青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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「メチャクチャ政権」崩壊の連鎖に備える
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    安倍総理自らが国会の場で言及した「辻元清美議員に関する疑惑報道」が関係者の証言の下、全くのデマであった事が明らかになりました。

    関連記事はこちら→ http://lite-ra.com/2017/03/post-3036.html

     

    こうなるともはや「森友学園問題」の究明を拒み、早期幕引きを図る官邸側の答弁が何ら根拠を持たない「単なる希望的観測」に過ぎない事は明らかで、当初よりそこには論理的整合性の欠片もなく、言うなれば私たちは日々「メチャクチャな話」を「公式な政府答弁」として聞かされてきたということです。

    何故ならそこに幾つかでも真実があったなら、現在の様な「絶望的な追い込まれ方」にはなっていないはずだからです。

     

    ところで何故「メチャクチャな話」しか出来ないのかと言えば、それは「メチャクチャな事ばかりやっている」からに相違ありません。そもそも「森友学園問題」の発端は「官邸ぐるみの愛国教育推進」にあって、それ自体が教育機関による特定の思想教育という法令違反の恐れのある、いわば「メチャクチャな話」であり、故にその事実を隠蔽せざるを得ないという事情が底辺にあると思われます。何故ならそれは本来、国民の総意を踏まえた上での「憲法改訂」を待たなければ行えない性質のものであるからです。

     

    このように現政権は正攻法とは程遠い「拡大解釈やからめ手、或いは強硬手段」などを講じて他にも「安全保障や経済」を始め、これまであらゆる「メチャクチャな話」を押し通してきた経緯が有ります。

    それは概観的に見れば「第一次安倍政権」でメチャクチャの種を蒔き、それが「第二次安倍政権」になって芽を出し花を咲かせ、ようやく実を結ぼうとしているということです。更に言うなら収穫直前に「超弩級の台風」に襲われ、10年間の努力の全てが今まさに水没しつつあるというところでしょうか。

     

    ですから政権側の心情として、なり振り構わず必死に食い下がろうという気持ちも分からないでは有りませんが、元々が「騙し」であり「卑怯」であり「違法」であるからには、それが露呈した段階でどうあがいても無理です。結論として(民主主義の名の下に於いて)「こんなメチャクチャでデタラメな政権は嘗て無かった」ということになります。

     

    私たちの社会に対して、この「10年」がもたらした影響は決して小さいものでは有りません。「メチャクチャな政策」を無理やり押し付けられた事によって、すで社会の至るところに致命的な歪みが生じており、この政権の崩壊と共にそれら不安定要素を抱え込んだ様々なシステムや構造物が一気に瓦解、崩壊していく恐れを否定出来ません。そしてそれらの衝撃や余波が私たちを直撃するかも知れません。

     

    もしそうなった場合、私たちはそれを甘んじて受けるべきです。そして同時に民主主義の下での私たち一人一人の責任と役割の大きさを再認識する機会と受止めるべきだと思います。

    それが出来れば(社会として)二度とこのような失敗はしないはずです。

    | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 09:04 | comments(0) | - |
    頭が良くても心が「馬鹿」
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      という人間なら、世の中に掃いて捨てるほどいますが、こういう人々は(私の知り得る限り)何の役にも立たないばかりか、ただ世の中を引っ掻き回して終わります。所謂「しょうもない人々」ですが、無論当人たちにそんな自覚は露ほども有りません。何故なら「馬鹿」とは「まじか(間近)」と読む如く、自分の足元がチンプンカンプン皆目見えていない状態を指す言葉だからです。ですから様々な理由による「知的発達障害」の方々の場合は断じて「馬鹿」では有りません。少なくとも「自分の足元だけはしっかりと認識出来ている」からです。(それ故、偽らざる感謝の気持ちが持てるのです。)

      このように多くの人々の(頭ではなく)心が「馬鹿(=自分の足元が見えない)」のため、「思想の紊乱、道義の敗退」が進み、社会に蔓延し、人々が(互いに周囲を巻き込みながら)自滅寸前の状態に陥っているというのが現状です。

       

      こうした状況の中で今、最も求められているのは少数派であるところの(頭はそこそこであっても)「心の賢い人々」のしっかりとした役割認識と地道で着実な行動、及び可能な限りの合力を形成する事です。その基本は「臨機応変」な対応ですが、そのために何を為し得るかは「自分の足元」を見れば解りますし、何を為すべきかは「眼前の今」を直視することで解ります。

      無論、行動の結果が常に最善のイメージとして返ってくるとは限りませんが、重要な事は「結果によって霊界との距離感が測れる」ということです。そのことさえ理解して弛(たゆ)まぬ精神で課題の解決に勤しむ事で、必ずや求める結果が得られるものと確信して良いでしょう。

       

      何のために? 自分も含めて「みんなで良くなる」ためです。本気でそう思えることが「心が馬鹿でない証し」ですので。

      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:10 | comments(0) | - |
      「森友学園問題」に於ける官邸側の答弁
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        「森友学園問題」では、これまで籠池氏側から総理夫人付に送られた書簡の「封筒のみ」の提示だったものが、遂に(共産党の独自入手とされる)手紙の全文が公開され、そこには「FAXによる解答」の元となった「籠池氏側から国に宛てた要望の数々」が具体的に認(したた)められており、当該のFAXがこれらの要望に対する直接的な解答だった事が改めて明らかになった。(詳細は以下の記事で確認出来ます。)

        http://lite-ra.com/2017/03/post-3031.html

         

        この期に及んでの安倍総理大臣、菅官房長官らの「何ら問題ない」との態度は、もはや「見苦しい」「聞き苦しい」を通り越して、とても「正視出来ない」ほどの悍(おぞ)ましさを禁じ得ない原因は、その「往生際の悪さ」にあると思う。本当に「見てはならないものを見てしまった」という感は否めない。

        もちろん官邸側が(というより人間が)そこまで醜態を演じる理由は一つしか無い。即ちそこが最終最後の防御線であり、そこを破られたら間違いなく首を取られると確信するからだ。

         

        何れにせよ、そのようなニュース映像こそ教育上「子どもに見せたくない番組」ナンバーワンに違いない。文科省は早速官邸にクレームをつけた方が良い。

        | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 10:03 | comments(0) | - |
        「相対」と「絶対」の意味
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          ※本日の記事は、昨日の話の捕捉になります。従って「物証による理解」をお求めの方々にはお薦め出来ません。

           

          私たちの(現在日常的に)有する「相対的価値観」とは、自らの生存権、自らの正当性、そして自らの現状を前提とした上で、様々な価値観の中から取捨選択が行われた結果のものと思われます。これは言い換えれば(無意識に)「自分を世界の中心」に置くことで実現されたものです。

           

          例えば「この世は弱肉強食だ!」という価値観も、前述の理由によって選択されたものであって、そういう「宇宙の法則」が存在する訳では有りません。

          また、身近なところでは「医療や健康」に対する価値観も然りで、(良くも悪くも)前述の「自己中心的なスタンス」が反映された相対的な意味合いの強いものと言えます。

          例えば一般的に「長寿は良いことだ」とされていますが、「長寿でなければならない理由」となると、定かでは有りません。

           

          一方で「絶対的価値観」となると、すぐに思い浮かぶのが日本では戦前、戦中の或る時期に於ける「天皇崇拝」に基づく価値観の集約だと思います。海外では国王であったり法王、教皇などですが、これらは何れも「神に任ぜられた存在」または「神そのもの」であるので、言い換えれば「絶対的価値観とは神を世界の中心と見做すことにより実現される」という事になります。

           

          確かに、そうであれば私たちは自らを「世界の中心に据える」必要が無くなるかも知れません。しかしこれには重大な問題が有ります。それは単純化すれば「現実に姿かたちが人間であるものを如何にして絶対と認めるか」という話になります。そして結果的には、これらの試みは(真実がどうであるかはさておき)弊害が多く、上手く行かなかったというのが偽らざるところだと思います。そればかりか「絶対的価値観は危険だ」という概念さえもたらしました。そうなると当然(消去法的に)選択肢は「相対的価値観」しかなくなってしまうのも頷けます。

           

          ここで一つ面白い提案をして見たいと思います。それは「縦社会に於いては上に行けば上に行くほど損をする仕組み」を作るということです。(正確には、精神的には得をするが物理的には損をするという話です。)少なくとも「霊界」ではそうなっているのですから、「現界」に於いてそれに異を唱える理由は見当たりません。

          無論、これは現況誰もが受け入れられる話ではないかも知れませんが、しかし「人間性の豊かな人」であれば喜んで受け入れるに違い有りません。(今後はそういう世の中になるでしょう。)

          | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:36 | comments(0) | - |
          価値観の逆転が何故起こるのか
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            ※本日の記事は完全に「証明不可」に付き、理詰めで事の真偽を見極めようとのスタンスをお持ちの方には閲覧お薦め出来ません。

             

            少し前に『物事の価値観が180度変わる』という記事を書きました。しかしそこでは「何故それが起こるのか」という疑問には答えていませんでした。そこで今回は少しその点に触れてみようと思います。

             

            振り返れば、私たちの有する「価値観」の大半は「相対的な関係性」に基づいている様に思えます。例えば親子は相対的な関係性と言えます。課長と部下もそうですし、店員と顧客もそうです。また環境と人間も「有益、無益、有害」などの概念に代表されるような相対的関係にあると言えます。それからよく「あいにくの雨」などと表現しますが、これも気象と人間の相対的関係の最たるものでしょう。

             

            こうして一つ一つ例に照らして考えてみると、あらゆるものと自分との「相対的関係性」が判ります。つまり私たちは日々その中に埋もれるような形で生きているのですが、その一つ一つの関係性そのものは決して固定的なものではなく、むしろ「日々変化する」と考える方が自然なものです。そう考えると、私たちは気の休まる暇も無くなるというのも解ります。何故ならそれは「有るものが突然無くなったり、無害なものが急に有害になったり」するかも知れないことを意味するからです。相対的な関係とは「相手の状態に依存する」部分が大きいので、その影響を避けられないのが真実です。

             

            そこで、では私たちにとって「絶対的な関係性」とは何なのか、また、例えば「相対的な関係性」から逸脱して「絶対的な関係性」を主軸とした価値観を構成した上、それを以って生きる事が可能か否かという問いが生じます。

            その答えを得るためには、正に「霊界の在り方」が参考になります。結論から言えば、「霊界には相対的な関係性に基づく価値観は無く、従ってそこには揺るぎない絶対的な価値観しか存在しない」という事になります。

             

            答えのヒントは「物的特徴にばかり心を奪われていると、(人を含む)事物の本質を見誤る」ということだと思います。例えば「子どもを子どもとしか思えない限りは、その子との相対的な関係性しか見えて来ない」ということであって、(霊的には)「子どもは子どもでは無い(少なくともその事に余り意味は無い)」ということです。

            人間性の豊かな人は、総じて相手の姿形には余り重きを置きません。

            | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 12:22 | comments(0) | - |
            森友問題はそもそも「教育基本法改悪」の問題
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              先頃、道徳の教科書検定に於いて「国や郷土を愛する態度を学ぶ観点から不適切」として「パン屋」から「和菓子屋」に差し替えが命じられた件について論議が巻き起こっている。

              記事はこちら→ https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/fahrenheit451?utm_term=.jhRJmq1ybN#.cwmqVkA2Dp

               

              これは文科省によれば「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」との事らしいが、そもそも「学習指導要領」自体が平成18年に改悪された「教育基本法」に沿ったものであるからには、そこが問題の根源であることは明白である。

              「国や郷土を愛する」の如くに「郷土(ふるさとの概念)」を差し挟む事で巧妙なボカシを掛けているが、その本命は「国を愛する」即ち子どもの教育現場で一貫して「愛国精神」を叩き込む事にあるのは、これも明白である。

               

              このように「強要された愛国」という場合の「国」は、古今東西決して「国民相互の共同体」であった試しはなく、限定された人々による「国家権力」であることは言うまでもなく、更に「愛国教育」の行き着くところは、「国に忠誠を尽くす(=命を捧げる)」であり、これは正に「教育勅語」の『進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』を体現するものである。

               

              今回「森友学園問題」の取り分け「(教育勅語を含む)愛国教育」の是非を問う過程に於いて、奇しくも「平成18年の教育基本法の改悪に言及する意見」が散見されるようになった事は、真に良いことと思う。これを機に少なくとも「愛国教育の是非」についての「国民の総意」を改めて明確にする事が強く求められているように思う。何故なら「文科省を巻き込む愛国教育の喧伝や浸透」のこれまでの過程は、あくまでも一政治団体である「日本会議」を主体とする一部の人々によって進められてきたという経緯があり、それが「国民の総意に基づくものであった」とは言い難い状況であるからだ。(そうでなければ今更「教育勅語」で日本中が騒然となるはずもない。)

               

               

              因みに当サイトは一貫して「教育がすべて」というスタンスをとっています。何故なら良質な教育こそが人々を幸福に導いてくれるものと信じて止まないからです。ただ今回の様に、政治や経済などがそれを阻害する様な振る舞いをする場合に限り、已む無く論じているに過ぎません。

               

              | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:29 | comments(0) | - |
              物事の価値観が180度変わる
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                その瞬間が刻一刻と近づいています。これは単に「価値観が変わる」ではなく、180度とするところに意味が有ります。何故なら「物事の根源的な理解」が覆(くつがえ)るからであり、それによって「社会常識」全般も覆ることになるからです。

                 

                「根源的な理解」とは例えば、宇宙とは何か、に始まり、地球とは、世界とは、国とは、人間とは・・・と続く本質的な事物に対する理解のことです。しかしこれらを一つ一つ分けて考えることに余り意味は有りません。これらは或る一つの認識をきっかけとして同時に置き換えられる関係性にあると思われます。

                 

                この「(世界的な)価値観の劇的な転換」がどのようにしてもたらされるのか、具体的に示すことは多分困難です。何故ならこれは何千、何万、或いはそれ以上の途方もなく多くの(特徴的な)事象が複雑に絡み合い・・・というより影響を及ぼし合い、融合を重ねながら進められて行くであろうからです。つまりこのような観点から、この事は「誰にも制御は出来ない」ということです。

                 

                当たり前のことかも知れませんが、世の中は現状、概ね「マジョリティー(多数派)」とされる人々の価値観を主体として物事が進められていますが、それに対して(本質的な部分で)疑義を唱える「マイノリティー(少数派)」の人々も存在することは事実で、そのような人々への評価が「不適応者」「変わり者」ならまだしも「発達障害」「適応障害」などと見做される事すら有るでしょう。(例えば「嘘が決して付けない人」は発達障害でしょうか?)

                 

                しかし既に前述の「価値観の180度転換」に向けた変化は、目に見えない形ではあっても着実に進んでいます。そこには当然「多数派と少数派の逆転」も含まれるでしょう。その中に於いて、最も危険なものは「固定観念」に囚われ続けることだと思います。

                いつ、どの時点で「リセット」を掛けるかは、私たち個々の判断に委ねられていますが、早ければ早いほど良いでしょう。

                | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:54 | comments(0) | - |
                国会は「不本意」な参考人招致へ
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                  昨日の「籠池理事長証人喚問」を経て、森友学園問題ではいよいよ追い詰められた人々が「100%の嘘」を付き始めました。因みに物証の有無の問題を除けば、人が嘘を付いているかどうかは容易に判るものです。(但し当然、その事のみを以って相手にペナルティを課す事は出来ません。)

                  例えば「嘘の比率が50%」であれば、それはまだ「嘘が通り易い」状況と言えなくも有りませんが、人間が追い込まれた挙句に付く「100%の嘘」となると、残念ながらそれが通用する見込みは皆無となります。その理由は簡単で、「嘘を付いている事が誰の目にも明らか」になるからです。

                  「嘘も付き通せば真実になる」と言っても、それはあくまでも「50%の嘘」の話であって、「100%の嘘」が真実に化ける事は決して有りません。(既にその時点でゲームオーバーなのです。)

                  | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 10:16 | comments(0) | - |
                  本日は籠池理事長の国会証人喚問でした。
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                    午前2時間、午後2時間の中継のほぼ全てを見ていました。

                    これを見た人の思い方、感じ方は様々かも知れませんが、いよいよこれからは人が人として炙り出される時代だと痛感しました。それは「炙り出そうとしている者こそが実は炙り出されている」という意味になります。

                    これは本人は無自覚なので、いよいよ以って防ぎようが有りません。

                    | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 18:00 | comments(0) | - |
                    「食料自給率」について
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                      降って湧いたような「ブラジルの鶏肉偽装問題」で、日本もブラジルから輸入しているなどという話を聞くたび思うのは「日本の食料自給率」についてだが、専門家とされる人々に於いても「自給率100%を目指すべき」と考える人もいれば、そもそも耕地面積がどうのと「一笑に付す」人もいて、意見が分かれる様だ。

                      専門家であるからには当然、幅広い知識と見識に基づいて理論を展開している訳だから我々素人の出る幕は無い様にも思えるが、それぞれに視点、論点の異なる幾つかの記述を見比べている内に(素人でも)「そうかなあ?」とついつい疑問を挟みたくなる事柄もある。

                       

                      話は結局のところ「ニーズに対する不足分を輸入する」という事に尽きると思うが、その「ニーズ(需要)」というものが本当に正しいのかという検証が為されているとも思えない。何故なら一方では「大量の食品が廃棄されており、それも食料消費(=ニーズ)として換算されている」という話が有り、また「家畜飼料の自給率の低さが自給率を引き下げている」という話でもあるからだ。

                      つまり何か既成事実や前提を「変えられないもの」として努力や検証の対象から意図的に外されたりしていないか、大いに気になるところだ。(そもそも国民一人当りの必要カロリー量も多めで計算されている。)

                       

                      例えば「輸入食品」で儲けたい人は「食料自給率」が低ければ低いほど良いだろうし、食品が大量に廃棄される事で「食品メーカー」が(余計に)儲かる事も事実だと思うが、単純に物事を「市場原理」に委ねてしまえば当然(誘引や誘導が働き)そうなるに違いない。

                      儲ける事も大いに結構だが、個人的には「今どき海外からの食品輸入がストップするなど有り得ない」という前提、意見には首を傾げざるを得ない。何故そんなに自信を持って言えるのだろうか?

                      | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 16:16 | comments(0) | - |