ここでの「仮想現実(ヴァーチャルリアリティ、VR)」は(能動的に仮想体験を求める)ゲームやテクノロジーの話では有りません。そうではなく人々が知らず知らずの内に「真実や現実を誤認して、誤ったイメージをそれと信じ、それに基づいて生きようとしている有様」の事を言っています。
それについてはまず、現代に生きる人々が「何を以って真実(=現実に存在し起きている事)」としているのか、その傾向を確認しておく必要が有ります。
その昔、今よりも情報源が乏しく人々の行動範囲も限られていた時代に於いては、「物事を知る」ということは「実際に見聞する事」を意味していたはずで、仮に人づてに「不確かな噂」を耳にしたとしても、(話の出処にも拠りますが)それを即刻「事実」と受け止めることはそう多くは無かったはずです。
しかし現代では大きく様相が異なり、「実際の見聞、直接的な経験や体験」の(真実を知り得る情報源としての)比率は遥かに少なくなり、代わって「情報提供業者(=メディア、マスコミ)」や「情報の権威や信憑性を附帯する業者(=学者、評論家など)」から(確認する術もなく)一方的に与えられる情報を以って、それを「真実」「現実」と認識するよう大半の人々が習慣づけられてきた様に思います。
また、そのような「情報提供業者」は暗黙の内に、単に「事実」を伝えるだけではなく(親切なことに)「事実とされた物事の価値判断」まで(面倒臭がりの個々人に代わって)代行してくれるようになりました。即ち重要とされる事柄については「大声で(しつこいほど)繰り返し」伝えられ、どうでもよいとされるものは殆ど「スルーされる」といった具合です。
そしてそれら「業者側」の思惑が更に講じると、今度はそこに「脚色」を通り越してあからさまな「捏造」や「隠蔽」までも行われる場合がある事が、取り分け近年指摘されるようになりました。そうなると、そこから先はいよいよ禁断の「仮想現実(ヴァーチャルリアリティ、VR)」の世界です。
何故そのような「真実をめぐって(あってはならない)情報操作」が行われるのか。それは「提供者である業者側」と「受理する側の個々人」との間に「利益相反」があるからに他なりません。つまり「利益によって動くのは業者の常」だということです。
そうした「業者」に過度の期待をするのも酷なのですが、それよりも問題は「スマホやパソコン、テレビにかじりついてタレ流される情報の中で満足を求め、或いはそこで納得してしまおうとする人々の生きる姿勢、態度」であろうと思います。
そうした中では、自分が実際に日々の生活の中で味わい感じている自分なりの「確かな現実」が余りにも過小評価され、場合によっては(自分自身によって)踏みにじられています。スマホ画面を睨め付けながら「世の中に合わせなくちゃ」なんて・・・まったく何を言ってるんでしょう。
そうした場合「みんなが同じ情報に踊らされている」ということのみが唯一の事実であり現実であって、その「音頭取り」をしている元々の情報自体が「仮想現実という(意図的に作られた)実態の無いもの」である可能性の方が、今の世の中では遥かに高いと思われます。
何故なら誰にとっても「自分の足元」だけが(自分の知り得る)唯一の現実であって、それと無縁で何の接点も無いものを現実と捉え、そこに価値を求める事自体がその人にとって殆ど意味を為さないからで、そのような情報に安易に飛びつく事は逆に「自分自身を見失ってしまう」恐れさえ抱かせます。(そのようなことはもはや日常的に意図的に行なわれています。)
繰り返しますが「みんなと同じだから安心」という納得の仕方や目標の持ち方は「かなり危険」です。その場合の「みんな」とは誰なのか、それ自体が実態のあやふやな「仮想現実」である恐れが多分にあります。
そうでなくとも人間一人ひとり、皆「直面する現実」は異なるものです。それにしっかりと対処していくことが人間にとって最も重要であることは昔も今も変わりません。にも関わらず、どうして人間はこんなにも情報如きに翻弄され、付和雷同するようになってしまったのでしょう。