そうでしょうか?神も仏も在るからこそ、邪(よこしま)な計画が最悪のタイミングで露呈され、実行不能に陥るハメに会うのではないでしょうか。取り分け何らかの宗教に依存し「現世利益」を望む場合は、ことさら注意が必要です。何故なら当人には「(信仰心ではなく)宗教心によって神仏のお墨付き(=承認)」が得られたとの意識が働くため、不本意な結果に対する衝撃は、より大きく、条件反射的な「裏切られた」という思いが避けられないと思われるからです。それが即ち「神も仏も無い!」というやり場のない憤りです。
しかし論理的に見て「(純粋に私的で個人的な願いに属する)現世利益」を願い出れば神仏が叶えてくれると考えること自体が、実はおかしいのです。何故なら人間がこの世に生を受けて送り出される時、既に「霊界」ではそれに伴う「その人間の有する霊的及び物質的権利」をセットで詳細に設定しています。それは平たく言えば「運命上必要な援助物資は(先付けとして)既に与えられている」ということになります。そうでなければ人間は皆、生まれてすぐに「路頭に迷う」事にしかなりませんが、一部(運命上の例外)を除けば、そんなことは滅多に有りません。(但しそれらの物資は指定された霊層段階による発動分も含みます。)
つまり物は必要分が始めから(権利として)与えられているのですから、改めてこちらから願い出る必要など本来は無いはずです。それよりもむしろ、せっかく与えられている権利を浪費によって使い果たしたり、不徳によって没収されたりといった「必要分を失うこと」に対する心配をすべきではないかと思います。
具体的には、もし現在に「貧しさ」を感じるとすれば、まず行なう事は「やりくり」を覚えることです。それをせずに単に「働き過ぎる」ことでは、事態を改善する事は困難です。何故ならその時点での(人生の)カリキュラムとしては、あくまでも「やりくり」であって「働き過ぎる」ではないからです。
それを地道に忠実に行ってゆくことで、人間は「次の段階」に進める様になっています。つまり「学んで習得した分だけ段階が進む」仕組みとなっていて、その段階ごとに必要な(霊的、物的)因縁が適宜発動するということは言うまでも有りません。
このように「霊界」には「望めば望むだけ物が手に入る仕組み」は有りません。それはその人が宗教に依存していようがいまいが同じです。ただ「見た目」ではそのように見える場合が有るのも事実です。(それ故、欲得に心を奪われて誤った現世利益を求める人々が古今東西跡を絶たないとも言えます。)しかし、その疑問を解決するのは実は簡単です。
即ち、その答えは「神は決してお人好しではない」ということです。