世の中では「理想主義」とか「現実主義」などという対比が用いられる事が多いが、これらはイメージ的には「理想=遠くの(論理的)目標、現実=間近の(合理的?)対応」と言い換えて良いだろう。しかし本来「理想と現実」という対比の仕方は決して「遠い、近いと言った時間的猶予の有無や距離感の問題」などではなく、むしろ「論理に忠実か否か」或いは「非論理性をどこまで容認出来るか否か」という話でしかない。何故なら、現場の対応が「本来の論理的主旨に即したもの」であることは一つも間違いではないし、逆に「時間が無いから論理的対応は不可能」という理屈が成り立つはずもないからだ。
しかし現状では私たちの社会(の様々な事象)に於いて、少なからず理想と現実はかけ離れているものと認識される事が多く、あたかも「理想は理想、現実は現実として当面分けて考える」のが正しいとされ、ともすれば「理想主義に傾く(=理想を貫く)」事に対しては「非現実的で不合理?な対応であって物事の解決の手段として適当でない」との評価さえも存在しているのが実情ではないかと思う。
そこで問題は、私たちがいったい何故「あるべき理想(=論理的解決)」に対して、それが「非現実的選択」と思えるまでに「距離感」を覚えなければならないのかということで、何故に「理想即現実」と成り得ないのかということだ。
その答えは至って簡単で、それは私たち個々の人間がそれぞれに「我と欲と執着」を持っており、社会の多くの部分が(建前上はイザ知らず)内実はそれらを反映したものであり、私たちの社会がそれらを前提として成り立っている限り、諸問題に対する現実的対応が実質「我欲や執着心のせめぎ合いに対する調整」に終始する以外にないのは当然で、その状態で論理(=理想)の介在する余地などあろうはずもないということだ。
これはもし社会が(我と欲と執着ではなく)理知(=論理)的に構成されていれば、ほとんどの問題は5秒で解決するであろう事を意味し、それこそが(社会に於いて)「理想が理想とされる由縁」である。
因みに「我、欲、執着」とは、己さえ良くなればよいという「自己中心思想」の根源を成すものであり、同時にその目的や思いとは裏腹に(多くの場合、結果的に他者をも巻き添えとする)「自滅の論理」を体現するものである。つまり当ブログで繰り返し書いてきたように「自己中心思想=自滅思想」ということだ。
日本に於いては現在、競争社会に於ける勝利至上主義があからさまに喧伝され蔓延する中で、戦後最大の疑獄事件と言われる安倍総理周辺の「森友、加計問題」や、直近の「日大アメフト部による暴行事件」などの本質は、すべて「勝つためなら何をしても許される」が如き反社会性に裏付けられた「自滅思想」にあると断言出来る。それら当事者たちの共通の特徴は、ひとえに「見苦しい」の一言に尽きる。
今年は「対峙の年」であるが、何を以って対峙するのかと言えば当然「論理=理想=あるべき姿」でしかない。(そういう自分も現在必要あって身近な事案にて「対峙中」。)