博打(ギャンブル)と通常の勝負事の違いは「勝敗に至る根拠の明瞭性」または「勝敗確率の差」でしかないだろう。博打は「賭け事」だと言うが、どちらも「勝てば多大な利益」を被る仕組みに変わりはない。そんな社会の「鉄火場」体質ゆえに「カジノ法案」などが国会で平然と真顔で論議される異常事態となる。(取ってつけたような「ギャンブル依存症対策」など無意味に等しい。)
このところのテレビ報道は、もちろんオリンピックの勝者を称える事にのみ余念がなく、一方で将棋などの「勝負事」が兎角クローズアップされ、同じく勝者が「国民栄誉賞」を受賞するなど勝負事が当然の如く推奨される。その前は「大相撲」の話題で持ち切りだったので、それもやはり勝負事が絡んでいる。
そもそもそれ以前に現在の社会はあらゆる面で実際に人々を競争という「鉄火場」に追い込む仕組みになっている。ただそこで「他人との勝負に臨む」方法が、学歴で有ったり身体能力で有ったり奇抜さで有ったり、はたまた「狡猾さ」で有ったりと、幾つかの選択肢に分かれているに過ぎず、その目的は何れも「他人との勝負に勝って格差社会の上位に位置する」ことに違いない。
このようにして社会では「勝つことに価値が有る」という思想が形成され、常にひと握りの勝者と多くの「その他大勢(=敗者)」が生み出されて行く中で、自ずと勝者は優遇され敗者は「能力が低い者」または「努力が足りない者」と位置付けられ、そうした処遇は概ね「自己責任」とされる。
因みにテレビ出演者のほぼ全員がそうした意味に於ける「勝者」であることを踏まえれば、敗者の気持ちが理解できるはずもなく、本気で「競争社会」に意義を唱えられる由もない。
こうした中で最も重要な問題は、小学校や中学校で(お題目のように)「ひとに親切にしよう」「ひとを思いやりいたわる気持ちを持とう」「優しい心を持とう」などと、相変わらず教育目標に掲げていることだろう。日々社会の空気を吸って生活している子どもたちにとって、これほど理不尽な話はない。何故なら、方や「熾烈な生存競争に勝ち残れ」と言われ続けて(或いは肌で感じながら)これまで成長してきた経緯があるからだ。
こういうことをすると子どもたちは逆に「親切、思いやり、優しさ」といった言葉自体に何ら深みを覚えない、軽薄なイメージしか持ち得なくなってしまうに違いない。
ではどうすれば良いのか。「親切、思いやり、優しさ」を教育目標から外す?とんでもない。そんなことをすれば社会は「鉄火場」を通り越して「修羅場」と化してしまうだろう。
これは誰がどう考えても「子どもに対する教育目標」が通用せず有名無実化してしまう今の「社会構造」がおかしいのだから、速やかに社会構造を改めるしかない。
「親切、思いやり、優しさ」とは本来「みんなで手を取り合って、みんな一緒に良くなろう」という人間関係の基本、社会構造の理想形を表したものだから、教育目標としての価値があるのだ。
冒頭に「鉄火場社会」と言ったが、そもそも賭博行為の何が悪いかと言えば、生産性がゼロと言うのもさることながら、一番悪いのは「テメエさえ良ければイイ」というその性根そのものにあると言っても過言ではないだろう。