これは小学生でも解る話ですが、人間は生きるために最低限「食べるもの」が必要です。ですから「仕事」の原点は自分の食べるものを自力で調達すること即ち「自給自足」に他なりません。(更に永続的に生きるためには「衣食住」の概念が必要です。)
このように元々はすべて「「自前」で生きていた人々が、より効率性、安定性の高い生き方を目指した結果として「社会とそれに伴う共同管理や分業システムの概念」が生まれたという事であれば、少なくとも現在の私たちは大昔の「自給自足」の生活よりも「食べ物や生活必需品」の調達がはるかに容易であることを実感していなければならないはずです。
しかし現実はどうでしょうか。それこそ「生きること」を苦に多くの人々が自殺する有様です。
この「生きること」には文字通り「食糧の調達もままならない」という意味以外にも、様々な意味が含まれますが、結局は「自給自足よりも分(ぶ)の悪い状況」が背景にある事は間違い有りません。
これは「職種」の問題ではなく、私たちの中には(バランス感覚として)「労働量に対する対価」がそれとなく存在しています。例えば「命がけの危険な作業」に日がな一日従事して「ご苦労さん、ハイッ5000円」と言われても、とても納得は出来ませんし、直接身の危険に晒されていなくとも、多様な状況に神経をすり減らして対応しなければならないとすれば、やはりそれなりの「対価」が伴わなければ承服し兼ねます。(コンビニ業務など、今の倍ぐらい貰ってもおかしくありません。)
これら「対価」の原点はやはり「自給自足」よりも効率が良いところに置かなければ、そもそも「社会」であることの意味を為しません。それどころか、もし「どんなに精一杯働いてもギリギリの生活水準しか得られない」ということがあれば、それは明らかに現社会に於ける「対価の基準」そのものが間違っているということです。何故なら「労働が生産性に反映されているにも関わらず、収穫量(=対価)が少ない」とすれば、それはどこかで不当に「搾取」されている以外に考えられないからです。(それは奴隷制度の特徴でもあります。)
人間の心情として、努力した事と結果の間に余りにもギャップが有ると、それだけで物事が嫌になります。そして「嫌だ」という気持ちが健全な精神を蝕み、「生きる意欲」を喪失させたり、ストレスの捌け口を「弱者に対するイジメ」に求めたり、刹那的な「犯罪行為」に走らせたりということは、容易に想像が付きます。
つまり社会の荒廃の要因は、私たちの多くがそこはかとなく感じている「信じられない安月給」にあると言っても過言ではないと思います。
何故なら(繰り返しになりますが)「仕事をすればした分の生産が有り、仕事をした人に相応の収穫がある」のが当たり前で、それが無いのを「奴隷制度」という訳ですから、切ない気持ちになるのも当然です。
政治家として、そういうまともな話の通じない連中は今後「相手にしない」のが一番です。(彼らには私たち国民の代表になる資格が有りません。)