青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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当ブログの更新は間もなく終了します。
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    4月も今日で最後となり、明日からいよいよ5月です。というのも、当ブログはこの5月半ばまでを更新のリミットとしているからです。それは、当ブログの体裁と記事自体はその後も「必要な日数」は残して置きますが、新規の記事のアップは行われないだろう、という意味になります。などといきなり言われても、皆さんには何のことだかさっぱり分からないと思いますが。

     

    今までも折りに触れて書いてきましたが、当ブログの主旨は「霊界の意に沿う」ことです。それは「霊界と現界からなる構造的理解」並びに「原因結果の法則に照らした個々の事象の認識」に基づく限り、それが私たち人間を幸福へと向かわせる方向性の唯一無二の選択肢であることは明らかであるからです。(興味のある方は適当なキーワードで「ブログ内検索」をご利用ください。)

     

    私個人として思うことは、これは「霊界」を信じる人にも信じない人にも言える事として、どうにも気になるのはその「バランスの悪さ」です。これは別の言い方をするなら「この世の事にのめり込む」または「あの世の事にのめり込む」という生き方に違和感を感じない人が余りにも多いということです。

    結論から言うと、これはどちらも正しく有りません。(と言っても「のめり込んでいる」自覚すら無いでしょうが。)実際には双方が互いにフィードバックを重ねながら物事が進んで行く訳ですから、肝心な事は「どちらも大切にしながら均衡を保つ」ことであって、そのためには常に「沈着冷静に事態を把握する」心の構えが不可欠になります。(それは感受性を正しく働かせるためです。)

     

    今まで何度か書いてきたように、すでに「霊界のプログラム」は発動し、作動しています。そしてそれはこれまでに無く大規模な修正や調整を目的としたものと認識しています。

    その中で私たちが考えるべきことは、まさに「自分がそうした(時代の)流れや動きとどう関わるか」という一点に尽きます。そしてその結果次第では(世の中ではなく)私たち自身の人生が場合によっては180度変わってくるということなのです。言い換えれば(全ての人にとって)「今が正念場」ということです。

    | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:33 | comments(0) | - |
    小、中学校教員の「勤務実態」について
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      安倍政権のテコ入れによって断行された「教育基本法の改悪」に端を発する「学習指導要領の改訂」などの影響が、思わぬ結果・・・と言うよりむしろ「予想通りの結果」を招いている。

      文部科学省が28日に2016年度の教員勤務実態調査結果(速報値)を公表し、国が示す「過労死ライン」に達する週20時間以上の「残業」をした教諭は中学校で57.7%、小学校で33.5%に上ることが明らかになった。部活動や授業の増加が主な要因。1週間の平均勤務時間は、06年度の前回調査に比べ、中学校教諭で5時間12分、小学校教諭で4時間9分増えた。現場からは「ひどいのは電通だけじゃない」と悲鳴が上がっている。(毎日新聞 4/28(金) 23:58配信

      当ブログに於いては以前より「教育基本法の改悪」に対して「子どもたちや社会全般に与える悪影響」を不可避のものとして警告を発し、その撤回、無効化を訴え続けているところであるが、こちらも懸念されていた通り(当然の事として)今回、それらの影響が小、中学校の現場の教員たちを更に多忙化させ、その勤務実態をを著しく悪化させていることが判明した。(私は彼らと直接関わっているので、尚更よく判ります。)

       

      前述の記事では「現場からは悲鳴が上がっている」とされているが、私から見れば何故(個人的な問題ではなく)労働環境の明らかな構造的問題という認識のもとに、しかも健康や命に関わりかねない問題でもあるのに声を上げないのか理解出来ない。そのために幾つもの「教職員組合」が存在しているはずなのだが。

      「子どもたちのためだから(我慢して)」と言いたいのであれば、それこそトンデモナイ勘違いと云わざるを得ない。いったいそういう人たちは子どもたちに何を教えようとしているのか?今自分たちが仕事でギュウギュウの目に合わされているとしたなら、それがそのまま今の子どもたちの将来となることぐらい分からないとは言わせない。何故ならそれが国民に対する「国からのお達し」であるからで、そこには方や「雇用」、方や「教育」という形態の違いしかない。

       

      百歩譲って「子どもたちのため」を思うのなら、悪いことは言わないので、まず「誤った教育基本法並びに学習指導要領に基づく(国策に押し付けられた人を人とも思わない)過酷な労働条件」に対して、(日教組でも全教組でも全教連でも何でもいいから)みんなして声を上げたらどうなのだ。そういう根性すら無いものに子どもの教育は向かない。

      それにそもそも「教育によって人格の完成を目指す」のではなかったのか?

       

      | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 12:04 | comments(0) | - |
      自民党の面々は「自滅パターン」の見本市か
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        案の定、発狂?した自民党二階幹事長の常軌を逸した発言に対して党の内外から批判殺到だ。今村前復興相の場合もそうだが、このように誰が見ても「それはおかしいだろ?マズいだろ?ダメだろ?」というような言動を、本人だけがまったく無自覚に堂々としでかしてしまうのが「自滅パターン」の典型的な特徴だ。

        何故そんなことになってしまうのかと不思議に思われる向きもあるかと思うが、これは「霊的」に理解すればたいへん解りやすいが詳細はここでは割愛する。(興味のある方は過去記事を参照のこと。)

        因みに「自滅パターン」とは、本来であれば自己の問題点に対して内部的に理解と改善を促す(建設的)仕組みが、本人の度重なる無自覚、無理解からなる「問題放置」によって、逆の「破壊的作用」を及ぼすこと。

         

        こういった「自滅パターン」は自民党総裁である安倍総理からしてそうであり、つい数日前まで国民に対してあれだけ「切迫した北朝鮮の脅威=朝鮮半島有事」を煽っておいて、もしそれが本当であったなら到底「外遊」どころではないはずだ。(現在外遊中・・・。)それこそ今頃、官邸地下の緊急対策室でヘルメット被って指揮を取っていなければおかしいのではないか?

        この調子でやること為すことのすべてが、もはや誰の目にもインチキ臭くしか映らないことをお構いなしにやってのける感覚は、既に重度の「自滅パターン」としか言い様がない。だから「すべては森友隠し、加計隠し」という腹の底が丸見え状態にも関わらず、本人の中では「上手くいってる」という感覚しか持ち合わせがないのだ。

        このように「まったく自分を守れていない」のだからこの人も「終わる」しかないだろう。

         

        余談になるが、森友問題は現在進行中で次々に新たな証拠が提示されており、事実上「総理夫妻」は絶体絶命の危機的状況にあると言って良い。

        | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:33 | comments(0) | - |
        自民党の二階幹事長発狂で前後不覚か?
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          としか思えない、無思慮、無自覚の到底信じ難い発言で、自民党と所属の大半の政治家が(既に国民から100%乖離して)「終わっている」という事実を、嫌が上にも国民の間に広く知らしめる結果を招いた。以下は関連記事の抜粋。

          自民党の二階俊博幹事長は26日、東京都内での講演で、東日本大震災をめぐる失言で辞任した今村雅弘・前復興相を念頭に「人の頭をたたいて、血を出したっていう話じゃない。言葉の誤解があった場合、いちいち首を取るまで張り切っていかなくてもいいんじゃないか」と語った。自らの派閥に所属する今村氏の発言を、擁護したとも受け取られかねない発言だ。(朝日新聞デジタル 4/26(水) 13:39配信

          これから見ても、自民党は現時点で既に国民に対して完全に背中を向けており、単純に自分たちの目的のために策を巡らせながら突き進む「政治秘密結社」と化している。ただ秘密が秘密で無くなって来ているところが「焦りと慢心と驚くほどのレベルの低さ」を物語っているに過ぎない。つまりは見たまんま、見えたまんまが「現在の自民党」で、何かの深謀遠慮か?などと深読みする必要すらもない。

           

          また(どこかの記事に書いてあったが)財界やマスコミが現自民党政権を不自然なほど擁護に徹する理由はただ「(自分たちが)儲かるから」だそうで、そのためには「稚拙な政治」によって国民が軒並み不幸に突き落とされ、国が荒廃しても良いというのだから、呆れてものも言えない。まさに「金の亡者」だ。

          心ある財界関係者並びマスコミの諸氏は、直ちに持てる力の全てを投じてこの忌まわしい流れに反旗を翻すべきだろう。(それが「自分自身」のためだ。)

           

          とにかく政権与党の中枢に多数の発狂者、と言って悪ければ「キツい妄想に取り憑かれた人々」を抱える状況である上に、その周囲に群がる「金の亡者」たちによる寄ってたかってのマインドコントロールのために、現実感を喪失させられた挙句「何があっても何をされても無批判、無反応、無関心」とされてしまった国民という組み合わせは、もはや「北朝鮮を遥かに凌ぐ危険極まりない状況」と断じる事が出来る。

           

          今は間違いなく「内政」に目を向ける時であり、「北朝鮮が〜、韓国が〜、中国が〜」などと言って良い時期はとっくに終わっているのだ。

          | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 08:19 | comments(0) | - |
          今村復興相が辞任したは良いが
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            議員は辞めない。大臣どころか国会議員としての資質(=権利、資格)すら持ち合わせていないことが、その言動からも明らかなのに。(いいね、好きだね、こういう解りやすい人。)まるで金魚の水槽にこびり付いた「青ゴケ」みたいだが、現政権に於いてはこのところ特段珍しい事とは言えなくなっており「今村さん、やっぱりアンタもか!」と言った具合に恥ずかしげも無く議員の座に居座る事は、もはやワンパターン化している。

             

            その元凶は「安倍総理」その人に他ならない。今回もワンパターン化した例の「任命責任はまさに総理大臣である私にございますので、こうした結果となりましたことに対しまして、おわびを申し上げたいと思います」との事だが、そうした言葉自体が常に「お詫びしたいという希望」を述べているだけで、実に軽い。だから単にその場を取り繕う以外の何の意味も持たず、事実、似たようなことが何度でも起きる。そういうことから見ても、実質的な何のお詫びも為されず、「任命責任」などと言葉はしても、その責任が果たされた試しすら無いと言える。

             

            それに最近の自民党自らの「気の緩み」という言葉の真意は、「驕り高ぶる余り、腹の底では自民党が国民をバカにし切っている事を包み隠しておられないほどに気が緩んでいる。」という意味であって、間違っても「(気の緩みで)油断が生じて誠心誠意国民に尽くし切れていない」という殊勝な心掛けであるはずもない。

             

            そんなの誰だって見ればわかる。

            | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 14:49 | comments(0) | - |
            今日も朝から「朝鮮半島有事」ですか?
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              相変わらず米国も日本政府もテレビ報道も、あたかも今起こっている(とされている)事が「自然の成り行きとして不可避」であるかの論調ですが、まったく何をかいわんやです。

              国連決議云々にしても、国連自体が常任理事国の実態を鑑みるまでもなく、第二次大戦の戦勝国を主体とした「差別意識」が未だに反映されている組織でしかないことは事実で、百歩譲ってその事を抜きにしても、そもそもアメリカが武力行使に踏み切るための「レッドライン」なるものを一方的に想定したのも「アメリカの独断」に相違無く、その強硬姿勢を「全面的に支持する」などと、ろくな展望も持てずに追従したのは他ならぬ安倍晋三率いる「日本政府」です。

              このことからも安倍晋三の頭の中には「原発事故」と同じように、「戦争を真剣に回避しようとの殊勝な心積もりは皆無」であることが判ります。また悪いことに大半の日本人は、政府と財界、マスコミが一丸となった「悪辣なマインドコントロール」によって作り出されたバーチャルな世界観の中で生かされており、まったく現実感を感じることが出来ずにテレビのインタビューで「ハア、なんか・・コワいですよネ〜」「こんなんで戦争になっちゃうの?って感じですよネ〜」などと、まるで夢でも見ているような顔して答えています。

               

              自分の国の政府が「北朝鮮に対する(米国による)先制攻撃を肯定している」事に対して、国民としてそれを「容認」していながら今更「エーッ?まさか〜」は無いでしょう!国として「他国に対する武力行使」を肯定してしまえば、その時点で「自分たちがミサイルのターゲット」にされるのは、これ以上無いほど当たり前のことではないですか。(他国に攻撃の意思を持つ諸外国はみなそうでしょう。)

              それが嫌なら「立憲主義」に基づき、憲法改正(=改悪)を公言して止まない現政権を「みんなして政権の座から引きずり下ろす」しかないでしょう。(夢見心地でボヤ〜っとして漫然と生きていられる時代はとっくに終わっているのです。現実に立ち返りましょう!)

              | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 10:50 | comments(0) | - |
              「北朝鮮問題」の当事者は誰か?
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                つらつら思うに、いったい日本の国民の誰に「北朝鮮問題」の当事者を名乗ることが出来ようか。たぶん政府の人間も霞が関の役人も、ましてや一般の国民に至っては凡そ「当事者(=責任者)としての自覚」など持てる由も無い。何故なら「昨今の北朝鮮問題」の当事者は「北朝鮮当局者と北朝鮮人民(国民)」に相違ないからだ。

                にも関わらずテレビなどで報じられるままに、重要な国内の問題もそっちのけで「北朝鮮が大変だ」とばかりに朝から晩までそれに現(うつつ)を抜かしているのが既に「昨今の日本人」の特徴となっている。少なくとも日本人として日本国に対する当事者意識(=責任)を痛感している者であればそんな余裕も暇も無いはずだ。またそういう人であれば「北朝鮮問題の当事者は誰か?」という問いの答えなどとうに理解しているはずで、それは他のあらゆる国々に対する同様の問いの答えと変わらないはずだ。

                 

                一方で我々日本人にとって、日本国内に於いて決定されるありとあらゆる事は、それが直接的であれ間接的であれ、自分たちの責任であることは間違いない。何故なら「主権者は国民一人ひとり」と定められているからだ。それを前提として、おかしいと思うこと、腑に落ちないことに対してきちんと「責任ある意思表示」をしているのだろうか?選挙で自ら票を投じた政治家たち(=自分たちの代表者)に対して責任ある目を向け続けているのだろうか?

                例えば「北朝鮮からミサイルが飛んでくるか来ないか」についての半分以上の話は「日本の国内問題」に属する。何故なら、当該国に対して「軍事的対決姿勢」を示すか示さないかは「日本の完全な国内問題」だからだ。そのような日本側の決定如何で相手国の態度や意思決定の在り方が変わってくるのは当然だろう。だからその意味で、日本人は当事者として「日本の国内問題で責任を示せ」と言っているのだ。

                 

                まるで問題には「国際問題」と「国内問題」が有って、こと「国際問題」に関しては自分たち(=日本)のせいでは無いとでも言いたげな「無責任な論調と対応」が横行している様だが(そういった意識的な情報操作も含めて)これは勘違いも甚だしく、(外交問題も含めて)日本国としてのあらゆる意思決定の全ては、当事者としての国民の総意が反映された「国内問題」として捉えるのが正しく、もしそうであれば単に「北朝鮮が大変だ」といったような無責任で軽薄な感覚はまったく似つかわしくない。

                 

                元来、日本人にとって無責任や軽薄さは相容れないはずのものだが、そろそろネジを巻き戻すべき時ではないのか。

                | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 17:42 | comments(0) | - |
                最近続き過ぎる「閣僚クラスの政治家」の不祥事
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                  これら一連の問題は(総理大臣を筆頭に)どれも(人としての)レベルが低すぎて、そもそもそんな話を耳に入れたくもないし、それについて話したくもないというのが正直なところです。

                   

                  思えばどこの小学校の教育目標にも「考える力を養う」という類のものが掲げられており、それは当然「自分で考えられた分だけ自分で行える」という意味を含んでいる訳です。そうなると最近の(不祥事絡みの)政治家諸氏は、この「考える力」も無いとしか言いようが有りません。何故なら、見ている限りでは「不祥事の後の身の振り方」がまったく道理に適わず「なってない」からです。どの人も少なくとも「自分で考えて自分で行動する能力が有る」とはとても思えない対応で、それは強いて言えば「何が起こったか判らずその場に茫然と立ち尽くしている」姿に限りなく近いものです。それが証拠にほとんどの人たちが「辞任しない、辞職しない」からです。但し(曲がりなりにも)発言等に対する「謝罪、訂正、撤回」が行われているのは「自分で考える力」によるものではなく、さすがに「誰かに背中を押された」からです。つまり本来は(背中を押されなければ)揃いも揃ってそれすらも出来ない人たちということになります。(それってヒド過ぎませんか?)

                   

                  とにかく「考える力」が無いことが判明した限りに於いては、この際「謝罪、訂正、撤回」に留まらず、「辞任、離党、辞職」の必要な一連の行動に関しても、逐一「誰かが」というより「みんなで背中を押してあげるべき」だと思います。そうでないと、この人たちは(その場で茫然としたまま)いつまで経っても自分で態度を決することが出来ないようです。それではいつまでも晒しものとなって気の毒ですし、みんなも大いに迷惑しています。つまりそうすることがお互いのためだということです。

                   

                  因みにそういう不祥事絡みの「考える力の無い人」の多くで東京大学、財務省など学歴、経歴共に一流の人たちを見かけますが、「勉強の仕方を誤ると肝心の小学校レベルの考える力さえまったく育まれない」という好例とされ「要警戒」と言えるでしょう。

                  | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 12:38 | comments(0) | - |
                  「人格形成」の実践について
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                    よく宗教的に「悟り(覚り)」を開くとして、座禅や瞑想、断食や山中での荒行などが挙げられますが、これらは基本的に「独りの環境」が前提となっています。それらの良し悪しについては、この場では敢えて申しませんが、こと「人格形成」に至ってはそのような「単独の場」よりもむしろ、社会に於ける「人との関わり」の中で実践する方が遥かに効率的且つ合理的と考えられます。何故なら、そうした環境の下では自動的に「責任や負担」が目に見える形であらゆる行動に付与されるからです。それらは「人格形成」にとって非常に有効に活用されることになります。

                     

                    例えば社会生活に於ける「共同作業」や「分担作業」の場を想定して見ると、そこに参加する人々が最初に行なう事は「役割分担の振り分け」に違い有りません。(それが無ければ社会は単なる「烏合の衆」に過ぎないからです。)その際気付くことは、役割にはそれとなく「人気の高いもの、低いもの」「人が好むもの、嫌がるもの」などの評価の違いが有るということです。

                    その差がどこから来るものかと言えば、一般的には「楽なもの、簡単なもの」が好まれ、反対に「キツいもの、難しいもの」が敬遠されるという図式となっているはずです。つまり普通の人が普通に考えればそうなる、ということです。

                     

                    実はそこに「人格形成」のツボが隠されています。それは一言で言えば「ことごとく人の嫌がることを選択せよ」となります。つまり自分のベクトル(方向性)を決して「楽で簡単」な方向に向けないということです。

                    これは(あれこれ捻出され考案された)単なる「難行苦行」とは異質のものです。何故なら、それは必ず「誰かがやらなければならないこと」であり、ただそれを「率先してやっている」に過ぎないからです。

                    このように「社会性」と一体となって形成されて行くべきものが、本来の「人格」であり「人間性」であるということです。これによる「人間的成長」が著しいことは言うまでも有りません。何故なら「苦はやがて楽と感じられ、困難もやがて簡単に思える」ようになるからです。

                    | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 12:31 | comments(0) | - |
                    苦手意識の克服とは
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                      人間には元々個人的傾向として「好きなものと嫌いなもの」或いは「得意なことと苦手なこと」が有り、それぞれの傾向に対して自分自身がどう向き合うかが非常に重要となりますが、それは目的や目標の持ち方によって異なると言えるでしょう。

                      特に目的が「人格の形成」であった場合、「好きなものと得意なこと」は放っておいて良いでしょう。そして貴重な時間を費やすなら「嫌いなものや苦手なこと」により注目する必要が有ると思います。

                       

                      ここで一つの反論があります。それはおそらく「好きなものや得意なこと」こそ伸びしろが期待できるから、そこに打ち込むべき」というものだと思います。もちろんそこにもそれなりの道理は有りますが、その考え方は基本的に信頼出来る「分業システム」の存在と稼働を前提としたものです。つまり「誰かの能力の偏りを別の誰かが補う関係性」を想定しなければ成り立ちません。

                       

                      そもそも「人格」というものは「偏りを容認出来ない性質」のもので、しかも他人を当てにせず「自己完結を目指す性質」のものですから、必然的に「バランスと安定」をイメージしながら努力することになります。そうなるとどうしても精神的、実務的な双方の面で「アンバランス」の原因となる「苦手意識の克服」に力が注がれることとなり、それによってバランスの良い安定感のある人格、即ち「人格の向上」が実現可能となります。

                       

                      但し荒業としては確かに「自分の短所を一切気に止めず長所だけをひたすら伸ばす」という方法も存在するのは事実です。しかしその場合も「一定の境地」に達した後は、やはり「短所(=苦手意識)」に戻って克服に着手することになります。

                       

                      しかし今の時代、このような「人格の向上」を目的としたノウハウの話をいったいどれだけの人たちが必要としているのか、甚だ疑問と言わざるを得ません。

                      「人格の向上」は霊的に見れば「霊層の向上」ひいては「運命の向上」を意味し、人生に於いてこれほど重要な目的は無いのですが、それを抜きにしてどのように「無難息災」を望めば良いのか、私にはよく解りません。

                       

                      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:57 | comments(0) | - |
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