青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「狂気の時代」としか言いようがない
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    今朝のニュース番組で、(衆院TPP特別委員会理事を務める)自民党の福井照衆院議員が「この国会ではTPPの委員会で西川(公也)先生の思いを、強行採決という形で実現するよう頑張らせていただく。」とカメラの前で悪びれもせず誇らしげに語る映像を映し出されて 呆れ返ってしまった。しかも、なお悪いことには 、真意を記者団に問われて「この国会でどうしても採決したい、という総理の思いを申し上げたに過ぎない。」と、まるで「強行採決は(自分じゃなく)安倍総理の考えだ」と言わんばかりの弁解をしている。 何れにせよ審議前から「国会=強行採決有りき」という「完全におごり高ぶった風潮」が自民党に蔓延していると自ら吹聴している事に変わりは無い。

     

    この場合何が「狂気」に該当するかと言えば、世の中で多数派がおごりを持つことはよくある事として、問題はそれを「俺たちはおごっているぞ〜」「数の力で好き勝手してやるぞ〜」などと自ら声高に喧伝して疑問に思わない、というところだ。

    少なくとも物事には「建前」というものが有るのだから、「本音の部分の企み」は腹の中にしまっておいて、時が来るまで明かさないというのが成功率も高く、理に適っている。目的意識があれば尚更そうだ。が、昨今の国会議員には(そういう認識すら持てず)ただ「人前で威勢の良い啖呵を切ってスッキリしたい」だけの、ある意味「夢も希望もない」面々が多過ぎ、皮肉な事にその人材に事欠かない状況だ。

     

    これは何も国会議員だけの話ではなく、完全に社会現象化していて、その根幹には常に稚拙な「自己顕示欲」があるように思われる。しかし現実には「何でもいいから目立てばいい」という発想の先には「目立つ→叩かれる→落ちる→埋もれる」といった具合に、当人たちの最も恐れる「社会で埋もれる」結果しか論理的に有り得ない。

    「目立つ」とは本来「目立とうとして目立つ」ものではなく、「地道な努力に対して多くの人々の評価が得られた結果」でしかなく、求めるものでも拒むものでもない「完全に受動的なもの」であり、肝心な事は「中身がどうであるか」ということに尽きる。

     

    こんな当たり前の事をわざわざ文字に起こして発信しなければならないというのも本当に情け無い限りだが、すべてはここ半世紀余りに亘る「教育の誤り」の結果だと思う。即ち「複雑さ」に翻弄され、「シンプルな人間の基本」を疎かにし続けて来た結果として、必然的に「狂気の時代」がもたらされたということだ。

    となれば今、出来ることは一つしか無い。(他人はどうあれ)自分が「人間の基本」に立ち返って生き抜くことのみです。

     

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:33 | comments(0) | - |
    あれこれ思い悩むのは「間違い」です。
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      以前に「5秒で解る!」という記事を書きましたが、今日はそのことについて、少し角度を変えて掘り下げて見たいと思います。

       

      私たちは日常的に「物事は良く考えて行動する」のが正しいと思い込んでいますが、この「考える」という正確な意味は「計算と照合作業」の事であって、いわゆる「日常茶飯事」に於いてはほとんど無縁のものと言って良いでしょう。何故なら、慣れ親しんだ一連の生活行動に普通は「計算と照合」の必要性は無いからです。たまたま普段と違う要素が加わるとしても、行動を一から組み立て直す必要などは無く、いつもと違う部分の「わずかな誤差」の照合と修正だけなら、その判断にそれこそ「5秒」もあれば十分と言えます。

      つまり、私たちの日常は本来「考える要素」の極めて少ないはずのものであって、むしろ周囲に対してセンサーを働かせて「感じ取ることを主体とするべきもの」ということです。

       

      では「感じ取る」とはどういうことかと言うと、生活環境の中に於ける「普段と違う差異や不備の発見」によって、日常生活の「完成度」を高める意味を持つものと考えられます。ということは(逆説的に)日常生活の完成度(=クォリティ)を求めなければ敢えて「感じ取る」必要も無いことになりますが、但しその場合「予想される危険や障害」もすべて見過ごされ、放置されることとなるでしょう。

      その意味に於いて「感じ取る」とは、基本的に自分や周囲に対する「責任感」や「義務感」を根拠としている事が解ると思います。つまりそういう「心構え(=基本思想)」でさえあれば、(意識しなくても)センサーは自動的に働き、(必要に応じて)その都度「5秒以内の適切な判断」を交えながら全体として「平穏で快適かつ質の高い日常生活」を送る事が出来るような仕組みになっています。(質が高い=贅沢という意味では無くバランスが良いという意味です。)

       

      繰り返しますが「生きる」ということは、決して「考える」ことではなく、まして「思い悩む」ことでも有りません。日常生活でいちいち「考える」ことと「思い悩む」ことは非常に良く似ていて、どちらも「自己執着」に端を発するものです。「自己執着」とは自分を「がんじがらめに縛る」ものですから、そのために使われる時間とエネルギーはすべて無駄となり、物事が思うように進まないばかりか「疲労困憊の果てに何もかも嫌になる」という落ちが付きます。更にひどくなると、その事で他人に当り散らします。

      そういう仕組みが解れば「例え頼まれても持ちたくない」のが「自己執着」というものです。

      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:21 | comments(0) | - |
      見境を失った人々
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        すでに日本社会は「見境を失った人々」で溢れています。その様子はまさに「末期症状」と言って良いでしょう。何故ならその人たちは、もはや「自分を守る術(すべ)」すら失ってしまっているからです。そのような最中(さなか)にあっては自ら招いた「悪循環」の坂をひたすら転がり落ちるしかなく、最終的な時点で(運良く)まだ命があったとしたら、そこで初めて自分の過去を顧みる機会が与えられ、更に(運が良ければ)運命修復の機会が与えられるかも知れません。その可能性はゼロでは有りませんが、限りなくゼロに近いものにしてしまったのは明らかに失敗であり、(誰のせいでもない)その人自身の誤りです。

        ただ「人間死んだ気になれば何でも出来る」とも言います。私もそうしてやって来た関係上、再起は不可能では有りません。「ダメもと」でやってみる価値はあるでしょう。応援しますよ。

         

        さて、「見境が無くなる」とはどういう状態の事でしょうか。それは単純に「抑えが効かなくなる」また更には「抑えようとも思えなくなる」という事で、そもそも「理性」はおろか「合理的な思考」すら働かなくなり、結果的に「自己中心的な欲求」に裏打ちされた「稚拙で醜い感情」のままに行動してしまう状態の事と言って良いでしょう。その際特徴的な事は、「他者の立場や心情を斟酌する気持ちが限りなくゼロに近い」ということで、これはもはや実質「人間」と呼べないレベルと言えます。何故ならゾウやシマウマが群れを形成して生きるが如く、人間は社会を形成し他者と共存して生きる様にあらかじめデザインされており、その部分を含めて「人間」と呼称しているからです。そうでなければ(学術的に)「ヒト科ヒト目ヒト」でしかないはずです。

         

        現政権を初めとする昨今の政治家たちの呆れ果てた持論の展開振りや品格のない立ち居振る舞い、不祥事の数々は、まさに「箍(たが)が外れて見境を失った状態」そのものにしか見えません。NHKを初めマスコミの「ていたらく」は言うに及ばず、官僚の不祥事、警察の不祥事、学校の不祥事、病院の不祥事、企業の不祥事なども、みな「見境を失った人たち」の仕業です。

        また社会のあちらこちらで頻発する犯罪の数々も、「見境を失った人たち」による常軌を逸した奇怪な行動や衝動的な蛮行によるものが増大しています。

        このように日本社会に於ける「建前」と「実態」は物の見事に乖離してしまいました。本当に「まともなもの」を探すのに苦労するという現状だと思われます。

         

        最後に、人が「見境を失ってしまう」のは「追い詰められた結果」に過ぎませんが、それは「悪循環」によってもたらされたものです。それは当初「人間は自己中心でいいんだ」という軽い認識から始まります。そこには「みんながそうだから、そうじゃないと生きられない」というもっともらしい理由が付けられますが、そこで良く考えるべきだったのです。理屈はそうでも、そんな「自己中心のぶつかり合い、せめぎ合い」の社会が生きやすいはずが有りません。増してや社会の建前は曲がりなりにも「共存」であって「倫理」も「法律」もそれを否定するものではない事を踏まえるなら、そこで踏ん張るべきだったのです。少なくとも「悪循環」は始まらなかったのです。

         

        「見境を失った人々」は、周囲の「優柔不断な人々」をも巻き込んで、最終的には自らに致命傷を負わせます。一方で「健全な社会」を望み「他者との共存」に尽力する人々は、最終的に残る事となるでしょう。(乗り換えるなら今しか有りません。)

        | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:02 | comments(0) | - |
        安倍総理の「所信表明演説」について
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          昨今の安倍総理のパフォーマンスはどこか現実感に乏しく、まるで夢想の世界を体現しているかの様に感じられます。その言葉には(本当の部分がゼロとは申しませんが)かなり多くの「夢想や妄想の類」が含まれている様に思えてなりません。

          全文はこちら→ https://www.jimin.jp/news/parliament/133177.html

           

          例えば「現状認識」のために(さもわざとらしく)引き合いにされる具体例なども、まるで説得力の足しにもなっていない事をいっさい気に掛ける様子も無く、当人はすっかり悦に入っている様子です。また、以前より「嘘つき」と評される「言葉の実行性」の部分に於いても、もはや「嘘をついている」という自覚すら乏しく、「○○します」「○○致します」と、立て板に水の如く軽やかに連発しますが、どれも(実行性の根拠が何一つ示されないので)とても本気で考えているとは思えません。

          そのような兆候から、人間が「生身の人間を相手に示す態度」とは到底認め難く、むしろそこから「夢想の世界で夢の中の聴衆に向かってしゃべっている姿」に近いものを感じざるを得ません。

           

          ですから、今後は「安倍総理の言葉の嘘」をとやかく言う時期はとっくに過ぎていて、そうではなく「夢想の世界に生きる裸の王様」とその取り巻きに対して、誰がどういう形で「王様は裸だよ」と声を発するのかという事がポイントとなるでしょう。その時は必ず訪れますが、それはもしかすると(日本のお家芸である)「黒船方式」かも知れませんね。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:12 | comments(0) | - |
          例えば「米大統領選の趨勢」など
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            11月本選に向けてすでにヒラリー・クリントン氏の劣勢が大きく伝えられ、体調不良説と共に一部海外メディアでは「死亡説」すらも飛び交っている始末。(無論日本の大手マスコミでは一切報じられません。)しかし、このような事態を半年前にいったい誰が予測出来たでしょうか。

             

            8月8日に『「霊界のセッティング完了」の意味』という短い記事を書きましたが、今後も「霊界での決定」に従って物事が進行すると思われます。それは「霊界とのずれや食い違い」の程度によって「驚きや混乱」と受け止められる事もあれば、他方では「覚醒や啓発」のきっかけとなる場合もあるでしょうが、個々の人々にとって具体的にどういう意味を為すものであるかについては、まさしく千差万別で一概には言えません。

             

            ただ「苦しみからの開放」という一点で見た場合、「霊界とのずれ」を修正することで、まず「心の重荷」から開放され、やがて時と共に「肉体的苦痛」から開放される事となるでしょう。何故なら「霊界とのずれ」とは「人間らしさとのずれ」と同義語であって、あらゆる苦しみは「人間で有りながら人間らしくない」ところに端を発しているからです。

             

            「自己満足=苦しみからの開放」と勘違いしている限り、上記の話はまったく理解不能と思いますが、その実「自己満足=執着=束縛=苦しみ」となり、満足が得られない際の「取り乱し様」が、それを物語っています。つまりその実態は「不安と焦燥」です。

             

            皆様、どうか良い選択を。

            | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:29 | comments(0) | - |
            自己診断の目安は「調子の良し悪し」で必要十分だ。
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              例えば、咳(せき)は、医学的には「異物を排泄するための体の防護作用」で、それ自体が悪い訳ではないが、時として「危険な病気の兆候」として咳が続くことが有り「注意が必要」との事で、そうした場合は「一度受診した方が良い」ということの様です。つまり「素人には判断出来ない」とされている訳ですが、咳に限らず、体とは本当にそういう(自分では判らない)ものなのでしょうか。

               

              私には全くそうは思えません。というより、そもそも体にはその時々の内因や外因の影響を受けとめる形で、様々な変化が付き物だと思います。例えば運動すれば筋肉組織が破壊され、それを修復するための変化が起きるのは当然であり、機能が正常であれば常に「良い方向への変化」が何かしら起きているものです。そしてそれが「正常な状態」であり、「何の変化もない(=何も起こらない)状態」を正常と感じること自体が勘違いという事です。(例えば体に合わないものを食べて下痢をするのが正常であって、そこで下痢止めを飲むのは間違いだということです。)

              つまり私たちにとってのベストやベターとは、体に自然に起こり得る「良くするための変化」に対して、出来得る限りそれを邪魔せず助長することになります。(鎮痛剤や解熱剤のむやみな服用は、多くの場合正常な変化を阻害します。)

               

              このように人間にとって非常に重要な「体が良い方向に向かっているか、悪い方向に向かっているか」の見極めは、本来そう難しいものでは有りません。それこそ「体と気持ちの調子の良し悪し」で十分自己判断が可能な範囲のものです。しかしそれはあくまでも「センサー」が正常に働いていればこそであって、現代人にはこの「センサーの働き」を鈍らせる要素が大きく2つあると思います。

              ひとつは常習的な薬やお酒や栄養(滋養強壮)剤などの摂取によって「本当の体の状態」が判らなくなっている場合と、もうひとつには「我欲」によって、現状に対して必要以上の不足や不満を覚えることがそれに該当します。これらの要因が有ると「悪い方向の変化を簡単に見逃したり、良い方向の変化を阻害したり」というような事例が頻繁に起きるようになります。

               

              そうした意味でも、様々な健康情報に翻弄される以前に、薬やお酒や○○ドリンクの人工的な効果に頼る事を可能な限り控え、自らの心身に備わる優秀なセンサーを働かすために出来るだけ体を「素の状態」に戻すべく心がける方が良いと思います。

              もちろんこれは「二者択一」ですので、どちらの生き方を選ぶかはその人の自由ですが。

              | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:06 | comments(0) | - |
              金魚やメダカと人間は違う
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                金魚やメダカ、フナなどを孵化させ、稚魚や幼魚の成育を観察してみるとわかりますが、一定の割合で奇形や生育不良の個体が混じっていることがしばしばです。そもそも限られた飼育環境の中での限られた交配条件の元での受精卵なので、一般論としてどこまで言えるかは定かではありませんが、これが自然界であれば、稚魚の成育や運動能力にある程度のバラつきが生じること自体は「理に適っている」と思われます。何故なら、自然界では生まれた稚魚の大半は「他の生物のエサ」となる運命だからです。(そのために一匹が数百〜数千個を産卵する。)

                 

                稚魚がエサとなる際、当然最も運動能力の低いものから捕食されることになるでしょう。一方で稚魚をエサとしている他の生物の側にも捕食能力の差がある訳ですから、比較的能力の低い最初の敵から逃げ延びた稚魚も、次の段階の敵に襲われ、そこでも逃げおおせた稚魚は更に俊敏な敵のエサとなる、という様に一群の稚魚たちが結果的に多くの生物の命を支える役割を担っていることは容易に想像が付きます。

                そのように「自然界の食物連鎖」を中心として見た場合、「稚魚の先天的な奇形や虚弱体質」ですら「自然の摂理」とも思えてくる事があるかも知れません。

                 

                しかし人間の場合、明らかにそれとは異なります。そもそも人間は初めから「食物連鎖」の頂点に在って「エサとして貢献」する様にはなっていません。

                また、自然界では数千匹の中の「スーパーマン」だけが種を受け継ぐ役割を担う仕組みになっていますが、人間の場合は「社会生活」を前提にデザインされている関係上、「スーパーマン」は存在しません。(価値観をフラットにして見た場合、すべての人間は大なり小なり「一長一短」である事は間違い有りません。自分をスーパーマンだと思っている人はすべて錯覚です。)

                つまり「足らざる部分」を誰かに補ってもらわなければ生きていけないのが人間であり、その意味では誰もが同じ立場だというのが真実です。(それが証拠に赤ん坊の時に世話をしてもらえなければ、たちまち死んでしまうでしょう。それではとてもスーパーマンとは言えません。少なくとも稚魚たちは自力で生きます。)

                 

                そういう私は現在、うちで生まれた「虚弱な金魚の幼魚」を賢明に育てています。(養魚場では間違いなく捨てられているタイプです。)

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 17:58 | comments(0) | - |
                「病人は自業自得」ゆえの「自己責任論」について
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                  「日本は国民皆保険制度であるからして、だらしない食生活や生活態度で勝手に病気になった様な人たちの高額な医療費をそうでない人たちが負担しなければならなくなるばかりか、国の財政まで圧迫しているのは余りに理不尽だ。」というような論調で、結構な著名人の間でも公然と「医療に対する自己責任論」がまかり通っている様です。

                  関連記事はこちら→ http://lite-ra.com/2016/09/post-2576_2.html

                   

                  このように「お前ら勝手に死ね」と言わんばかりの「いわゆる暴論」が、医療問題に限らず近年(国会議員を初め)社会的立場を有する人々の口から発せられる傾向にあり、それはそれで「正直」で結構なことだと思います。何故なら「ああ、この人、ほんとはこんな人だったんだ」と、疑う余地も無く自ら教えてもらえる訳ですから、後はこちらで判断すれば良いだけの話です。(ついでに暴論に同調する人たちも芋づる式にわかります。)

                   

                  ところで当ブログでは「霊的見識」として「病人は悪人だ」とお伝えしていますが、それと「自業自得の自己責任論」とどこが違うのでしょうか。(確かに一見同じようにも見えます。)

                  「悪人」とは「選択的な過ちを犯した人」のことです。しかもそれによって「(必ずしも人間とは限らない)他者に被害や迷惑を及ぼし、自らの先行きを困難なものとした」のですから、当然悔いて然るべきと思います。反省によって自らの「選択的過ち」を理解すべきとは思います。しかし、何故それがいきなりすべて「自己責任」という流れになるのでしょう。そうした考え方の裏には「自分たちはこれっぽっちもそういう連中と関わりたくない。こっちと関係ないところで勝手にやってくれ」という極めて排他的で反社会的な思想しか思い浮かびません。(いったい誰に教わったのでしょうか?)

                   

                  社会とは「自分が心地よいと思える相手とだけで馴れ合って生きる場」では有りません。何故ならその時点で既に「自己中心」となっていて、そのように「自分が社会の中心であって良い」という論理性がいったいどこにあるというのでしょうか。

                  増してや「幸福な人間」には「他人の幸福のお手伝いをする」という義務と責任が有り、そのような心情こそが「幸福の証し」と言えるものではないのでしょうか。つまり社会に於ける「能力差や理解力の差」を受け入れられない人間は、それもまた或る意味で「社会的適合能力の極めて低い人間」と見なされる事となりますが、それこそそうした人たちも含めて(反省すべきは反省し、正すべきは正しながら)「みんなで良くなる社会」を目指して誠心誠意努力を重ねて行くべきだと思います。

                   

                  必要なのは「切捨て」ではなく、そのような「啓蒙、啓発」こそが急務であると思います。

                  | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 10:38 | comments(0) | - |
                  「狂った社会」で誰が得をするのか?
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                    「客との口論に激昂した車掌が突然制服制帽を脱いで高架下に飛び降り重傷」とか、「些細な口論から弟を殺害して遺体を切断した姉」など、これまで有り得なかった様な「奇行や蛮行」を伴った事件や人的事故が、いつの間にか日々当たり前のように報じられる世の中となっている。この状況をわかりやすく言えば「狂った社会」という事になる。

                     

                    しかし社会というものは、例えば「健全な社会」を作ろうとすれば相応の「展望と努力」が必要であるように、「狂った社会」を作るためにも相応の「展望と人為的なエネルギー」が必要なはずだ。何故なら人は元来「破滅の道を突き進む」様には作られておらず、試行錯誤はあるものの、最終的には「繁栄の道」を選ぼうとするに違いないからだ。ということは、何者かがそうした人本来の「羅針盤」を完全に狂わせ、破壊するだけの膨大なエネルギーを「社会全域」に亘ってもたらす事による「人為的な結果」と見るのが自然だろう。

                     

                    例えば教育の場合、まず親の羅針盤を狂わせ、それによって子どもの羅針盤を狂わすというのが最も効果的だ。この場合親に対してはまず、高度成長という「偽りの豊かさ」によって「身勝手な自由競争=夢の実現」というイメージを徹底的に植え付ける。そうすると親は子どもに「身勝手」であることをあたかも「幸福の条件」であるかのように奨励、いや強要するようになるのだ。ここからそもそも狂っているのだが、このように世代をまたいで洗脳が繰り返されて行く事で、ほぼ疑問を差し挟む余地さえ無くなり、そうした狂った基礎の上に積み重ねられていくもの全てが「狂ったもの」であるため、いざ何か支障が生じたとしても、何が原因でどこから手を付けて良いかさっぱりわからず、結局「誤った判断」が下されるしか無い。子どもたちのイジメや冷酷な犯罪、保護者による児童虐待などの問題解決が遅々として進まないのはそのためだ。

                     

                    また「狂った社会」によってもたらされる医薬品や農薬、食品添加物の類も全く信用に値せず、「安全性の基準」に誤った判断が下されている可能性は否定出来ない。例えば身体に及ぼす影響もさることながら、「メンタリティ」に与える影響まできちんと調査されているのかとなると甚だ疑わしい。(そもそもそんな検査基準は聞いたことがない。)

                     

                    「狂った社会」で誰が得をするかは、社会が狂うとどうなるかを見ればわかる。つまり家族や隣人同士でも「いつ何が起こるかわからない」という「本質的な社会不安」に対して、人々は自ら「監視社会」「警察国家」であることを望み、不安定な労働環境や生活に対して国家による「統制経済」を望むかも知れない。それらは人々が「主権者としての自由」を放棄するという意味になるかも知れない。それは国家を手っ取り早くまとめて意のままに動かしたい人たちにとって「まことに好都合」な事ではないのか。無論そこには「国民一人の命はものすごく軽くなる」という落ちが付くことになろう。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:14 | comments(0) | - |
                    物理的な「結界」は存在しない?
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                      フィクションの世界では、よく「魔除けの結界を張る」などとして、物理的な一定の領域を「悪魔や悪霊、魔物の攻撃から身を守る安全地帯」と定義するシーンが見られますが、もしそれが現実に可能であるならば、当然名だたる神社、仏閣、教会その他の宗教的な敷地や建物には「結界」が張られていなければなりません。(それぞれに「魔」という概念が存在する故。)

                      しかし現実には「魔」はそれらの敷地、建物に於いてさえ「出入り自由」となっています。もちろん宗教的にそれが容認されている訳ではなく、建前としてはそれらは「聖なる領域」であり「清浄な場所」であるべきなのですが、現実にはそうなっていないという事です。

                       

                      何故でしょうか?それには二つの事が考えられます。

                      まず一つには、霊的には「魔」は排除すべきものではなく、浄化する(=清める)必要のあるものという位置付けだからです。もし霊的に「排他思想」が認められるならば、社会や人間関係に於いても「正しい思想」として「排他思想」が受け入れられなければおかしいということになりますが、現実にそんなことは有りません。つまり「魔」だろうと何だろうと「出入り自由」であることは、霊的な「大原則」であるという事です。(但し「魔」が好んでそこへ向かうかどうかは別問題です。)

                      二つ目には、「魔」は招かれればどこへでも行くということです。その一方で「招かれない所へは行かない」のも事実ですから、名だたる宗教的な領域に「魔が集まる」ことがあるとすれば、そこで大々的に「魔」を呼び寄せているという事になります。

                      このように「物理的な結界」は存在しないと見た方が良いでしょう。稀に「結界めいた排他的な力」をデモンストレーションする人があったとしても、その多くは「邪念力」と言われる「魔に由来する力」で、しかも多分に自己破壊的な側面を持っていて、残念ながら「正しい結界」では有りません。

                       

                      前述の通り「魔」は呼べば来るし、呼ばなければ来ません。それは私たちがどこにあっても変わりません。ですから重要な事は、自分が「魔」を呼んでいるのか、いないのかの見極めが自分で出来るということだと思います。それは自分の基本思想に基づく「今想念」が物語っているはずです。少なくともそのことを理解しておけば、私たちに「物理的な結界」など必要ないことが同時に理解出来ると思います。

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:18 | comments(0) | - |