例えば「存在しない」とするなら(宇宙を含む)この世界のあらゆる構成要素の生成(それは当然「生命の起源」をも含むすべてということになるが)に対して「何らの意思も働いていない」という結論とならざるを得ません。
それは言葉を換えれば「すべてが確率任せの偶然、偶発的な出来事の結果の積み重ね」であって、どんなに論理的にバランスの保たれた状況があろうと、それも「たまたま現状が(幸運にも)そうだ」という意味でしかないことになります。
つまり「神の存在しない世界観」とは、(そうした意識の有無を問わず)そのように「圧倒的な刹那感」をベースとせざるを得ないということです。となればこうした場合の「バランス」とは当然、目的としての「共存」の意味を為さず、むしろ「自然淘汰(=真の安定?)」に向かうための一時的通過点と捉えたくなるのも合点がいきます。
ですから、そのような人々にとっての「生きる」というイメージが「覇権争い」そのものであるのは当然と言え、彼らが「我々にはその自由がある」と感じるのもこれまた当然ということです。
一方でどうしても「元素→アミノ酸→タンパク質→生命体→進化→人間」という流れは理解出来ないでもないにしても、それらをすべて「偶然の出来事」とすることに、どうしても(心情的に)納得の行かない人々がいます。何故なら「そこに統一的な意思が存在し作用した」とすることで、(技術的、構造的解明以外の)あらゆる憂いや疑問が「瞬時に解決」するからです。
少なくとも彼らは(まるで魔法めいた)途方もなく微少な確率を肯定するための作業から開放される代わりに、(歴史的な過去の遺産をも含む)現状をつぶさに観察、分析することにより、「物言わぬ神の意思」なるものを可能な限り究明していく必要に迫られることになるでしょう。何故ならそこには必ず「目的や目標」が存在するはずであって、それをはき違えると「神の意に沿わない」という状況が生じるおそれが出てくるからです。
このように「神は存在する」とした時点で、その人々にとっての「生きる」というイメージが「神の意に従う」となるのは自然なことであって、その際重要となることが「神(の意)を正しく理解する」に尽きるのは言うまでもありません。
私の見るところ、現代に生きる大半の人々の生き方には上記の様な明確な意思表示は見られず、ともすると「どっちつかずのいいとこ取り」をしたがっているようにしか見えません。
即ち「自然淘汰」を受け入れ、堂々と「覇権争い」を標榜して矢面に立つわけでもなく、さりとて「神の意に従う」ため「神を正しく理解」しようとするわけでもありません。
ある意味「中途半端」を保つことで、何らかのリスク管理をしているつもりかも知れませんが、私には逆に非常に高リスクな生き方としか思えません。何故なら「信念」の無いところには論理性が感じられず、それが「柱のない家」のように思えてならないからです。