青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

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子どもでも解る「政治」の話
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    「森友・加計問題」に於ける政府、財務省、国交省に対する追求が国会で続いていますが、国民の中には「自分たちには余り関係が無い。それよりもっと我々の暮らしに直接関係のあることをやってくれ。例えば給料が増えるとか、物が安く買えるとか・・・」と思っている人が少なからずいると思うし、そもそも「政治に興味が無い(むずかしくて退屈だから)」という人もいるでしょう。

    ところがそれこそが大間違いで、逆に「(モリカケ問題の様な)政治家や役人の不正を正し、国政を健全化する事」こそが、実は何よりも私たちの暮らしに最も大きなメリットをもたらすのです。

     

    何故なら、そこで行われているのは正に「不公平、不平等そのもの」であって、もし私たち国民によるチェックや監視の機能が働かなければ、それらはそれこそ「政治家や役人の数だけ」起こり得ると言っても過言では有りません。例えばあれだけ国会で紛糾してきた「森友・加計問題」でさえも(露骨過ぎてたまたま露呈した)氷山の一角に過ぎないとすれば、果たして(自治体をも含めた)全国規模では、一体どれだけの数と規模の「不公平・不平等」がまかり通っているのか計り知れません。

     

    政治家にして見れば、選挙活動や政治活動にお金の掛かる仕組みがある限り、自身のスポンサーを優遇したくなるのは人情であり、また役人は役人で無用な締め付けや追求を避けるためにも、政治家に対して心象を良く(=忖度)しておく必要が有って、そのため「不公平・不平等(=不正)」が(構造的に)非常に起きやすい現状」となっています。(事実、政治家や役人の贈収賄疑惑は跡を絶ちません。)

     

    ところで「森友・加計問題」もそうですが、「不正」を解りやすく言えば「税金(=国民みんなのお金)の使い方がおかしい」ということです。というのも本来そのお金は(みんなが納得出来る優先順位に基づいて)全国民に等しく還元されるべきお金であるにも関わらず、結果として「特定の人々だけが非常に良い思いをする」ということが起きていて、その分「みんなの取り分(還元額)」が目減りしている事になります。

     

    問題はその金額ですが、例えば全体で年間一億円程度であれば国民一人当たり「一円損をした」に過ぎませんが、会計検査院の報告に拠れば毎年「数千億円規模」の指摘がされており、甚だしい年には一兆円を超える事もあるとされています。しかもこれとても調査が及んだ範囲に過ぎず、実質はこの数倍の金額かも知れません。事実「森友・加計問題」では自治体側の税金も投入されていた訳で、もし騒ぎにならなければ双方の出費が共に不問に付されていた可能性が高いと思われます。

     

    ともかくはっきりしていることは、私たちは「森友・加計問題」の当事者たちの「もみ消し、逃げ切り」を許すことで、これからも確実に「毎年一人当たり数万円ずつ」の損失を被り続けることとなり、今後その不足分と称して新たに消費税2%分を徴収される事になります。(要するにバカにされているのです。そんな簡単なことも解らないとすれば、それは「娯楽」にばかりうつつを抜かして政治に関心を持たないからです。)

    | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 11:19 | comments(0) | - |
    久々の国会中継
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      日本の国会でモリカケ問題の追求が始まった途端、北朝鮮のミサイルが飛んで来るという不思議な現象はさておき、安倍晋三本人は元より財務省、国交省の答弁は前国会に輪を掛けて「絶望的」なレベルの低さに到達してしまった。ここまで行くと「おとぼけ、ごまかし、詭弁」の域を脱し、完全な「開き直り」でしかない。答弁する本人たちの自覚の有無はともかく、それは結果として「誰が犯罪者であって、誰が犯罪者でないか」を仕分けする作業に他ならない。何故なら「開き直り」は自らの「悪意」を真っ向から認める行為だからだ。本人たちは「以前と変わらぬ一貫した論法、論調」のつもりだろうが、情報の精度、信頼度等、取り巻く状況が以前と大きく異なる中で「以前と同じ主張」を繰り返せば、相対的な意味合いが変わってくるのは当然だ。

       

      この際「物の道理」として言っておくが、仮にモリカケ問題で「国民に対する背信行為」を行った者が、その役職に於ける他の仕事に対して「国民に対し誠実に履行」することなど有り得ない。思想に基づく限り「一事が万事」であって、ただそのことが露呈するまでに至っていないだけの話だ。

      だから「モリカケでは感心しないが、他の事はがんばっている」などと思わない方が良い。すでに「開き直っている」時点で「要注意人物」を通り越し「危険人物」の域に入ってしまったのだから。

       

      その意味ではNHKのトップも最早「危険人物」の域に到達しているかも知れない。何故なら「国会中継」は放送するものの、ニュースでの「モリカケ問題の矮小化」は各局の中でも相変わらず群を抜いており、ほとんど「無きもの」としたいようだ。

      | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 09:20 | comments(0) | - |
      「個」と「集団」の正しい関係とは
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        人間は「個」か「集団」かと問われるなら、答えは「個」に違いない。そもそもが「生まれてくる時も死ぬ時も独り」であることからして、れっきとした「独立した存在」と言える。が、話はそれで終わる訳では無い。何故なら人間は(通常籍を置く)社会環境に於いて「客観的に価値を問われる存在」でもあるからだ。それは例えば人として、社会人として、親として、上司(=責任者)として、部下として、先輩として、男として、女として・・・つまり立場として「どうなの?」ということだ。実際これを無視して生きようとすると(意識の有無はさておき)非常に生き難くなるはずだ。それから見ても人間は「社会(=他者との集団形成)を前提とした個」であることが解る。この事は単に現状認識するだけでもそのように思えるものだが、更に「霊的考察」を深める事で一層明白になる。

         

        まず人間の実体を「霊魂」と見た場合、その目的が「向上(=価値の引き上げ)」にあると言っても過言で無いことは、以前申し上げた通りだが、「それはどのように行われ、そのために何が必要とされているか」を知ることは、非常に重要と言える。

        一言で言えば「それは社会参加によって行われ、そのために必要なものとは(参加出来る)社会である」ということになろう。しかも「それは社会であれば(取り敢えずは)どんな社会でも良く、どんな形の参加でも良い」ということで、それは考えるまでも無く、人間にとって(当初から)社会や参加形態を自分から選べることの方が、むしろ稀であることに起因する。(国籍も地域も親兄弟も通常選べない。)

         

        つまり人間はこの世に生まれ来た時点で直ちに(一方的に)とある社会に放り込まれ、そこで何かを感じ、何かを思い、何かを考え、そして何らかの行動を持つという流れの中で、霊魂の向上を図るべく宿命付けられているものと思って良いだろう。これは人間レベルで言えば「どんな社会であれ、その中で人間性を磨き、その中で人間性を発揮することが可能である」ことを意味し、そうしたひとつひとつの結果が地道に社会に反映されて行くことになる。

         

        これを要約するなら、即ち「個」は自らのレベルアップのために「集団」を形成する必要が有り、そこで「個」がレベルアップされる過程に於いて「集団」のレベルアップが果たされる、となろう。

        更に言えば、そのためには「個」は集団から(意識の上では)独立した存在でなければならず、逆に「集団」に依存するような「個」であってはレベルアップはおろか「集団」そのものの質を低下させ、場合によっては危機的状況をももたらし兼ねない。(社会の現状はこれに近い。)

         

        つまり霊的には「初めに個有りき」であって「集団(=全体)有りき」では上手く行かない。とにかく独り独りが自分の心のレベルアップを図る、それしかない。

        | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 11:18 | comments(0) | - |
        再度「霊層」の話
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          少し前に「霊層段階」の話を集中的にしましたが、そこでは(話の構図を解りやすくするために)私たち個々の霊層段階がそれぞれの今価値に応じて「固定化」されているというイメージで説明してきました。しかし実際には生きている人間の(アクティブな霊魂の)霊層は、時々の想念や気分の影響によって刻一刻変化、つまり上下しています。つまり霊層段階とは決して床や天井で仕切られたエリアではなく、むしろ瞬時に上下向可能なオープンなものであるということです。

           

          しかし現実には、ある特定の霊層段階に留まり続けるためには、それに見合う霊魂の価値の蓄積や能力が必要であり、瞬間的に(何かの拍子で)高い霊層に跳ね上がったからと言っても、そこで何が出来るでもなく、長時間維持することも困難で、すぐに自価値相応の段階まで下がり、結局「その付近」で落ち着くことになりますが、そのように実質的な自価値相応の段階の事を「平均霊層」と称し、霊層を上げるとは正確にはこの「平均霊層」を上げる事を指します。

           

          このような「霊層の振れ幅」は、一般的には人間のその時々の「気分」によって生ずる事が多いようです。例えば人間は同じような出来事に直面しても、その対応は「気分や機嫌の良し悪し」によって変わり、同様の迷惑行為を被ったとしても機嫌が良ければ許せるし、機嫌が悪ければ許せないというような具合で、この場合前者の方が霊層が高く、後者の方が霊層が低いということになります。

           

          ならばいつも「気分や機嫌が良ければ良い」ということになりますが、そう上手くは行きません。何故なら多くの場合「気分や機嫌の良し悪し」は「自己満足の度合い」と関連が有るからです。そして自己満足を求め続ける事は「自己中心的傾向」を持つ事と無関係ではいられないはずです。となればその事自体が「霊魂の向上(=人間性の向上)」と本質的に矛盾を生じるため、(カンフル的な意味は為しても)継続的には不可能です。

           

          そのために人間には「自問自答」という立派な機能が備わっています。即ち自分が自身に対して「おかしいぞ」と問いを投げ掛ける機能です。人間は「この前は同じ事が許せて、今日は許せないっておかしくないか?」と自身に問い掛けることで気付く事が多々有るはずで、実はそれこそが進歩向上の基本だと言っても過言では無く、「霊層の振れ幅」は、まさにそのためにこそ必要と言って良いでしょう。

          | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 11:24 | comments(0) | - |
          仲間割れの時代
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            昨日の「あおり運転」の話もそうですが、これらも含めて「仲間割れ」と言ってしまって良いでしょう。何故なら健全な社会は「相互扶助」のもと、平等であり公平であることはもちろんですが、時には「譲り合い」や「助け合い」によって成り立つ場もある事は当然だからです。そこに「仲間意識」があれば当然そうなります。

             

            しかし近年は、一介の庶民同士のトラブル、身内や家族同士のトラブルなど、本来は仲間であり味方同士であるはずの間でのトラブルが絶えません。

            それは何故なのか?

            それは人々が年月を掛けて意図的、計画的に「個々に分断されてしまった」からに他なりません。

            誰に?もちろん社会の構造やトレンドをコントロール出来る人々によってに決まっています。

            何のために?もちろんその方が社会をコントロールしやすいからに決まっています。

            どうやって?これは話が長くなって一言では言い表せませんが、例えば今の親は当たり前のように「知らない人に声を掛けられても返事しちゃだめよ!」と子どもに教えていないでしょうか?そのため子どもたちは近所の大人(=知らない人)から「おはようございます」と声を掛けられても「無視」します。

            謂わばこの状態こそが遠大な分断計画の「仕上げ」とも言えるもので、そこに至る経緯を論理的に説明することも可能ですが、誤解の無い様話すには長くなるので、この場は割愛します。

             

            ともかく社会の人々は、取り分け「直接的な利益共有の関係」でもない限り、お互いを「潜在的な敵」とさえ見做す様になってしまいました。それがいったい誰を利することになるのか、この際よく考えてみるべきだと思います。少なくとも「利するのが自分では無い」事だけは確かです。もちろん一般庶民の誰かであるはずも無いということです。

             

            このように日常生活に「敵対関係」を持ち込む事に何ら合理性は有りません。(それこそ社会の目的に反しています。)「いや、防犯上・・・」と言いたいのでしょうが、確かに社会に於いて生活に困窮した人が増えれば、物盗りが増えるかも知れませんが、それは「悪循環の結果」であって、ならば防犯意識もさることながら、それ以上に社会に於ける「貧富の差を無くす」事にこそ強い関心を示すべきではないでしょうか。

            何れにせよ「他人を潜在的に敵視」することには不利益が多すぎます。それは社会に「一触即発」の空気を醸成し、自らを思いも依らないトラブル、身の危険に晒すことを意味します。即刻やめましょう。

             

            私たち一般庶民はみな、同じ境遇、同じ悩みや苦しみを共有している「仲間」だという事実を再認識するべきだと思います。そういう人が増えれば社会は確実に変わります。

            | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:00 | comments(0) | - |
            頭にくるな。腹を立てろ。
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              ここ数ヶ月の間で閲覧数の多かった記事のベスト3は、《 1.内輪揉めして誰が喜ぶのか 2.「公共の精神」とは 3.ストレス解消法について 》となっており、実はこの3つの閲覧回数は他の記事に比して圧倒的に多く、しかもそれぞれが互いに無関係ではない(=同根)ということです。

              無論その根源には、社会の荒廃と人々の共倒れを暗示させる「競争社会」の存在が有り、何れの問いに対してもまず、自分自身の心の内側から「人を人とも思わずひたすら敵を量産する」その恐ろしい思想を排する必要が有ります。

              ところで「競争社会」では、必然的に人は「頭にくる」ことが多くなります。何故なら「自分の行く手を阻まれるから」であって、お互いに先を争っている訳ですからこれは当然です。もちろん(犯罪者でない限り)お互い最低限のルールは守るかも知れませんが、さりとてマナーまで律儀に守っていると「確実に人に遅れを取る」と考えるに違い有りません。そこで自ずと双方がグレーゾーンに足を踏み入れ、いつもギリギリの線を狙う構図が常態化することになりますが、これは言い換えれば人々が好き好んで「一触即発」の状況を作り出している、ということです。

               

              ここで改めて先ごろ取り沙汰されている「あおり運転」を分析して見ると、前述の話にピッタリと当てはまる事が解ります。つまり「相手の身勝手(?)な運転に頭にきた人が、それに輪を掛けた身勝手な運転で仕返しをする」ということになるのでしょうが、そもそものきっかけが被害者側の軽微な「マナー違反」であることが多く、それに対して加害者側が過敏に反応し「頭にくる」のは何故でしょうか。

               

              それは、道路という公共の場に於ける「権利の過大な主張」に他なりません。つまり「行く手を阻まれた」或いは「不快な思いを強いられた」という怒り自体が、既に道路の「公共性」の概念から逸脱し「私物化」に近い感覚とも言えると思われます。(自ら相手に懲罰を課すという行為がそれを裏付けています。)

               

              確かに「ノロノロ運転」や「頻繁な車線変更」「信号の変わり目の拡大解釈」等々、周囲への配慮を欠いた身勝手な運転は(マナーとして)感心出来ず、公共意識の感じられない「権利の過大な主張」に当たる場合があるのかも知れませんので、こうしたトラブルを回避するためには道路が「公共の場」であることをお互いに再確認する必要があると思います。(つまり無神経も過敏も同根ということです。)

               

              このように「公共(=共有)の場」に於ける「我先に、我が物顔で、身勝手に」などはみな「競争社会」の特徴に他なりませんが、そこには「追われる身」に特有の余裕の無さが如実に表れています。それは例えば「生活に追われる、仕事に追われる、時間に追われる」などであり、そのせいもあって「周囲に配慮する」どころの話では無く、それこそ「死活問題」として自己中心が自身の中で正当化されることとなるでしょう。つまり「我先」が当たり前の世界観ですが、もしみんながそうであったなら、そこにどんな社会が出現するのかは想像に難く有りませんし、「あおり運転」も謂わばその重大な警告の一つに過ぎないということです。

               

              「頭にくる」とは言い換えれば、自分を見失った「前後不覚の状態」であることは、結果を見れば解ります。それは単純に行く手を遮る目の前の障害物に怒りをぶつけるだけの行為でしかなく、それが人で有ろうと無かろうと関係なく、仮に石ころや電柱であっても同じことで「行動の結果がどうなるか」の判断が出来る様な状態では到底有りません。

               

              一方で「腹を立てる」のであれば、それなりに物事が好転する可能性が有ります。「腹を立てる」とは、人間が「本気で構える」事を意味し、その場合の対象は「相手の人間」と言うよりは、むしろ「今起きている事」と言って良いでしょう。そのきっかけは確かに感情(情緒的)かも知れませんが、その目的が「問題の解決」にあるところが「頭にくる」場合とは大きく異なります。

               

              本当に「腹を立てた」人は、まず「何故こうなったか」を分析しますが、この時点でより深い分析が出来るほど問題の本質に近付く事が出来ます。次に自分を見直しますが、それは自分の問題解決能力の有無をチェックする必要が有るからです。能力が足りていれば、即有効な一手が打てるでしょうし、足りていない事が判れば何もせずに自らの能力アップを決意する事となるでしょう。

              世の中にはこのように「腹を立てた」事をきっかけとして自己を鍛錬し、能力を高めて社会貢献に結び付けた人が少なからずいます。

               

              ですから私も敢えて言います。「頭にくるな。腹を立てろ」と。それは理性と感情のコラボレーションのことで、それが人にも自分にも良い社会を築くための一つの方法であることは間違い有りません。

              | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 09:14 | comments(0) | - |
              政府の「高校無償化案」に驚愕!
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                今朝のNHKニュースで、政府の「高校の無償化に関する新制度導入」という話が耳に入ってきました。(NHKは挙動チェックのため時折り確認しています。)

                リンクはこちら→ http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171124/k10011233581000.html

                 

                内容は掻い摘んで言えば「非課税(=低所得)世帯以外は無償化せず全て将来の借金となる」という話で、非常に違和感を感じます。これでは「目先の支払いが無い」と言うだけで思わず手を出してしまう「カード地獄」と構造的に変わりません。しかも「良識ある国民を育成する目的を持つ教育を盾に取っての借金の強要」という発想が実にやるせない気持ちにさせ、本気でそんな事を考える人たちの正気を疑いたくなります。

                 

                また、そこには「将来の所得に応じて(=出世払い?)」などという文言も有りますがが、もし仮に高校のみならず大学も含めた7年分の借金が生じている場合、いくら働いても(借金返済のため)それを暮らし向きに反映させられない(手応えの感じられない)期間が相当な年月に及ぶ事になり、それは将来に備えた蓄財、投資のための節約とは全く意味合いの違う「人生への負荷」としか言い様が無く、(経済的は言うに及ばず)心理的な重荷としかなり得ないでしょう。(借金が若者の足を引っ張り続けます!)

                 

                借金とは(人の心の弱みにつけ込むという意味に於いて)極めて悪魔的と断言します。よって経済学者が何と言おうと、私たちは「借金しなくて良い社会や暮らし」を望むべきだと思います。

                それにそもそも「教育の無償化」に対して、政府(=安倍政権)から余りにもお粗末な方針しか出てこない事自体が国としての「優先度の低さ」を物語っています。しかし一方でそれは私たち庶民、取り分け子どもや若者を直撃する問題であることは間違いなく、現政権が如何に国民を軽んじているかを暗に示す結果と言えます。(言葉は嘘。現にやっていることが本当。)

                 

                だから「財源が無い」というのも嘘。ただアメリカからの防衛装備品(=兵器)の購入を最優先し、借金に喘ぐ庶民の生活や教育なんかどうでもいいと思っている、と(言わず語らず)態度に表しているに過ぎません。

                皆さん、それでよく平気ですね?

                 

                | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 09:37 | comments(0) | - |
                当サイトの意味するもの
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                  以前にも書いたことがあるのですが、当ブログは日毎の閲覧者数に関して言えば、決して何千、何万などといった数を望んでいる訳では有りません。そればかりか日毎50人程度の人たちに見て頂ければ「十分に目的は果たせる」と、過去にも言い切っています。(その当時は確か平均20人前後であったかと思います。)

                  その理由として、仮に50人の人に共感して頂けたことは、少なからずその周辺の人たちにも影響を与えて行くものと考えられ、更にはその先の人から人へ(思想として)伝わって行くものであるからと、説明して来ました。

                   

                  これは或る意味(論理としては)正しいのですが、少しばかり反論の余地があることも承知しているつもりです。その主だったものとしては「そんな悠長なことで間に合うのか?」ということだと思います。もちろん、そうした「成り行き任せ」では時間的、更には正確さや密度の面でも、期待するような結果に結びつかないかも知れません。謂わばそれが「物理的な限界」です。

                   

                  しかし何度もお話してきたように、人間は「物理的のみの存在」ではなく、人間の思いや思想的な発露というものは(良きに付け悪しきに付け)必ず「霊界」に向けて(自動的に)発信される事になっていて、それをキャッチした霊界側がその有り様に対応する形で動く仕組みになっています。その際一人の人間が霊界に及ぼす影響力は、限界のそれの数十倍〜数百倍と考えて良いでしょう。しかも(霊界の存在を認める限りに於いて)それは「実在する数」ということですから、それを思えば「50人で十分」という話になります。

                   

                  そのような認識のもと、当ブログは当初より「霊界に波及する目的」で発信されていると言っても過言では有りません。それは無論「霊界相手だから人は関係無い」という意味ではなく、「人を介して霊界経由で更に多くの人々へお届けしたい」という思いからです。

                  因みに現時点では平均して日々60人前後の方にアクセス頂けている様です。

                  | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 09:57 | comments(0) | - |
                  「蟻の百穴」大作戦?
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                    「蟻の一穴(ありのいっけつ)」という言葉が有る。今の世情に照らせば、たった一人による内部告発が発端で巨大組織全体が瓦解、崩壊の憂き目を見る様なことの喩えだ。これは「巨大な堤防に空いた小さな穴」の意であるから、巨大組織が巨大な堤防で「何かをせき止めている」ことになるが、その何かとは何だろう?

                    それは巨大組織の「正体」を示すものに他ならないが、それをオープンに出来ない理由はひとつしか無く、多分に「反社会的(=自己中心的)」であり、場合によっては法や倫理に反していることが明白となるからだ。

                     

                    ところで「巨大組織」に限ってそうした傾向が強くなるのは何故だろうか?それは「巨大」である事それ自体が暗黙の「圧力」となり、よほど自重しない限り無意識、無感覚に「圧迫(という暴力)」を周囲に対して加える事になるからだ。これはむしろ組織を巨大にしたがる時点で、当初からそういう目論見があると考えて良く、政治団体は言うに及ばず、企業、学校、宗教団体、各種法人、各種協会など、業種、業態に関わらず「巨大化」によって質的な変化や低下の恐れが生ずることは否めない。

                     

                    また、各巨大組織は互いに「提携や傘下(=グループ)」という形で繋がりを持ちたがるが、より巨大化を目指せば当然そうなると同時に、万一どこかで「蟻に一穴を空けられた」としても、様々な方面から総掛かりで修復(=隠蔽)に当たれば、守りの面からも盤石と言えるからかも知れない。(そこには当然、秘密の共有があろうと思う。)

                    しかし、これが逆に危険な事態を招くかも知れない。何故ならただでさえ不安を抱える個々の堤防が横に連なって、止めどもなく長く伸びてしまった様なものだからだ。それは例えば「百匹の蟻が長ったらしい堤防の百箇所に同時に穴を空けてしまうかも知れない」可能性を示唆している。

                     

                    気が付けば、社会では日常的に「告発と隠蔽」が繰り返される様になった。昨今の相撲界の不祥事も、この先その様相を呈して行くに違いない。現に「組織同士の繋がり」を通じて、日本相撲協会は元より、評議員会だの横綱審議委員会だの、マスコミ各社、医者、弁護士、警察までもが、その動きや出方を注目され、秤にかけられるハメに陥っている。つまり誰もがここで出方を間違えれば「共倒れ」という状況だ。

                    普通に考えれば「長い物には巻かれろ」「寄らば大樹の陰」となるのだろうが、そうならないのが「瓦解、崩壊の年」の特徴かも知れない。

                    | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 10:07 | comments(0) | - |
                    「覚り(さとり)」とは何か
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                      これはよく「覚りの境地」とか「覚りを開く」などと用いられ、特定の宗教的環境のもとで「到達」を意味する言葉として、私たちいわゆる「衆生の者」とは無縁の「隔絶された世界」のようなイメージを持たれますが、これは大きな誤りと言わざるを得ません。

                      「覚り」に関する過去記事はこちら→ http://blg-hal-kursk.jugem.jp/?search=%B3%D0%A4%EA

                       

                      因みにここで言う「覚り」とは「覚醒(=目覚め)」という意味を含んでいるため、単に「悟る(=察する)」という意味での「悟り」と区別しています。では「覚醒」とはどういう意味かと言うと、それは「(元々持っている)人間本来の(有るべき)能力を発揮し、人間本来の(有るべき)姿に立ち帰る、或いは立ち至る」ということで、早い話が「寝てる場合じゃないぞ、起きろ!」ということです。(まさにそういうタイトルの小冊子を配布しつつ啓蒙に勤しむ宗教団体等も有りますが、何が根拠や手引きとされているかによってその主旨や内容も変わってくるでしょう。)

                       

                       

                      このように「覚り」という概念は、元々優れていた私たち個々の人間が何らかの事情で前後不覚の危機的な状況に陥ってしまい、それではマズいとして「自らの本来(の能力と生き方)を取り戻す」イメージと言って良いと思いますが、ここで生ずる幾つかの疑問に「霊的」に答えてみたいと思います。

                      ○ まず「マズい」とは、どのくらいマズいのか?それは「霊魂本体が消滅する」くらいマズいということ。

                      ○ 「自らの本来」とはどういうものか?それは「霊魂誕生時の霊層段階(=天国霊層)」のこと。

                      ○ 何故「前後不覚状態」に陥っているのか?人間として生まれ変わるたび「霊的慢心と怠慢」を繰り返した結果。

                      これらのことは、もちろん「目に見えず記憶にも無い話」ですから、信じるか否かは全くの自由ですが、ただそれとは別に「信じた方が得か損か」という論理的考察は可能だと思います。

                       

                      以上のことから解るのは、「覚り」とは「特定の到達点」を指すと言うより、霊魂誕生時の霊層段階とのトル、つまり差を詰めていくアプローチ全体を指す言葉だということです。ですから例え一段でも霊層が上がればそれも「覚り」には違い有りませんが、感覚的に「節目」と感じられる段階が有るのも確かですので、それを以って「一つの覚り」とすることに特に異論は有りません。ただ「そこで終わる訳では無い」というところがポイントです。

                       

                      何れにしても人間は「霊魂の向上」によって、それまでどうして良いか判らなかった事が判るようになり、また今まで気付かなかった間違いにも気付くようになるものです。そうしたことは単なる「職業訓練」などとは別次元の「人間力」によって実現され、霊的には「本来持っている力」が発揮されることを意味します。

                      これらの力は段階的に「開眼」される形で徐々に高められて行き、ある時点では殆ど瞬時に物事の見極めが付き、瞬時に判断可能な状態となります。

                       

                      こうした経過を振り返ると、「覚り(=霊魂の向上)」の道のりに於いては最初が最も辛く苦しく、徐々に弾みが付く(=判る)に従ってだんだん楽になって行くものであることが解ると思います。つまり最初の段階に於ける「的確なサポート」が非常に重要ということですが、現社会でいったいどれ程の人々がそうした関係を得ることが出来るか、甚だ疑問では有ります。

                       

                      結論として「覚り(=霊的向上)」は(自らの幸福を願う限りは)万人が目指すべきものであって、取り分け政治家を初め、社会でリーダーシップを担う立場にある人々こそが、真っ先に覚るべきであるのは言うまでも無いことです。というよりそういう立場に就く人の審査基準に「人間力」が問われることを常識とする時代が、遠からず必ず来ると思います。何故なら真っ当な社会を築く方法は、(初めから)それしか無いのですから。

                      | 青少年の味方の人 | 霊的考察 | 08:24 | comments(0) | - |
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