青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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仕事(=稼ぎ)の原点について
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    これは小学生でも解る話ですが、人間は生きるために最低限「食べるもの」が必要です。ですから「仕事」の原点は自分の食べるものを自力で調達すること即ち「自給自足」に他なりません。(更に永続的に生きるためには「衣食住」の概念が必要です。)

     

    このように元々はすべて「「自前」で生きていた人々が、より効率性、安定性の高い生き方を目指した結果として「社会とそれに伴う共同管理や分業システムの概念」が生まれたという事であれば、少なくとも現在の私たちは大昔の「自給自足」の生活よりも「食べ物や生活必需品」の調達がはるかに容易であることを実感していなければならないはずです。

     

    しかし現実はどうでしょうか。それこそ「生きること」を苦に多くの人々が自殺する有様です。

    この「生きること」には文字通り「食糧の調達もままならない」という意味以外にも、様々な意味が含まれますが、結局は「自給自足よりも分(ぶ)の悪い状況」が背景にある事は間違い有りません。

    これは「職種」の問題ではなく、私たちの中には(バランス感覚として)「労働量に対する対価」がそれとなく存在しています。例えば「命がけの危険な作業」に日がな一日従事して「ご苦労さん、ハイッ5000円」と言われても、とても納得は出来ませんし、直接身の危険に晒されていなくとも、多様な状況に神経をすり減らして対応しなければならないとすれば、やはりそれなりの「対価」が伴わなければ承服し兼ねます。(コンビニ業務など、今の倍ぐらい貰ってもおかしくありません。)

     

    これら「対価」の原点はやはり「自給自足」よりも効率が良いところに置かなければ、そもそも「社会」であることの意味を為しません。それどころか、もし「どんなに精一杯働いてもギリギリの生活水準しか得られない」ということがあれば、それは明らかに現社会に於ける「対価の基準」そのものが間違っているということです。何故なら「労働が生産性に反映されているにも関わらず、収穫量(=対価)が少ない」とすれば、それはどこかで不当に「搾取」されている以外に考えられないからです。(それは奴隷制度の特徴でもあります。)

     

    人間の心情として、努力した事と結果の間に余りにもギャップが有ると、それだけで物事が嫌になります。そして「嫌だ」という気持ちが健全な精神を蝕み、「生きる意欲」を喪失させたり、ストレスの捌け口を「弱者に対するイジメ」に求めたり、刹那的な「犯罪行為」に走らせたりということは、容易に想像が付きます。

    つまり社会の荒廃の要因は、私たちの多くがそこはかとなく感じている「信じられない安月給」にあると言っても過言ではないと思います。

    何故なら(繰り返しになりますが)「仕事をすればした分の生産が有り、仕事をした人に相応の収穫がある」のが当たり前で、それが無いのを「奴隷制度」という訳ですから、切ない気持ちになるのも当然です。

     

    政治家として、そういうまともな話の通じない連中は今後「相手にしない」のが一番です。(彼らには私たち国民の代表になる資格が有りません。)

    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 13:33 | comments(0) | - |
    TPP強行の農水相が輸入米業者から金
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      今朝はあまり時間の余裕がないので、簡潔に書きたいと思いますが、「強行採決」発言の山本有二農林水産大臣に、今日のタイトルにあるような“疑惑”が噴き出しているとの事です。

      記事はこちら→ http://lite-ra.com/2016/10/post-2654.html

       

      今年も残すところ2ヶ月余りとなりましたが、年明けに書かせて頂いた如く今年は「変動、変化」の年であった訳で、その上で「現在の状況」と言えば、本当に「表面の薄皮一枚で辛うじて保たれている状態」というのが随所に、というよりむしろ、あらゆる物事に於いてそう言える様に思います。

      つまり内部では既に旧態依然としたものは構造的、組織的な破綻をきたしており、それを薄皮一枚で何とか堪えているという無意味な努力に全エネルギーを費やしている状態です。言葉を変えれば「みんな言いたいけど(起こり得る結果が怖くて)誰も言い出せない状態」ということかも知れません。

       

      しかし「薄皮」は放っておいても(何かの拍子に)何れ必ず破れます。そこから噴出してくるものは腐臭を伴った大量の膿でしか有りませんが、組織を再生するためには、そういった経過をたどる必要があるということなのでしょう。

      | 青少年の味方の人 | - | 08:56 | comments(0) | - |
      「JR九州」株式上場のニュースを見て
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        今朝のテレビで「JR九州」が赤字経営から脱却し、晴れて「株式上場」に至ったニュースが流れていました。何気なく聞いていると、何でも「駅ビルなどの不動産業」を柱とする、いわゆる「発想の転換」で経営の立て直しに成功したとの事で、しきりとその部分ばかりが強調され「社長の功績」として言及されていた様に思います。

        しかしその一連の報道の中で、一点だけ引っかかった部分が有りました。それは「それまで駅から少し離れた地域の商店街で買い物をしていた駅の利用客が、駅ビルの完成でより便利になり、そのことが地域全体の発展につながる」という主旨の内容でした。(録画していないので、言葉は正確では有りませんが。)

         

        赤字の部分が何だか「取ってつけた」様な印象で、どう考えても「地域全体」の中に従来の「地域の商店街」が含まれていない様な気がしたので、ネットで「JR九州、駅ビル、商店街、影響」などのキーワードで検索したところ、案の定「気になる記事」が幾つか有りました。

        記事はこちら(1)→ http://biz-journal.jp/2015/04/post_9734_2.html

        記事はこちら(2)→http://blog.goo.ne.jp/rk_kobayashi/e/651fd9955a91c68f3c6ecb306c37ebd0

        記事はこちら(3)→http://www.dkk-oita.co.jp/pdf/release/20131015.pdf

         

        駅ビルや巨大ショッピングモールなど大手企業の進出により、従来の商店街が大打撃をこうむり、存亡の危機に陥るというのは今更ながら当たり前(=社会常識の範疇)の事であって、そこは黙ってスルーしろということなのかも知れませんが、これは社会の中で私たちが「自由競争」とは名ばかりの(実は全く勝てる見込みのない)「弱肉強食の出来レース」を仕掛けられているに過ぎず、確実に居場所を失っていくということです。それはあたかも「開発によって自然環境が破壊され、居場所を失っていく野生動物」のようです。

         

        そのような事を他者に強要する酷薄な自らの振る舞いを心情的に受け入れられる事自体がすでに「病的」と言わざるを得ません。企業経営は「病人」でなければ出来ない?そう誤解されるような振る舞いは慎んだ方が良いと思います。(何故なら他にも良いアイデアはいくらもあるからです。)

        しかし一番の問題は昨日も指摘した通り「世の中こんなもんだ」とばかりに「世の中のねじれや歪みの状況にすっかり慣れてしまった自分自身」にあるのだと思います。取り分けメディアの方々がそうであると、みんなが非常に迷惑しますので、ここ一番死んだ気になってお願いします。(でなかったらどうかメディアに身を置かないでください。)

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:45 | comments(0) | - |
        「異常事態(=変なこと)」に慣れる?
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          以前より「オカシイことはオカシイし変なものは変」と感じ、声を上げる重要性を申し上げて来ました。何故なら人間には(良い意味でも悪い意味でも)物事に慣れる、環境に馴染むという特性が有り、それそのものは「生存環境の変化に適応」することで「生き辛さを感じ難くする」ということであって悪いものでは有りませんが、それにしても「何でもかんでも慣れれば良い」という事ではなく、場合によっては「慣れては困るものも有る」ということです。

           

          この「慣れては困るもの」とは、即ち「慣れる事で事態が益々悪化の一途をたどるもの」「慣れることで自分が今よりダメになること」などです。

          この場合の「慣れる」とは「受け入れる(=同意する)」という意味になり、「同意」とは思想的に感化される事を意味します。つまり「悪い状況に慣れる=悪い思想に感化される」という意味で自分をダメにします。

           

          一方で同じ「慣れる、馴染む」であっても「同意しない慣れ方」も有ります。そのような在り方を「同調する」と言います。「同調」とは「同意はしないが敵対もしない」という意思の表れであって、人間は例え「好ましくない事」であっても(同調によって)「敢えて敵対しない状況を設定」する中で「改善に向けた様々なアプローチ」を試みる事が出来る様に思えます。

           

          改めて今の社会を顧(かえり)みると、私たちは既に「多くの異常事態に慣らされている」ことが分かります。

          まずは「競争社会の仕組み」にすっかり順応させられ、挙句は「この世はサバイバルだ!」などと臆面もなく言い出す始末ですが、良く考えて下さい。私たちの社会は「猛獣や毒虫の跋扈するジャングルの密林地帯」では無く、サバイバル(生存競争)の相手は「隣人」で有り、自分と同じ「人間」なのです。それらが互いに「経済的優位の座」を掛けてしのぎを削らなければ生きることさえままならない社会が「異常」である事は、昨今の犯罪や(自殺を含む)事件の傾向、子どもであればイジメや不登校の実態に如実に現れています。(この際関係無いとは言わせません。)

          その他、社会の殆どの懸案は(理不尽極まりない)「構造的な利益誘導」によってもたらされていると言っても過言では無いでしょう。医療、介護、教育、安全保障、原発、TPP、年金、税制、民営化、豊洲、オリンピック、etc・・・。

           

          例えば「声を上げても何も変わらない」「選挙に行っても意味がない」「どうせ政治は良くならない」などという国民に蔓延する諦めの境地?も、先方からすれば長年ノラリクラリと時間を掛けてひたすら「洗脳」に勤しんできた成果であって、そういう国民のそのテンションの低さ(=民意の低さ)が何より好都合で、別に初めから「絶讚して欲しい」などと考えている訳では無く、言葉を変えれば(国民にあっては)「非力感に慣れてくれれば良い」ということです。

           

          しかしそれでは国民自らが「国民主権」「主権在民」を放棄したことになります。果たしてその先に何があるのか、私たち全員が、少しは想像力を働かせた方が良いと思います。

          | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:45 | comments(0) | - |
          「相応」という概念の重要性
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            昨日の記事では「年甲斐=年齢相応の思慮、分別」をテーマとして話を進めました。しかしこの「相応」とは、特段「年齢」だけに限った事ではなく、むしろあらゆる人々が「それぞれの立場」で関わっている重要なテーマだと思います。

            辞書的には「相応=ふさわしい、釣り合っている」という意味になりますが、この場合の「ふさわしい」とは、一般常識や文化的特質の枠にとらわれず、もっと本質的で論理的な観点から見るべきと思われます。何故なら「その時々の社会の風潮や傾向」は兎角流動的なものなので、物事の判断の基軸とはなり難いと思われるからです。

             

            この「相応(ふさわ)しい」という概念は、例えば「親として」「教師として」「公人として」「監督として」など、単に注目度の問題と言うよりも、どちらかと言えば「責任の所在」を確認する意味で用いられる事が多い様に思われます。ですから「赤ちゃんに相応しい笑顔」と言えば、あたかも赤ちゃんに「周囲に笑顔を振りまく社会的責任」が有るかの様に聞こえます。

            つまり「相応しい」とは、単に「らしさ」という感覚的な判断を越えた「社会的機能を果たし得るか否か」というレベルの客観的判断と言えます。

             

            例えば「男らしくない」とか「女らしくない」などの評価の基準は個々まちまちで、それこそ指摘を受けた側にとって見れば「余計なお世話」と感じて当然という場合も多々有るでしょうし、その辺りは「社会の風潮」によっても変わりやすい部分です。これは「子どもらしくない」なども同様でしょう。

            しかし「男として相応しくない」「女として相応しくない」となれば話は別で、その場合は「社会的機能に支障をきたし兼ねない」という本質論を問われている可能性が有ります。

             

            つまり冷静且つ客観的に見た場合、(男女同権はそれとして)社会の円滑な運用上「適性上の男女の役割分担」という概念は不要で有り、そのようなケースは皆無と本当に結論付けて良いのでしょうか。(例えば「外敵」に対して女性が矢面に立ち、男性と子どもが奥で身を潜めるというイメージで本当に良いのでしょうか。)

             

            以上の話の様に「相応」とは、個々の人々が「社会の本質的な構造や意義」に基づいた上で、自らに対して「適正な認識」を行なっているか否かを問うために必要な概念と読み取れます。

            つまり世の中に「自らの立場上(=責任上)相応しくない考え方や行動をする人」が増えれば増えるほど、社会が機能不全に陥り、荒廃するのは当然で、それは(決して他人事ではなく)私たち一人ひとりの問題であるということです。

             

            みんなが自分のポジションを理解し、それぞれが相応しい自分になれれば、社会は必ず良くなります。

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:26 | comments(0) | - |
            「年甲斐」のない人々
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              「年甲斐(としがい)」とは年齢相応の思慮や分別の事とされています。ということは人間「歳若くして未熟(=子どもや若者)」である内は「思慮が浅く分別が付かない」ということになりますが、もちろんそれは「相対的」な意味であって「年寄り」から見れば「まだまだ分かってないなあ」となるということです。

              その代わり若者には「有り余る体力、柔軟な思考力、旺盛な好奇心と比類無き吸収力」などの強力な武器が有ります。そうした若者の強みに年寄りの「思慮や分別」を持ち寄る事で、社会として「強力且つ安定した力」を得る事が出来る仕組みになっていると思われます。

              つまり、年寄りと若者は(本来であれば)互いに「合力」する事で恩恵を受け合う存在ということです。

               

              ところが近年は「年甲斐のある年寄り(或いは年長者)」がめっきり少なくなった様に思えてなりません。そしてその事が「社会の衰退や荒廃の一因を為している」と言っても過言では無い様に思えます。そこでその原因を探って見たいと思います。

               

              それは今から60年ほど時代を遡る「日本の高度経済成長期」を機に始まった強力な「マインドコントロール」にあると思われます。日本人はそれまでも(国民性として)「勤勉で働き者」である事は世界でも知られていましたが、この「マインドコントロール」以降、その「目的」が大きく変質してしまいました。

              それまでは「家族のため、地域のため、社会のため、お国のため」として(良くも悪くも)「滅私奉公」の言葉に表される様に、同じ働くにしても「己のために多くを望む」ことが憚(はばか)られる文化的土壌が存在していた様に思われます。しかしそれでは「なり振り構わず限りなく富を集積する」という論理は成り立ちません。何故なら「利他の精神」と「強欲な価値観」は互いに相反するからです。

               

              そこで(マインドコントロールによって)「働く目的」そのものが「己の快楽や安楽」に差し替えられ、「蓄財(私腹を肥やす)=幸福」という図式のもとに(国民一人ひとりに対して)「幸福の追求」が大々的に奨励され、それによって皆が(我も我もと目を血走らせて)金儲けに奔走する日々が始まりました。つまり「価値観」そのものが「利他から利己へ180度転換してしまった」ということです。

               

              しかしこれが(私たちにとって)「極めて壮大な罠」であった事は、今となっては「一目瞭然」です。何故なら、「利他」に於いては「敵」という概念はあったとしても常に限定的なものですが、「利己」に於ける「敵」の概念は限りなく拡大し、論理的には「自分以外のすべて」が対象となリ得ます。(その結果「勝組、負組」を伴う「格差社会」が容認されるのは、私たちの知るところです。)

               

              このように「利己的」に陥った年寄りは、苦労して手に入れた「小さな城」とも言えるマイホームと、せっせと貯めた資産や年金によって(夢にまで見た)「安楽な老後生活」を送ることを「残された人生の目的」と信じて疑いません。(そのため結構くだらないことにお金や時間を使っています。)

              もちろん、そう上手くは行かなかった年寄りも多く、そういう人々は「こんなはずじゃなかった」と世の中を恨むばかりでしょうが、良く考えれば初めから「論理的におかしい話」であることに気付くべきでした。

              また、別の年寄りは「若い奴らに負けじ」とばかり「如何に若さを保つか」に残りの人生を掛けています。それこそ「年甲斐も無く」です。何故なら、そこには「役割分担」という概念が見られず、ただ若者に「ポジション」を奪われない様に「しがみつけるだけしがみつく」という発想でしかないからです。つまりは若者と「敵対関係」にある訳ですが、これでは逆に若者から「敵視」され兼ねません。

               

              このように己の権利ばかりを主張し「若者をバックアップしよう」「社会全体をより良いものにしよう」という気持ちの持てない年寄りが激増しています。「そんな余裕が無い」と言われればそれまでですが、そもそも「年を取る」とは(子どもと違って)「視野が拡がる事に依って、より物事を客観視出来るようになる」ということではないのでしょうか。(もちろん、そういうつもりで生きて来ない限りそうはなりません。)

              しかも「年寄りには社会貢献からリタイヤしても良い特権が与えられる」などと、本気で考えたりしていないでしょうか。そんなはずは無く、生きている限りは「年甲斐や年の功」を最大限に活用して(陰ながら)「社会を支える力」を発揮する必要があると思います。

               

              個人的には、自らが「社会貢献」の気持ちを失った時点で、若者たちから疎(うと)んじられても致し方ないと思っています。同時にこれまでどうにか「年甲斐もない歳の取り方」をせずに済んで来られて本当に良かったと思います。

              これからも生きている間、より良い歳の取り方に関する研鑽を重ねて行きたいと思います。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:50 | comments(0) | - |
              ハイビームとロービームの話
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                車の夜間走行時に於ける「原則ハイビーム(前照灯上向き)」を、歩行者保護の観点からこれまで以上に周知徹底させたいという警察庁の意向を受けて、その是非をめぐる論争が起きているとのことです。

                関連記事はこちら→ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161020-00050054-yom-soci

                論点としては、ロービーム(前照灯下向き)よりハイビームの方が前方の見通しが効くのは事実としても、対向車や先行車が眩しさに視界を妨げられたり、煩雑な切り替え操作などで運転に集中出来ず「返って危ないのでは」というものがほとんどではないかと思われます。

                 

                結論から言えば(この事に限らず)物事は「方法論」よりも「心構え」が問題で有り、逆に「心構え」を期待出来ないから、何とかしようと「方法論に終始」せざるを得なくなるのだと思います。

                例えば「自他の安全に対する心構え」さえ有れば、夜間であろうと日中であろうと(路地など)「見通しが悪ければ悪いなりに、安全が確保出来る範囲での運転」を心掛けるのは当たり前で、それこそ「心のまま」に臨機応変な対応を行なうのが周囲にも自分にも最も良い結果をもたらす事になるはずです。それが所謂「(だいじょうぶ)だろう運転」ではなく「(あぶない)かも知れない運転」ということだと思います。

                 

                ですから「安心、安全の心構え」からではなく、法的義務として(頻繁なビームの切り替えなど)あまり細か過ぎる操作を(運転のプロでもない)一般ドライバーに課す事は、返って運転時の集中力を阻害し、操作ミスを頻発させる結果となり兼ねないのではという懸念が持たれます。

                 

                人間の最も優れた能力のひとつとして「心の命ずる臨機応変な対応」が有るように私には思えるのです。にも関わらず心を疎(おろそ)かにして、何かにつけて理屈を並べ「機械的な方法論」に出口や解決の糸口を求める近年の傾向や対策の在り方は、逆に「心」を退化させ、益々問題を複雑化する方向へ社会を誘導する結果となりはしないでしょうか。

                 

                また「ハイ、ロー切り替えのオート化」を求める声も分かりますが、機械とはどのみち故障するものです。まさかその時人間は「悪いのは俺じゃない、機械だ!」とでも言うのでしょうか。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:43 | comments(0) | - |
                自動運転の問題点について
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                  検索サイトで「自動運転 ハッキング 危険」などのキーワードで検索すると、それに関する多くの記事がヒットしますが、大半は「きちんとした対策が待ち遠しい」など「自動運転テクノロジーの進歩」に期待を寄せる近年の風潮に迎合したニュアンスの感じられるものですが、中には「論理的な危険性」を指摘する大真面目な記事や論評も存在します。((注) 読むと結構怖くなります。)

                  例えばこちら→ 「自動運転の問題点、特に第三者の干渉リスクについて」

                   

                  自動運転車の利便性は今更言うまでも有りません。即ち「高性能のロボットカーが全自動で自走して、目的地まで人や荷物を安全に運んでくれる」というものですが、果たしてそんなにウマい話がそんなに簡単に実現出来るものでしょうか。

                   

                  というのも、コンピューターの世界ではハッキングやウィルスの被害は半ば当たり前のものとして、今更珍しくもないはずですが、それは(対策もさる事ながら)コンピューターが「構造的」にそういうものだという事を物語っている様に思えます。何故なら「使いやすさ=脆弱性」とも言えるからです。(例えば何十個もの複雑なパスワードで保護されたコンピューターなど誰も使えないでしょう。)

                   

                  またコンピューターはハードウェアとソフトウェアから成り立っていますが、ハードウェア的には単なる電子部品ですから(家電のそれの様に)消耗もすれば破損も故障も有り得ます。一方ソフトウェア的には「バグと呼ばれる設計上見落とされた不具合」の危険が常に付きまとっています。

                  事実、パソコンなどでは(ハングするなど)日常的に介在する不具合が許されるのは、それが「即、命に関わる状況」に無いという理由でしょうが、車ではそうは行きません。

                   

                  このように「自動運転技術」の中枢が「ロボット=コンピューター」である限り、これらの課題が完全に克服されなければ「とても受け入れる気持ちになれない」と思うのは私だけでしょうか。

                  特に「ハッキング(=他人による遠隔操作)の危険性」は、自動運転車と聞いて私が真っ先にイメージした事でも有ります。このイメージが払拭されるためには、自動運転と「パソコンやスマホとの論理的な違い」を明確にして頂く以外に有りませんが、たぶん当面は無理かと思われます。

                   

                  人間は「儲かる」となれば、素知らぬ顔で時として恐ろしいことをやってのけるものです。

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 14:09 | comments(0) | - |
                  基本は「共有」という価値観です。
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                    昨日に引き続き、当ブログにアクセスされた方々の「検索キーワード」のお話です。

                     

                    まず、「思想を持つにはどうすればいいの?」との事ですが、人間は(当人が無自覚であっても)必ず「無思想」などということでは無く、何らかの「思想」に基づいて生きています。例えば「自己中心思想」などもそれなり十分に「思想」と呼べるものです。思想は「主義、主張を生み成すための大元の価値観」と言い換えても良いでしょう。

                    ですからこちらのキーワードの意味する「思想を持つには・・・」の「思想」とは、幸福な人生、または有意義な人生を送るために必要な思想(=価値観)、ということだと思います。

                    それについては、本質的には「霊的責任」を理解することが一番ですが、もし現実の社会に照らして見るなら、人間は何事に依らず「共有する」ところに意味が有り、その先に「本当の幸福が在る」という道理を学び、理解することだと思います。

                     

                    また「他人が大人を作る」というキーワードですが、言い換えれば「人間は多くの社会的経験や人間関係を重ねる中で本当に必要な人間形成が為されるもの」ということだと思います。しかし(それが事実だとしても)そこには2つの課題が有ります。

                    一つは、同じ「社会でモマれる」にしても、どういう社会のどういう人間たちの中でモマれるかによって、その意味合いが変わってきます。

                    2つ目は、同じ経験をしてもそれが「ポディティブに働くかネガティブに働くか」に別れるほど、人によって受け止め方に差が生じる場合が有るということです。

                    これら2つの問題に効率的に対処する上でも、本格的な社会参加の前に最低限の「基本思想」だけは押さえて置きたいと思います。それは常に「自分も含めてみんなで良くなろう、みんなで良くしよう」というものです。

                     

                    結果的に上記2つのキーワードに対する答えは「どちらも同じ」と考えて良いと思われます。このように人間の幸福に最も必要なものは「共有」という価値観であることが判ります。

                    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 09:39 | comments(0) | - |
                    自分の命とどう向き合うか
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                      今月も様々な検索キーワードを以って当ブログにお越し頂いた方々がいらっしゃいます。
                      相変わらず「公共の精神」に関するキーワードが多いのですが、それについては過去の記事でも重点的に扱って来ておりますので、まとめの意味で「こちら」をご参照頂くか、またはページ右上の「ブログ内検索」をご利用下さい。

                       

                      また、ちょっと心配なキーワードに「死ねば楽になる」といったものがあります。これも同じく過去記事で「そうじゃない」ことをしっかりご説明させて頂いています。同じく「こちら」をご参照頂くか、またはページ右上の「ブログ内検索」をご利用下さい。

                       

                      そう言えば先頃も「イジメを苦に自殺した13歳の少女の写真」にまつわる話がありました。本当に気の毒で残念な話ですが、ここでハッキリ言える事が2つ有ります。それは「子どもの苦しみは、即大人の苦しみであり社会の苦しみである」という事と「子ども社会の不条理は大人社会の不条理の映しである」という余りにも分かり切った話ですが、最大の問題は、それを大人たちの誰一人として認めようとせず、「最近の子どもたち特有の傾向と問題」として「監視や指導の徹底」などと、お門違いも甚だしい方向へ話を逸そうとしている事です。

                       

                      いわゆる大人目線で言うところの「悪い子」「ダメな子」「困った子」は、みんな「悪い大人社会」が(それと承知で)作り出したもの、というのが真実で、それ以上に正しい答えなどどこにも有りません。もし「証拠を見せろ」と言うなら(霊的に)「社会を形成し、社会に迎合する大人たちの霊層段階」を見れば一目瞭然で、実際低すぎてお話にもなりません。(霊層段階は一部、顔の相にも出るので、そうなると文字通り「子どもに顔向け出来ない状態」です。)

                       

                      因みに「社会悪」の根源は「我欲(=利己主義)の奨励」と「獲得競争(=排他主義)の推奨」であり、これらは長らく「経済発展の原動力」と考えられてきた様ですが、結果的には「富の集中(=搾取)の原動力」でしかなく、本来の「社会発展の原動力」である「人間性」の破壊を伴い、社会環境(=人間関係)を著しく荒廃させるものでしかなかったのです。

                       

                      そのため現代社会に於ける人間関係とは、「利益の共通」のみによって保たれ、逆に「利益の相反に対して極めて冷酷」にならざるを得ないということです。

                      そうした「社会悪」が「子ども社会」にそのまま反映されれば「気の合う者同士(=利害の共通)とはやたらツルミたがり、ウザい者(=利益の相反)は徹底的にイジメ抜き排除する」という身勝手極まりない振る舞いさえも(内面的に)正当化される事になります。子どもたちはきっとこう言います。「だって大人はみんなそうじゃんかヨ」と。

                       

                      つまり大人たちの「失われた人間性」が回復しない限り、被害者、加害者を含めて子どもたちは救われません。その間せめて(心ある大人たちによる)「緊急避難」の仕組みが作られ、機能する事を願うばかりです。

                       

                      何れにせよ、当ブログの過去記事には「人が苦しみから脱却し、快適で有意義な人生を送る」ための基本的な智慧と実践方法が随所に散りばめられています。ブログという形式上、項目別に読み易い形とは言い難いのですが、例えば「人生の目的」「ずるい人」などといった特徴的なキーワードで、ページ右上の「ブログ内検索」を活用して頂く事で、生きる上でのほとんどの疑問に対する答えが得られるはずです。(更に掘り下げて知りたい人は、コメントやメールを利用することで個別に対応可能です。)

                      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:16 | comments(0) | - |
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