※本日は私の音楽家としての別ブログからの転載ですが、当ブログの主旨と合致する部分も有り転載します。
これは自転車の歩行者に対するマナーの話だが、このタイミングでベルをけたたましく鳴らす意味が私にはわからない。自転車が行く手前方の歩行者に接近した時点では、安全上徐行もしくは停止するはずであるからして、危険回避の緊急性があるとは思えない。だとすれば普通に「済みません、通ります。」とおだやかに声を掛けて気付いてもらえば良いと思う。(猛スピードで横をすり抜けようと言うなら話は別だが。)
しかし現実には、危険性が有るとは思えない場合にも「自転車はベルを鳴らすもんだ」と思い込んで、人間らしい言葉を掛ける(お願いをする)人は少ない、というか見たことが無い。自転車の場合(車と違って)お互い生身の関係なのだから、1m程度の距離では普通に「言葉を掛ける」のが自然であり礼儀と感じるのは私ぐらいのものとすると寂しい限りだ。みんなそんなに「人と話すことが嫌い」なのか。
という具合に長々と、ここで日頃の鬱憤を晴らしているかというとそうではなく、これは実は音楽を含むアート全般の在るべき姿に対する「ものの喩(たと)え」に過ぎない。
例えばアーティストは作品を以って己の思いや考え、価値観などを世に問い、世に訴えるという基本が在るとして、何故そうするかという理由は、一重に「筆や言葉では表せない奥深いもの」をより効果的で直接的な方法を以って伝えたいためと思われる。
しかし一方で、時事問題などに対する「YES or NO」のように単純明快な意思の表明に、わざわざ「作品」を介する必要性が有るのかということがある。何か「アーティストであるからには、何がなんでも作品で」というスタンス自体が窮屈で滑稽に思えてしまうのは変だろうか。それこそ「何がなんでもベルを鳴らさなきゃ」とイメージが重なってしまう。
アーティストにとって、アートと言葉は「必要に応じて普通に使い分けるもの」と考えるのが自然だと思える。どちらも一個の人格から発せられるものであれば、言葉する事が「作品」の品格を損ねるなどということは有り得ず、「何かアートっぽい言葉を」などと思い悩むことがあるとすれば、それこそ己のアートを問い直す良い機会にすれば良いと思う。何故なら「率直で誠実」でないものには、何の価値も無いからだ。