前回は「幸福とは物の豊かさではない」という話をしました。では「物の豊かさ」とはいったい何でしょう。
それは「肉体に対する安全保障」に違い有りません。つまり肉体を未来に向かって安心・安全に維持し続けるためには「有り余るほどの物(=お金)」が必要であるという共通認識がそこに有るのだと思われます。
しかしこうした考え方は極めて「非論理的」です。何故なら地球上には、その時々に現存するすべての人間が同時に「有り余るほどの物」で充たされるだけの供給(=資源、土地、労働力)の余裕は有りません。それを無理に推し進めようとすれば逆に「環境破壊」を招き、見る影もなく地球が荒廃するだけです。(但しすべての人が過不足なく物の恩恵に浴する事であれば常に(今でも)可能です。)
そこで「一部の愚かな人々」は、その悪い頭を使って考えます。それは即ち「物をお金に変え、お金で権力を買い、権力を暴力に変え、暴力で搾取を行なう」という方法による「富の独占」です。昔は露骨な「侵略戦争」「植民地支配」「奴隷制度」「人種差別政策」であったものが、(発想はまったく同じままに)今は「民主化」「自由化」「国際化」など、本音を包み隠した詐欺的、謀略的要素が強くなっているだけで、相手の意をまったく解そうともせず最終的に難癖を付けて「暴力(軍事介入、テロ)に及ぶ」ところは何ら変わっていません。
取り分け近年は、無国籍企業が経済力を武器に「国家」を丸ごと乗っ取り、その国を使って侵略や搾取を行なうという、正体を見せない「寄生虫的手法」が好まれている様ですので、国民は自国政府の「国家に不利益をもたらす様な不穏な動き」には十分注意する必要が有り、日本も例外では有りません。特に「グローバル化、国際標準」などという言葉の中には「自国民に対する軽視、無視」が込められている場合が有ります。
(それらについては「カレイドスコープ」「金貸しは国家を相手に金を貸す」など、より専門性が高く記事の充実したサイトで確認されることをお勧めします。)
ここで重要なことは、そうした「有り余るほどの物」に憧れ、事実上その「収奪」を実践する人々の全員が、それによって多くの人が困窮し、死に至らしめられる事さえ有ることを認識しているという事です。もちろんその中には赤ん坊や多くの子どもたちが含まれることも知っています。逆に言えば「それを知って怯む様な人間は私腹を肥やす事など決して出来ない」と言い切ることが出来ます。そう考えれば、今現在その様な立場にある(人口の1%と言われる)人々が極めて「悪魔的」であることが理解出来ると思われます。
しかしそれより更に重要な事が有ります。それは「決してそのような悪魔的な感性の人々を羨んだりしてはならない」という事です。あの人たちはハッキリ言って「ろくでもない人たち」です。敢えて人を羨ましがらせ様とするのは、自分たちの地位を高いものと他人に錯覚させ、正当な権力者の様に他人に誤認させるためのパフォーマンスに過ぎません。しかし実態は「身勝手で浅ましく冷酷無比なケダモノの様な思考の持ち主」で、人間的に「何の価値も無い人々」ということです。
そうして私たちが、そのようなレベルの低いくだらないマインドコントロールから解き放たれる事が出来た瞬間に、悪魔的な人々の力は無力化され、その存在は真っ当な幸福を求める人々にとって何の妨げにもならなくなるでしょう。何故なら「誰も騙されなくなる」からです。そして「誰も競争しようと思わなくなる」ためです。
普通の人間は「人を犠牲にしてまでいい思いをしたい」とは思えないものです。それは人間が生きる上で「肉体の安全保障」が全てでは無く、それに先駆けて「心の安全保障」が必要である事を生まれながらに知っているからです。
即ち「心と肉体双方の安全保障」をイメージした結果が、当ブログのモットーでもある「みんなで良くなろう」「みんなで良くしよう」という人々の関わり方、社会の在り方と言えます。