「反社会的」とは文字通り「社会に反する様相」或いは「社会にとって害悪や悪影響をもたらす様相」を呈するという事となり、(人殺しや盗っ人の例を引き合いにするなら)一見解りやすい話と思われます。しかし、事はそう簡単には行かない様です。何故なら、ある事象や考え方に対してそれを「反社会的と見るか否か」は、物事に対する視野の広さや思想レベルの深度によって異なってくるものだからです。
例えば「視野」の問題で言えば「家族を守るために他人とぶつかる」などは有りがちなケースと思われますが、これを「反社会的」と非難すべきかどうかは(大方の人にとって見れば)迷うところでしょう。何故なら曲がりなりにもそこに「家族愛」の存在が窺えるからです。「そんなものは無視しろ」と言えば逆に「冷たい」とされるに違い有りません。しかし元々「社会的」とは、可能な限りの大所高所から自身を「客観的に見る」という意味を含んでいますので、そうした意味でやはり「他人とぶつかる事」には問題が有ります。
また、社会全体で「何を主要な価値観とするか」という「思想レベル」によっても「反社会的」の意味は異なってきます。例えば「経済第一」と考えるなら、経済発展に水を差す様な意見や言動は「反社会的にして慎むべき」となるでしょうし、仮に「政権の安定が第一」という考え方が為された場合、政権批判そのものが「反社会的」と見做されてもひとつも不思議では有りません。
しかしこうした単純化された価値観の掲げ方が危険で有ることは言うまでも有りません。何故なら「経済発展」或いは「安定政権」という見た目の形だけに価値が置かれ、逆に質や中身を正す機会を失する事に成り兼ねないからです。
私に言わせれば、今の日本社会は(誰が何と言おうと)「思想の紊乱、道義の廃頽」の極みにあると思われます。その非常に解り易い見本として、まさに現政権と、与党の自民、公明各議員、更に政権の息の掛かった官僚諸氏による常軌を逸した奇想天外な発言や振舞いがあるのだと思っています。
聞いているとそうした人々にもそれぞれに言い分が有り、それなりの理屈が有るのは分かりますが、何を言おうとも結局「反社会的」とは「偏狭な視野と思想レベルの低さ」に尽き、それは当ブログにて従来より指摘しているが如く「自己中心主義」の賜物でしかないと言うことです。
即ち地域社会に於ける「偏向した家族愛」は自己中心主義であり、「偏向した経済至上主義」もやはり自己中心主義であり、無論「偏向した愛国主義」も自己中心主義に他ならないということです。何故なら、私から見ればそれらは総じて「余りにも他者に冷淡」だからです。
つまり「思想の紊乱、道義の廃頽」とは、徹底した「自己中心主義(=非人間性、反社会性)」を指します。よしんば「みんながそうだから」と言って自分もそうなってしまったなら、いったい社会はどこで歯止めが掛かるのでしょうか?(その先にあるものは人間社会の崩壊、壊滅でしかありません。)
人間にとって「自己中心主義」は論理的な誤りであることを良く理解すべきです。それに際して「自分だけならいいだろう」といったズルさは禁物です。そのような思想は(本来の目鼻立ちに関係なく)まず醜悪な顔の相となって外見に如実に表れます。(鏡を見て気付かなければ、もう手遅れです。)