青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「物の豊かさ」とは何か
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    前回は「幸福とは物の豊かさではない」という話をしました。では「物の豊かさ」とはいったい何でしょう。

    それは「肉体に対する安全保障」に違い有りません。つまり肉体を未来に向かって安心・安全に維持し続けるためには「有り余るほどの物(=お金)」が必要であるという共通認識がそこに有るのだと思われます。

     

    しかしこうした考え方は極めて「非論理的」です。何故なら地球上には、その時々に現存するすべての人間が同時に「有り余るほどの物」で充たされるだけの供給(=資源、土地、労働力)の余裕は有りません。それを無理に推し進めようとすれば逆に「環境破壊」を招き、見る影もなく地球が荒廃するだけです。(但しすべての人が過不足なく物の恩恵に浴する事であれば常に(今でも)可能です。)

     

    そこで「一部の愚かな人々」は、その悪い頭を使って考えます。それは即ち「物をお金に変え、お金で権力を買い、権力を暴力に変え、暴力で搾取を行なう」という方法による「富の独占」です。昔は露骨な「侵略戦争」「植民地支配」「奴隷制度」「人種差別政策」であったものが、(発想はまったく同じままに)今は「民主化」「自由化」「国際化」など、本音を包み隠した詐欺的、謀略的要素が強くなっているだけで、相手の意をまったく解そうともせず最終的に難癖を付けて「暴力(軍事介入、テロ)に及ぶ」ところは何ら変わっていません。

     

    取り分け近年は、無国籍企業が経済力を武器に「国家」を丸ごと乗っ取り、その国を使って侵略や搾取を行なうという、正体を見せない「寄生虫的手法」が好まれている様ですので、国民は自国政府の「国家に不利益をもたらす様な不穏な動き」には十分注意する必要が有り、日本も例外では有りません。特に「グローバル化、国際標準」などという言葉の中には「自国民に対する軽視、無視」が込められている場合が有ります。

    (それらについては「カレイドスコープ」「金貸しは国家を相手に金を貸す」など、より専門性が高く記事の充実したサイトで確認されることをお勧めします。)

     

    ここで重要なことは、そうした「有り余るほどの物」に憧れ、事実上その「収奪」を実践する人々の全員が、それによって多くの人が困窮し、死に至らしめられる事さえ有ることを認識しているという事です。もちろんその中には赤ん坊や多くの子どもたちが含まれることも知っています。逆に言えば「それを知って怯む様な人間は私腹を肥やす事など決して出来ない」と言い切ることが出来ます。そう考えれば、今現在その様な立場にある(人口の1%と言われる)人々が極めて「悪魔的」であることが理解出来ると思われます。

     

    しかしそれより更に重要な事が有ります。それは「決してそのような悪魔的な感性の人々を羨んだりしてはならない」という事です。あの人たちはハッキリ言って「ろくでもない人たち」です。敢えて人を羨ましがらせ様とするのは、自分たちの地位を高いものと他人に錯覚させ、正当な権力者の様に他人に誤認させるためのパフォーマンスに過ぎません。しかし実態は「身勝手で浅ましく冷酷無比なケダモノの様な思考の持ち主」で、人間的に「何の価値も無い人々」ということです。

     

    そうして私たちが、そのようなレベルの低いくだらないマインドコントロールから解き放たれる事が出来た瞬間に、悪魔的な人々の力は無力化され、その存在は真っ当な幸福を求める人々にとって何の妨げにもならなくなるでしょう。何故なら「誰も騙されなくなる」からです。そして「誰も競争しようと思わなくなる」ためです。

    普通の人間は「人を犠牲にしてまでいい思いをしたい」とは思えないものです。それは人間が生きる上で「肉体の安全保障」が全てでは無く、それに先駆けて「心の安全保障」が必要である事を生まれながらに知っているからです。

     

    即ち「心と肉体双方の安全保障」をイメージした結果が、当ブログのモットーでもある「みんなで良くなろう」「みんなで良くしよう」という人々の関わり方、社会の在り方と言えます。

    | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 08:14 | comments(0) | - |
    改めて「幸福とは何か」
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      幸福を「物質的な豊かさ」と思っている人は論外です。にも関わらず、残念ながら「(それだけとは思わないが)それも確かに必要」という人たちも含めると、何と94%もの人が「幸福と物的な関わり」を信じて疑いません。それは一言で表せば「原因と結果の履き違え」ということです。

      多くの人たちが「物質的な欠乏の無い状態を幸福に至る条件(=原因)」と考えていますが、本当のところはそうではなく、「幸福な状態の結果として物質的な充足が伴われる」ことになります。

      これは実際に試してみればすぐ判るのですが、誰も「怖くて出来ない」というのが本当のところでしょう。何故ならそもそも「幸福に至るノウハウ」を持っていないからです。試してみるのも良いが、いつまでも幸福に至れずもたもたしている内に物的に困窮し、最後には本当に飢えて死んでしまうかも知れません。それ故、人はなかなか「物的充足は幸福の結果である」という確信に至れないとも言えます。(答えは目と鼻の先にあるのですが。)

       

      幸福とは「ある一定の心の状態(心境、境地)」を指し、高レベルに至るほどその状態を維持するための「物的条件」は希薄となり、最終的には不要となります。(つまり何があろうとブレないということです。)

      また、その結果は「(平均)霊層段階」にダイレクトに反映され、その人間の霊的価値となり、比較的高所に設けられている様々な「霊魂本来の因縁発動」の由縁となります。その意味でも人間が「幸福(の境地)に至る」ことは、その人が謂わば「本物の人生」を送る上での絶対条件とも言え、そうでない場合は「偽物(借り物)の人生」に甘んずるしか有りません。(例え物的に豊かであろうと「偽物は偽物」でしかないのです。)現に多くの人々が感ずる「不安や焦燥」は、「霊的バックアップの欠如」によるものが殆どです。

       

      幸福の境地に至るためには「智慧、勇気、愛、情」という4つの心の要素がバランス良く働いている状態でなければなりません。これらは目的に向かい、それを完遂するための動機でありツールでも有りますが、最初から4つがきれいな横並びで揃っている事はむしろ稀で、最初はたった一つかも知れませんが、目的に向かって進んで行く過程で足りない面をその都度補ったり強化しながら「最終的にバランスさせる」イメージです。

      人間は「目的」さえ間違っていなければ、これは必ず達成され、万人が幸福に至るものと確信して良いでしょう。

       

      ところで大別すれば「人間の目的」は2つに1つ、即ち「二者択一」でしか有りません。これはどんな人でも(無意識に)そうなっています。

      まずひとつ目に「自己」を中心とした目的が有ります。これは具体的には「肉体の持つ物質的、生理的な欲求に応える」ことを目的とするものです。

      もうひとつは「霊界」を中心とした目的が有ります。これは「心(取り分け良心)」の求めに応じることを旨とした生き方の事です。(総じて打算を排し、何(誰)に対しても実直さや誠実さが求められます。)

      「霊界」という表現は、他にも(余りにも良く知られた)呼称が有りますが、逆に「安易」なイメージを持たれ兼ねないため、用いたく有りません。しかし「霊界」そのものが構造物であり、自然発生した訳ではないことを踏まえれば、意図はご理解頂けるかと思います。

       

      「幸福」とは、そのような「形態」に到達する事ではなく、バランスの取れた持続的な心境を表したもので、言い換えれば「既に私たちの手中にあるもの」の事です。(それは私たちに絶対的な安心立命をもたらします。)

      | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 12:06 | comments(0) | - |
      政権転べばみな転ぶ
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        これは「そうなっては大変だから安倍政権がんばれ!」と言っている訳では有りません。

        安倍政権による(憲法を軽んじ民意を無視した)横暴極まりない「閣議決定」や「強行採決」によって法制化されてしまった数々の法案は、政権崩壊と共に一旦ご破算にしてすべて仕切り直す必要が有り、たぶんそうなるだろうということです。

        何故なら、それらは誰のためにもならない「安倍政権だけの野望」にのみ必要な法案に他ならないからです。その意味では、現在の国会の在り方自体が単なる「時間とお金の無駄遣い」でしか有りませんが、それを許してしまったのは「選挙に於ける私たち国民の投票行動」ですからやむを得ません。

        もちろん「テレビや新聞」など、マスコミがそれに加担してしまっているという事実も有りますが、それとて(余りにも低レベルの歪曲や捏造を)見抜けないまま受け入れてしまうという、私たち国民の「無責任、無関心」が根底にあることは事実です。

        それは例えば、乗っている船が浸水して四十五度近く傾いているのに、船長が「大丈夫、心配ない。」と言った言葉を信じるようなものです。それではその人はいったい何度傾いたら「転覆するかも知れない」という疑いを持ち始める積りなのでしょうか。

         

        人には様々な目的が有ります。もしかするとその船長は「故意に船を沈める目的」を持っているかも知れないのです。その場合、問われれば「大丈夫、心配ない。(船は必ず沈むよ)」と答える事になり、それはそれで正しいのですが、その意味するところは、こちらの意図するところのものと明らかに違います。

        その際重要なのは、自分と相手との「目的の共通性」を確認する事です。言葉ではどうあれ、相手の目的は相手の行動の「結果」を見ればそこに表れています。

        結果とは「教育基本法、秘密保護法、安保法制、原発、改憲、放送法、TPP、年金」などの諸問題に見られる独善的な強硬姿勢を指し、何れも国家による国民の統治を強化する意味合いを含んだ内容である事に議論の余地は有りません。(つまり国民の目的と乖離しています。)

         

        何れにしても、すでに多くの失態や綻びが生じている現政権は、この先「自沈」するより他有りません。そこで今私たちに求められている事は、次の政権選び(=選挙)の際に二度と同じ過ちを繰り返さないという事です。具体的には「候補者の人格と目的」に納得して投票するということになります。それは自分だけのためではなく、次世代を担う「子どもたち」に対する責任を果たすことでも有ります。(そういう気持ちになれないという人は、人間性に問題が有ると思われます。)

         

        大人の誤りの皺寄せで子どもが苦しむ姿は本当に酷く、決して見たくないものです。(政治が誤れば必ずそうなります。もちろん今もその状況です。)

        | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 13:27 | comments(0) | - |
        霊界のキャスティングについて
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          今年6月のBrexit、米大統領選のトランプ勝利と、世界の流れを変えるような番狂わせが続いている事と、霊界のセッティングが完了している事とは決して無関係ではなく、私たちの生きる人間社会には既に「何人(なんぴと)たりとも抗うことの出来ない方向性がもたらされている」と理解して良いと思います。その際私たちの有する選択肢として「流れの方向性を変える」というものは存在せず、あくまでも(個人として)そうした「(霊的な)規定の流れに乗るか反るか」でしか有りません。言うまでもなく「乗る」とは霊界の意向に沿う事を示し、「反る」とは霊界の意向に従わないという意思表示に他なりません。そしてそれらの結果は、それぞれ主として「個人の身」に対してもたらされ、全体の流れの方向性に大きく影響が及ぶ訳では有りません。

          この際の「全体の流れの方向性と個人の方向性の相関関係」を私たちが具体的且つ論理的に理解する術は有りません。何故ならそれは私たちの理解の遠く及ばないレベルで行われているからで、しかも私たちが「知る必要の無い事」だからです。(それはちょうど水深一万メートルの深海でどのような自然の営みが行われているか、私たちが直接知る必要性に迫られていないのと同じ事と言えます。)

           

          ところで私たちが日頃ニュースなどで知るところの、いわゆる時代の流れに影響力を持ち得る「キーパーソン」的な人物、例えばオバマ、プーチン、最近ではドゥテルテ、トランプなどは、いったいどういう人々で、どういう役割を担った人物と言えるのでしょうか。正義のヒーロー?はたまた人類の敵?もちろん一概には言えないものの、私たちはそこに何らかの目安となるものを求めているのもまた事実だと思います。

           

          確かに人間社会では先駆者、功労者、立役者、中心人物などと、社会的功績に基づいてその人間の存在意義、存在価値などを相応に評価する習わしがありますが、霊的には単に本命、繋ぎ、当て馬などの「キャスティング」はあるものの、役割自体に価値の高低がある訳ではなく、個人としてどれだけ忠実に、誠実に自分に与えられた役回りを演じられたかが評価の対象となる事は「キーパーソン」に限らず、万人に共通のものとなっています。つまり極端な話、アメリカ大統領だろうと日本の農家のおじさんだろうと、評価の基準は何ら変わらないということです。

           

          これは「キャスティング」の話に戻せば、(霊的には)主役だろうと脇役だろうと悪役だろうと通行人だろうと、みな同じギャラで同じ扱いになります。何故なら、どの役回りであろうと全体像として見た場合の価値の隔たりは無く、しかも「代わりは幾らでもいる」からで、単純に「嫌なら止せ」という事にしかなりません。

          このように「霊的」とは、重要なポジションに付くものが「何様振る」など、およそ有り得ない世界ということです。

           

          ひとつ私の経験として申し上げるなら、自分の(霊的)役回りが果たして「本命であるのか、繋ぎであるのか、当て馬であるのか」など、本当のところは本人ですら知り得ません。役割を忠実に、誠実に果たし終えた者にとっては、それがどうであるかなど実は「どうでも良いこと」なのです。心に「正しいプライド」を持つ人はみなそうであるはずです。何故なら重要なのは「役回りそのもの」ではなく、それに対して「誠実であること」だからです。

          | 青少年の味方の人 | 証明出来ない?大事なお話 | 11:53 | comments(0) | - |
          国家の提唱する「公共性、社会性」とは
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            当ブログでは一貫して「みんなで良くなろう」「みんなで良くしよう」と、子どもでも理解出来る言葉で「公共性、社会性」を喚起していますが、気が付いてみると今や学校教育では「義務教育」の段階から「公共の精神を尊び,国家・社会の形成に主体的に参画する国民の育成」が主たる目的とされ、職業訓練まで視野に入れた(公共や社会の即戦力と成り得る)「(国家に)期待される人間像」に向けた教育システムが構築されようとしています。

            また、それに伴い(従来の)「国民の有する教育を受ける権利と自由を国家が保証する」という(古い考え方?)の教師は排除され、「社会(=国家)のニーズに応え得る人材の育成」という考え方に合致した教職員の養成が(研修の義務化)などを通じて急ピッチで進められているのが現状ではないでしょうか。

             

            ところで、国家のイメージする「公共性、社会性」とは、決して「国民みんな」という意味にはなりません。例えば「国民みんな」で国家に反旗を翻す事があったとしても、それを国家が「公共性、社会性に即した行動」と認める事など有り得ず、逆に「公共の秩序を乱す反社会的行為」として罰することとなるでしょう。

            このように「国家」にとっての「公共」とは、あくまでも「政治、経済の中枢、または主導的立場にあるシステムやそれに従事する人たち」のことを指し、もっと平たく言えば「支配者」の事になります。そして「社会」とは、そのシステムのコントロール下に置かれたエリアのことです。

            ですから当然「国家の進める国民教育」とは、「現体制の維持、固定化」が目的となる訳です。

             

            しかし「国民主権」の本質から言えば、それは決してあってはならない事と言えます。何故なら本来は「現在の体制で良いか悪いかの判断自体が国民に委ねられている」性質のもので有り、そのような判断能力を国民が維持し続けるためには、「現体制に都合の良い教育」を許してはならない事は自明の理であるからです。

            そのため従来は「教育基本法」が憲法の枠内から決して逸脱しない事に十分配慮された上で設けられていましたが、それに真っ先に手を付けたのが「現政権」と言う訳です。ものの見事に「改悪」された「新・教育基本法」では、案の定要所々々に「現体制の固定化」を図るための仕掛けが施されました。

             

            子どもたちの生の声として、子どもたちは「今の学校を喜んでいません。楽しんでいません。意欲も持てず、元気でも有りません。」当たり前です。押し付け教育にストレスがたまる一方だからです。

            一言言わせてもらうなら、「子どもは親の背中を見て育つ」というのは本当です。

            つまり、良い政府なら国民は喜んで付き従い、良い社長なら社員は喜んで働き、良い教師なら生徒は喜んで教えを受け、良い親なら子どもは喜んで孝行します。

             

            とにかく「無理やり○○」はご法度。自然に人は動くもの。それが「健全な社会」というものです。(出来なきゃ修行しろ。)

            | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:19 | comments(0) | - |
            人は何故(ついてはならない)嘘がつけるのか
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              昨日は「国家の品格は国民の人格に依存している」という話をしましたが、これは実は言ってみれば、今日の話の前振りでも有りました。

              まず本題に入る前に確認しておきますが、嘘には「ついて良い(=ついた方が良い)嘘」も有ります。それは本当の事をそのまま伝えることが返って「相手に悪影響を及ぼす」恐れがある場合に限ったもので、「相手を守ろうとする気持ち」から発せられるものを指します。

              今回の記事の場合はそうではなく、逆に「相手に悪影響を及ぼすような嘘」についての話となります。

               

              数日前に何かの記事を読んでいる中で、文中の「学者は必ず嘘をつくようになる」というような一節にカルチャーショックを受けました。どうしてかと言うと、それまでは「学者の中にも嘘をつく人間は一定の割合でいる」ぐらいの認識は持っていましたが、その一文によって「嘘をつく学者、つかない学者」の比率の逆転を余儀なくされてしまったからです。

              そもそも学者とは、物事を「論理的に導き出すこと」を生業とし、そのように社会的に認知されている人たちですから(道義的な理由を除いて)その役割上、嘘をつかれては困る訳です。それが例えば「私利私欲、権力との癒着、学会や組織の事情」など理由はよく判りませんが「平然と嘘をつく」様なことがあるとすれば、それによってもたらされる「社会への悪影響」は計り知れないものとなるでしょう。

               

              そうした場合「学者本人」にその自覚が有るか無しかと言えば、私は「無い」と思います。何故なら(おそらく)学問的には卓越した才能が有ろうとも、人間的には「未発達」で社会的良識や常識に乏しく、人格的に問題を抱えていることが容易に想像出来るからです。

              何故「人間的に未発達」で「人格的に問題」となるかと言えばこれは簡単な話で、即ち「そういう訓練や矯正を満足に受けて来なかった」からに尽きます。

              この事は学者に限らず、誰にでも当てはまることですが、要は「人間的な成長(=豊かな人間性)」「十分な人格形成」に対する価値観を持ち得なければ「人は人として成長しない」のです。

               

              今の世の中はあらゆる職種、業種に於いてそういう「人として未発達、未成熟な人たち」で溢れ返っています。昨日も申し上げた様に、そんな危なげな人たちが揺るぎない社会の土台や骨組みとして社会を支え切れるはずも有りません。であれば「社会はいつ崩壊してもおかしくない状態」との認識が正しいことになります。そう言われてもピンともカンとも来ないこと自体がまさに「自らの脆弱性の証し」となり、少しでも問題意識を感じることが出来た人は、たった今から「人間性や人格を社会的基礎」とし「社会性を生きる基礎」と考え方を改めるべきだと思います。

               

              今や学者は平然と嘘をつき、消防士は放火し、警察官は飲酒運転、郵便局長は詐欺、またタンクローリーは横転し、巨大クレーンが転倒する時代です。もはやこの先ビルが崩れ、橋が落ちたとしても誰も驚かなくなるでしょう。

              これらすべては「教育の誤り」に端を発します。それは「経済優先」の国策に踊らされた「家庭と教育現場」双方の責任だと思います。

              | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:18 | comments(0) | - |
              「憲法」と「教育基本法」の関わりについて
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                「日本国憲法」は、(前文に明記されている如く)国際社会の中で日本国民が「平和と安定」の下に「安心」して暮らせる社会を「理想」として、その実現を目的として作られたものです。これらは言い換えれば「国家としての品格」を表したものと言えますが、その一方で敢えて「国民の人格」を問い、求める様な記述は見当たりません。それはおそらく国民の「人格的評価そのものが差別に当たる」との配慮に依るものと思われ、それはそれで正しいのですが、だからと言って「国民個々の人格は(憲法上)どうでもいい」とされている訳では有りません。何故なら「国家としての品格」そのものが基本的には(主権者たる)「国民の人格」に依存するものだからです。

                 

                それが証拠には「教育基本法」の下では「日本国憲法に則(のっと)り」と前置きされた上で「人格の形成」こそが教育の第一義的な目的と(順位的に)位置付けられています。これはつまり「憲法が定めるところの理想を実現するためには、国民の人格形成が何より重要である」ことを意味しています。

                それは私たちの先人たちが、健全な社会の維持と発展のためには何にも増して「人格が不可欠」とされることを見抜いていたという事であり、更に言えば「社会構造自体が人格を土台や骨組みとして構築されるべき」という旨を示しています。

                 

                翻って私たちの社会の現状と言えば、それこそ「人格」という概念そのものが風化しそうなほど、その価値が貶められてしまっている様です。これでは社会は停滞するどころか崩壊は必至です。何故ならそれらは「社会の建前」に対する真逆の方向性(=反社会性)と呼べるものだからです。

                学級崩壊、学校崩壊、組織崩壊・・・私たちはそれを目の当たりにすることになります。

                 

                繰り返しますが、憲法も教育基本法も「人格が社会の肝だ」と言っています。私たちはそのことを再認識する必要が有ります。

                | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 11:26 | comments(0) | - |
                「一億総カメラマン」の時代
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                  今朝もテレビで紅葉の名所に殺到する観光客のマナーの問題が取り上げられていました。少し前には同じく「撮り鉄」と言われる鉄道写真愛好家の一部で「ルールやマナー」を無視した行為が問題となっていました。

                  これらの話の根源には「撮りたい」「撮って残したい」「撮って記憶に留めたい」「撮って思い出にしたい」という「撮る事への価値観」が有ると思いますが、それが一部の人々にとっては「社会のルールやマナーを守ることよりも価値が有る」ということだと思います。(そんな気はないと言っても結果的にそうなっています。)

                   

                  ところで(プライベートに)目に映った特定のシーンを「撮り残す」ことは、それほど価値の有ることなのでしょうか。因みに撮影されたものが本当に客観的に価値を認められるのは「証明写真」や「証拠ビデオ」など、それらの有無によって物事が大きく左右される場合に限るでしょう。それに次いで「遺影」や折目、節目の「記念撮影」など、昔ながらの価値観が有りますが、それとて「無いと絶対に困るもの」とも言い切れません。(有ればそれに越したことはないという位置付けになります。)

                   

                  では「子どもの運動会」や「家族旅行」などの、近年カメラやビデオの最も主要な用途と思われるいわゆる「思い出作り」に関してはどうでしょう。

                  それも同じく「有ればそれに越したことはない」のかも知れませんが、その事自体に「メリットだけでなく、デメリットも大きい」と感じている人が、果たしてどのくらいいるのでしょうか。

                  これは映像(録画)だけではなく、音声(録音)に関しても同様で、実は「撮ること」によって重大な「トレードオフ」が生じている恐れが多分に有るということです。

                   

                  冒頭に掲げた例では実際に(公共の場であるにも関わらず)「社会的規範意識の喪失」が起こっていますが、本質的な問題点はそこでは有りません。

                  デジタル技術の進歩によって録画(や録音)が誰にでも手軽に行えるようになったのはそれほど古い話ではなく、それ以前は「それらのイメージを心や脳裏に焼き付けておく」しか有りませんでした。もちろんそれらは正確な情報とは言い難いものですが、そのもの自体に「思い入れ」があるほど、それは色褪せる事もなく、いつまでも心に(その時の思いと共に)焼き付いているものです。

                  食い入るように物を見つめ、一語たりとも聞き漏らすまいとして耳を傾けるとは、そういうことですが、それら人本来の「人や物事と向き合う姿勢」をファインダーを覗く人々の姿からは感じ取れません。それはある意味「心に焼き付けることを放棄した姿」のように見えます。

                   

                  人々が以前にも増して人や物事をより表面的に、より軽く、より安易に、より短期的にしか捉えられなくなった一因として、唯物的な発想や手段に頼るあまり、「心の活用」が疎かになっている現状があるように思えてなりません。(一概に否定するものではなく、もっと「両立」を模索すべきだということです。)

                  | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 10:12 | comments(0) | - |
                  義務教育に於ける「教育の在り方」について
                  0

                    平成18年に明らかに「改悪」された「教育基本法」の施行以来、義務教育はそれまでの(憲法の理念でもある)国民の求めるところである教育を受ける権利を保証する」という目的から、「国家の求めるところである(即戦力となる)画一的な人間を養成する」という目的へと「変質」してしまいました。何故そう言い切れるかと言うと、「義務教育の主旨を故意に変質させる目的以外に、教育基本法を書き換える必要性が見当たらない」からです。(この件については以前に徹底的に調べ上げていますので、以下を参考にして下さい。)

                    http://blg-hal-kursk.jugem.jp/?search=%BF%B7%A1%A6%B6%B5%B0%E9%B4%F0%CB%DC%CB%A1%C5%B0%C4%EC%B8%A1%BE%DA

                     

                    その「改悪・教育基本法」の第十七条に「教育振興基本計画」なるものが謳われており、政府の定める「国の基本方針、施策」に基づいて、各地方自治体ごとの「教育振興基本計画」を作成する事が実質義務付けられています。ですからそれらは当然、自由度が低く「国の統制」の色合いの濃いものと言わざるを得ません。

                    つまり現在の教育現場の実情としては「国家(=政府)による締め付け→各教育委員会による締め付け→学校による締め付け→子どもたち」という具合に、学校という枠組みの中で子どもたちが「期待される人間像」に向けて、ある種のシゴキを受けている状況と言っても過言ではないでしょう。

                     

                    確かに「憲法」には国民に対して「自由と権利を乱用してはいかんよ」「働かずして狡く生きようなどと考えてはいかんよ」とは記されてはいますが、しかし言ってみればそれだけの事であって(社会のために)「ああしろ、こうしろ」だの「ああなれ、こうなれ」などと押し付けがましい話は何一つ有りません。何故かと言うと、それは「自主性、自律性或いは自発性」に類する事柄だからで、それらを培い、養い、育てるためには、今現在のような「義務教育の在り方」では、まったく「不適切」としか言い様が有りません。強いて言えば「総じて寛容で有り、包容力を旨とする」教育方針でなければ決して良い結果は見られないでしょう。(その意味では日本国憲法は国民に対して非常に寛容で包容力を有するものです。)

                     

                    以下に八王子市が保護者に対して行なったアンケート結果を示します。

                     

                     

                    何れの結果も「社会(郷土の発展)に役立つ」など「社会貢献そのもの」に対しては、低い値を示していますが、その反面「他者を思いやる心」「善悪の判断」「基礎的学力」など、従来よりの義務教育の役割である「社会人としての基礎」については高い数値となっています。

                    これらの結果として「保護者は学校に対してことさら社会貢献や社会奉仕の精神、そのための職業訓練的な教育を望んでいる訳ではない」事が明白です。言い換えれば(学校には)「普通にやって欲しい」と言うことです。

                     

                    最後に言っておきたいのは、「学校が子どもたちを追い詰めてどうすんだ」ということです。むしろ学校は「家庭環境に問題を抱える子どもたちにとっての逃げ場」の役割を果たすべきところだとさえ思っています。「理解ある友だちや包容力のある先生たち」がそれを可能にしてくれるはずです。

                    そうでなければ「家庭と学校の板挟み」となった子どもたちは必ず壊れます。それが今、学校で起きていることです。子どもたちは全員「心無い大人たち」の被害者です。本当に腹が立ちます。

                    | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 08:59 | comments(0) | - |
                    義務教育に於ける「奉仕活動」について
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                      「ビジョン はちおうじの教育(第2次八王子市教育振興基本計画)」の中で、八王子市教育委員会の基本方針として「奉仕活動や体験活動などを通じて社会の一員としての自覚を高めるとともに、社会貢献の精神を育む。」ということが明文化されております。これは逆に言えば「社会の一員としての自覚や社会貢献の精神は、奉仕活動や体験活動によってのみ醸成されるものである。」と取られかねない一文ですが、本当にそうなのでしょうか。今の社会に「身勝手な人」「自己中心的な人」が多いのは、子供時代に「義務教育としての奉仕活動」を十分させて来なかったのが要因と言って良いのでしょうか。

                       

                      正論で言えば、社会に於ける「合法的な活動」は、すべて社会を構成する主旨に合致したものであり、健全な社会の維持と発展に対し何らかの形で「寄与、貢献」するものではないかと思います。

                      例えば「公的機関」での業務に従事する事はもとより、「民間企業」であってもその業務内容は明らかに「公益に服する」ものであるはずです。何故なら「健全な社会的ニーズ」に応えるための企業ポリシーや業務内容でなければ法人として認められるはずもないからです。

                      また、このように(公民共に)社会に貢献する明確な意図を持った組織が必要とする人材は、自ずと「社会の一員としての自覚や社会貢献の精神を有した人々」に限られるはずですから、わざわざ「社会奉仕」などという枠組みを設けて特別に「教育、訓練」などを施す必要もないはずです。

                       

                      しかし、皆さんは上記の様な話を聞いても、今の社会の実情に照らして「全然ピンと来ない」と思います。当然です。今の社会は実質「社会貢献」ではなく、「私利私欲の塊(集積物)として構成されている」と言っても過言ではないからです。(むしろそう言われた方がピンと来ると思います。)そのためあらゆるものが「カモフラージュ(偽装)」されています。つまり「インチキ」です。

                       

                      例えば子どもが(主旨をよく理解出来ないままに)学校から「これが社会貢献というもので、あなた達のためになることです。」と言われ、校外活動を行なう事の結果として、「とにかく上から言われたことに(疑問を持たず、報酬を求めず)従うことが社会人として必要」と思い込んでしまったらどうするのでしょう。しかもその懸念は十分に有ると思います。何故なら「教育」とは、圧力によって繰り返し行われるマインドコントロールと「形態上同じもの」だからです。

                       

                      何よりも違和感を覚えるのは、少なくとも「私利私欲の渦巻く社会」を容認している大人たちが、子どもたちには「社会の一員としての自覚や社会貢献の精神」を望んでいるという矛盾であって、もし文言通りのことが行われたとすれば、子どもたちから真っ先に糾弾されるのは「当の大人たち」であるはずです。大人たちがそんなつもりであろうはずもなく、だとすればこの状況下で敢えて社会教育という名の「奉仕活動」を義務教育の一環として声高に叫ぶその意図と、それに伴う結果は明白です。それは即ち、単に「上に従順な人間」であって欲しいからです。

                       

                      私たちが本気で「健全な社会」を望むというのなら、まず社会人としての自分自身の「私利私欲」を存分に恥じ、改めた後に、自分たちの在籍するそれぞれの組織改革を心掛ける事で、全体として社会が健全化の方向に向かう様な取り組みを行なうべきだと思います。

                      それ以前に「子どもたちをどうしよう、こうしよう」は絶対に避けるべきだと思います。そうでなければ前述のように、更に社会的矛盾を増大させるだけの事です。

                      | 青少年の味方の人 | 大人向けの大事なお話 | 09:12 | comments(0) | - |