青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)

世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。

ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。)

当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。
そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。)

なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。)

※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。
「反社会的」とはどういうことか?
0

    「反社会的」とは文字通り「社会に反する様相」或いは「社会にとって害悪や悪影響をもたらす様相」を呈するという事となり、(人殺しや盗っ人の例を引き合いにするなら)一見解りやすい話と思われます。しかし、事はそう簡単には行かない様です。何故なら、ある事象や考え方に対してそれを「反社会的と見るか否か」は、物事に対する視野の広さや思想レベルの深度によって異なってくるものだからです。

     

    例えば「視野」の問題で言えば「家族を守るために他人とぶつかる」などは有りがちなケースと思われますが、これを「反社会的」と非難すべきかどうかは(大方の人にとって見れば)迷うところでしょう。何故なら曲がりなりにもそこに「家族愛」の存在が窺えるからです。「そんなものは無視しろ」と言えば逆に「冷たい」とされるに違い有りません。しかし元々「社会的」とは、可能な限りの大所高所から自身を「客観的に見る」という意味を含んでいますので、そうした意味でやはり「他人とぶつかる事」には問題が有ります。

     

    また、社会全体で「何を主要な価値観とするか」という「思想レベル」によっても「反社会的」の意味は異なってきます。例えば「経済第一」と考えるなら、経済発展に水を差す様な意見や言動は「反社会的にして慎むべき」となるでしょうし、仮に「政権の安定が第一」という考え方が為された場合、政権批判そのものが「反社会的」と見做されてもひとつも不思議では有りません。

    しかしこうした単純化された価値観の掲げ方が危険で有ることは言うまでも有りません。何故なら「経済発展」或いは「安定政権」という見た目の形だけに価値が置かれ、逆に質や中身を正す機会を失する事に成り兼ねないからです。

     

    私に言わせれば、今の日本社会は(誰が何と言おうと)「思想の紊乱、道義の廃頽」の極みにあると思われます。その非常に解り易い見本として、まさに現政権と、与党の自民、公明各議員、更に政権の息の掛かった官僚諸氏による常軌を逸した奇想天外な発言や振舞いがあるのだと思っています。

    聞いているとそうした人々にもそれぞれに言い分が有り、それなりの理屈が有るのは分かりますが、何を言おうとも結局「反社会的」とは「偏狭な視野と思想レベルの低さ」に尽き、それは当ブログにて従来より指摘しているが如く「自己中心主義」の賜物でしかないと言うことです。

     

    即ち地域社会に於ける「偏向した家族愛」は自己中心主義であり、「偏向した経済至上主義」もやはり自己中心主義であり、無論「偏向した愛国主義」も自己中心主義に他ならないということです。何故なら、私から見ればそれらは総じて「余りにも他者に冷淡」だからです。

    つまり「思想の紊乱、道義の廃頽」とは、徹底した「自己中心主義(=非人間性、反社会性)」を指します。よしんば「みんながそうだから」と言って自分もそうなってしまったなら、いったい社会はどこで歯止めが掛かるのでしょうか?(その先にあるものは人間社会の崩壊、壊滅でしかありません。)

     

    人間にとって「自己中心主義」は論理的な誤りであることを良く理解すべきです。それに際して「自分だけならいいだろう」といったズルさは禁物です。そのような思想は(本来の目鼻立ちに関係なく)まず醜悪な顔の相となって外見に如実に表れます。(鏡を見て気付かなければ、もう手遅れです。)

     

     

    | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:05 | comments(0) | - |
    某小学校の卒業式について
    0

      小学校の卒業式に於いては、6年間学んだ成果を再確認し、中学校という次のステップに進むための心構えを再確認するという主旨に尽きると思われ、そうした思いが「卒業証書授与」という改まったひとつの形に集約され得るものと考える。

       

      翻って近年の卒業式の傾向は、そうした「シンプル・イズ・ベスト」の発想に程遠く、やたらに尾ひれはひれをくっつけてイベント化、バラエティー化がエスカレートし、そのため明らかに主旨の輪郭がぼやけている。

      何より卒業生の子どもたち自身がそうしたイベント的せわしなさに翻弄され、「間違えたら大変」といった本来無用な強迫観念すら起こりかねず、「卒業の実感を噛みしめる」どころではないはずだ。

       

      こうした傾向はズバリ(卒業式本来の主旨とは無関係の)「ウチは他所と違う」「ウチは見栄えがイイ」といった大人のエゴ以外の何ものでも無く、肝心の卒業生の子どもたちの心は明らかに「置いてけぼり」を喰っている。但し大方の子どもたちにはそうした自覚が無く、無意識に「何でもかんでもオモシロおかしくなければ気が済まない」という軽薄な感性を事有る事に醸成されて行く結果となる。

       

      百聞は一見に如かずだ。卒業証書授与の最中、BGMでディズニーソングを流される違和感は実際この上ないものが有る。(「違うだろー、違うだろー」と言ってやりたかった。)

      このように(子どもじみた大人たちのせいで)すっかり箍(たが)の緩み切った子育て、教育行政はどこかの時点で一度リセットされなければならないだろう。

      | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 10:07 | comments(0) | - |
      「森友公文書改ざん問題」を受けて
      0

        「森友公文書改ざん問題」を受けて、官邸前では連日の様にデモが繰り広げられており、各メディアもそれを無視出来ないという状況が続いています。つまり事態は「一部メディア対政権」「野党対政権」に留まらず、目に見える形を以って「一般市民対政権」の様相を呈してきた訳です。無論そうした動きの根底には「民主主義の崩壊(=国家主義の台頭)」に対する国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感が存在する事は言うまでも有りません。

         

        はっきり言って「デモに参加すること」自体は面倒な事とも言えます。何故なら個々の国民はそれを仕事にしている訳でもなく、それぞれに日々の暮らし向きがあるからで、出来ることなら国家の運営や諸問題の解決は、(自分たちよりも優秀なはずの)政治家や役人の仕事と割りきって考えたいところでしょう。(特に同一民族の国家という認識の強い日本では、従来よりその傾向が強い様に思われます。)

         

        しかしこれは政権という(警察力をも含む)圧倒的な強権との「対峙」そのものであって、そもそも「対峙」という概念自体が同時に「リスクや面倒を抱え込む」という意味を持っている訳です。にも関わらず(それを百も承知で)「対峙」に踏み切らざるを得ない理由は、ひとえに「物事の優先順位」に有ります。

        前述の様な「国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感」の先には、これまでにない「非常に大きなリスクや面倒が待ち受けている」という認識がなされているはずです。であるとすればこの際「対峙」という一定のリスク(=小難)を負ってでも「大きなリスク(=大難)」を躱(かわ)したいと思うのは極めて正常で冷静な考え方と言えます。

         

        このように「対峙」とは、自らの(側の予想される)リスクを軽減し、物事を少しでも良い方向に向けて行くために必要不可欠な対処の在り方であり、感情的で利己的なケンカとは意図も方法も異なります。つまり以前から申している様に「おかしいものはおかしい」としてそれを安易に見過ごさず、論拠を明確に示し、根気よく是正を求め正常化して行くことこそが「対峙の本質」であり、それはあくまでも「話し合いの延長線上のもの」でなければなりません。(但し、元々は排斥を目的とするものではないにしても、相手の出方次第ではそうした結果に結び付く場合もある事は否めません。)

        | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 09:22 | comments(0) | - |
        改めて「沈没船、黒船方式」について
        0

          今般の「財務省決裁文書改ざん問題」によってほぼ決定的となっている政局の流れ、世論の方向性は、昨年来当ブログでも「沈没船」或いは「黒船方式」として指摘させて頂いてきた通りです。

          これは端的に言えば「対峙→崩壊→再建(立て直し)」という流れとなり、私たちはまずあらゆる意味に於いて「新生日本」を目指さなければならないと思います。(それは社会システムの一新をも意味するでしょう。)無論、それは「国民の総意」のもとに於いて成し遂げられなければならないことです。

           

          しかし話はそこで終わりではなく、まだその先が有ります。私たちは前述の日本国内に於ける「対峙→崩壊→再建(立て直し)」と同様の流れを、今度は「新生日本」を足がかりとして国際社会を視野に作り出して行く必要が有ると思います。何故なら日本だけが(世界情勢や国際社会と無関係に)マイペースに平和で豊かな社会を作り、維持することなど不可能と思われるからで、そもそもそれでは「みんなで良くなる、みんなで良くする」という社会の理念に反します。

           

          つまり私たちの目指すところは「平和で豊かな国際社会」ですが、そのためにはまず、日本が生まれ変わって「世界から愛され尊敬される国」でなければなりません。(国も人も関係性の論理は同じです。)

          | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 10:16 | comments(0) | - |
          人間のクズとは
          0

            「人間のクズ」という言葉が有り、ネット上などでも相手を誹謗中傷する際の文言として時折り見かけることがある。一方で「人間の(命の)尊厳」という概念から言えば、どんな人であっても「尊い存在」とされる。となれば「クズ呼ばわり」すること自体が間違いかというと、そうとも言えない。(但し、自身の品格を保つ上に於いて不適切な言葉遣いということはあるだろう。)

             

            屑(クズ)とは言うまでもなく「役に立たないもの」という意味であるから、人間の場合に当てはめれば文字通り「役に立たない人間」ということになろう。しかし人間に於いてはそれだけでは済まされず、他にも「穀潰し」「場所塞ぎ」という言い方もあるように、生きている限り様々なものを消費し占有し続けるという事実がある。それ故「人間のクズ」には「役立たず」の他に「邪魔者」というニュアンスが付いて回ることになる。そこから転じて「反社会的傾向を示す者(=社会環境を乱す者)」を社会の邪魔者と位置付け、「人間のクズ」と称する場合がある。

             

            ところで相手を「人間のクズ」呼ばわりする際の「役に立つ、役に立たない」の判断の基準がどこにあるのかが明示されることは少なく、むしろ「バカ、アホ」と同様に相手を貶め不快感を与える目的で感情的に用いられるケースが多いのは余り好ましいことではない。

            実は人間が「クズかクズでないか」には明確な基準が存在する。もちろんそれは身体的、知的ハンディの有無や法的な問題の有無とは無関係なことだ。

             

            そもそも「役に立つ、役に立たない」の前には「社会の、みんなの」という語句が入り、決して「自分だけ」の役に立てば良いという意味でないとするなら、要はそういう心、思い、志の有無や大小、更には質がその人間の(社会的な存在)価値を決めていると言っても過言ではない。

            それは実際に体を動かして(仕事量として)何がどれだけ出来るかという話だけとは限らず、極端に言えばそのような純粋な心や思いが現に存在するだけでも社会的に十分意味が有ると言える。(何故なら純粋さは人を動かす力となり得るものだからである。)

             

            このように「みんなの役に立ちたい」という気持ち(=心、思い、志)が社会にとって極めて有用であるとすれば、逆説的にそうした気持ちが小さければ小さいほど無用(=クズ)の度合いが増していくものと思われる。

            但し現在の自由主義経済の下では、基本的に(株式投資など)「個人的欲望」を利用することで成り立っている側面があることも否定できず、有用、無用の判別が付きにくいのも事実だが、それ故歪みが常態化し、争いが絶えないことを見ても、これが社会の理想形、最終形態であろうはずもない。

            「力ずく」「早いもの勝ち」「独り占め」などが、何れ無用(=クズ)と認定される時代となるだろう。(幼稚園では今でもそう教えている。)

             

            | 青少年の味方の人 | 人格・人間形成 | 10:25 | comments(0) | - |
            テレビ放送の目的とは
            0

              テレビは世相を映し出すためのものではなく、逆に出来うる限り人々の意識や認識を世相の実態(=真実)から遠ざけ、いわば「仮想現実」とでもいった世相の実態とは無関係の状態に押し込めておこうという意図を持ったものと考える時に、全て合点が行く。

               

              テレビの提供する「仮想現実」とは例えば「みんながオリンピックに夢中だ」「みんながグルメやショッピングや観光の情報を求めている」「みんなバラエティーやクイズ番組が大好きだ」或いは「日本は治安も良く安全安心な国だ」「日本は政治も経済もしっかりとしていて盤石だ」「日本人は世界に誇れる勤勉で優秀な民族だ」等々、何れも「日本経済の現在の繁栄ぶりと更なる発展」を殊更アピールし、国民生活に於ける不安要素の存在を極力意識させない内容でほぼ埋め尽くされている。(言葉を換えれば「ノーテンキでオメデタイ」内容ということだ。)

               

              このように「世相の実態」と掛け離れた内容をテレビが放映し続け、結果的に真実を歪め隠蔽することが、実は多くの国民にたいへん不幸で不条理な結果をもたらしている。何故ならテレビで放映された内容に対する「摺り合わせ」を人々が日常的に行ない、その都度ことの真偽を隣近所や友人同士で確認し合う習慣など誰も持たないからだ。

              つまりテレビが「みんなが買って持っている」というものを自分が買う余裕が無いだけで、自分だけが「人よりも経済的に劣っている」「人よりも遅れている」「世間とずれている」というコンプレックスが生じ、疎外感に苛まされる恐れがあるということで、それも「自分だけ」となれば、自己責任と思わざるを得ない。

               

              しかしテレビが大げさに(時には嘘をついてでも)「みんな買ってる、持ってる」というのは半ば当たり前で、何故なら放送はスポンサー(という物を売りたい商人)によって成り立っているからだ。またそうした番組内容に対する影響力は単一のスポンサーに留まらず、場合に依っては業界、更には財界の意向が反映される場合さえままあるだろう。何故なら財界全体が国民の消費、購買意欲の促進を望んで止まないからだ。少なくとも現在のテレビ放送の半分以上はそうした空気の醸成という経済的な意図を含んでいるように見受けられる。だから政治ネタを扱うにしても、国民生活の先行きに警戒感を持たせ、消費行動にブレーキを掛けさせるような内容は極力避け、賑わいムードに水を刺さないようにしている。

               

              これら「客をその気にさせてお金を使わせる」という行為自体は純然たる商売の場に於いては当たり前のことで、売る方は口八丁手八丁で客の気持ちを掴めば良いし、客の方もそれを見越して始めから「話半分」で聞き流せる。しかしテレビの悪質なところは、報道やレポートやトークやインタビューなどに織り交ぜて、一見それとわからない形で視聴者に対して意図的な働きかけを行なうことにあろう。つまり視聴者は(それと知って身構えていない限り)いつの間にか誤った認識や世相感を植え付けられてしまうということだ。特にバラエティーやワイドショーなど「ごった煮」のような番組は要注意だし、報道番組であっても扱う順番(優先順位)を鵜呑みにすると世相や価値観を見誤る場合がある。

               

              こうしたテレビの欺瞞性、偏向ぶりは、百歩譲って(財源をスポンサーに依存する)民放ならば致し方無しとされる部分はあっても、こと視聴者から直接視聴料を徴収するNHKに至っては決して許されるものではない。少なくとも経営トップが財界から次々と送り込まれてくる状況は今すぐ改めるべきではないか。(それでは政府や財界を批判することなど到底出来ないだろう!)

              | 青少年の味方の人 | NHK・マスコミ | 09:24 | comments(0) | - |
              「決裁文書改ざん疑惑」について
              0

                この件の情報元については現在のところ「財務官僚の誰かが朝日新聞に持ち込んだ」という見方が有力視されているようだが、それはそれとして今起きている事は「これまで水面下で整えられてきた物事(や人)の明暗が表面化する時期を迎えた」に過ぎず、肝心なことは「明暗は既に動かし難いほどはっきりしている」ということだ。何故そう言い切れるのかと問われても、それこそ「そう顔に書いて有る」としか言えない。

                元来「人の顔」とはそういうもので、見る側の心の目に曇りがなければ、そういうことは一目瞭然で必ず解るようになっている。

                | 青少年の味方の人 | 政治・経済 | 13:14 | comments(0) | - |
                2018年 二分の一成人式の実態
                0

                  ある小学校の当日の校長先生の言葉の中に「儀式とする事はバラバラの状態にある知識や経験や認識が一本化する良い機会」などとして、小学校のカリキュラムとしての二分の一成人式を正当化するくだりがあったが、果たしてそう上手く行くものだろうか。

                   

                  とにかく、歌有り、演奏有り、唱和有り、一人ずつのコーナー有りと、まるで学芸会並みの力の入れようだが、その中の4〜5人ずつのグループに分かれて順番に唱和していく「こんなに(色々)出来るようになりました」のコーナーで、非常に残念且つ心苦しく感じられたことがあった。

                   

                  というのも、例えば「おうちではお風呂掃除や洗濯や食事の準備など、色々なお手伝いが出来るようになりました!」「算数や国語のテストでは100点も取れるようになりました!」などという予め決められたセリフを4〜5人の子どもたちがすくっと立ち上がって一斉に言うくだりでは、如何にも「それは自分だ!」とばかり溌剌とした表情の子もいる反面、暗い表情・・・と言うより、腑の抜けたような面持ちで口だけ動かしているような、明らかに「身に覚えの無いこと」を無理やり言わされている感の子どもも少なからずいた事に心が痛んだ。

                   

                  それは別に「お手伝いが出来ていない」ことや「100点が取れない」ことが悪いとか残念とかいう意味では決してなく、まだ年端もいかない子どもたちが(しかも晴れの舞台で)「心にも無いことを無理やり言わされている(=嘘を付かされている)」ことに対する心苦しさ、気の毒さに尽きる。同時にそういう心なさ、配慮のなさが子どもたちの心の成長に如何に悪影響を及ぼすかを思えば当然のことだ。

                   

                  二分の一成人式の意味については以前のブログにも書いた通り、私自身はその価値をまったく認めていない。そもそも人間の心身の成長自体が「20÷2=10でちょうど半分だね」と安易に考えて良いものであろうはずもなく、強いて言うなら12歳を節目とすべきだろう。

                   

                  また余談ではあるが、小学校教育に於けるイベント関係は思い切って縮小すべきだと思う。理由は時間とエネルギーが膨大なイベントの体裁を取り繕うことばかりに費やされ、児童と教職員の消耗が激しいからだ。

                  基本的に子どもはイベントで育てるものではなく、地道な学習と日常的な学校生活によって育つもの故に、そこに十分な時間とエネルギーが注がれて然るべきと考える。要はゆとり云々の話ではなく、本当に必要なところに十分な時間とエネルギーを確保しろということだ。

                  | 青少年の味方の人 | 子育て・教育 | 14:46 | comments(0) | - |
                  改めて「今年は対峙の年」
                  0

                    アジアでは韓国やフィリピンがアメリカとは一線を画した独自の外交路線を打ち出し、図らずもアメリカと「対峙」する形となっている。(保護主義のトランプ政権には却って好都合という見方もあるが。)

                    同様に日本国内でも今年に入って様々な「対峙」の動きが感じられるようになってきた。(この場合の対峙とは「おかしい事はおかしい」として同調圧力にめげず屈せず声を上げ必要なアクションを起こし、物事にしっかりと向き合うことである。)

                     

                    そもそも「同調圧力」などと簡単に言うが、良いことや真っ当なことを流布する上に於いて「圧力(=広義の暴力)」が必要となるはずもなく、故に圧力が掛かるようなモノは概ね不正や不当な要素を孕んでいると見て間違いないだろう。つまり「同調圧力=悪事や堕落を伝播させる目的のもの」と言える。

                     

                    更に「不正や不当があった」などと簡単に言うが、それは「不正により不当な利益を得た者がいる反面で、必ず同じ数の不当な損害を受けた者がいる」という意味でしかなく、それらは(具体的には)被差別であり貧困であり健康被害であり死であるということだ。

                     

                    つまり自分やみんなの命や生活に直接関わっている事だからこそ、不正や不当が疑われるモノには徹底して「対峙」する必要があると言っているのだ。(国民栄誉賞などと浮かれている場合ではない。もう後がないのだ。)ということで

                    野党は政権と対峙する

                    国民は国と対峙する

                    公務員とマスコミは不当な圧力と対峙する

                    労働者は不当な要求と対峙する

                    ・・・・・等々。

                    とにかく今年はあらゆる方面で「おかしいことが正される」まで粘り強く対峙し続ける必要がある。それが自分のため、みんなのため、社会のためとなる。

                     

                    | 青少年の味方の人 | 日本社会 | 08:26 | comments(0) | - |
                        123
                    45678910
                    11121314151617
                    18192021222324
                    25262728293031
                    << March 2018 >>