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進化論?・・・変化論だろう。
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    生物が環境に応じて徐々に機能の強化や退化を果たし、更に何世代か掛けてそれを固定化する。

    何故そういうことが起きるのかと言えば、あらかじめ「変化」の幅を持たせたプログラムが為されているからだ。

    だからもし、そういうプログラムの存在が無ければ、その生物は環境の変化を受けて死滅するしかない。

    このようにプログラムの範疇に於ける(=予め想定された)生物の変化を「進化」と認めるには違和感は否めず、ならばさしずめ「ダーウィンの変化論」というところか。

     

    ※ 実際、科学者の認識としても「進化=個体群内の遺伝子頻度の変化」として定義されているに過ぎず、そこに生物的「進歩、向上、前進」という意味合いは必ずしも存在せず、あくまでも「環境との相対的関係」のみである。

    | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 12:47 | comments(0) | - |
    今、何が起きているのか?
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      社会に於ける「思想の紊乱(びんらん)道義の廃頽(はいたい)」がこれに極まり、我も我もと無数の悪が乱立するに至れば、当然社会全体に明白な実害が生じ、それにつれて危機感が増大するに及び、如何に寛容で辛抱強い人々の間にも、さすがに「これはまずい」と、方向性の「是正、矯正」の動きが起きてくる。

       

      おそらくは身近な事、自分たちの手近な問題を何とかしようと思って問題提起してみれば、何とそれが国家を揺るがす様な「巨悪」に繋がっていたという話にまで発展し、今度はその「巨悪」を追求する内に、芋づる式に周辺から末端に至るまでの「大小無数の悪」が絡め取られていくさまを、私たちは目にすることとなっている。

      つまり広くは「洗脳」、周辺に於いては「懐柔」によって、あらゆるものが繋がっていたということだ。

       

      何れにしても物事は「決まった通り」にしかならないし、それは「誰が勝手に決められる」というものでもない。

      ただハッキリと言えるのは、一人ひとりが「やるべきこと」をやれば、物事は必ず「決まった通り」になって行くということだ。そして「それが何か」を見定めることこそが、その人間の「甲斐性(=価値)」と言える。

       

      何故「決まった通り」にしかならないのか?それが「最も法則に忠実な論理的解答(=正解)」と呼べるものだからだ。更にそれが「人間の範疇に存在するものか?」と問われるならば、「本来在るべきもの」としか言い様がない。

      それが「理」という一言に集約されるものであるとするなら、もはや「無理の通らない時代」に突入したことを、私たち万人が推して知るべきだと思う。

      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:14 | comments(0) | - |
      「神は存在するか否か」という基本的命題について
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        例えば「存在しない」とするなら(宇宙を含む)この世界のあらゆる構成要素の生成(それは当然「生命の起源」をも含むすべてということになるが)に対して「何らの意思も働いていない」という結論とならざるを得ません。

        それは言葉を換えれば「すべてが確率任せの偶然、偶発的な出来事の結果の積み重ね」であって、どんなに論理的にバランスの保たれた状況があろうと、それも「たまたま現状が(幸運にも)そうだ」という意味でしかないことになります。

        つまり「神の存在しない世界観」とは、(そうした意識の有無を問わず)そのように「圧倒的な刹那感」をベースとせざるを得ないということです。となればこうした場合の「バランス」とは当然、目的としての「共存」の意味を為さず、むしろ「自然淘汰(=真の安定?)」に向かうための一時的通過点と捉えたくなるのも合点がいきます。

        ですから、そのような人々にとっての「生きる」というイメージが「覇権争い」そのものであるのは当然と言え、彼らが「我々にはその自由がある」と感じるのもこれまた当然ということです。

         

        一方でどうしても「元素→アミノ酸→タンパク質→生命体→進化→人間」という流れは理解出来ないでもないにしても、それらをすべて「偶然の出来事」とすることに、どうしても(心情的に)納得の行かない人々がいます。何故なら「そこに統一的な意思が存在し作用した」とすることで、(技術的、構造的解明以外の)あらゆる憂いや疑問が「瞬時に解決」するからです。

        少なくとも彼らは(まるで魔法めいた)途方もなく微少な確率を肯定するための作業から開放される代わりに、(歴史的な過去の遺産をも含む)現状をつぶさに観察、分析することにより、「物言わぬ神の意思」なるものを可能な限り究明していく必要に迫られることになるでしょう。何故ならそこには必ず「目的や目標」が存在するはずであって、それをはき違えると「神の意に沿わない」という状況が生じるおそれが出てくるからです。

        このように「神は存在する」とした時点で、その人々にとっての「生きる」というイメージが「神の意に従う」となるのは自然なことであって、その際重要となることが「神(の意)を正しく理解する」に尽きるのは言うまでもありません。

         

        私の見るところ、現代に生きる大半の人々の生き方には上記の様な明確な意思表示は見られず、ともすると「どっちつかずのいいとこ取り」をしたがっているようにしか見えません。

        即ち「自然淘汰」を受け入れ、堂々と「覇権争い」を標榜して矢面に立つわけでもなく、さりとて「神の意に従う」ため「神を正しく理解」しようとするわけでもありません。

        ある意味「中途半端」を保つことで、何らかのリスク管理をしているつもりかも知れませんが、私には逆に非常に高リスクな生き方としか思えません。何故なら「信念」の無いところには論理性が感じられず、それが「柱のない家」のように思えてならないからです。

        | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 10:29 | comments(0) | - |
        「思想の良し悪し」と「頭の良し悪し」は全く別物
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          通常「頭が良い」と言えば即、「論理的思考に長けている」と思われがちですが、決してそうではなく、実は「より論理的思考に長けている」のは、むしろ「思想が良い」人の方です。何故ならその人は常に「自分の良心」に基づく良識によって物事を判断出来るからです。

           

          思想が良い証しである「良心に従う」ことがどうして「論理的思考」と呼べるのかについてですが、それはそもそも「良心」の実体が「高度な論理の集積」であり、私たちの内面で「理性」を司る役割を担うものに他ならないからです。

           

          そして「理性」が物事の構造的理解を促す働きを持つものであるとするなら、その力(=論理性)は「良心」から引き出されたものと考えるのが自然です。更にはその「良心」を活用する由縁となるのが「良い思想」ということになり、結果として「思想が良い=論理的思考に長けている」という図式が成り立ちます。

           

          但し、ここでいう「論理的思考」とは、単純に「数学や物理学の勉強が得意」という意味ではなく、万事に於いて「物の道理に沿った理解や判断が(無意識、無感覚に)出来る」状態を示します。(例えば優れた音楽作品なども「論理的構造物」と言えますが、通常そのことを私たちが意識することは殆どありません。)

           

          では最後に「単に頭が良い」とはどういう状態を指すのかと言うと、「高度で本質的なレベルの論理を疎かにして、ともするとそれが欠落したまま、より下位の技術的理解に終始する状態」と言い表すことが出来ます。

          無論「思想が良く、頭も良い」のであれば「鬼に金棒」に違い有りませんが、重要なことは「優先すべきは何か」ということです。

           

          ※ 「思想が良い」とは、自分や身内と他人を(少なくとも)同列に思え、扱える人。「思想が悪い」とは自分や身内と他人を(明らかに)同列に思えず、扱えない人。もっと言えば「人の痛みがわからない人」。

          | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 17:12 | comments(0) | - |
          日本軍の「毒ガス兵器」について
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            日本は8月15日に72回目の終戦記念日を迎えたが、それに先立ってNHKが13日にNHKスペシャル『731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜』を放送、また15日にはTBSが『NEWS23』の中の特集番組として「綾瀬はるか「戦争」を聞く〜地図から消された秘密の島〜」を放送した。何れも旧日本軍の細菌兵器や毒ガス兵器といったいわゆる「非人道的」とされる兵器の製造や使用の実態に迫るものとなった。

            (リテラの記事は以下のリンクをクリック)

            『731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜』について

            「綾瀬はるか「戦争」を聞く〜地図から消された秘密の島〜」について

             

            戦後72年を経てこうした報道が為される一方で、日本は長い間「731部隊の存在や毒ガス兵器の使用」などを国内外に対して表立って表明する事を避け、どちらかと言うと「曖昧模糊とした状態」にさせたがっているのを、私自身肌で感じてきたものだ。

            しかし残念ながら、少なくともこのうち「毒ガス兵器の使用」に関しては(十数年前に)それを使用した元兵士から直接話を聞かされたので、それ以来個人的にはほぼ間違いないと思っている。

             

            その元兵士は当時戦闘機パイロットとして中国戦線で戦っていたそうで、その折「自分は飛行機から毒ガス入りの爆弾を投下した。」と、はっきりと言っていた。

            何故私がその事を鮮明に覚えているかと言えば、ひとつは「そんなことを人前で堂々と言って良いのだろうか」という気持ちと、もうひとつには当時「毒ガスを爆弾に詰めて使用する」という知識の持ち合わせが無く、逆に「そうだったのか」という思いが強かったがためだ。

            参考までに「毒ガス爆弾」の実物→ https://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/pamph2/1-1.pdf#search=%27%E6%AF%92%E3%82%AC%E3%82%B9%E7%88%86%E5%BC%BE%27

             

            ということで、中国人に対する毒ガス兵器使用の信憑性は高く、その流れで言えば細菌兵器の使用も十分有り得たということになる。(どちらも同じ精神構造で使用出来るものだからだ。)

             

            何れにせよ、この際当時を知る当事者、関係者たちは洗いざらい証言した後、天寿を全うするのが誰のためにも良いと思う。

            | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 15:08 | comments(0) | - |
            警察「不祥事」の実態→リテラの記事を読むべし!
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              先日「高井戸警察署」が中学生に対して行なった「不当な取り調べ」(「不適切な取り調べ」ではない。何故なら取り調べの目的から完全に逸脱しており、取り調べと呼ぶに全く当たらないからだ。)について記事にしたが、昨日「リテラ」が大々的に記事にしてくれた事は喜ばしい限りであり、そこでは更に「警察の過去の不祥事の数々」までも列挙する形で、社会に対する問題提起がしっかりと為されている。

               

              リテラの記事はこちら→http://lite-ra.com/2017/08/post-3383.html

               

              こうした「警察不祥事の実態」を識るに付け、「ごく一部の心ない警察官(或いは警察官僚)が存在する」と考えるとしたら、それは「全く当たらない」と言って良い。そればかりかむしろ「半分以上はそうなのだろう」と思っても決して間違いではなかろうと思う。

              何故なら、大多数の警察官や警察官僚がそんなに「真っ当」なら、警察自体が当然の如く、とっくの昔に「不祥事の起こり得ない組織」となっていなければ辻褄が合わないからだ。(そうしなければ居心地が悪くて仕方ないはずだ。)

               

              上記の理由から、現状の警察は「国民の信頼を得るに値しない」と見られても致し方ないだろう。それに口惜しさを感じるなら、心ある警察官、警察官僚は内部から「命がけで組織改革」を断行すれば良い。そんなことは容易いはずだ。(元々命がけで取り組むべき職種だからだ。)

               

              ※ 因みに私個人としても生涯を通じて警察とは関わりの濃い方で、小学生の時には「誤認による不適切な取り調べ」の実体験すら持っており、決して客観的な情報だけで判断している訳では有りません。

              | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 10:42 | comments(0) | - |
              高井戸警察署の「不当な取り調べ」事件について
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                警察への信頼を根底から覆し兼ねない、余りにもくだらなすぎる(口にするのも憚る)内容に付き詳細は差し控えるが、当時の署長の監督責任、署内の管理不行き届きは明白であるにも関わらず、左遷、更迭、処分されたという報道が為されないのはどういう訳だ。警察に限らず組織というものはそういうものだろう。それとも事の重大さが解っていないのか?だとすればこの際徹底した「指導、再教育」が必要なのは、むしろ上の連中に違いない。とにかく、そうした問題の本質をぼかすような「トカゲの尻尾切り」でお茶を濁そうとするのは止めた方が良い。(自分たちがクズであることを自ら告白するようなものだ。)

                 

                外部リンクによる報道の詳細はこちら→https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170810-00000065-jnn-soci

                | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:24 | comments(0) | - |
                「瓦解、崩壊の年」は残り半分となりました。
                0

                  これは一年間を霊的な区切りである立春→節分までと考えればそうなると言うことです。振り返れば政治の世界では、まるで計ったかのように2月を契機に歯車が狂い始め、僅か半年たらずの間にまったく様相が変わってしまいました。

                   

                  もちろん如何なる結果現象にも理由(=原因)が有りますが、それらの多くは目に見える形だけで説明(=証明)し切れるものではなく、正確な認識や把握のためには「霊的要因」を識る必要が有ります。この「霊的要因」は、何も特別な人々だけが識り得るものではなく、誰しもが持っている「心の本質的な部分」である「良心」によって、本来であれば誰しもが認識可能なものであることは、是非識っておいて頂きたいと思います。

                   

                  何故なら、人間は誰しもがそれぞれ「自己の運命の責任」を担っているものですから、霊的、物的それぞれの要因をその都度適切に認識しつつ未来を形作っていく能力が備わっていると考えるのが極めて自然なことだからです。(もしその能力を未だ発揮出来ずにいるとすれば、それは教育を含む誤ったマインドコントロールによるものです。)

                   

                  程なく霊界の指導、先行による「大規模な価値の転換」が起こり、それに連れて社会の様相も一変するでしょうが、それらが霊的に定義されるところの「昼の時代」に相応しいものであることは間違い有りません。

                  であるとすれば、私たちは今こそ「自らの良心」に一層磨きを掛けて、そうした「時代の転換」に備えておく必要が有ると思われます。

                  | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:43 | comments(0) | - |
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