「子どもの命が断たれる」ことには、誰しも一様に深い悲しみを感じると共に、その余りの理不尽さに憤りさえ覚えると思います。それが身近な話であれば当然ですが、例えテレビのニュースで知った話でも、同様に思えるでしょう。それは「子どもは死んではいけない」「それは間違ったことだ」という明確な認識の表れだと思います。
しかし、私たちのそういう気持ちに反して、世の中では「事件、事故、災害、病気」など(一定の割合で)「子どもが死ぬ」ということは起きています。特にその死が悲しく切ないのは、「(良いも悪いも無く)殆どまだ何もしていないのに」「いったい何のために生まれて来たのかわからない」或いは「こんな良い子がどうして」と、その「無慈悲な死」の意味さえ判らず、疑問が尽きないためだと思われます。
ところが、あらゆる人間の生死を司るのが「霊界」だとするなら、どのような人の「死」も、それが例え子どもであっても「原因結果の法則」或いは「因果応報」という仕組みのもとに「100%妥当な結果」であることを受け入れる必要があるということになります。もちろんそれは「回避するための適切な策を講ずれば死という結果は回避出来たことも含めて受け入れる」という意味になります。
私たちにとって「子どもの死」というものは「ある種のタブー」とされているのかも知れません。そこでは「冷静な分析」よりもただ、ひたすら「感傷的」であることが正しいとされるのかも知れませんし、それを強く訴え掛けることで「子どもの死」自体を無くせると信じられているのかも知れません。
しかし(繰り返しになりますが)、「人の死」とは例外無く(その時点での)「100%妥当な結果」であると認める時に、本当の意味で「二度と起こしたくない」という思いを適える為の進展を見る事が出来るように私には思えるのです。