日本には現政権と同様の「汚いやり方」が浸透してしまったようで言葉もない。
青少年の何でも書き込み寺 (大人も可)世の中や生き方についての疑問、質問など、何でも受け付けます。コメント欄(Comments)に書き込んでください。
ただ言いたいこと、書きたいことを書くだけでもOKです。(その場合は「コメント不要」と書き加えてください。) 当然ですが、法に触れるようなことは公表できません。また、他人の実名入りなども同様です。 そのような内容はメールでお願いいたします。(プロフィールにあります。) なお、本名での書き込みはプライバシー保護のためお勧めしません。(ハンドルネームなどご利用ください。) ※当サイトは基本的にリンクフリーですが、貼り付け先等ご一報頂ければ幸いです。 2018.06.27 Wednesday
近況報告
ここ一ヶ月余りは現在各自治体によって実施されている「小・中学校に於ける学校選択制」の下での論理的不整合と決定的な矛盾点がなおざりにされ、それによって一部の子どもたちの登下校の安全が不当に脅かされている実態の早急な是正、改善を促すための「対峙と提案」に終始しておりました。 それらの詳細はまた別の機会にするとしても、「おれはおかしい!」と思って実際に動いて見ると、実に色々なことが判ってきます。故にやはり「おかしいものはおかしい」として(面倒がらずに)事に対峙し行動することは非常に意味が有り、重要であると再認識致しました。 (ヒント:学校側は強迫観念の下、時として保護者側の想像を絶する様な考えに固執することが有ります。)
一方で国際情勢は日々大きく変動し、日本社会もそれにつれて様々な対応を余儀なくされています。 現政権に関してはもはや論ずる段階はとうに過ぎ、膿を出し切ると言うよりむしろ「悪性腫瘍をどうするか」に近い話と考えるべきでしょう。(無論放っておけば早晩日本全体が機能不全に陥ります。)
道徳教育などは物の役にも立たないばかりか、逆に日本中に「虚無」を蔓延させることに成り兼ねません。何故なら「競争原理」を基本とした社会システムの下では「矛盾や葛藤の元」にしか成り得ないからです。即ち人間性を破壊したのは「競争原理」であって、それは人の道(=道徳)と100%競合するもの故に、私たちが真っ先に為すべきは「道徳云々」ではなく、まず「競争原理の全否定」からです。
道徳教育とは本来「競争原理」を社会から根絶させる目的を持つものであって、間違っても「競争原理」のお茶を濁すためのものでは有りません。 2018.06.20 Wednesday
学校の「常識」は社会の「非常識」?
東洋経済ONLINEに秀逸な記事があったので紹介します。(このサイトは意外に趣きのある記事が多いです。)その記事のタイトルは〈不登校児をゼロにした元中学校長の「非常識」〉というセンセーショナルなもので、ぜひ一読されることをお薦めします。 記事に拠れば「イエナプランの教育理念に基づいて丁寧に対応することで実現出来た」ということのようですが、問題はそうした論理的で当たり前の対応を「非常識」と言わざるを得ない現状の教育体制にあると思います。 因みに「イエナプラン」とは下記の原則に基づく学校教育の一形態とされています。
つまり、このような教育理念に基づき、それを実践すれば「非常識」とされるのが今の教育現場であり教育体制ということになりますが、逆にイジメや不登校、自殺などに真摯に向き合うとすれば(経済最優先社会を一旦棚上げする気にさえなれれば)こうした子どもの視野に立った教育の形が不幸を未然に防ぎ、多くの問題を解決に導くであろうことは想像に難く有りません。
何れにしても当ブログでも再三申し上げている通り、社会の価値観は間もなく180度変わります。というか変わらざるを得ない局面にとっくに差し掛かっています。現場の人たちの勇断がまさしくそれを具現化するものであることは、前述の記事にある通りです。 2018.06.16 Saturday
「政治の話をするな」???
日刊ゲンダイDIGITAL で〈若者の間でも…「政治の話をするな」日本を覆う陰鬱な空気〉という記事を見つけた。要は「政治の話は重いからイヤだ」ということらしい。ではそういう人は何の話ならOKと言うのだろう?
人には誰彼問わず人生があり将来があるはずだが、一体誰が自分が生きて行く上で敢えて「劣悪な環境」を望むというのか。それどころか大方の人は今より少しでも「生きやすく快適な環境」を望んでいるはずと思う。その意味で「政治(環境)の話」というのは自分にとってより身近な生活環境の話、即ち家庭環境、知人友人環境、学校職場環境、地域環境などの明らかに延長線上にあるに過ぎず、人間が生存権を主張し生きやすさを求める時に「政治の話は別」的な論理は存在しない。(具体的な関わり方には一定のルールがあるにせよ、少なくとも評価や問題意識を持つことは自由なはずだ。)
逆に「政治の話は重い」と言う人に訊きたいのだが、では「家庭内や知人友人同士、或いは学校や職場や近隣住民」とはお互いの生活環境を整えるための話し合いが良く出来ているとでもいうのだろうか?たぶん無理だと思う。そういう人はおそらく「現状で自分が入り込めそうな隙間を見つけてそこに身を置くことで細やかな満足を得ようとする人」かも知れない。(そこで「しめしめ」と思うのも確かに一つの生き方かも知れない。) だが私が危惧するのは「もし入り込める隙間が無くなり、居場所が無くなってしまったらどうするのだ」ということで、それが既に現実化していることは様々な陰惨な事件や社会に蔓延する閉塞状況が証明している。
どう生きようと自由かも知れないが、成り行き任せの無責任な生き方には相応の結果しかついて来ないものだ。そういうのを「自滅」という。
2018.06.15 Friday
「対峙」には時間と手間(=労力)とお金が掛かる
例えば社会の不条理に対して、私が延べ100時間と10万キロカロリーと10万円を投じたとする。だからと言って、それによって物事が劇的に変わるということではないかも知れないが、もし私以外の1000人の人々がそれを同時に行なったとすれば、総エネルギー量は一気に10万時間、1億キロカロリー、1億円分となり、それだけでも世の中を動かすのに十分なエネルギー量と言えるだろう。
故に、今本当に必要なのは徒党を組んで何かをしようと画策することではなく、私たち一人ひとりが持てるエネルギーを使って、それぞれの立ち位置に於いて「本気で対峙」することだと思う。逆に言えばそうしたピュアな生き方以外に人の賛同を獲得し、人を動かす方法などない。どうしてそう言い切れるのか?簡単な話だ。みんながこぞってそれと真逆のことをやってきた結果が、何もかもがメチャクチャとなってしまった今の世の中だからだ。(土台そう思えない人には関係のない話でしょうが。) 2018.06.09 Saturday
「対峙」とは何か?
「対峙する」とはどういうことかを端的に表わすなら「この世には(自身の)命より大事なものがあることをそこはかとなく理解する」ことに他ならない。何故ならそう思えない限り(正確な意味に於いて)対峙することなど出来ようはずもないからだ。
例えば自然界に生息するあらゆる生き物には、あらかじめ「対峙」という行動パターンとその発動条件が本能の一部として組み込まれており、そのほとんどが「種の保存」に関わるものと言える。(これは逆説的に言えば「個々の個体の存命」は、さほど重要視されていないという風にも思える。)そして結果的に自然界の生物たちの「対峙」が確実に発動し実行されているおかげで「自然界全体が保たれている」ことになる。
翻って人間の場合、思考や行動が本能で規定されている訳ではない(と考えるのが普通だ)。なので他の生物と同様「(自身の)種の保存を目的として対峙する」と考えるのは些か無理が有るし、もしそうならそれに依って社会の安定と継続が保証されなければならないはずだが、実際にはそれと逆のことが起きるだろう。 このように人間の場合「対峙」の在り方一つとって見ても、自然界の他の生き物たちとは本質的な違いが有ることぐらいは最低でも理解する必要がある。
何れにせよ人間は「無」から始まって「有限」を経過し「無限」に至るイメージを持ち得る唯一の存在であることが、他の生物との決定的な違いであり、それこそが本能に代わる人間的な能力と言っても過言ではないとすれば、人間的な「対峙」も必然的にそのイメージ上に存在するに違いない。
気が付けば今年になって多くの著名人(最近は是枝監督)が実際に「対峙」という言葉を用いて自らの社会的スタンスを明確化している。そのような(命を賭した)一人ひとりのエネルギーが合力となり、世の中を方向付ける大きな力となっていることは間違いない。 |
|
(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
|
PAGE TOP |