このブログは元より、次世代を担う若者や子どもたちにとっての不幸(=それは殆どの場合、大人たちによって与えられる受動的なものですが)を除去、軽減していくために必要な提言を行ない、また可能な限りの対策を講じる事を目的としています。
巷では「老害」などという言葉も時折り耳にしますが、大人が子どもたちの足を引っ張り、子どもたちの将来を破壊するなど言語道断で、まさしく自然の摂理に反する行為と言って良いでしょう。(凡そ自然界でそんなことが平然と出来るのは人間だけです。)
これは殊更子どもをターゲットとしてその破壊を目論むと言うより、大人自身が自己中心主義を高らかと掲げ、子どもたちの前で(臆面もなく)自己主張を展開することで容易に実現出来るため、ほとんどの場合「無意識、無感覚」で行われています。しかし繰り返しますが、自然界でそんなことをするのは「人間だけ」なのです。
ところで安倍政権が発足以来強力に推進してきた「愛国教育、全体主義教育」の流れは、森友学園問題がクローズアップされた事で多くの国民が強い違和感を感じ、一定の歯止めが掛けられた様で何よりです。これを契機として今後は更に、明らかな改悪と言える「教育基本法」、胡散臭さ全開の「教育振興基本計画」など、早急に見直す必要があると思われます。何故なら、これらは何れも前述の「愛国教育、全体主義教育」の布石としての意味合いが強く感じられるものだからです。
しかし何故、安倍政権が比較的短期間で私たちが強い危機感を覚えるまでに教育環境を変容させる事が出来たのか、という問題が有ります。そのキーワードが「対立軸」です。
つまり「ゆとり、(個人の)自由」がダメなら「強制、全体主義(=愛国)」という対立軸がいきなり持ち出されますが、思えば安倍政権は一貫してこの手法でこれまで突き進んできたと言えます。
そもそも「決められない政治→決められる政治」から始まって「対話路線→強硬路線」「官僚主導→政治主導(支配)」「歴史的教訓→歴史修正主義」「平和主義→軍国主義」「プライバシーの尊重→監視(管理)社会」となり、遂には行き着くところ「民主制→強権支配(絶対君主制?)」しかなくなってしまいます。
このような政権の振る舞いには「忍耐」とか「調和」といった、人としての美徳の要素がまったく有りません。これらは特に人の上に立ち、リーダーシップをとる人間には「絶対不可欠」の要素です。何故なら「対立軸」とは課題や問題を明確にするための謂わば「極論」として無意味とは言わないまでも、それ自体を「答え」として用いるべき代物とは言えないものだからです。(そもそも対立するのはそれらが「極論」だからです。)
ですから物事の「調和」を図り、多くの人たちにとってバランスの良い納得の行く答えを導き出すためには、それなりの時間と手間暇が掛かり、その作業に「忍耐」が求められるのは当然ですが、結果はその努力を補って余り有るものとなるはずです。因みに「調和」には、相手の身になって物事を感じたり考えたりする心や能力が求められますが、まさに政治家にはそれが絶対に必要と言えるでしょう。
つまり「対立軸」で表されるところの「(わかりやすい)極論」に安易に跳び付くと、為政者も国民もとんでもない目に遭い、痛い思いをするということを安倍政権によって私たちは学びました。もちろんその中には学校へ通っている多くの子どもたちも含まれています。それ故、私たちはいち早く「日本国」として進路を修正する必要に迫られているのです。
その手掛かりとして、私たちは常に「中庸」「中道」を目指すべきだと思います。しかし世の中の形や構成要素、そこに集う人々の状況や、そもそも自身の状態さえも日々変化するものですから、それに連れて「何を以って中庸(中道)とするか」も日々変化するでしょう。
ですから「完璧」を求めるではなく、何よりそうした心を持つことが大切であるということだと思います。
例えば「自分に厳しく、人には優しく」という在り方も、非常に上手い心のバランスの取り方と言えるのです。