となるでしょう。

                     

                    また、それに伴って「誠実で実直であること」がこれまで以上に輝きを増して人々に求められ、受け入れられるようになるでしょう。「嘘や不誠実」の衰退と共に、それらは埋もれる事無く存在感を示す様になるはずです。

                    思えば「不正の疑われる選挙」では、開票前から大勢が判明している様子でしたが、今度ばかりは既に「蓋を開ける」前から「不誠実な人々」の明暗が判明しているというのは皮肉というしか有りません。

                    今後は「誠実であること」が万事明暗を分かつ事になるでしょう。

                     

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:06 | comments(0) | - |
                    例えば「ポケモンGO」という話
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                      「ポケモンGO」のせいで大人も子どもも深夜にところ構わず徘徊するようになり、今更ながら「あんなゲームを作るからだ」という話まで出て来る始末ですが、何も「ポケモンGO」に限った事ではなく、私にはいつもながら「物事の論点はそこではない」様に思えます。

                       

                      例えば、まず「スマホ」が出た時点で「持つか持たないか」という二択が有ります。何故かというと、電車の中で真剣な面持ちでスマホを操作している人が何をやっているのかと思ったら、ゲームかショッピングサイトの閲覧だったりして、それでは携帯電話の必要性とは異質の「単なる付加価値」としか思えないからです。

                       

                      次に「歩きスマホ」がその危険性から社会問題化した以降は、「歩きスマホをするかしないか」の二択が有ります。その時点で「歩きスマホ」を控える様になった人もいれば、依然「歩きスマホ」を継続している人もいます。その意味では「ポケモンGO」は基本的に「スマホ+歩きスマホ」の条件のもとでしか出來ないはずですので、既に「それに熱中出来る人の絞り込み」が事前に為されていた事になると思います。

                       

                      つまり「ポケモンGO」が出たからと言って、誰も彼もがやっている訳では無いということです。ということは、取り分け大人の場合、危険性や生活が不規則となり、多くの時間とエネルギーが浪費されるなどのリスクを承知で「自己責任」のもとで行なっていることになりますので、それはそれでいいでしょう。

                       

                      しかし子どもの場合はそうは行きません。何故なら「責任能力」が備わるまでは、大人が守ってあげなければならないからです。

                      その場合、「ポケモンGOだけはダメ」という話は余り意味を為さないと思います。その理由は先程も述べた様に、これは「スマホ+歩きスマホ」の延長線上に有るものと考えるべきだからです。

                       

                      そもそもスマホ自体が「ただ便利なだけの代物」では有りません。それは車やネットも良く効く薬も同様で、とかく便利な物には相応のリスクが付いて回ります。ただ販売する側の常として、敢えてそこを強調しないだけです。

                      つまり「子どもを様々なリスクから守る」ということは、まず大人がそれらのリスクについて十分に認識して置く必要が有るのは当然のこととして、更には大人が子どもの良い手本として行為、行動を持つ事が求められます。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:39 | comments(0) | - |
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