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「便利」と「危険」は常に表裏一体
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    歴史的に見ても「便利なもの」は全て(使い方を誤れば)「危険極まりないもの」に変貌するという経緯が有ります。

     

    例えば「兵器」一つ取っても、元々は農耕や狩猟のための「便利なツール」として考案されたものを転用したのが始まりでしょうし、その意味では車両、船舶、航空機など近代戦の主役たちも、元々は人々の暮らし向きを向上させるためのアイデアを転用したに過ぎません。(核兵器も然りです。)

    また、現代の戦争に於いてはコンピューターが多用されていますが、これも典型的な「便利ツールの兵器利用」と言えるでしょう。

    このように私たちの暮らしを豊かにするはずの「便利なアイデア、テクノロジー、ツール」などは、それを利用する人の心次第で全て(人類にとって)「危険極まりない存在」と化してしまうことを、私たちは歴史的教訓からも再確認する必要が有ります。

     

    しかし「兵器」であれば、そうした話もまだ解りやすいと言えます。世の中には、兵器よりももっと厄介で極めて危険な「ツール」が在ります。それは使い方を誤れば「極めて大きな破壊力」を持つものです。

    それは「お金」です。

    お金は元々、需要に対する供給(=物々交換)をより円滑に行なうための「便利ツール」として考案されたに違い有りません。それは「価値の経年劣化がない」「いつでもどこでも何とでも交換出来る」といった、物にはない特徴によって実現出来ました。(言い換えれば「物の不便さ」を克服するためのツールであった訳です。)

    ですから人々の暮らしぶりや経済感覚は従来のままであっても何ら問題無く、ただ取り引きの際にお金を介在させることで物々交換の際に生ずる「わずらわしさ」が軽減されるというだけで十分に便利であったはずです。

     

    しかし案の定、事はそれだけでは済みませんでした。それは便利さの裏返しとしての「蓄財」と、手軽さの裏返しとしての「喪失」という現象に象徴されるように、お金が人々の経済感覚を一変させ、そのために人々の暮らしぶりまでがお金に左右されるようになってしまいました。

    こうしてお金は便利なツールである「脇役」であったはずが、いつの間にか人々の生活の中心を占める「主役」にまでのし上がってしまった訳です。

    ですから人々は簡単にお金に吊られ、お金に左右され、お金に振り回され、挙句はお金に支配されてしまうのも当然であって、更に不幸なことには「お金に麻痺させられた」結果、それらがおかしいことにも全く気付けないということのようです。(正確には「お金にされている」ではなく「お金を操る人たちにされている」ですが。)

     

    このように「お金にもてあそばれない」ためにはどうすれば良いでしょうか。

    答えは簡単です。世の中の動向がどうであれ、現在のトレンドが何であれ関係なく、自らがお金を人生や生活の中心に位置付けるような愚を犯さずして、昔ながらの「物々交換の代用品としての便利ツール」とわきまえて置きさえすれば良いのです。(そもそも「消費を煽る」などというのが「資本主義」特有の如何わしさそのものです。当たり前の感覚であれば人間は必要なもの以外は要りません。)

    私たちは、お金は人を死に追いやり、一家を離散させ、国を滅ぼし、世界を荒廃させるとてつもない破壊力を持つ「兵器」として日夜使われている、ということを忘れてはなりません。

    | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 09:11 | comments(0) | - |
    「インチキ臭い」とはどういうことか
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      今日のタイトルが「インチキとは」ではなく、敢えて「インチキ臭い」としたのには、それなりの理由が有ります。それは今の段階で具体的な事例を掲げて「これはインチキ」と一方的に明言し公言する事は時期尚早であり、それよりもむしろ私たち一人ひとりが「インチキの臭い」を嗅ぎとって、自らがそれを判断することの方がより重要と思われるからです。

       

      その上で話を進めますが、まず「インチキ(=嘘、偽、不正)」なものにはインチキ特有の臭いが有り、それは本物には決して無いものなので、その気になりさえすれば(インチキかどうかは)すぐに判明することが出来ます。ですから逆に見れば「インチキに騙され続ける」ということは、「本物を求める気持ちが乏しい(=インチキで構わない)」という内面の裏返しということになりますから、そのような人に「それはインチキですよ」と声を掛けても「余計なお世話」「有難迷惑」としか感じないでしょう。

      つまり世の中には(無意識のレベルに於いて)「好んでインチキを求める人」もいるということです。

       

      それでは実際に「インチキの臭い」とはどういうものを指すのでしょう。

      まず世間に於いて「(唐突感を伴った)繰り返し声高に熱弁される事(や物)」の大半は「インチキの臭い」がします。そこでは「性急」「強引」「一方的」「感情的」などの強迫的な特徴が見られ、物事の自然な推移を無視した「一大事、重大事、緊急性を煽る印象操作」によって、人々に対して沈着冷静な判断の猶予を与えません。(殆ど振り込め詐欺の特徴と重なりますが。)

      つまり「ヒステリックなものほどインチキ臭い」ということで、本物は前述したような特徴を一切持たないものです。(地味なもの(や人)ほど信頼出来ます。)

       

      また、大げさなパフォーマンスや目立つキャンペーン、派手なコマーシャルなどは、総じて裏で何かを「隠蔽」したいがためのカモフラージュ、目くらまし、見せかけとして用いられることが往々にして有り、それぞれ実質的な価値に対して「大げさ過ぎる、目立ち過ぎる、派手過ぎる」ことが胡散臭さ(=インチキ臭さ)を醸し出しています。

      昔ながらの「猫撫で声」や「うまい話」なども、本音を「隠蔽」するという意図に於いて、同様の胡散臭さが漂うものです。

       

      これら「インチキ臭さ」は、たとえその発信元がどこであろうと何であろうと変わりません。それは大企業や報道機関に限らず、例えばそれが日本政府によるものであろうが、国際機関によるものであろうがインチキ臭ければそれが「インチキ」である可能性は否定出来ません。何故なら、本物であればインチキ臭いはずが無いからです。(もし断定出来ないのなら、少なくとも注視しておく必要が有ります。)

       

      インチキに気付いて適確に対処出来るかどうかは「私たち個々の死活問題」に直結していることを忘れないでください。

      | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 11:14 | comments(0) | - |
      良い頭を何のために使うのか
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        やれ「東大生(東大卒)」やら、医者、弁護士ら「インテリ」と称する連中がやたらともてはやされ、クイズ番組などで茶の間を賑わしている昨今のテレビ事情だが、もちろん国を動かす立場にある政治家や官僚に至っては、今更ながらその手の「高学歴連中」が大半を占めることになる。こうした世情を鑑みればまるで「そうであることがブランド(=信用、品質)の証し」のように思えるが、本当にそうだろうか。

         

        本来、人間の「品質」とは(人間が社会的存在であることの裏付けとして)その「清廉さ」や「志の気高さ」、実質的な「包容力の豊かさ」などとして表されるものであり、当然それら「資質として備わったもの」を具体化するために「仕事力(=実務的能力)」が求められることは解る。その意味では「高学歴やインテリジェンス」が「仕事力」の一部を担保する要素であることも理解できる。だからそうした備えを持つ事を否定はしないが、それは「有れば有るに越したことはない」という程度のもので、到底“金科玉条(=絶対的な拠り所)”などと考えるべき代物とは言えない。何故ならそれは他にも幾つも必要な「仕事力」を支えるツールの一つに過ぎないからだ。

         

        にも関わらず、社会ではそうした「高学歴系」の人たちがあたかも天下を取ったように振る舞う傾向があり、実際に社会はそうした人々によって支配されているかのように見える。インテリジェンスによって卓越した視野を有するから?インテリジェンスによって正確無比な分析力を有するから?・・・・・違う。エリート意識がもたらす「差別思想」によって、おぞましいほどの「権力欲」が働き、そのためには何でもするからだ。(たとえ人の道に背くことでも。)

        これは決して想像で物を言っている訳ではなく(以前のブログにも書いた通り)私は実際に(建設現場での不正行為を見なかったことにした高学歴の)父親から、昔ながらの不正(=反社会的行為)の実態を聞いている。小心者であった父親でさえそうなのだから、肝の座った世のエリート連中がその百倍不正を行っているとしても何ら不思議ではない。

         

        要するに「頭がいい」とはそういうことで、おかげで私などは他人からそう言われると何だか「バカにされている」気さえする。何故なら「頭のいい輩」の大半は、その頭を「自己保身」と「野心を満たす」ためだけに使っており、自分もそんな風に見なされては適わないからだ。だから「いや、頭は良くないです。」と即座に否定する。

        実際(状況把握を含む)殆どの物事の判断に「頭」など使わないし、必要ない。それこそ「心が有するバランス力」プラス「幾ばくかの経験値」で十分なのだ。第一、ムダに頭を使うことはエネルギーの浪費であって、そんなことではとても何十、何百とある課題を効率よく適確に処理するなど不可能だろう。(頭がパンクしてパニックになるのがオチだ。)

        言い訳の上手い下手を別にするなら、高学歴やインテリと称する人たちの処理能力が概して高いとは決して思えない。事実、そういう人々の主導する社会の現状は課題が山積みされたまま惨憺たるものではないか。

         

        そろそろ「心のおぼつかない人々」は社会を主導するポジションから淘汰されるべき頃合いではなかろうか。

        | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 08:28 | comments(0) | - |
        何故、「教育の立て直し」が最重要課題なのか
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          この問いの答えが今ほど解りやすい瞬間は無いだろう。何故なら「教育を誤るとこういう人間になってしまう」という、まるで「失敗作の見本」みたいな人たちが入れ替わり立ち替わり現れては、(懇切丁寧に)それを教えてくれているからだ。

          それは「ナチスに学べ!」どころの話ではなく、まさしく「俺達に学べ!」と言わんばかりの「わかりやすさ全開」の人たちだ。その「アッパレ過ぎる言動」からは、「立派な反面教師として生を全うしよう」という高い志すら感じざるを得ない。(多分それは無いだろうが。)

           

          取り分け「安倍晋三、麻生太郎、菅義偉」の各氏に加え、最近では「小池百合子、前原誠司」らの活躍により、広く国民の間に「教育の誤りは国を滅ぼす」との認識がもたらされるに至った事は喜ばしい限りである。国民は「わずか一握りの間違った教育を施された人たちによって国家が崩壊し得る」という事実を知り得た訳だから、この功績は大きい。

          また、類は類を呼ぶ訳だから、この人たちの周辺や後ろ盾となっている人々も、やはり「誤った教育を受けた人々」ということになるから、これも解りやすい。

           

          結論から言うと「今、世の中は非常に解りやすい状況にある」ということであって、これで解らないとなればそれは解らない人自身に問題が有ると言えよう。

          それはともかくも「教育の誤り」は何も国政の場に限らず、そうした人々の立場に応じて社会のあらゆる単位のあらゆる部分でその健全な維持、発展を阻害し、それらが全体として「社会の衰退(=人々の分断)」という方向性をもたらしているのは明らかである。

           

          人々は肝心な事を忘れている。それは「本来、人と人は放っておいても結びつくもの」という認識のことだ。誰しも生まれ持った人間性が働けば必ずそうなる。(「まさか!」と思ったアナタ。それは絶望的なマインドコントロールによるものです。)

          そもそも「社会の発展の礎(いしずえ)は人と人との結びつき」に他ならない訳だから、それを否定する教育など有り得ないことになるが、しかし現実には「社会に於ける人と人の結びつきの希薄化」が進行しているとなれば、日本では実質そのような(本来有るまじき)教育が行われてきたということだ。でもどうやって?

           

          その方法は簡単だ。ただ「勉強は自分のため、だから自分のために勉強しろ」と吹き込むだけで良い。この魔法のおまじないだけで、人は「競争社会」を受け入れると同時に自ら「人間性」を排除し、代わりに打算や狡猾さを取り入れることになる。

          つまり能力の高い人は「力ずく」で打ち勝ち、能力の低い人は「他人を陥れて」自分が生き残るという寸法だが、もちろん「合わせ技」も有りだろう。

           

          そんなことだから「権力の座」に群がってくる輩にろくな人間がいないのは当然で、彼らは言い換えれば「人間性を捨てた人たち」であり、それ故「社会を破壊し、国を滅ぼす」ような発想しか持ち得ないと言える。

          そうならないためには、それこそ教育現場で「人間性を失うことは人間(=社会的存在)として名乗る資格を失うことであって、学や知識は決してそれに代わるものではない」ぐらいのことが言えないとまずいだろうが、今の先生たちでは恥ずかしくて言えないかも知れない。

          | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 10:29 | comments(0) | - |
          溺れるもの(藁ではなく)人間性を掴め!
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            人間が悪循環を繰り返す結果は「瓦解、崩壊」でしか有り得ない。無論この事に特例や例外は無いが、強いて言えば「手先やパシリの者たち」ほど(構造が単純なだけに)結果が顕著で速やかということは有るにしても、一旦「本体」が音を立てて崩れ始めればもはや打つ手はなく、破滅するしかないのは上も下も同じだ。

             

            何故そう言い切れるのか?それは(そこにわざわざ「神の裁き」などといった概念を持ち出すまでも無く)悪循環という行為そのものが、物事の「構造上の不安定要因をひたすら積み重ねる作業」に他ならないからだ。

            だから(繰り返しになるが)「悪循環が押し通る」などということは論理的に有り得ないのだ。(だから運が良いの悪いのは殆ど関係なく、崩壊点は事柄によって決まっていると見るべきだ。)

             

            但し、ここで一つ問題が存在する。というのも、人は「人間性」が衰退すると悪循環と好循環の区別すら付かなくなってしまい、こうなると事態は(本人にとって)まさしくお手上げ状態と言える。(自分や組織が瓦解、崩壊の際に立たされているという認識さえ持てない。)

            何故なら「人間性」の主たる機能として「不安定要因の検知とバランス調整」が有るからで、逆に言えば(いくら頭が良くても知識や学歴があっても)「人間性」の欠損した者ではその能力は著しく低い。

             

            そこで敢えて言いたいのは(バカの一つ覚えでも良いから)「溺れるもの人間性を掴め!」ということ。それは文字通り、現在の苦境(=悪循環)から抜け出したいのなら「自ら失われた人間性を立て直す」か、それが適わぬ際には「人間性豊かな人の助けを借りる」という意味であって、それ意外の選択肢は無く、またそれで「必要十分」ということだ。(そんな時「頭で物を考えても十中八九無意味」だ。何故なら、おそらく頭で一生懸命物を考えた末の結果が現在だろうからだ。

             

            神戸製鋼、日産、スバル、商工中金・・・・・(ということは他の企業も似たりよったりだろうが)みんな「悪循環」ではないのか。

            | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 11:26 | comments(0) | - |
            人々を戦争に駆り立てるのは簡単だ
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              まず「格差社会」を作り、人々の間に「生き残るため」として「弱肉強食思想」を蔓延させれば良い。そうすれば人々は自ずと「やっつけろ!戦争だ!!」と叫び始めるに違いない。

              何故なら「格差社会(=弱肉強食社会)」とは本質的に「互いの共存を否定」するものであり、その時点で既に「食われる立場の気持ちになって物を考える」という発想は無い。ということは「殺される立場に立って物を考える」という気持ちも無いということなので、いくら「戦争で人が死ぬんだよ。人が殺されるんだよ。」と言われてもピンともカンとも来ないというのも頷ける。

              その結果、ただただ人々は(生き残るために)遮二無二「食う側に立とう」との一心で、そのためには「何でもする」「何でも出来る」様になる。そしてそれが「格差社会に於ける正義であり美学」となる。

              そこでは「勝つこと」こそが正義であり美しいのだから、「(相手に)負けること、譲ること」は後ろめたく醜く惨めで美しくない行為とされるのは当然だろう。そうしていつしか「勝つことこそが何よりも勝る」という価値観が醸成されて行くことになる。

               

              しかし一つだけ言っておくなら、この「弱肉強食思想」には壮大な罠が仕掛けられている。その事は論理的に紐解くまでもなく、現日本社会で(社会がそうなってからこの方)日々至るところで起きている「人間にまつわる数々のアクシデント」によって既に証明されているのだが、ただ人々がそれと気付かないに過ぎない。

              それは一見「繁栄」に見せかけた壮大な「自滅の罠」ということだ。当たり前だ。「戦争(=殺戮、殺人)を平気で口にする」とはそういうコトなのだ。(事実、それをモロに食らった前回の敗戦直後は「誰も口に出来なかった」ではないか。)

               

              「弱肉強食思想」の典型的な例としては、資本主義経済に於ける「自由競争」などが挙げられるが、いくら自由と言っても「何でも有り」となるとそれこそ「無法地帯」となり、情け容赦の無い凄惨な社会となる事は目に見えているため、一応はそうならないための「法(=縛り)」を設けている訳だが、純粋に見ればそれ自体が「弱肉強食思想」からすれば相容れないものであることは明らかで、逆に競争(=発展)を阻害する要素、要因という見方すら出来る。(「自由化」「民営化」「市場開放」などは、体の良い「無法化」と言える。)

               

              一方で経済に於ける「自由競争」は一見「人殺し」と無関係にも思えるが、仮に勝敗の末「自殺者」が出たとしても「識ったことでは無い」「負けた者の自業自得だ」というメンタリティの下ではどちらも変わらない。(もし「人殺しとは違う」というのなら、そういう追い込み方まではしないはずだ。)

              つまり「格差社会=弱肉強食社会=自由競争社会」である限り、総じて「他人の命」は軽くなり、それに準じる形で法律、教育、常識などといった所謂「価値観」の変質が社会にもたらされる事となる。

               

              このように「競争社会」という概念を受け入れることで、自ずと人は冷酷で薄情となり、やがては己の(利害の)ためなら「人を殺す事も厭わない」という発想に至る。それが「相手が悪い」と言いつつ、戦争という「滅びの道」へ突き進む人々の共通のメンタリティであるとすれば、(結果としての)「戦争の是非」を問うても殆ど意味がなく、それよりも(原因としての)「競争社会の是非」をむしろ問うべきだろう。何故なら本音の部分で「過酷な競争社会」を望んでいる人など滅多にいないはずと思われるからだ。

               

              古来より、競争は「自分自身とするもの」であって「他人とするものではない」とされている通り、おかしいのは(それに合わせられない自分ではなく、他人との競争を無理強いする)「競争社会」の方なのだ。

              それより何より、人は「人間らしさ」を極めることで(人の力を借りながら)幸福に至れるように出来ているものと識る事が先決だろう。(こちらが本当の正義であり、真の美学だ。)

               

              | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 05:38 | comments(0) | - |
              衆院選で白日の下に晒された事
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                今回の衆院選で明らかになったことと言えば、世の中の多くの人々は「物事の論理的な理解」などとは殆ど無縁で、反面「目の前の薄っぺらな損得勘定」に支配されやすく、そうした傾向を「現実主義」と称して自己肯定を憚(はばか)らないという事だろう。(理想(=目的)を持たない現実認識は、単なる「無責任」でしかない。)

                 

                それが証拠には(本人や所属政党に如何に世間で疑惑の目が向けられようとも)代々続く「鉄板の地盤」を持つ候補者に票を投じることを正しいと信じて疑わない。何故なら、それが「自分自身と家族の安定」に直結するものと信じて疑わないからだ。もちろんそうした発想の根底には「自分(たち)さえ良ければいい」というエゴイズム(=反社会性)がある。

                 

                この事は「鉄板の地盤」が(候補者と有権者双方の)エゴイズム(=反社会性)によって成り立っていることを意味するが故に、そんな所から送り込まれてくる(反社会的人格の)政治家が「社会のため」に働ける訳がないし、そもそもそんな気持ちは更々無いに違いない。

                 

                もし、こうした悪習を改める方法があるとすれば、それこそ政治家が地元有権者に向けた「利益供与」を一切行えない仕組みを作るか、もっと言えば「地元からの出馬」という形態自体を廃止すれば良く、「それでは地元の声が国に届かない」と言うのであれば「自治体経由」で届く仕組みを作れば良いだけのことだろう。

                 

                余談になるが、今回の選挙では(野党の得票数を見る限り)「野党は候補者の一本化が実現出来れば勝てた」ケースが多々あったように思われる。その意味で言えば小池、前原両氏の行動は(有権者の側から見れば)単に「間違えました」では済まないレベルの話で、(タイミングや手段、方法から言っても国民の思いや期待をみすみす踏みにじるという)悪質な「選挙妨害」を疑われてもやむを得ないだろう。

                故意であれば当然の事、仮に「思いが至らなかっただけ」だとしても、それはそれで「国民の声を代表する立場(=政治家)」としての思慮も資格もなく、何れにせよ「そこに居てはイケない人たち」ということになる。

                 

                このように、これからはエゴイズム(=反社会的感性)が随時「淘汰」されていく時代だ。

                | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 09:55 | comments(0) | - |
                「なりすまし人間」の見分け方
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                  先日、悪魔(or悪魔的人間)は「なりすまし」「先回り」がその常套手段である旨お伝えしたが、取り分け人間に於いては(他者に対して)やたらと「道徳」や「規範」「伝統」などの言葉を持ち出し、押し付けがましく強弁を振るう人たちは全く信用ならない。何故ならそれこそが「なりすましの見本」と言えるからだ。

                   

                  そもそも「道徳」が人の道、即ち「人と人との望ましい関係」を示すものであるとするなら、その核となるものは「和合」に相違ない。であればそうした関係性は例え一方がそれを望んでも成し得るものではなく、まして「強要」や「押し付け」によって叶うべくもない。

                   

                  そうではなく、「和合」の原点が「信頼」であることを理解するなら、それこそ長い時間を掛けて「相手のために相手を思いやり、誠意を以って相手に尽くす」ことを(最初はそれこそ一方的にでも)行なう事で、相手に対して「和合の意思のあること」を相手に示し、理解してもらう必要があるのではないだろうか。

                   

                  しかし「なりすまし人間」には(当たり前だが)そういった考え方は微塵もなく、「道徳意識の欠如」を持ちだしては相手を批判、攻撃し、「だからダメなんだ」と言わんばかりに「道徳的な形」を押し付けようとするのであれば、その目的は「相手との和合」であるはずもなく、単に(相手の反抗心を削いで)自らの管理下、支配下に収めようとしているとしか思えない。(実際そうだろうが、実に卑怯で極めて悪魔的だ。)

                  つまり、道徳を口にしながら、やっていることは極めて「非道徳的」であるのが「なりすまし人間」の特徴と言える。

                   

                  「道徳」に限らず、凡そ条文化されたような訓示、訓戒、更には宗教的教義、教典の類はみな、こうした「なりすまし人間」「先回り人間」の格好のツールと成り得る事を、心ある人々は識っていると思う。何故ならそれらの本質は元来「行為、行動によって伝えられるべきもの」であって、それを文字に起こした時点で既に「効率とクォリティ(=信頼性)のトレード」が行われているからだ。

                   

                  繰り返しになるが、「道徳」を声高に叫ぶ人に限って「道徳的な人」は少ないということ。

                  | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:19 | comments(0) | - |
                  安倍政権によって破壊されたもの
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                    いよいよ明日、衆院選の投開票日を迎えますが、それに際して是非とも確認して置かなければならない事があります。すでに多くの識者、文化人と呼ばれる人たちから指摘されているように、この選挙は事実上「安倍政権の継続の是非を問う選挙」であります。

                     

                    即ち、安倍政権継続を望む人たちは「自民、公明、維新、希望、日本のこころ」の何れかに投票するか、または「無投票、白紙投票」でも事実上それと同じ意味となります。(自民、公明など政権側は固定票が多いため。)

                    一方、安倍政権の継続を断固阻止したいのであれば「立憲民主、共産、社民、自由、無所属」などの所謂「反安倍」を強く掲げる候補者、政党を選択する必要が有ります。

                    つまり親安倍か反安倍かの二択でしかなく、マスコミの誘導する「三つ巴」の構図はある種のフェイクです。何故なら大手マスコミは構造的に「権力側(=親安倍)」であり、浮動票の分散は親安倍にとって有利となるからです。

                     

                    ところで私たち有権者は「親安倍」にするか「反安倍」にするか、何によって判断すれば良いかと言うと、それは(良くも悪くも)2006年より現在に至るまでの第一次、第二次安倍政権の実績以外に有りません。つまり単純に安倍政権で「良くなった」と思えばYes、「悪くなった」と思えばNoであって、人それぞれ感じ方が違うのも当然ですが、その際大いに不幸なのは「(明らかに)社会や暮らし向きが悪くなった」と実感しているにも関わらず、そうした事実と「政権運営」との関連性を見い出せないまま「別に安倍政権でいいんじゃないの?」と不用意に「信任」してしまう事だと思います。(例えば、森友、加計問題(=国有財産の私物化)の解明と再発防止が結果的に自分たちの生活を豊かにするという認識に至らないなど。)

                     

                    そこで「安倍政権」によって国民が被った損失(と思われるもの)を再確認したいと思います。

                     

                    1. 教育基本法を「改悪」したことで全体主義的教育に邁進し、教職員及び児童、生徒の負担を増大させた結果、義務教育を含む教育環境を著しく悪化させ、破壊し尽くした。
                    2. 大企業優先、富裕層優遇の経済政策によって、国民の大多数を占める労働者の労働環境、処遇を著しく悪化させ、破壊し尽くした。
                    3. 集団的自衛権の容認により平和憲法の精神を事実上破壊し、日本を「戦争の出来る国」にしたと同時に、武器輸出三原則を事実上破壊し、日本を「戦争で儲かる国」にした。
                    4. 原発行政に於いて「電源喪失の可能性」に対する(共産党議員の)提言を一蹴し、安全対策を怠った事が一因となり未曾有の事故を引き起こし、結果的に日本の国土が破壊された。
                    5. 国会に於ける「数の横暴」により(十分な議論も為されないまま)強行採決を繰り返し、閣議決定を乱発する事で、事実上「民主主義」を破壊した。
                    6. テレビ番組に対して名指しで抗議するなど、あの手この手でマスメディア全般に対して圧力を掛け続ける事で、政権に対する萎縮、忖度の気風を定着させ、事実上メディアの「権力監視機能」を破壊した。

                    沖縄の基地問題など、まだまだ挙げればきりがないのですが、実は私たちにとって最も身近で関わりが深いのは、世の中で頻発する事件、事故の類で、それらは一見「安倍政権」とは無関係の様に見えるかも知れません。しかし、社会の安全、安心を担保することこそが政治の役割であるとすれば、そこに政権の良し悪しが反映されるのはむしろ当然の事なのです。

                     

                    例えば昨今の「業務上の(本来有り得ない)事故や不正」などは、過酷な労働環境や人々の無気力や焦燥感、苛立ちなどと無縁では有りません。それは通行人やドライバー同士の(常軌を逸した)トラブルや事件なども同様で、社会不安がもたらす過度のストレスでもなければ、人間は最低でも「やっていい事と悪い事」の区別ぐらいは付くものです。

                    つまり「社会で生きづらさを覚える」というのも「反安倍」の立派な理由になるということです。

                     

                    ということで私たちは「親安倍」か「反安倍」のどちらかを選ぶことになります。

                    | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 09:33 | comments(0) | - |
                    悪魔のデザイン
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                      これは所謂「悪魔的にデザインされたもの」の話ではなく、文字通り「悪魔そのもののデザイン」という意味である。そして更に言えば、悪魔という存在の経緯は決して自然発生的ではなく、ましてや偶然の産物などでは有り得ず、(伝承される種々の言い伝えはともかくも)実際はある目的に沿って作られたものと言うことだ。

                       

                      それは一言で表わすなら「神に対峙し相反する存在」であることは明らかであって、それがデザインの本質でも有り、また目的を示唆するものとも言える。となればそのデザインは極めて簡潔であり、あらゆる面に於いて調度「神の裏返し」「神の真逆」であれば良い訳であって、実際そうなっている。

                       

                      しかし、ここで大きな疑問が生じると思う。それは「もしそうであれば(神を理解してさえいれば)一目瞭然のはず。だが実際はそうならずして、古今東西(現在に至るまで)人々は悪魔(的なもの)に翻弄され続けているではないか。」といったもので、つまり「悪魔(的なもの)は往々にして判りにくい」という話だ。

                      何故そうなってしまうのか?

                       

                      その答えは簡単至極で、それは「神(というもの)の正しいイメージの持ち合わせがない」のがその理由だ。もっと言えば「誤った(神の)イメージを持っているために(神と悪魔の)区別さえ付かない」ためだ。

                      世の中には、それと承知の上で悪魔教に入信し、悪魔と契約を交わす人間たちもいるそうだが、そんな人たちはごく一部であって、殆どの人たちは(それと知らずに)騙される形で悪魔の所業に(いつの間にか)加担させられていたりすることが多い。それもこれも全ては「神を知らない」ことに起因する。そもそも「神を知らない」のだから、「神の反対が悪魔」と言われても正しいイメージを持てるはずもない。

                       

                      例えば「神は正義の名の下に悪人を成敗するもの」と信じ込んでいる人は、自身もまたそれを願い、そのように振る舞おうとするだろうが、神は「悪人を成敗」などしない、となれば(人間の考える)「成敗」という概念自体がすでに「悪魔的」である可能性が高い、という按配になる。(神の下す「審判」は「成敗」と同義ではない。)

                       

                      そしてもう一つの重要な事は、「悪魔は神と「表裏」の関係にあるため、神を「熟知」している」ということで、これにより神を「模倣(=なりすまし)」したり、神の計画に「先行(=先回り)」したりすることが容易に行われるというのも頷ける。その結果(人間から見れば)益々「神と悪魔」の判別が難しく感じられるということなのかも知れない。

                      例えば「巨大な宗教団体」など、まさに悪魔が好んで「なりすまし」や「先回り」のターゲットとするケースも多々あろうと思われる。

                       

                      ただし「神と悪魔の判別」はポイントを押さえて置きさえすれば、さほど困難とも思えない。

                      ポイントとは「神は人が人の不幸を願うことを認めない」「神は人が人を殺めることを認めない」というようなもので、その理由は「それが神の領域」であるからに他ならない。(それで十分だろう。逆に言えば、それを認めるのが「悪魔」だ。)

                       

                      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 11:50 | comments(0) | - |
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